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一章

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 ラトヤは主の執務室で一日の大半を過ごした。カトゥーラの使用人に不要な宝飾品を預かりに行く度、わめき声やら泣き叫ぶ声を聞き、離れても耳の中で共鳴している感じが抜けきれない。
 不要な設え品を預かるが、日に一点かそこらの日が続いた。無理も無い。ラトヤは一点一点痛み具合を確かめ、纏わる思い出に胸を塞いだ。ダンテオーリオの名を口にするようになったお譲様が、見向いてもらおうとそれは根を詰めて、ラトヤと共に選んだ、どれも思い入れの強い品。
 輿入れが直ぐでないなら、保管しておくべき物も、処分に回す物も多く出るだろう。一つ一つ書き出し、采配を決め、ラミラ様やサンドス様の承認を貰う日々。その品も、日に日には多く出されるようになった。
 仕事に没頭する反面、カトゥーラ様付きの下仕えを始め、寝屋に戻れば皆から執拗に無視を決め込まれる。同部屋のウェチェレもラトヤの寝台を水浸しにしたり、寝屋着を汚したりと、無言で就寝する時間を奪った。
 そこで、早朝には一足早く抜け出し、洗物や繕いをして、朝の空気を楽しんで気分を変えた。寝具を干した時には、清々しくて、軽い笑い声さえ漏れた。泣き暮らすカトゥーラ様のいる家で蟠りなく笑える自分が、酷く醜く思えもし、この選択をした決断に自負を持ったりもした。
 染みの抜けない服を陽にかざして、苦笑いした朝だ。干し終わり、朝の勤めまでまだ時間があろうかと周囲を散策すると、外回廊を歩く姿に目を遣った。先には裏庭がある。
 外套に身を包んで足早に進む姿を不審に思い、ラトヤは辺りを見回した。まだ誰も起きてきていない。もう角を曲がろうかという人影に、思わず、その後を追った。
 その者は、外壁近くに寄ると、苔むした台に近づき、外套を脱いだ。カトゥーラ様だ。
 湧き水に手を差し込むと、顔に浸し始める。指先や頬が冷水に赤くなってもやめなかった。横顔は胸を衝かれるほど聡明で美しい。少し見かけない間に、面影が大人びていたが、違いは水の扱いにも見て取れた。黒髪の波に粒が弾け飛んでいる。
 ラトヤはその場を去ろうとして、歩みを止めて振り返った。
「逃げることないでしょ?」
 濡れそぼったまま、カトゥーラがラトヤを見つめていた。話すまま、顔を拭き始め、歩を進めてくる。
「私、綺麗になるわ。それも人任せになんかしない。化粧も覚える。でも、教わることもあるし、意見を聞きたい時もある。もう涙で顔を腫らすのは終わりにしたいの。そしたら、力を貸してくれる?」
「はい…。カトゥーラ様。どうぞ何時でもお呼びください」
「そう。そうするわ」
 塩気に焼けた赤目には日差しがきついのだと、外套を羽織るカトゥーラ様を見て思った。ラトヤは横に並び、影を作って歩いた。
「大丈夫。私は知っているわ。ラトヤが黙って会っていたなんて思ってない。選ばれた。それだけだって、お母様も言っている。でも、ラトヤを許せなかった。でも、きっと許せないのは、自分よね。選ばれなかった、自分が悔しいの。私に遠慮しないで、ラトヤ。憎らしいけど、素敵な方だもの」
 痛そうな瞳で苦しそうに笑うと、カトゥーラ様が自室へと戻っていった。ラトヤの寝屋は次第に荒らされなくなった。

「これで一覧は完成だろうね」サンドスが、ラトヤが差し出す紙束を束ねて閉じた。
「はい。間をおきながら、処分いたします。処分と返金が終われば、こちらに書き付けますので、進捗具合を見て、また、ご指示ください。換金分は、支払い元へ夫々戻しますでしょうか」
「いや、カトゥーラへ渡す。男一人の目を引こうとどれだけ浪費したか、目にするのも良い薬だ。まあ、こんなものではないがね。次を見つければ、この中からどうにかしろと言ってやるさ」
 ラトヤは俯いた。浪費も処分で目減りした金も、ラトヤの心が挫けそうな額だ。この状況を生んだのが自分も関わってだとすれば、罪悪感に苛まれてきた。
「そう逐一気にしていたら、きりが無い。もっと割り切ればいい。誰もがダンテオーリオの真意を無視して進めたのだから」
「はい。申し訳ありません」
 顔を上げて、サンドスと視線が絡んだ。
「彼に会う? 訪ねたいと言ってきている」
 小刻みに首を振った。この家でどの面下げて会えるのか。それも日々勤めがある。夜に? とんでもない。それとも、朝に…。
 ラトヤは顔を燻らせた。彼は待ち伏せをしていたのだろうか。しかし、いつ私を知ったのだろう。
 お嬢様が色めきたったのは、春からだ。春の花を贈る宴には、もう大騒ぎで支度していた。今は夏も終わりに移ろう。あの日以外、全く身に覚えが無いが、外で?
