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一章

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 年内にラトヤの休日はもう無い。現実にはあるが、使用人達で年の終わりを祝う余暇であり、外出はできず、街に出たとこで、ブテリャイ全体が休暇に入り、店も開かず、誰もがのんびりと家で休暇を過ごす。華々しく新年の宴会が開かれるまで。
 ラトヤの外出はそれらの行事が一段落するまで絶望的だが、ダンテオーリオには直ぐに会えた。意外にもパンカロッレ家の夜会へ招かれていた。
 庭に迫り出した床石には、円柱が取り巻くよう等間隔に立っている。暖を採る焚き火釜が、その合間を埋める。 床石をそのまま降りれば、灯りに浮かぶ東屋へと続く。床石は室内へも延びており、人々は人の輪を流れ移り、柱の影で社交に騒めくのだ。室内側の柱には、天井から垂らした布が巻かれ、床石でのお喋りに疲れれば、布が僅かな目隠しとなる場所へ、長椅子を求めて下がってくる。
 その休憩に座る空間は、室内の床石の三辺を覆うようにあり、床石より数段低い。
 給仕はこの低い空間に仕え、飲食の補充や敷地内の案内に立つ。ラトヤは補充に調理室とを行き来していた。ダンテオーリオには、到着して間もなく遠目から目配せを送られていたので、配膳している最中、彼の声を微かに耳にすれば、作業をしつつ微笑んだ。
「君も来ていたのか」
「聞いたよ。ここの娘に迫っているのだってな。珍しいな。ありゃ、年貢の納め時に狙う子だ。結婚するのか?」
「人違いだ」
「それなら、どの子だ? 毎日文をこの家に届けているだろ。美人か?」
「単なる噂だ」
「隠すなよ。しかし、目に付く子いたかな? 使用人、若い子ばかりだな。成人してなきゃ手出しもできないし。お、あの子どうだ? ああ、まだ札付きかな」
 『札付き』は、奴隷身分の隠語だ。奴隷院へ来て暫くは、赤子の足には札が巻かれる。歩く頃には札が外されるが、引用として、制約を解かれれば、『札が取れた』とも言われる。
「なあ、どの子だ? 落とせそうか?」
「狩はやってない。女の相手も疲れたよ」
「おいおい、正気かよ。列成してお前の目が留まるのを待っているってのに、お前らしくも無い。分からんやつだよな。靡きそうにもない女鹿をじわじわ責めるのがお好きときたもんだ。指を鳴らせば侍る雌犬で俺は満足だがなぁ」
「お前とは違う」
「そりゃ、食うにがつがつしてないもんな。味わうために狩るものだろうに、仕留めたら終わり。変なやつだな、お前は」
「お零れを拾うお前に言われる筋合いではないだろう」
「だから、焚き付けているのだろ。そろそろ新しい娘狙えよ。後は面倒みとくから」
「フェリテはどうした。別れたのか?」
「それがな、お前の寝台で入れ替わっていた男に抱かれておいてよ、やっぱりダンテオーリオ様を愛しているの、だとよ。愛って何だ? 今度お前の寝室覗かせろよ、どんな落とし方しているのだか」
「自分を磨け…」
 ダンテオーリオの言葉が途切れ、ラトヤは深呼吸して手を止めた。場を移ってくれてよかった。客の会話を耳に入れぬよう躾けられていても、ダンテオーリオとあっては、耳を欹ててしまっていた。使用済みの器を重ねて持つと、広間を抜け、洗い場へと向った。
 器が揺れてカタカタと鳴らす音に気取られ、背後の足音に気付くのが遅れたようだ。慌てて脇へ避け、頭を垂れたラトヤは、器に掛かる影が寄り濃くなったのを機に、面を上げた。
「ラトヤ。重そうだね」
