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二章

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 母のところへ来ていた。初めて訪れた時の母の印象を覆すよう、肌に血の通いが見て取れる母。最近では、起き上がり、周囲の住民と会釈も交わしているのだと言う。
 どうしても娘にお茶を入れるのだと言ってきかない母の補佐で、クレアも台所へ行ってしまっている。
 ラトヤはつと手をお腹に添えていた。
 母が私を身ごもったとき、このような不安を抱えたのだろうか。夫に勤め口があるとはいえ、何が起きるかわからない日々。赤子を産み、育てるだけのお金と環境を用意できるか心塞ぎはしなかったのだろうか。
 それとも、授かった子に現実も忘れ、喜びだけを感じあったのだろうか。
 夫が亡くなり、悲しむ暇もなく母に押し迫った現実の日々。産んだことを恨んだりしなかっただろうか。この子がいなければ、と、思ったのかもしれない。
 でも、それは、母に選択肢が無かったからだ。感情があっても、それを押し殺すしかない現実が、母に子へ愛情を注げとは囁かなかっただろうし、囁いたとしたら、人の苦悶する様を悦に入って眺めたかった現実の世が非道なだけだ。母に非はない。
 大変な決断なのだ。婚姻も、子を育むことも。
 私が産まれた時に両親にその決意が合ったかは知らないが、私にはないままその現実に向き合ってしまった。父は雇われ人で、母にとって子を産む現実は、身を削る現実へと変わる瞬間だったはず。奴隷院へ手放すことになったにせよ、両親は私をこの世に産みだしてくれた。不安や幸せを綯交ぜにしてでも、産み落としてくれた。母が私を産んでくれたことを感謝しなければ。
 ラトヤは、おぼつかない足取りでお盆を運ぶ母を迎えに出た。

「私が、お母さん」
 良く見えていない薄い瞳を、パシパシと老女が瞬いた。心なしか、手を添えているクレアも潤ませた瞳をラトヤへ向けてきた。
「ええ…ええ。そうね、ラトヤ、お願いするわね」
「はい、お母さん」
 ラトヤが出入りするようになり、椅子が一つ、家具に増えた。母と話し込めるよう、背もたれが丸く広がって肩を包み、傾いだ頭も受け止めてくれる椅子だ。深く腰を据え、茶器を手にしつつ、母の話に相槌を打つ時間。
「こんな日がくるなんてね」母はいつもこの言葉を零す。
「うん」ラトヤの返事もいつもこう。
 母が語る、自分の知らぬ過去。聞きたくもあり、でも、何故、と振り返ってしまう気持ちの攻め際に苛まされるひと時だが、逆境を話すのは、許しを欲してなのだと、分かっているから、締めくくりの言葉も決まっている。
「お母さん、感謝してる。産んでくれてありがとう、しか思ってないの。ほんとよ?」
 でも、今日は、次の会話がまだ残っている。口出そうと何度も喉を行き来しては、唇の縁から中々こぼれ出ないのだ。だが、先延ばしにもできない。
 背もたれから身を起こし、ラトヤは茶器を置いた。
「お母さんにね、会えたこと、奇跡だって思ってる」
 不意に口調を変えた娘に、おびえた目を開く母。そのおびえも、じわと浮かんだ涙ごと、拭い去ってあげたい。これ以上の労苦をかけたくない。子とは、親にとって何なのだろう。身を削って世に出して、育てる間は共にいても、何れ、伴侶見つけ、手元を離れていく。
 ラトヤは母の元に居なかった。今が漸く母の娘でいる日々なのに、これからは生涯暮らす相手と人生を共に過ごすと伝えるのだ。
「私ね、結婚するの」
 涙が母の瞳に瞬時に溢れ、これだけの握力が戻ったのかと思うほど、老女の手がラトヤの手を覆い、握りしめてくる。
「本当は、許しを請うのよね。結婚の許しを。報告じゃなくて。ごめんなさい、勝手に決めて。会えて言うことがこれで、ごめんなさい」
 ラトヤにも一気に噴き出した涙が襲い掛かる。喉を閉め、言葉も口にこもっていく。
「私…探さなくて、ごめんね」
 母と過ごすひと時は、もっと早くに向き合っていれば、と、後悔が押し寄せる日々でもあった。奴隷であることに諦め、安住し、自分の過去を見ずして、パンカロッレ家の家紋に寄り縋って生きていた。
