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三章
二
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家の窓辺に佇んで外を眺めるのにも、ため息が始終漏れてしまい、つい立ち上がってしまう。刺繍も一針も進まず、立ち上がる度、存在さえ忘れて床へ落とす始末。
にこやかな笑顔で、息子の婚約者の粗相を許してくれる、ダンテオーリオの母も、ここ数日はその気遣いさえ消え、共に窓の外を眺めている。
ダンテオーリオが港を出て、ちらつくだけの雪が、既に窓枠にもへばりつく様な吹雪に代わってきている。
外出も控える冬になったのだ。
街の機能が止まってしまう越冬の季節。そこへ戻ってくる船などない。
食物は保存物へとにとって代わり、それを毎年の事とひっそり暮らすプテリャイの冬。急いて働く者は少ない。 冬はまた、進路を図る星空をも横臥し、船の行き交いを阻む。
どこかで寄港し、越冬に入る判断をしたのだろうと、それにしても文も届かぬな、と、ダンテオーリオの父が漏らす室内。静かな不安が床を這う様忍び寄り、足元から首元へと身震いを走らせていく。
心が塞ぐ冬を、請うように春を待って過ごした。だが、雪に滴が混じる頃になっても、ダンテオーリオの船は港へ姿を現さなかった。
「ラトヤ、久しぶりだな」
背筋を冷やす、耳慣れた声。ラトヤが実母の家へ食料品を届けた帰りだ。雪解けに反射する光を眩しく受け止める、白い毛皮のフードを見透かせば、前方にサンドスが姿を覗かせた。
「サンドス様。ご無沙汰しております」
「うむ。ラトヤの家はどこだか忘れているかと思ったぞ」
「はい。お母様にはご挨拶もせず、申し訳ありません」
サンドスは仕事の合間に外に出る用事でもできたらしい。引き留める話しぶりには、急いて話す口ぶりも紛れている。
「一度、戻ったらどうだ。母も心配している」
「はい。ありがとうございます」
「分からないかな。戻れと言っているんだ」
馬上のサンドスは、苛立った顔を顰めて、行き過ぎようとした馬をきっちりと手綱を引いて止めた。
「籍上は母の娘だ、ラトヤ。他家へ娘を預けるままでは、パンカロッレ家の外聞が悪い。分かるな?」
ラトヤは返答に困って見上げてしまう。懐かしい嘗ての主を。今は、呼べないが、兄となったサンドス。憤慨して、察しろと瞳に浮かんでいる。
その瞳に、こわばりも解けて足元が崩れそうになる。
縋りたい。その気遣いに。建前を言い訳に出してくれるサンドスの声を頼りに、駆け戻りたい。
ダンテオーリオの帰港がもはや望めないのではと、誰もが口にせず、黙りこくった家の中、生活の全てをルテナイ家に委ねる事態に、ラトヤが背筋を正して居座れるのも、張り詰めた緊張という細い糸で保っているだけ。それが、ふつと切れる音がした。
「私は」
「ルテナイ家もラトヤには言えないだろう。一時顔を見せに行ってはと薦めれば、追い出したと思われはしないかと、気を揉んでいるはずだ。気負わず、自宅へ帰ってくればいい。行きたければ、また行けばいい。それだけのことだ」
もう声は出なかった。ラトヤは一礼をして、その場を後にした。
ダンテオーリオの父に、パンカロッレの家に荷物の整理に戻ると話したのは、それから五日も経っての事だった。
馴染んだはずのパンカロッレの館の造りに、感覚が馴染まず、恐々と館内を歩く足を踏みしめるラトヤは、ルテナイ家の面々がラトヤの申し出に脱力した瞬間を、想い過っていた。
ホッとしたに違いない。私の前では言い出せなかったのだろうから。亡くなったのだと。ルテナイ家にとっては、親族の家の船が帰らないとなれば、息子の死亡を嘆くと共に商売の損失をも探るに躍起になったはずだ。私が居ては、できなかっただろう。