 しかし、定期的にあるわけではない外出で何度も顔を合わせたとも思えない。且つ、一度見かけた程度で、次に求婚まで突っ走るとも思えない。それに、識別番号で身元を調べてもいた。
 外で遇ったなら、家まで後をつけ、名前も確認して、で、次に求婚? 何度も見かけたのだろうか?
 求婚に至る経由を想像もできない。
 そう言えば、頻繁に出ていた時もあった。冬だ。サンドス様が春まで通っていた学士院。雪が降る度に馬車を届け、代わりにサンドス様が乗った馬を乗り帰った。馬車止めがなかったからだが。けれど、ダンテオーリオ様は年上だ。まさか、前の冬に…。
「ダンテオーリオ様はお幾つなのですか?」
「二つ上だから、二十五だろうね」
「二つ…」
「どうした?」
「いえ、もっと上の方かと」
「だろうね。彼の取り巻きは、私より一回り違うよ。ああ、男も含めてね。私など、何故懇意にしてもらっているのか、今でも不思議だ。年を聞けば、少しは身近に思えたかな? 彼にどう答える?」
 心定まらず見上げれば、潤んだ瞳の視線に触れてしまう。
「外で会えば、もうこの間のように、彼の手管を防ぐ者は現れない。ラトヤの自覚で、彼を抑制するしかない。会うなとは言う権利もないし、答えを育むには彼を知ったほうが良いのも分かっている。けれど、心配でもある。彼に惑わされないか」
「正直、会いたいとは。会わずに済むなら、お断りしたいのです。でも、こうして夫を見つけるものなのでしょうか。会えば、彼を知れば、私の気持ちが変わるものでしょうか? 嫁ぐことを考えなければ、いけないのでしょうか?」
 サンドスが、困った様に顔を顰めた。
「こうしてこの家で共に生活してきた私たちの間でさえ、何も起こらなかった。何がきっかけで、どこがそのツボか、誰にも分からないだろうね。だが、私は気持ちを打ち明けた。変わらない現状に苛立って。自分を向いて欲しくてね。彼も同じだろう。何かやどこかを捉えたいに決まっている。それさえ、彼の得意手でごまかしてでも、ラトヤを手に入れたいだろうね」
「何も無いのに。私には」
 ラトヤも苦笑いを返した。が、漂う空気ががらと面持ちを変えた事に気付き、居直った。サンドスが発する真剣さが、ラトヤに小刻みな震えを齎す。怖いようで、足を踏み入れる事に膨大な躊躇が重石となるのに、ついふらついた体で倒れこみそうになる、この吸引力に体は引くことも避ける事もできない。
「男なら、手に入れたいと焦がれるものだよ。ラトヤの心…それに、この体…」
 近づくサンドスの顔が視界の端に消えた。ひたと冷たい唇がラトヤの首筋に這う。仕掛けられたのはこちらで、見知らぬ刺激に意識が埋もれぬよう、堪えるのもやっとなのに、刺激を齎す本人も息が上がっている様だ。せわしなく這う手に興奮を纏わせている。
「ラトヤ…。拒め。触れるなと突き飛ばしてみろ。これでも抑えている。やつならここで終わりだぞ。ラトヤ?」
 次第に熱くなる唇に乗じて、喉から立ち上る熱気に覆われた頭部は、逆上せて何の指令も出せないで居る。この状態に引きずり込んでおいて、逃れろと言われても。
 確かに、虚ろな意識下でも、サンドスの胸ががら空きなのは感じられる。突けばすり抜けられる。でも、サンドスの口が背面に回り込めば、違う声が漏れていく。
「言葉でもいい。やめてと言うんだ。嫌だと。口だって塞いでいない。ラトヤ、早く」
「サンドス様…」
 漸く開いた口も、項に這い上がる荒い息のせいで、うめき声を吐くだけに乾ききっている。肩が揺れる。耳に届くサンドスの呼吸に、その波に体が呼応してしまう。
 苛立つ声が一際部屋に放たれると、サンドスが硬く腕を巻きつけてきた。
「誰でも、誰でもいいなら、私にくれ…。誰もその胸に想わないなら、その隙を埋めるのは、何故、私ではいけない?」