「ダンテオーリオ様! ここでは」
 広間と玄関を結ぶ外回廊には、使用人の往来も多い。幾人かの客人も居た。
「厠へ案内してもらおうか。こちらは込み合っていた」
「はい。では、こちらへ」
 背にダンテオーリオを感じながら、先導するラトヤは、気恥ずかしく、後ろ髪が気になって仕方ない。視線があたっている気もして落ち着かない。集中しないと器を落としてしまいそうだ。
「あちらにございます。失礼いたします」
 一礼をすれば、ダンテオーリオが器を抜き取った。困惑して見上げれば、そのまま羞恥心で顔が強張る。が、器を置いて走り去るもできない。
「先ほど、私と知人の会話を聞いていただろう? どこから聞いていた?」
「何も存じ上げません」
「途中で柱の影に居る君を見た。聞こえる距離だ」
「お許しください。何も伺っておりません。器を下げに行っただけです」
「この器を集める間はあそこに居たのだろうから、聞いたはずだよ」
 片手で器を回し持ち直したダンテオーリオが、もう片手をラトヤの顎に添えた。表情の隅々まで検分するよう、探りを入れる視線の先で、ラトヤの頬が次第に染まっていく。
「平気です。慣れていますから」
「慣れて? 卑猥な男にこれまで口説かれた経験でもあるの?」
「いえ。あの、会話です。似たようなお話、皆様されているものだと教わっております」
「私は慣れていない。本気になった恋人の耳に、過去の非道が流れてしまう修羅場に」
「平気です。気になさらないでください。ダンテオーリオ様をそんな」
「昔の話だ」
「はい。分かっています」
「なら、信じる証に、君の口づけを進呈して欲しい。手が塞がっているのでね」
「ここでは」
「では、どこでならいい? 次に会う時に、私は許しの唇を期待して良いのかな?」
「困らせないでください。その手を封じるとお約束くださいました」
「残念だが、今までその手に頼る方法しか身に付けて来なかった」
「でしたら! 昔の話と言うなら、反省して、もう使わないでください。私に本気と言うなら、昔の女と一緒にしないで…」
 自分でも驚いた事に、胸が痞えて、苦しい。更に驚くには、知らず知らず涙を零している自分。平常心で聞き流したと思っていたのに、ダンテオーリオを責める鬱蒼とした想いが胸に広がってしまう。
「ラトヤ、すまない」
 ダンテオーリオの唇を受け入れる。顔を背けたりもしない。自ら望んでいるのだと、頭のどこかで感じている。何度も吸い寄る、その合間が読めず、ラトヤからの唇がぶつかったりもした。
 と、ダンテオーリオが止まる。ラトヤが薄目を開けば、目前の口にうめき声が漏れた。
 苦しい。きつく抱きしめられて、口も塞がれ、押し付けられた鼻も抱擁に埋もれて、口づけを離そうとできない。甘美な唇は去り、滑った舌が舌を弄り、顎が痛く息が続かない。息を求めて腰が反る。ラトヤは、首に回る腕に両手を掛け、顔を引き剥がした。
「ラトヤ!」
 二人で頬寄せ合うよう、声の主を見た。サンドスが猛然と歩いてきている。
 ラトヤは咄嗟に器を掴み取り、その場を離れた。ダンテオーリオの指が空しくラトヤの肩を掠めていった。
 ラトヤが調理室に入れば、後から来た使用人から調理場での従事を言い付かった。

「ラトヤ? 大丈夫?」
 調理室に来たウェチェレが声を掛けてきた。厨房から叱責が飛んできたが、ラトヤの隣に平然と並んで、一緒に皿を洗い始める。
「ダンテオーリオ様が心配してる。サンドス様がラトヤをどうにかするんじゃないかって。これね?」と、目線で脇を示した。紙が挟まっている。「あなたへよ」