「ただ今帰りました」
駆け寄って出迎えたカトゥーラに、抱き取られるまま身を任せた。どの部屋に戻るか、どう立ち振る舞うのかも。
数日に一度はルテナイ家からの便りが届く。それが唯一現実へ引き戻すだけで、ラトヤはのんびりと過ごしていた。
カトゥーラを始め、今は義母となった奥方や、義父となった旦那様も、気兼ねなく共に食卓へ誘ってくれる。
そこで給仕するかつての仲間も、ラトヤに非難じみた視線は寄越さず、半ばふざけて仕えてくれる。
気遣われての日々となった。
ただ、その日はやってきてしまった。
春になり、マテロ家は、法に則り、籍の抹消をラトヤへ伺ってきた。
不明となって規定日数経つと、籍を消去できる。子を想うなら、籍を残し、帰りを永久に待ちたいところだが。 家の稼ぎと位に合わせ、籍分の税金は徴収される。財力で籍を繋ぎ留めなければならない。
だが、マテロ家は、主は亡くなっており、女主人も働き手となるにはハンデのある身だ。当主はダンテオーリオであり、ルテナイ家が後ろ盾だと誰もが知る所だろうが、残された家人でどこまで家業を繋げるのか。後継がいないのに。
ラトヤがルテナイ家に出向く支度をしている時だ。サンドスが不意に帰宅してきた。
「ラトヤ! まだ居るのか!」
今一番会いたくない人なのだが、と、ラトヤは服の皺を払い、階段を下りてサンドスを目指した。
「ここに」
息切れているサンドスへ水を運ぶ下仕えも、ラトヤへ気遣わし気な視線を送ってくる。正直、本人がその視線にもううんざりなのだが。
「父は? 父は何と言った?」
ラトヤは、ウェチェレが持参した鞄を受け取った。カトゥーラが出かけるなら貸すと言って聴かなかった物だ。
「私が良ければ、反意を伝えるとおっしゃっていただきました」
「当然だ!」
間髪入れず叫んだサンドスも、水を飲み干す合間は黙る。ラトヤもその間を待った。
「私が良ければ、という事です」
「ラトヤ!」
次の雷が落ちると予感しての発言だけに、サンドスの声に身も竦みもしない。
「私の意思は私次第です」
「しかし、先は相手が婚姻するとの話でした決断だろう? それを向こう都合で伸ばしておいて! 船に乗せる前に何故籍を入れなかったんだ。まあ、悔いても仕方ないが、ラトヤは婚姻を控えていた身だ。マテロ家の女主人の座が約束されていての一歩だったはずだ。人生を曲げたんだぞ! なのに、状況が変わったからと言って!」
「話を聞きませんと」
今にも泣き出しそうな口へ、手を当てているウェチェレ。彼女の感情までずたずたにすることはないのに。ラトヤは、息に屈むサンドスを見下ろした。
「返答はそれからにします。それに、返答にはお父様とお母様の許可を頂いてからにします、お兄様」
見開く瞳を眺め降ろすと、ラトヤは玄関を後にした。
今、私を支えているのは、パンカロッレ家の娘という立場。ダンテオーリオの婚約者という立場だ。
嘗ての主が、出仕中だというのに、蹴ってまで使用人の人生に口を出しに戻ってきたとは思いたくない。妹の肩を持とうと、不利な選択をしないよう説得に帰ってきたのだと思いたい。ならばそこへ恋慕が混じっているとは、感じ取れないだろうから。
ルテナイ家の門をくぐれば、相変わらずの静謐さに、苦笑も漏れる。ぶれない。それがルテナイ家を支えている信条なのだ。
「よくいらしてくれた、ラ・ラトヤ。久しぶりだ」
「ご無沙汰をしたままで申し訳ありませんでした」
「構わない。そちらへ座りなさい」
訪問者を迎える室内。館の外観から得る印象より、贅沢な設えになっているようだ。ここは初めて入った。主人の横に、奥方が、そして、マテロ家のアミアが在室していた。
「主な要点は文に出したまでだ。ダンテオーリオは、亡くなったと判断するに至った」