 掌が喉を撫でる。顎に上がり、指が唇をなぞる。サンドスの唇は、項から耳へと流れていく。ラトヤは背をサンドスの胸に預けた。
 幾時経っただろう。ひやりとした床を感じて、重い意識を開いた。いつの間にか、サンドスが向かいに来ている。ラトヤを覗き込み、首を傾げている。何かを待つかの如く。
 返事? ラトヤは意識を周囲に漂わせた。と、冷たさを感じているのは内腿だと気付いて、咄嗟に体を見下ろした。
 ぺたんと座り込んでいた。ひざを床に倒し、両足の内側は床石の冷ややかさ温もりで暖めんとしている。軽く開いた股に引き上げられた服の裾。
「私だからなのか? ここからを許せば、子ができるかもしれない。ダンテオーリオなら簡単にやりきってしまう。余りに容易す過ぎないか、ラトヤ。容易く許してしまうなら、私でいい。私の目の届くところに居ろ。彼には会うな」
 サンドスの手が裾を延ばして行く。ラトヤは、声無く、主を見送った。

 今年の冬は暖かそうだと、口々に交わす下仕えたちが、各自担当の部屋に花を生けて回る。ラトヤが挿す花も、まだ外で咲いているのだそうだ。窓の外に見える冬枯れの木は、間もなく冬の到来を告げているが、気温も室内の植物も、ラトヤ同様、冬の風情を感じていないかのようだった。
 主へ従属していた勤めは様変わりし、家の中での用事に仕えることに、暗黙、ラトヤも周囲も従っている。今まで部屋にも入らなかった奥方の世話までに、例の求婚騒動の余波は波及している。
「だってね。お母様ったら、一度もラトヤを貸してくださらなかったのよ。ご高齢でお洒落に凝ったってねぇ、どうなさるのよ、って恨めしかったわ。なのに、サンドスが相続したでしょう? 悔しくてあなたの手など借りずに来たけれど、暇なのですもの、私にも知恵を貸しなさいよ」
 奥方は、冬の晩餐会の支度でここの所頭が一杯らしい。衣装を閉まっても片付けても、しょっちゅう引っ張り出しては広げている。
「どの店がお勧め? これが生地の見本よ。でも、仕立てや型は、どう? どなたかとかぶりたくもないし。聞いていない?」
「ラミラ奥様、私は最近、店に出かけておりませんので、分かりかねます」
 前なら、店主や下仕えを通し、誰が何を頼んで着て来るのか、情報も得られた。外出できない今のラトヤには、差し出す引き出しが無い。
「ウェチェレが行っていると思います。お呼びになりますか?」
「訊いたわ。そうしたら、ラトヤに訊けと言うの。分からないって」
 ラトヤは溜息をついた。ウェチェレは何をくっちゃべって来るのだろう。外に出れば、鉄砲玉のように中々帰って来ないのに。
「では、ここの店の主人に訊いてみます」
「サンドスが許すかしら?」
「旦那様の上着を頼んであります。そろそろ納期ですし、届けに来たら訊くか、主人へ手紙を持たせます。ここに、出席者の大方の奥方が注文しているでしょうから」
「そう。では、ここに頼むのね。なら、生地は」
「いえ、もし宜しければこちらの店が。ラミラ奥様はこちらの店ですとどの生地が?」
「ああ、やっぱり? これなんかどう?」
「素敵だと思います」
「本当に?」
「はい」
「では、頼んで来て頂戴。私からの注文は、腰の生地を多めにして重量感が欲しい事ぐらいだけど、どうかしら?」
 ラトヤはまじまじと奥方を見つめた。
「私が? でしょうか」
「そうよ。だって、この時期こちらの店は注文を取りに来ないわ。どこも込み合っているけど、特に今からだと、行かないと受けてくれないわ。体型は変わって、いえ、戻すから、前の型で注文してね」
「ですが、私は」
 見本生地を片付けるよう、掌をささっと振る奥方が、憮然と鼻を鳴らした。
「いつまで続ける気よ? 待ち伏せされているなら、とっとと会って来ればいいのだわ。会わないことには結論も出ないじゃない。ほら、見なさい」
