レースの意匠

quesera

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四章

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 ラヒは国境へ旅立った。
「生きて会えればよしとしてください」
 そう言い残して、外套を翻すと、後ろに目も遣らず馬を駆らせて行った。同行したのはスリョに加え、どこで調達したかラスワタへ逃れた難民の娘一人を同乗させて、護衛諸共従えて行った。
 ラヒ達は公に国境を越えていくが、イヨーリカは二名の男と共に一度サンソペへ降り、宿で行商人の成りの者らと入れ替わると、そのまま国境の町を目指した。デン国の言葉に通じるのは寧ろイヨーリカだった為、宿の交渉などは女のイヨーリカが請け負ったが、本来商いを糧に生きてきた娘は、下男二人を従える女主人に化けるのも容易かった。
 危険なのは、運よく目を掻い潜って抜けられたイヨーリカ一行ではなく、ヨーマ国の護衛付きで、且つ、名も無き娘の身柄だ。更には、殺せば襲撃の意味を成さないのだから、命を殺がれるのはその娘を守る兵たち。
 イヨーリカ一行が行商に見合う頃合で歩を進めれば、行く先々で物騒な噂を耳にする度、これで我が身が安全だと確定する道のりに、ほとほと嫌気が差し、道中、ここにいるからと発狂したい思いにも駆られた。

 品を載せた荷台に揺られ、デン国の風情に身を置いて進む。
 畑も町並みも、次第に遠のく潮の香りも、次の町で噂に苛まれるまでの、気を静める時の流れ。
 目は、行く先でなく、消え失せる風景に走っている。
 手元には編み続けて溜まるレース模様。決まりきった模様に手は素直に動いている。けれど、視線はデン国の木々を縫い取り、生い茂る草花へ心掴まれる。時に、王宮はどちらなのだろうと、空を見上げて。

「あくる朝、一度越境を試します。不備となりましたら、二日後に隣町でとなります」
 そう大きくも無い町に着き、兵がイヨーリカに伝えた。
 来る途中、丘の上に城がぽつんと建っていた。
 町を見下ろす位置にある城は、同時に、穏やかな川をも裾に押さえている。
 川の向かいは、ラスワタの地。デン国側の川沿いでは木々は間引きされ、下生えの草花が散るだけで、見晴らしが良い。川さえ超えれば、対岸は森だ。

 叩き付ける雨の夜。馬の世話に出ていた下男は、宿へ馬の逃亡を慌て伝えた。
 残り一頭にまたがり、イヨーリカと下男は馬を追う。もう一人の下男も、遅い帰りを心配し、品を宿屋に預けたまま、町の門を開いて貰い、今、二人に追いついたところだ。

 外套を強かに雨粒が叩けば、月の隠れた晩でさえ、跳ね返りの輪郭が闇夜に浮かぶ。
 宥めた馬体を川にゆっくりと沈め、川底へ足が着くところで、イヨーリカは服を脱ぐ。水を吸い、脱げども水中から引き上げられない。兵と三人がかりで馬の背に服を押し上げた。
 そうして、ゆっくり、ゆっくりと浮力に任せて足を蹴った。森を背に、馬を振り返れば、喘ぐ馬の後ろで川岸との幅が遅々と広がる。
 泳ぎは優雅で推進力もあるように感じ、全身が着実に各所の動きを全うしているのに、城の大きさが変わらない。その視界が気力を削いでしまいそう。
 だが、延々と同じ動作を繰り返すのみ。

 不意に足が着き、イヨーリカは川床に足を取られて、川に沈んだ。
 全身に感じていた水の冷たさも、頭も被れば、尋常な水温ではなかったと分かる。再び浮上すれば、雨水が頭に暖かい。
 と、胸が絞られ、飲んだ水を一気に吐き戻す。
 イヨーリカの腕がきりきりと痛み、視界は、雨の照る川面から、漆黒の闇へと転じた。
 地上に居た。
「イヨーリカ様、もう大丈夫です」
 雨に濡れそぼって冷えた男の頬が、息を取り戻して温まるイヨーリカの頬を撫でる。
 重い足を引き寄せ、引き寄せ、イヨーリカは抱き寄せられた胸へ這いずって行った。
 後ろを振り返れば、兵が同じくぬかるむ川辺を這い登り、荒い息を立てる背を木の根に預けているところだった。
 馬たちは気丈にも、土を掻き散らして、興奮冷めやらぬ鼻息をイヨーリカに掛ける。
 川底の泥を浚ったか、土手の土か、馬の唾液か、全身が滑っている。にも関わらず無事を抱きしめて、背を擦る男。
 兵たちも、男に弱弱しく会釈した。
「よくやった。ラスワタに国の宝が戻った。今日の日を、後に皆が称えるでしょう」
「ラヒも上出来だわ。居なかったら、泳いで戻るところよ」
「はい。イヨーリカ様。死んだなら魂だけでもお迎えに馳せ参じましたが」
 ラヒの腕が離れ、振り上げられた。
 機に、殺気が絶たれ、弓蔓を外す音がぽつぽつと木霊し、枝を折る足音が周囲に回る。
 イヨーリカを迎える懐かしい兵の面々だった。

  素足で馬車に降ろされれば、暗がりの中、スリョの息遣いを感じる。
 ラヒの差し掲げる外套の奥で、先ほど、着衣は全て脱ぎ落としてきた。運ばれる身には、相手に掛かる負担の重さに苛立しかったから。ラヒを取り成し、裸身で外套に包まったが、抱えられる間にも、口に水を含んでは吐いてを要求され、川面に上がった状態と寸部変わらぬ出で立ちだった。
 強い酒を含まされ、スリョが丁寧に拭いた体へ、残りの酒が塗られていく。
 全てが暗がりの中、手探りで済ます。
 傷があるようだ。染みて竦む度、スリョが舌を鳴らした。
「お湯をもっと頼んでおくのでした。とにかく、お湯だわ。香油に暖かい寝床に…。耳にまで泥が。なんだって川遊びさせたのでしょうね」
「皆、無事?」
「痛むようですね、ここは。…ええ、何人かは切られました。あの娘も」
「死んだの?」
「見届けられませんでした。盾になったのは全員ヨーマ兵です。ヨーマ兵ならばデン兵も怯むと踏んだのですが。最後は、ヨーマ兵ごと国境の向こうに置いて逃げました」
「スリョ。これで、良かったのよね…」
「忘れなければよろしいのです。忘れなければ。あの娘も一時、私が王女様のようにお仕え申し上げました。この私がですよ。イヨーリカ様と思って。名誉な事でしょう?」
 体のあちこちを検分するスリョの手が世話しなく虚ろに動く。

 イヨーリカは、させるがまま揺られれば、下着と服を纏ったところで、スリョは戸を穿った。
 そして、真新しい外套も被せる。
「さあ、できましたよ。また濡れますが、後で隅々まで洗って差し上げますから」
 瞬く間もなく、戸が開き、腕が伸びてくる。馬車に沿って走るラヒの面に、否と言わせぬ頑なさが漂っている。 イヨーリカは戸の端で竦んだが、速度が緩んだのを見計らって、ラヒの腕に腕を絡めた。
「一気に駆けます。朝が白むまでには我が館の寝台に滑り込めますよ」
「それ、あなたの寝台?」
「それはいい。急かしがいがあります」
 スリョの乗った馬車は半数の兵と共に、分かれ道を登っていく。
 雨が止み、雲間からの月光が馬車の輪郭を浮かび上がらせる。
 それも遂には、木々の影に消えていった。
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