 水気を切った皿を運ぶ影で、紙を引き抜いた。が、紙に水が滲み、文字が透けた。拭き布で紙を押さえたが、紙を開けば、文字が解けてしまっている。
「馬鹿…。どうすんの? ダンテオーリオ様、帰られたわよ?」
「何て言っていたの?」
「手伝ってやってくれとしか言われてない」
「何を?」
「それが書いてあったんじゃない? ま、近くに居るからさ。サンドス様がやばそうだったら、お嬢に助け求めてあげるよ。ラトヤ、何やらかしたってのよ」と、ウェチェレが不機嫌そうに怒鳴った。「分かったって! これ洗ったら戻るから! もう、煩いんだから。じゃ、後でね」

 客人の雑踏跡が残る広間で、使用人達の宴会が始まっていた。汚れた床も食べ残しも、あくる日の午後までに浚って置けばいいいと、目こぼしを貰っている。例年の騒ぎだ。
 主たちは寝室で屍の如くに眠りこける。母屋とは寸断されている広間での、多少の騒ぎは、主たちの睡眠を妨げようもないが、焚き火の始末に男共が向う間、女たちは広間と外との壁に家具を並べて、冷風と音漏れを防いだ。 薪は上位の使用人でさえ思うように使えない贅沢品だ。
ある者は語り込み、床掃きしつつ酒を煽る者も居た。誰もが日頃の苦労をねぎらい、使用人だけの世界にだらけ切っていた。そこへ、来ないはずの主が現れれば、呼び寄せた元凶へ皆が睨みを飛ばす。
「ラトヤ、部屋に上がれ」
 返事も待たず先を急ぐサンドスの後ろを、ラトヤは小走りで付いていった。ウェチェレが慌てて椅子を倒す。その騒動を後にし、回廊を突き走り、館の階段を駆け上がる。
 主の部屋の前に来れば、戸が招くよう開いていた。執務室ではない。主の寝室だ。
 恐る恐る中に足を入れれば、戸が音を立てて閉まる。戸の影に主が居たようだ。
「一日、ここに居ろ」
「急ぎの用事でもございますか?」
「とぼけなくてもいい。呼ばれた訳はラトヤが一番分かっているはずだ」
「勤め中にダンテオーリオ様との時間を作ったことは、申し訳ありません。でも、敢えて私が引き止めたのではありません」
「私にはそうは見えなかった。何が約束だ? まんまとダンテオーリオの手玉に取られて、主の家で客に身売りでもしているのか! 嫌なら皿でも投げつければいいだろ!」
「ダンテオーリオ様は、お客人です」
「招かれた家の使用人に手を出す輩は客人扱いしない」
「では、どうしろと? 厠へ案内せず、逃げ出せばご満足いただけましたか?」
「客人が戯れで暗がりに引き込もうと騙せば、ラトヤは全てに応じるのか? ダンテオーリオだから許した、違うか?」
 だんまりを決め込んだラトヤに、苛々と頭を振るサンドス。だが、沈黙が破られないと知って、ラトヤを奥へ促した。
「罰をとお考えなら、寝屋に戻っています。部屋からは出ません」
「嘘を吐くな」
「では、洗い物は一人で担当します。私が抜けて、皆も迷惑ですから」
「ここに居ろと言っている!」
「ですが、ここは、サンドス様の寝室です。でしたら、執務室で謹慎しています」
「私も疲れている! 休むから横に座っていろ」
「何故ですか? 部屋からは出ませんから、執務室に居させてください」
 サンドスが眠そうに、顔を手で擦った。
「ラトヤを責めるなと青ざめた割りには、ダンテオーリオはあっさり帰った。何処に行った?」
「存じ上げません」
「まあ、いい。ここに居ろ。抜け出しも忍び込みもさせない」
 上着を脱ぐ主に、つい習慣でラトヤも上着を受け止める。立ち上る汗の匂いに、サンドスの火照りが感じられる。酒の匂いも混じり、脱ぎ散らかす服を見れば、仕事はたっぷりここにもあるのだと、ラトヤは溜息で命令を受け入れた。