瞬時崩れる奥方を支え、アミアが物言わず涙を零している。奥方がその腕にぶら下がったままだが、視線はラトヤを向いている。本人も相当な苦しみを抱えているはずなのに、労りの涙を流してくれているのは、アミアも主人を亡くしているからこそかもしれない。
「これは、決断だ、ラ・ラトヤ」
「はい」
と、主人が文の封を開いた。
「私は、出立前、婚姻を伸ばすよう、あなたにお願いした。その責任を忘れてはいない」
「はい」
「いないが、ここに、出立前、ダンテオーリオが私に要求した約束がある。それを知らせるのが先だろうと思ってな。彼から私への文だ」
どこからともなく溢れた感情が、涙を生み出して、視界がおぼつかない。文を受け取りたいと手を出すのに。
「ここで泣かれては話ができない。ラ・ラトヤ、気丈に聴いてくれ」
文を手渡すのを諦めた主人が、文を読み上げ始めた。
「私に万が一の事があった場合、ラトヤを妻の籍に入れた後、私の籍を除籍願いたい。ラトヤがこれに頷かないならば、婚姻を結ばない事もラトヤの意思に従う。その代わり、ラトヤを生涯ルテナイ家の庇護の元へ置く術を構えて頂く様、願いたい」
つと、文を机の上に置くと、上等な紙の筒を主人が出してきた。
「これは私の誓約書だ。司法院の印もある、正式な物だ。読み上げる」
確認に頷く間にも、涙が服地を滑っていく。借り物なのに、と、鞄に掛からぬよう脇に手放し、空いた両手で涙をぬぐった。
「ダンテオーリオ・マテロが、ラトヤ・パンカロッレ嬢との婚姻前に、死亡した場合、ダンテオーリオ・マテロの妻の籍へ、ラトヤ・パンカロッレ嬢を迎え入れる事。または、同人が婚姻を拒否した場合は、ルテナイ家で生涯生活の保証を承る事。ここに承知する。ロンテリオ・ルテナイ」
読み終わらないうち、奥方がラトヤへ駆け寄って両手を掴んだ。
「そんな宣誓、どうでもよいではありませんか! ダンテが愛した娘です。生涯、私の娘には変わりないのよ!」
やや感情的になっていると、ラトヤでさえ分かる。除籍を決め、不安定になっているのだろう。アミアが奥方を引きはがしに寄り、主人の頷きで二人は部屋を下がった。
「私も妻と同じ考えだよ、ラ・ラトヤ。既に嫁だと認めてこの家に居てもらった。入籍をとめたのは、単にダンテオーリオの心構えを問うたまで。だが、それもこんな結果になってすまなかったな」
「いえ」
「私たちルテナイ家が、この誓約書無くしても、あなたをこの家に迎えていくことに異議はない。だが、あれの遺志だ。きちんと形にしたかったのだろうから、汲んでやってはくれまいかと、お願いする次第だ。それを待って、除籍とする」
「はい。ですが」
「何だね?」
ラトヤは、つい今しがた部屋を抜けていったアミアに想いを馳せた。
「私が訊くべきではないのかもしれませんが」
「言って御覧なさい」
「はい。マテロ家はどうなるのですか?」
「そうだな。知らないといけないことだろう。先ずは、ラトヤ次第と答えておこう。事実だからな」
「私、次第」
「ラトヤがダンテの妻となる手配を取れば、アミアの次代ができる。マテロ家の存続が可能だ。そこで、ラトヤが、新しい夫を娶れば、家の存続も可能になる。夫には家名を捨ててもらわねばならんが。そして、子が生まれれば、家の存続は続行できる」
「はい」
「問題は、中身だ。家名だけ続いても、生活を購う当てがなければ話にならん。ダンテが居ない今、没落は避けられない」
「そう、ですか。そんなに…」
アミアに寄せる同情が別の涙も呼んでしまう。養子とはいえ、息子を失い、家を立ち行かせる術も失ったなら、彼女の日々は様変わりするのだろう。
綺麗な花を見せてくれたアミア。その生活を守る者がいない。
「そう嘆かれると、言い方が悪かったようだな。全ては、ラトヤ、あなた次第だ」
首を傾げてラトヤは主人を見上げた。既に稼業が傾いているのでは?