 自分の生まれを察し、自分をパンカロッレ家の名でカモフラージュして立ち回ってきた。親を恥じていたのだ、と思う。産んでくれた母なのに。
 寝具に突っ伏して泣きじゃくるラトヤの頭に、母の手が掛かる。この手をどんなにか欲したはずなのに。どこかで親を恨み、得ようとしなかった。
「ラトヤ、捨てたんだよ、お前を、私は」
「ううん、ううん!」
「そうなんだよ、そんな女なんだよ、ここにいるのは」
「違う!」
「気に病まないで、だから。いつ捨てたっていいんだ。今度はラトヤが捨てなさい。それがいい」
「違うの!」
「一時、会えて、もうね、心残りはないんだよ」
「ほら!心配してたんじゃない!」
 ラトヤはキッと涙目で母を睨んだ。
 そして、ストンと心が会得した。
 母の瞳に淀みはない。母は私を愛してくれている。だから、選んだのだ。だから、奴隷院に委ねたのだと、心が瞬時に合点した。
「お母さんがくれたの。この暮らしを。お母さんが案じてくれたから、私、こうやって生きているの。お母さん、私を奴隷院に連れたほうが、私が幸せだって思ったのよね?」
 母が瞼を結んでは、涙を絞り出している。皺に吸い込まれてた水滴は、皺の溝を決壊したのか、粒となって頬も通さず寝具に落ちていく。
「ほら、私、立派よ?お母さんが望む生活をしていない?お母さんよりいい物食べて育ったわ。文字も書けるし、勘定もできる。結婚だってするのよ?」
「そんなことない、そんなことない。そう言い訳して、親の義務を怠ったんだ、私が間違ってたんだよ。そんなことは立派でもなんでもないって、私が教えなきゃいけなかった。それをやらなかったんだよ、私は。まっとうな親だったらこんな結婚、認めさせやしない。ちゃんとした親がついてれば、こんな…身売りする結婚なんて、相手を玄関からたたき出しているよ。いいんだよ、ラトヤ。やめなさい。こんな女のために、人生縛られることない、魂を買われることはないんだから」
「違う…売ってなんかない。自分の意思で結婚するの」
 言っておいて、睨む目も緩む。母の瞳が鋭く光った。
「あんた、愛しているかい? あの方を愛おしいと思うかい? 状況に流されて選んじゃいけないよ。あの方の心意気には感謝してるね。でも、私の大切なラトヤの心を無理やり言うこときかせるなんてこと、目にしたくなかったよ。これが罰なのかい? 娘を捨てた罰なら甘んじて受けるけどね。だが、ラトヤは別だよ。苦しまないでおくれ。私が言えた義理じゃない。けど、いいんだよ。自分だけ幸せになりなさい。願うのはそればかりだよ」
 今度は首を振るばかりだったラトヤも、気丈に話した母に、涙を拭いて向き合った。
「愛している。お母さんを、心より。産んでくれたお母さんを尊敬しているの。奴隷院に連れたお母さんの気持ち、今なら、私にも想像がつく。お母さんも傷ついたんだって、ずっと苦しかったんだろうって、思うの。だから、もういいの。私、お母さんのおかげで、幸せになれるの。お母さんのおかげなのよ?」
「ああ、ラトヤ。どうしたもんかね、どうしたもんかね、ラトヤ。なんでこんな馬鹿な選択を…」
「ううん、違う。大好き、お母さん」
「なんてこと…」
「祝福してくれる?」
 笑みをひねり出すラトヤの頬を、ごわごわと皺ぐれた手が、涙の跡を消さんと動く。ラトヤもまた、その手に頬を埋めた。
「だーい好き、お母さん。会いたかった」
「うん」
「一生お母さんを大事にする」
「うん」
「でね? 幸せになるの。怖いぐらい愛されてるの」
「うん、うん」
「いいでしょ?」
「ああ、いいよ。そうだね、幸せになるんだよ、ラトヤ。思いっきり、幸せになりな」
「そうする。ありがとう」
「掴んだんだね、私の娘は」
「そうよ。お母さんのおかげなのよ?」
 頬を乗せた母の手が、ピクと痙攣した。見れば、寝息を立て始めている母。朗らかな寝息だ。
 もう遠慮することもない。責めたり、振り返ったりしなくていい。母にたっぷり甘え、母を案じ、夫に寄り添って生きる。この世で一番幸せな娘だ、私は。
 音を立てぬよう、戸を閉めれば、湿った海の香を嗅ぐ。
 今までは貰った人生だった。これからは、身に溢れる幸せを注ぐ番だ。
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