 いつもは衝立の向こうで脱ぎ着するのに、ラトヤが拾い集める間に、下穿きをこの場で穿いたらしい。
 サンドスは無造作に帯紐に手を伸ばし、むっと睨むラトヤを無視して、ラトヤの腰に結んだ。紐の端を握ったまま寝台へ倒れ込むから、半ば引きずられつつ、ラトヤは寝台に腰掛けた。
「上を着てください、サンドス様」
「いい。熱い」
「今はお酒を召しているからです。後で冷えますから」
 と言っても、すうと寝息を立てる主。だが紐はしっかりと握っている。寝屋着を取りにも行けない。ラトヤは部屋を一瞥し、観念して灯りを吹き消した。
 寝入るサンドスを待ち、伸びた腕を押しのけて、寝台へ足を上げさせてもらい、枕の端を背もたれにうとうとした頃だ。
 ラトヤは、渋々睡魔から起き上がった。何か主が言っている。見れば、寝具を跳ね飛ばしている。ラトヤ自身も急に感じた冷気に身震いし、主へ寝具を掛け寄せた。
 と、触れた肌が異様に汗ばんでいる。暗闇に慣れ始めた目が、肌の赤みを見極めた。手の甲を頬に当てれば、熱いなんてものじゃない。飛び起きた。が、帯が。寝具をめくり、紐の先を探す。その間も、寝具の中に篭る熱気と汗に、ラトヤも逆上せそうだ。
 端は脇に敷かれている。呻く主を押しのけて、端を抜いた。
「ラトヤ、何している」
「水をお持ちします」
「要らない」
「そこからお持ちするだけですから」
 また深い寝息に入る主を暫し見つめ、ラトヤは忍足で部屋を出た。
 熱だ。誰かに知らせないと。戸を出て、ラトヤは廊下に座り込むウェチェレを見つけた。布に包まり、眠りこけている。
「ウェチェレ、ウェチェレ、起きて」
「えっ! 何? あんた大丈夫?」
「聞いて。サンドス様が酷い熱なの。誰か呼んできて。それから水もたくさん」
 部屋の奥から次第に声が大きく抜けてくる。起きた! ラトヤは駆け戻り、寝台を降りようとする主を抑えた。
「戻りました。水を飲んでください」
「何処に行っていた?」
「何処にも。誰か来ますから、横になって」
「誰が来る? ラトヤ?」
 呂律が回っていない。思考もだろう。呟きが支離滅裂だ。
「サンドス様、失礼いたします。熱と伺いましたが」
 部屋頭が寝癖の髪のまま、現れた。ラトヤは灯りを灯し、後ろへ下がった。
「ご気分は?」
「頭が痛い」
「そうでしょうとも。ラトヤ、サンドス様は吐かれたのか?」
「いいえ。熱だけだと」
「それで、ここで何をしていた? その紐は何だ?」
「お仕置きです。今日、へまをしたので、看病しろと」
「紐で結んでか?」
「さぼるとお考えだったようで」
「酷い格好だな。医師を呼びに遣るから、着替えてきなさい」
 ラトヤは自分を見下ろし、苦笑いした。洗い場で服は汚れ、皺でごわごわとずり上がった裾、おそらくぼさぼさの髪に、極めつけは、腰に巻かれた雅な帯紐。
「解けないのですけど」
「貸しなさい。ああ、これはもやいの。全く、サンドス様もまだ幼いな。ラトヤにこんな真似をして。ほら、早く戻ってきなさい」
「ラトヤ?」
「サンドス様、ラトヤは傍におります。少しお休みください」
 館の中はひっそりとしていた。広間だけは灯りに闇に浮かび上がって、静まり返った館の周辺にざわめきが伝わってきている。
 寝屋に急ぎ入る時も、人の気配は無かったのに、ラトヤが入れば、ウェチェレの在室に度肝を抜かれた。しかも、見るなり、泣かんばかりに飛びついてきた。
「よかったぁ。どうしようかと。あ、私、水を運ぶんだよね?」
 つまろびながら行ったウェチェレに続けと、裾を掴んで一気に服を脱ぎ取った。
が、寒い室内に身震いするはずが、やや暖かい部屋にぴくりと耳が動く。ウェチェレの残気より、はっきりと今、寒気を暖める、温もりを発する存在を肌に感じて。