硬い表情に少し笑みを取り入れる気になったようだ。主人が一息ついて、自身も椅子へ腰を下ろす。ラトヤへ温和な笑みを覗かせた。
「ダンテが持ち帰るはずだった荷の損失は、痛手ではあるが、それで家業を閉めるほどの生業はしてきていなかったようだ、息子も。本業は言論員だ。アミアと共に、家人でまわるぐらいの手勢は育ててきている」
「では、続けていけるのでしょうか?」
「だから、ラトヤ次第と言っている」
「私が何か?」
「商いはね、損か儲けかだけで成り立ってはいない。当主がいない、となると、あそこはやばそうだ、と取引を煙たがる。信用あっての生業なのだよ」
「そんなことで」
「ああ。実際、この信用が商いを盛り立ても転覆もさせてしまう、やっかいなものでね」
「だから、私ですか?」
「そうだ。形だけでも、奥方が残る。ならば、ルテナイ家も引き続き後押しするだろうから大丈夫だ、となる」
「形だけ…」
「そうだ。だから、内情はそう悪くもないと言っておこう。継ぐ気がめげない程度にはね。ただ、ルテナイ家での生活の方が、安泰なのではと勧めておこう。ダンテを、ルテナイ家に招けなかった分、ラトヤを娘と迎えられるなら、ダンテへの償いも叶う気もしてね。ダンテにしてみれば今更だろうが」
一役終えたとの疲れが顔に表れ始めている主人。ラトヤはそこへ申し訳なく声を挟んだ。
「アミア様は、どうなりますか? もし、マテロ家がその」
「うむ。アミアは大丈夫だ。私の妹だが、マテロ家の嫁でもある。稼業が傾いたとなれば、マテロ家の親族が彼女の面倒はみてくれる。でなければ、ルテナイ家に戻ればいい話だ。心配か?」
ラトヤは大きく息を吐いた。籍はこんなにも大事な物なのだ。血縁もこのように生活を支え合う絆となる。
奴隷は、比べて、本当に何も持たず暮らしているのだと痛感する。その代わり、日々仕事をこなしていれば、運不運にさほど左右されず、生活の手綱を人手に預けておける。気楽さは手元にあった。婚約者が亡くなったという時点で、こうして生活の糧に困窮する立場には、ならずにすむ。
この階級の人々は、自らが秀でないと立身できない、綱渡りをしているのだと、初めて理解した。
そして、自分はどちらを選んだのかも、今、悟った。
「でしたら、私は、私の心配をします。時間を頂けますか?」
「無論。だが、期限はある。アミアの為にもな」
「ありがとうございます」
ラトヤは帰宅した後、虚脱した全身を寝台に預けたまま眠った。仕事を終えたサンドスが何度も呼びに来たと知ったのは、翌日の昼だった。
にこやかな笑顔で、息子の婚約者の粗相を許してくれる、ダンテオーリオの母も、ここ数日はその気遣いさえ消え、共に窓の外を眺めている。
ダンテオーリオが港を出て、ちらつくだけの雪が、既に窓枠にもへばりつく様な吹雪に代わってきている。
外出も控える冬になったのだ。
街の機能が止まってしまう越冬の季節。そこへ戻ってくる船などない。
食物は保存物へとにとって代わり、それを毎年の事とひっそり暮らすプテリャイの冬。急いて働く者は少ない。 冬はまた、進路を図る星空をも横臥し、船の行き交いを阻む。
どこかで寄港し、越冬に入る判断をしたのだろうと、それにしても文も届かぬな、と、ダンテオーリオの父が漏らす室内。静かな不安が床を這う様忍び寄り、足元から首元へと身震いを走らせていく。
心が塞ぐ冬を、請うように春を待って過ごした。だが、雪に滴が混じる頃になっても、ダンテオーリオの船は港へ姿を現さなかった。
「ラトヤ、久しぶりだな」
背筋を冷やす、耳慣れた声。ラトヤが実母の家へ食料品を届けた帰りだ。雪解けに反射する光を眩しく受け止める、白い毛皮のフードを見透かせば、前方にサンドスが姿を覗かせた。
「サンドス様。ご無沙汰しております」
「うむ。ラトヤの家はどこだか忘れているかと思ったぞ」
「はい。お母様にはご挨拶もせず、申し訳ありません」