 奥方がラトヤの手を引いて窓辺に寄せた。奥方が見下ろす先に、外壁を隔て、裏口からの通りが見下ろせる。
「あれよ」
 靴磨きの男が路上に店開きをしている。
「こんな通りで商いが賄うとでも? あれは頼まれてあそこにいるの。表通りにもやたらと人通りが増えたのよ。煩わしいったらありゃしないわ」
「ダンテオーリオ様が?」
「さあね。彼だかは言及できないけど、ルテナイ家の差し金ではあるでしょうね。あなたを嫁にしたいのに、一向に会えないのだもの。出てくるところを見張っているのよ」
のんびりと客を待つ男は、客の来訪に身構えることも無く、口に何かを啄ばんでは、口端からペペッとカスを吐いている。
「ほら、迷惑な事この上なしよ! ああ、嫌だ。嫁の実家から反感買って然るべきよね? そうね。彼じゃないかもね、裏の方は。彼なら我が家にあんな事させたままにしないわ」
暫し男を眺め降ろしたまま、ぼんやりとしていたが、隣で奥方が蠢いた。手を振っている。路上の男に。再び見下ろせば、男が帽子を目深に被り直した。
「嫁に望んでいるから危害は加えないと思うけど。心配なら一人付けましょうか? 取り合えず私の下仕えは出て行ったし、カトゥーラのウェチェレは使い物にならないし、夫はけちときた。あなたにどうにかして欲しいの。カトゥーラの為にも美しい母親で隣に居てあげたい。相手は娘の母親を見るものよ。年取ればどうなるかって、想像するいい材料だもの」

 結局、ラトヤは受けた。今日はサンドス様も出勤している。行くなら急いだほうがいい。
 カトゥーラ様の用もあるとウェチェレから聞き、二人で表門を潜った。ラトヤが出かけるとは、お嬢様の耳にも入ったはず。これなら隠れて動いていると思われないだろう。
 通りには、食材を運ぶ荷台馬車や、親子連れが群がるお菓子の屋台、ご婦人方の話し声であふれている。昼間、商売人以外で男の姿を見ることは少ない。何となく気落ちして、夫々の用を済ませて歩いた。
 だが、ウェチェレのせいで思うように進まない。人影ある度にことごとく挨拶に行く。ラトヤは売りに出す宝飾品を少し抱えてひやひやし通しだというのに。今度もまた、手を振ったと思ったら、話し込みに行ったきり、戻って来そうに無い。ウェチェレに声を掛けると、ラトヤは一人で店に入った。早いところ、売ってしまおう。
「おや、ラトヤ。久しぶりじゃないか」
「ご無沙汰しております」
「ここんとこウェチェレに悩まされていたから、会えてうれしいよ」
「あ、今、外。一緒に来たの」
「そりゃそりゃ」
 店の主人が眉を上げた。ついでにラトヤも笑った。外に出ているのだと、漸く深い息を吸い込んで。
「これ」
「売りかい?」
「はい。お願いします」
「うーん。これだけの品は中々出て行かないからね。買うっても、値は半減させてもらうよ」
「家の中で付けただけですから、目にした人はほぼプテリャイにはいないわ。ばらさなくても売れると思うのだけど」
「へ? そりゃまたなんで。こりゃ、外で見せびらかすもんだろ」
「たった一人に見つめられたくて付ける物でしょ」
「はん? で、往っちまったのか。縁起でもねえな」
「でも、気に入られちゃったら、逆に、次は買わないわ。男って釣った魚に餌はやらないって聞いているし。だから、また買いに来ると思うの」
「随分と言うじゃないか。ラトヤも年頃だね。男や女を語るなんてな。じゃ、これでどうだい?」
「こっちも合わせたら? こちらは全く手をつけていないし」
 値段やらで顔を突き合わせて話し込んでいたら、店主が眼鏡越しにラトヤの後ろに視線を延ばした。ラトヤも、戸の鈴の音に、入り口を眺め見た。
「お待ちください! お話が」