「どうして?」
 窓から差す月明かりへ、徐々に姿を晒すダンテオーリオ。寝台が両脇の壁にへばりつくよう並んでいる部屋には、寝台の間を照らす窓があるだけ。ラトヤの寝台に居たのだろう。月明かりの影で、分からなかった。ラトヤは、放心から気丈を取り戻し、手元の服で下着姿を隠した。
「裏門で待つと書いたのだけれど、来なかった」
「だからって」
「サンドスの所に居たそうだね」
「ええ、熱を出されたので」
「それだけ?」
「はい。今、医師を呼ぶそうです」
 白い光で強面を印象付けていたダンテオーリオの表情が、はっきりと緩んだ。
「良かった」
「あの、ダンテオーリオ様。服を着ますから離してください。ダンテオーリオ様?」
「行こう。ラトヤ」
 ラトヤの体に男物の外套が周った。月光のせいか、面差しがやや寂しげだが、ダンテオーリオが誇らしげな笑みを口元へ偲ばせている。
「行こう。返事は出たはずだ」
 ラトヤは首を振った。
「今だって、私が求めれば、君は受け入れるだろ?」
「違います」
「私は禁じ手を使わなかった。けれど、君は自ら心を解いてくれた。サンドスだって気が付いただろう。君の心が傾いたと。もう、危険だ。サンドスは私を締め出す。君と会えなくなる」
「それは」ないとは言い切れない。現に縛られていた。しかし。「無理です」
「私に返事をする権利はありません。主の許可を頂かないと。でないと、ダンテオーリオ様もお困りになるでしょう? 穏便にとおっしゃっていました」
「サンドスがそれを許さない」
「いいえ。分かっていただけます。返事がでたなら、認めてくださいます。会いたいとお願いすれば、外出も許されます」
「返事がないなどと、ラトヤは強情だな。サンドスへの信頼も確かだ。私は、私の想いは、宙に浮いて空回りしているのかな? この口はいつになったら私を好きだと言うのか。歯痒いよ」
 ラトヤは、唇へ甘い刺激を送ろうとするダンテオーリオの意図に気付いて、口に添う指をそっと噛んだ。
「噛まれたのは初めてだ。まあ、今のは悪かった」
「戻っていただけますか?」
「そうしよう。文を欠かさないように」
「はい」
 外套を脱いで渡そうとしたが、額に口づけをするや否や、ダンテオーリオが戸を抜けて行った。ラトヤは、ダンテオーリオが座り待っていた寝具の窪みに目を留め、寝台の砂を払おうと手を伸ばして、一切れの紙にいきあたった。
『何があっても、君への愛は変わらない。信じて、必ず私の元へおいで』
 紙の周辺は微かな湿り気を帯びている。ラトヤは顔を寄せ、そこへ口づけを被せた。

 主の部屋には部屋頭しか居なかった。静かに佇む部屋頭の脇へ、するりと進めば、二人が見降ろす先の主が、顔を顰めたまま昏倒して寝入る。
「医師の迎えは止めました。呑みすぎも祟ったのだと思いますが、吐くようなら体を起してさしあげなさい。そこに必要な物は置いてあるから。ラトヤに面倒を任せようと思うが? 明日の胃の痛み具合で、消化の良い食事も要るだろうから私が作っておきますが。要るなら取りに来なさい。しかし、あの厨房、片付けから手を付けないと。ラトヤ、お願いできますか?」
「はい。畏まりました」
「明日は私たちも休もう。あの馬鹿騒ぎの連中には館中磨き上げてもらえばいい」
 寝台に肘を突き、サンドスを見てみる。
 寝息の度、撓む胸板。首筋に鼓動の流れが規則正しく刻まれる。放り出した腕。大きな手。薄っすらと開いた唇に、漏れる息。ごつと段のある鼻筋。くっきりとした頬骨。汗で湿る睫。目蓋の皺。額に掛かる髪を、ラトヤは指で掻いて梳かした。