サンドスは仕事の合間に外に出る用事でもできたらしい。引き留める話しぶりには、急いて話す口ぶりも紛れている。
「一度、戻ったらどうだ。母も心配している」
「はい。ありがとうございます」
「分からないかな。戻れと言っているんだ」
馬上のサンドスは、苛立った顔を顰めて、行き過ぎようとした馬をきっちりと手綱を引いて止めた。
「籍上は母の娘だ、ラトヤ。他家へ娘を預けるままでは、パンカロッレ家の外聞が悪い。分かるな?」
ラトヤは返答に困って見上げてしまう。懐かしい嘗ての主を。今は、呼べないが、兄となったサンドス。憤慨して、察しろと瞳に浮かんでいる。
その瞳に、こわばりも解けて足元が崩れそうになる。
縋りたい。その気遣いに。建前を言い訳に出してくれるサンドスの声を頼りに、駆け戻りたい。
ダンテオーリオの帰港がもはや望めないのではと、誰もが口にせず、黙りこくった家の中、生活の全てをルテナイ家に委ねる事態に、ラトヤが背筋を正して居座れるのも、張り詰めた緊張という細い糸で保っているだけ。それが、ふつと切れる音がした。
「私は」
「ルテナイ家もラトヤには言えないだろう。一時顔を見せに行ってはと薦めれば、追い出したと思われはしないかと、気を揉んでいるはずだ。気負わず、自宅へ帰ってくればいい。行きたければ、また行けばいい。それだけのことだ」
もう声は出なかった。ラトヤは一礼をして、その場を後にした。
ダンテオーリオの父に、パンカロッレの家に荷物の整理に戻ると話したのは、それから五日も経っての事だった。
馴染んだはずのパンカロッレの館の造りに、感覚が馴染まず、恐々と館内を歩く足を踏みしめるラトヤは、ルテナイ家の面々がラトヤの申し出に脱力した瞬間を、想い過っていた。
ホッとしたに違いない。私の前では言い出せなかったのだろうから。亡くなったのだと。ルテナイ家にとっては、親族の家の船が帰らないとなれば、息子の死亡を嘆くと共に商売の損失をも探るに躍起になったはずだ。私が居ては、できなかっただろう。
「ただ今帰りました」
駆け寄って出迎えたカトゥーラに、抱き取られるまま身を任せた。どの部屋に戻るか、どう立ち振る舞うのかも。
数日に一度はルテナイ家からの便りが届く。それが唯一現実へ引き戻すだけで、ラトヤはのんびりと過ごしていた。
カトゥーラを始め、今は義母となった奥方や、義父となった旦那様も、気兼ねなく共に食卓へ誘ってくれる。
そこで給仕するかつての仲間も、ラトヤに非難じみた視線は寄越さず、半ばふざけて仕えてくれる。
気遣われての日々となった。
ただ、その日はやってきてしまった。
春になり、マテロ家は、法に則り、籍の抹消をラトヤへ伺ってきた。
不明となって規定日数経つと、籍を消去できる。子を想うなら、籍を残し、帰りを永久に待ちたいところだが。 家の稼ぎと位に合わせ、籍分の税金は徴収される。財力で籍を繋ぎ留めなければならない。
だが、マテロ家は、主は亡くなっており、女主人も働き手となるにはハンデのある身だ。当主はダンテオーリオであり、ルテナイ家が後ろ盾だと誰もが知る所だろうが、残された家人でどこまで家業を繋げるのか。後継がいないのに。
ラトヤがルテナイ家に出向く支度をしている時だ。サンドスが不意に帰宅してきた。
「ラトヤ! まだ居るのか!」
今一番会いたくない人なのだが、と、ラトヤは服の皺を払い、階段を下りてサンドスを目指した。
「ここに」
息切れているサンドスへ水を運ぶ下仕えも、ラトヤへ気遣わし気な視線を送ってくる。正直、本人がその視線にもううんざりなのだが。
「父は? 父は何と言った?」
ラトヤは、ウェチェレが持参した鞄を受け取った。カトゥーラが出かけるなら貸すと言って聴かなかった物だ。
「私が良ければ、反意を伝えるとおっしゃっていただきました」
「当然だ!」
間髪入れず叫んだサンドスも、水を飲み干す合間は黙る。ラトヤもその間を待った。
「私が良ければ、という事です」
「ラトヤ!」