 ウェチェレが後ろ向きに雪崩れ込んで来る。が、戸を押しのけているのは、ダンテオーリオだった。
「こんにちは、ラトヤ」
「おや、顔見知りかね、ラトヤ。ダンテオーリオ様、ようこそいらっしゃいまして」
「邪魔するよ。特に用立てのあてはないのだけれどね。贈り物を進呈する進展があれば、別だが」
 思わせぶりに主人へ目配せするダンテオーリオ。咳払いで店の奥に消える主人。ウェチェレだけが騒々しく言葉を発し、ラトヤはその場に硬直した。
「君、気が利かないね。外でお茶でもどうぞ。三軒先にあるよ」
 ラトヤを見つめおいたまま、ダンテオーリオが札をウェチェルレの手に含ませようとした。彼女は当然、憮然と睨んだまま、受け取りには動かない。ラトヤは、ウェチェレの怯えた瞳を覗き、ダンテオーリオを見据えた。
「彼女はカトゥーラ様の使用人です。私を一人にはしないと思います」
「なるほど。ああ、ここの袖飾り、一つ頂くよ」
 ダンテオーリオが奥へ声を投げれば、奥から相槌が届いた。ダンテオーリオは上着の内側から文帖を出し、美しく透かしの入る紙を引き抜くと、店の筆を走らせた。
「君のご主人へ、届けて欲しい。私からの思い出だ」店の机から、迷い指で紐を一つ選ぶと、袖飾りに紙を巻いて結びとめた。
「最低…」ウェチェレが無礼にも呟いた。
「どうして? 他の女に現を抜かす男が、どうしてラ・カトゥーラにとって最上の男でなくてはいけない? 私は誠意を持って対応したまでだ。とことんまで嫌って欲しいと」
 ウェチェレの唇がわなわなと震えている。これ以上暴言を吐かない内に、収めなければ。ラトヤは動いた。
「ウェチェレ、行きましょう」卓上の品を布に包む。またにしよう。
 が、ダンテオーリオが行く手を塞ぐ。
「行っては駄目だ。君にはまだ話がある。そう、ウェチェレか? 君は、外の馬車で今直ぐ届けて、君の主人に逢瀬を知らせて苦痛に呻かせるか、ラトヤと揃って帰って衝撃を和らげるか、それさえも判断つかないか? どちらでも構わないが、一時を私にくれ! 外の馬車を使うも待つも好きにすればいいが、場を明け渡さないなら、ラトヤを馬車へ連れ込むぞ?」
 ウェチェレが瞳で懇願している。行かないで欲しいと。ラトヤは頷いた。大丈夫と。
 ウェチェレは、ダンテオーリオが差し出す物を受け取ると、戸を抜けざま、左手を指差して見せた。店で待つのだろう。
「大声で悪かったね、ラトヤ」
 声音をさらりと変えるダンテオーリオに、ラトヤは向き直った。
「お謝りになるのでしたら、鼻からなされませぬよう」
「そう言うな。穏やかに話が進むなら、私もそうしているさ。君に会う機会はもぎ取らないとならないようだから」
「お会いできませんとお返事差し上げたように思いますが」
「ふうん? それだけ? 贈り物のお礼ぐらい見たかったな、君の筆跡で。犯人はウェチェレだろうね。いつも彼女に渡していたから」
 ラトヤは真っ赤な顔を下げた。
「後で、お返しします。ウェチェレが失礼申し上げました」
「返す必要は無い。君に渡ればそれでいい」
「ですが、もう」
「私の楽しみを奪う権利は君にも無いよ。返事を寄こさない君に」
「ですから、お会い…」
 ダンテオーリオの指がラトヤの後れ毛を巻き取る。離れようにも、髪が絡まっている。
「それは、返事ではないだろう? 妻となるか、妻とならないか。それが返事だ」
 髪を絡めた指で、ラトヤの頬をなぞるものだから、ラトヤは顔を背けた。
 無性に腹が立つ。困らせるダンテオーリオにもだが、最後を繋ぎ止める自分の浅ましさにもだ。妻への憧れが芽生えてないと言えば、嘘になる。想われていた事実に浸る時もあった。
「ふむ。君は、少し変わったね。そう、少々手ごわくなった。誰かの仕込みかな?」
 更に頬に朱が混じり、ラトヤはダンテオーリオの指から自分の髪を巻き取った。