 憧れなかったわけじゃない。何くれに付け、横向けばいた、男の子。カトゥーラと学び屋に行けば、顔を出してからかう、年上の少年。山に登れば、先を歩く背が大きかった、年離れた若者。学士院へ通う姿を、誇らしく慕った、主。月日が経つほどに、存在は遠のいていった。
 家人であることが嬉しく主を眺めても、眩しい風貌は冷めて目に通す。何時しか、頑なに主と振舞う主人に、従順を持って従う下仕えに安住した。会話は、勤めに関する事項のみとなり、目を合わせて笑いあった記憶は、何処かに置き忘れていた。
 ダンテオーリオに贈られた髪飾りを、主へ預けた時、ラトヤは久しぶりに自らサンドスへ視線を送った。手に持つ花を見下ろすサンドスの、不快な面持ちを見て、瞬時に記憶が噴出したから。
 記憶の中では、花を手折ったサンドスが、満面の笑みをラトヤへ寄こしている。花はラトヤの髪を飾り、ラトヤは花が枯れた日に心塞いだ。輝く思い出が光を失った気がして。次を望んではいけないと、分かったから。
 あのサンドスの屈託ない笑顔と、目の前に無表情で立つサンドスとを比べて、自分が過去から歩みだしたと愕然とした。全て、サンドスで味わってきていたのに、と。
 今まで、女の子である身を、サンドスの一挙一動で味わった。これからは、他の男で、女を感じる。後ろ暗い痛みと、解き放たれる充足感が入り混じって、吐き気がした。
 今、熱で火照る頬を撫で、荒い呼吸を繰り返す胸の中へ身を横たえたなら、全ては変わらずに、元居た居心地の良い時間が続くのだろうか。
 闇を無理に押し上げる赤い陽が、不気味な朝焼けの光を送ってくる。山鳥の羽ばたきを聞けば、見つめる男の目蓋が重そうに開く。
「ラトヤ」
「はい、ここに。水を飲みますか?」
「ああ」
 起そうと腕を回した背も熱を帯び、サンドスはだるそうにラトヤの体に仰け反ってくる。喉を鳴らす水も、乾いた唇から溢れて、顎から体へ滴る。と、体を拭くラトヤの手を、サンドスのはれぼったい手が握った。
「紐がない」
「外して頂きました。介抱できませんから」
「服。ここに居ろと言ったのに」
「誰かが吐いて汚したんです」
「そうか。悪かった」
 ラトヤは握る手と共に、手を揺すって、とんとんとあやした。
「私の主人は、サンドス様です」
「うん」
「私の心は、私の物です」
「うん」
「どちらかを捨てるなんて、できません。どちらも、大事です」
 あやす手を、もう一方の手でサンドスが止める。
「彼を好きか?」
「分かりません。サンドス様は、ご自分の心を把握されています? これだ、と」
「見れば、疼く」
「疼く。苦しいですか?」
「ああ、そうだな」
「それは、私が誰かを好きなる事がですか? 私が誰かの物となる事にですか?」
 朝冷えを感じて、サンドスの熱を受け止めても、肌寒い。手を抜き取り、寝具を引いた。サンドスの下から体をずらし、サンドスを横たえる。サンドスが安息の息を吐いた。
「眠ってください」
「両方だ」
 汗が冷えぬよう、拭いているところへ、サンドスが声を絞り出す。顔を背けたままだ。が、直ぐに顔を向けた。
「なら、サンドス様にはどちらもあげません」
「どういう意味だ?」
「私の心をあげても、二年経てば、サンドス様は、片方を失います。私の体は、サンドス様の物ではなくなります」
「出て行くのか?」
「さあ。でも、その時は、外へ出るのも、私の自由。心はサンドス様に掴まれて、体は身の置き所がない。きっと、笑えません」
「それを、言うか」
「ええ。耳が痛いでしょうけど。私も、どちらも欲しいですから」