次の雷が落ちると予感しての発言だけに、サンドスの声に身も竦みもしない。
「私の意思は私次第です」
「しかし、先は相手が婚姻するとの話でした決断だろう? それを向こう都合で伸ばしておいて! 船に乗せる前に何故籍を入れなかったんだ。まあ、悔いても仕方ないが、ラトヤは婚姻を控えていた身だ。マテロ家の女主人の座が約束されていての一歩だったはずだ。人生を曲げたんだぞ! なのに、状況が変わったからと言って!」
「話を聞きませんと」
今にも泣き出しそうな口へ、手を当てているウェチェレ。彼女の感情までずたずたにすることはないのに。ラトヤは、息に屈むサンドスを見下ろした。
「返答はそれからにします。それに、返答にはお父様とお母様の許可を頂いてからにします、お兄様」
見開く瞳を眺め降ろすと、ラトヤは玄関を後にした。
今、私を支えているのは、パンカロッレ家の娘という立場。ダンテオーリオの婚約者という立場だ。
嘗ての主が、出仕中だというのに、蹴ってまで使用人の人生に口を出しに戻ってきたとは思いたくない。妹の肩を持とうと、不利な選択をしないよう説得に帰ってきたのだと思いたい。ならばそこへ恋慕が混じっているとは、感じ取れないだろうから。
ルテナイ家の門をくぐれば、相変わらずの静謐さに、苦笑も漏れる。ぶれない。それがルテナイ家を支えている信条なのだ。
「よくいらしてくれた、ラ・ラトヤ。久しぶりだ」
「ご無沙汰をしたままで申し訳ありませんでした」
「構わない。そちらへ座りなさい」
訪問者を迎える室内。館の外観から得る印象より、贅沢な設えになっているようだ。ここは初めて入った。主人の横に、奥方が、そして、マテロ家のアミアが在室していた。
「主な要点は文に出したまでだ。ダンテオーリオは、亡くなったと判断するに至った」
瞬時崩れる奥方を支え、アミアが物言わず涙を零している。奥方がその腕にぶら下がったままだが、視線はラトヤを向いている。本人も相当な苦しみを抱えているはずなのに、労りの涙を流してくれているのは、アミアも主人を亡くしているからこそかもしれない。
「これは、決断だ、ラ・ラトヤ」
「はい」
と、主人が文の封を開いた。
「私は、出立前、婚姻を伸ばすよう、あなたにお願いした。その責任を忘れてはいない」
「はい」
「いないが、ここに、出立前、ダンテオーリオが私に要求した約束がある。それを知らせるのが先だろうと思ってな。彼から私への文だ」
どこからともなく溢れた感情が、涙を生み出して、視界がおぼつかない。文を受け取りたいと手を出すのに。
「ここで泣かれては話ができない。ラ・ラトヤ、気丈に聴いてくれ」
文を手渡すのを諦めた主人が、文を読み上げ始めた。
「私に万が一の事があった場合、ラトヤを妻の籍に入れた後、私の籍を除籍願いたい。ラトヤがこれに頷かないならば、婚姻を結ばない事もラトヤの意思に従う。その代わり、ラトヤを生涯ルテナイ家の庇護の元へ置く術を構えて頂く様、願いたい」
つと、文を机の上に置くと、上等な紙の筒を主人が出してきた。
「これは私の誓約書だ。司法院の印もある、正式な物だ。読み上げる」
確認に頷く間にも、涙が服地を滑っていく。借り物なのに、と、鞄に掛からぬよう脇に手放し、空いた両手で涙をぬぐった。
「ダンテオーリオ・マテロが、ラトヤ・パンカロッレ嬢との婚姻前に、死亡した場合、ダンテオーリオ・マテロの妻の籍へ、ラトヤ・パンカロッレ嬢を迎え入れる事。または、同人が婚姻を拒否した場合は、ルテナイ家で生涯生活の保証を承る事。ここに承知する。ロンテリオ・ルテナイ」
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「そんな宣誓、どうでもよいではありませんか! ダンテが愛した娘です。生涯、私の娘には変わりないのよ!」
やや感情的になっていると、ラトヤでさえ分かる。除籍を決め、不安定になっているのだろう。アミアが奥方を引きはがしに寄り、主人の頷きで二人は部屋を下がった。