「サンドスか? いつも君を探せば、纏わり付いていた彼が、君を手放しで外へ出した。どういう了見かと思ったら、君に男を振り払う気概を植えつけたわけだ」
 確かに、ラトヤは平時で男の胸に触れ、突いて、ダンテオーリオから一歩遠ざかっていた。前は、されるがままダンテオーリオに貪られていた。
 だが、思い起こせば、あの甘い瞬間が彼の胸から匂い立つようで、目尻までも赤くなりそう。
「悩ましいな。どれ、見せてごらん。君に恥じらいを浮かばせたのは、サンドスの名か? 私の…」
 どことなく浮ついた物言いのダンテオーリオが、釣られて上げたラトヤの目を繁々と眺め、やや上ずった声を出す。彼らしくもない動揺がラトヤにも伝わり、ラトヤも混乱に陥った。
「おや。どうやら私にも勝算が残っていたか。ラトヤ」
 唇が降りてくる際を見続ければ、神経がいかれそうだ。強まる混乱のまま、ラトヤは首を振った。
「やめて」
 ダンテオーリオの唇にラトヤの息も掛かっている。彼の唇がその振動を歓喜と受けたと、ラトヤにも分かる。更なる唇の追尾を、やはり交わした。
「その手で来るのはやめてください」
「他の手ならいいのか?」ダンテオーリオが不満げに顔を持ち上げた。が、すみれ色の目に深い色のきらめきが散っている。
「この手を禁じるなら、私と会う?」
「はい」ラトヤは一つ解決した。この道を捨てたくない自分もこの体に存在しているのだと認めた。「ダンテオーリオ様を、よく知った上でお返事したいと思います」
「いいね。君の次の休みは?」
「確か、二十三日後。すみません。はっきりとは」
「働き者だね。では、文で知らせてくれ」
「はい。あ、その、文でですか」
 困った。ラトヤの目が泳いだ。家で紙を分けてもらえるだろうか。使いを頼む駄賃もない。
 と、顔の前で黒い皮が揺すられている。文帳だ。
「これで。ラミラ奥方が頼む食料品店の男、時折、配達に来るだろう? その男か、飴売りの娘に渡せば、私に届けてくれるから」
「はい。ありがとうございます。もしかして、靴屋もですか?」
「靴屋? 取り付けてないけれど?」
「はい。では、どちらかに渡します」
「逢引の用件だけでなく、文を出しても構わないのだろうね。毎日届けるよ。君も返事があればその時渡してくれれば嬉しいね」
「はい。ただ」
「何?」
「他に良い方がいらっしゃいましたら、どうぞご遠慮なく。私、ダンテオーリオ様の妻が務まるとは、正直、思っても居ません。知って、お断りさせていただくだけかもしれませんし、ダンテオーリオ様も私を良くご存知ないでしょう?」
 長々とした言い訳を、にやけながら聴いていたダンテオーリオが、快活に笑った。
「そうだね。そうしておこう。君に愛想が尽きたなら袖飾りを送ろうかな。君を胸に誓う間は絶対に送らない。ああ、妻になったら別だよ。離縁は決してしない。家訓だから」
 ほっとして、ラトヤも笑みが零れた。そこへ口付けが掛かる。が、眉を顰めたものの、尚も笑う彼に、自然と口元に笑みが戻った。
「これはその手には入らないだろ? 警戒を崩す手と、思わず伝えたいと願うだけの手は性質が違う。今の君は安全だ。だろう?」
「どの手も不要です」
「そんな無碍にしないで。君の笑顔に飛びつかない男が居ると思うなら、君が悪い。サンドスが散々隠してきたからそんな経験も無いのだろうけど。では、名残惜しいが失礼しよう。仕事中邪魔したね。返事を待っているよ」
 去り際にやはりこめかみに唇を滑らせ、ダンテオーリオが手を振って店を出た。ラトヤは、長い自戒の時を無言でやり過ごし、店の奥へ向いた。
「おじさーん! 清算をお願いしたいから」
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