「私の妻に?」
「どちらもあげられる人を、見つけたいだけです。だから、サンドス様は違います。それが、私の返事です」
 拭き終わった布をたたみ、ラトヤは腰を上げた。サンドスが弱弱しく手を掴んできた。
「私が、ラトヤを迎えるとしたら?」
「それは、サンドス様の自由です。でも、サンドス様が奇跡を起しても、私の心はサンドス様へ動くか分からないのに、そんな奇跡、望んでいません」
「なら、片方だけ望むなら、ラトヤを求めても良いのか」
「はい。それがお望みでしたら」
 サンドスが喉を鳴らした。ラトヤは目頭が熱くて仕方ない。心が無心でいるのに、苦しいと喉が詰まる。
「既に、そうされています。両方与えないのに、ここに居ろと。期限があるのにここに居ろとおっしゃるのは、サンドス様です。ダンテオーリオ様は私の気持ちを得ようと心砕いてくださっています。なのに、ダンテオーリオ様へ傾く私を、責めているのは、サンドス様じゃないですか」
「すまない。私がわがままを言っているな」
「そうです。答えが出ていないのはご自分のくせに、迷う私をどうして責めるのですか? 心が要らないなら、主の権利を主張して、この状況を壊せばいいのに」
 掴まれた手に、ぴくりと動揺が走る。サンドスが寝具をめくり、ラトヤを促している。サンドスの腕とわき腹で囲まれた空間。そこへラトヤは膝を乗せ、足を寝具へと滑り込ませていく。冷えた頬を、熱い胸へ置いた。
「ラトヤも寝ろ。私も眠い」
「はい、サンドス様」

 朦朧とした頭の中に、金切り声が響く。深い眠りから目を開き、ラトヤの血は泡立った。カトゥーラ様が何か伝えて寄こしている。慌て身を起そうとし、動かぬ体に、腰を見下ろす。腕…。
 ラトヤは瞬時に背後の男を思い起こし、腕を押しのけると寝台を滑り降りた。
「どうなっているのよ!」
 カトゥーラは、ラトヤをどかし、枕を掴むと兄のサンドスへ投げつけた。
「っつ。カトゥーラ? 何だ?」
「それを聞きたいのは私よ! ラトヤはダンテオーリオ様が望んでらしているのよ? 何故、兄様がラトヤを? ラトヤもよくもこんな真似ができるわね!」
「カトゥーラ様、サンドス様は昨夜に熱を出されまして」
「そうよ! だから見舞いに覗いて見たのじゃない! そうしたら」
「煩い、カトゥーラ。頭が割れそうだ」
 カトゥーラの口は何かを言い出そうとするも、わなわなと震えるばかりだ。
「申し訳ありません。看病いたしておりましたが、眠ってしまって」
「一緒に寝台で寝ていたじゃない! ラトヤ、あなた、馬鹿にしているの? いくらお兄様の看病だからって、これを知ってダンテオーリオ様が怒らないとでも? お兄様もよ! なんでラトヤを抱いていたのよ!」
「具合が悪いんだ。寄りかかるものがあると楽なんだよ。もう、帰れよ」
「ラトヤを何だと思っているの。ダンテオーリオ様に、ラトヤを枕と借りたぞって言うわけ? 狂っているわ、あなたたち!」
「ああ、それでいいよ。狂っている。それでいいだろ。まだ寝ていたい」
 サンドスが寝台の脇へ顔を背ける。ラトヤは察して、たらいを置いた。背を擦るラトヤが振り返れば、カトゥーラは、そんな兄を蔑む目で眺めていた。
「いい気味よ。ラトヤを床に引き入れるなんて」
 部屋はただでさえ殺伐としているが、戸口が騒然と慌しくなった。男の下仕えが二人、顔を見せるなり、嘔吐する主に駆け寄り、介抱を買って出てくれる。ラトヤは、その隙にカトゥーラに腕を引かれた。
「もう用は無いなら、出なさい」
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