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「いえ」
「私たちルテナイ家が、この誓約書無くしても、あなたをこの家に迎えていくことに異議はない。だが、あれの遺志だ。きちんと形にしたかったのだろうから、汲んでやってはくれまいかと、お願いする次第だ。それを待って、除籍とする」
「はい。ですが」
「何だね?」
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「私が訊くべきではないのかもしれませんが」
「言って御覧なさい」
「はい。マテロ家はどうなるのですか?」
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「そう嘆かれると、言い方が悪かったようだな。全ては、ラトヤ、あなた次第だ」
首を傾げてラトヤは主人を見上げた。既に稼業が傾いているのでは?
硬い表情に少し笑みを取り入れる気になったようだ。主人が一息ついて、自身も椅子へ腰を下ろす。ラトヤへ温和な笑みを覗かせた。
「ダンテが持ち帰るはずだった荷の損失は、痛手ではあるが、それで家業を閉めるほどの生業はしてきていなかったようだ、息子も。本業は言論員だ。アミアと共に、家人でまわるぐらいの手勢は育ててきている」
「では、続けていけるのでしょうか?」
「だから、ラトヤ次第と言っている」
「私が何か?」
「商いはね、損か儲けかだけで成り立ってはいない。当主がいない、となると、あそこはやばそうだ、と取引を煙たがる。信用あっての生業なのだよ」
「そんなことで」
「ああ。実際、この信用が商いを盛り立ても転覆もさせてしまう、やっかいなものでね」
「だから、私ですか?」
「そうだ。形だけでも、奥方が残る。ならば、ルテナイ家も引き続き後押しするだろうから大丈夫だ、となる」
「形だけ…」
「そうだ。だから、内情はそう悪くもないと言っておこう。継ぐ気がめげない程度にはね。ただ、ルテナイ家での生活の方が、安泰なのではと勧めておこう。ダンテを、ルテナイ家に招けなかった分、ラトヤを娘と迎えられるなら、ダンテへの償いも叶う気もしてね。ダンテにしてみれば今更だろうが」
一役終えたとの疲れが顔に表れ始めている主人。ラトヤはそこへ申し訳なく声を挟んだ。
「アミア様は、どうなりますか? もし、マテロ家がその」
「うむ。アミアは大丈夫だ。私の妹だが、マテロ家の嫁でもある。稼業が傾いたとなれば、マテロ家の親族が彼女の面倒はみてくれる。でなければ、ルテナイ家に戻ればいい話だ。心配か?」
ラトヤは大きく息を吐いた。籍はこんなにも大事な物なのだ。血縁もこのように生活を支え合う絆となる。
奴隷は、比べて、本当に何も持たず暮らしているのだと痛感する。その代わり、日々仕事をこなしていれば、運不運にさほど左右されず、生活の手綱を人手に預けておける。気楽さは手元にあった。婚約者が亡くなったという時点で、こうして生活の糧に困窮する立場には、ならずにすむ。
この階級の人々は、自らが秀でないと立身できない、綱渡りをしているのだと、初めて理解した。
そして、自分はどちらを選んだのかも、今、悟った。
「でしたら、私は、私の心配をします。時間を頂けますか?」
「無論。だが、期限はある。アミアの為にもな」
「ありがとうございます」
ラトヤは帰宅した後、虚脱した全身を寝台に預けたまま眠った。仕事を終えたサンドスが何度も呼びに来たと知ったのは、翌日の昼だった。
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か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
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