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第7部3章 対話を目指して
06 君がいない世界など
しおりを挟む「……っぶない。一口お酒飲んじゃったけど、大丈夫だよね」
会場内に置いてあったグラスに一口口をつけると、なんとそれがお酒だったのだ。いつものように注意深く見ていれば間違えなかったものの、注意力が散漫になっているな、と自分でも感じていた。
それから、一気に二杯ほど水を口にし、どうにかこうにか体内に入ったお酒を中和しようとしていた。
俺はお酒に弱いし、ゼラフ曰く一生人前で飲ませちゃいけないタイプらしいから。
(セシルも言ってたよな……)
蜂蜜酒は大量の炭酸水で割って飲んでいたが、それでもポヤポヤとしたし、薄めていないお酒を飲めばどうなるか結果は見えている。
何とか、口の中からアルコールは消えたものの、少し頭が痛い気がする。俺は、会場のどこかで待ってくれているだろうセシルを探してふらついた。こういう時に、ゼラフがいてくれると助けてくれるのだが、彼もどこに行ってしまったか分からない。赤髪だし、すぐに見つけられると思っていたがどうやらそうじゃないらしい。
(こういう時にいないって~~~~!!)
まあ、俺もセシルの護衛としてたまにいない時があったから、ゼラフを責めるのはおかしな話だ。
俺は、改めて会場を見渡し、人の多さや、天井の高さ、広さにうっと口元を覆った。
「広い……な」
会場は、こんなに広かっただろうか。
だんだんと意識がもうろうとしていく。くらくらと思考が鈍って、そのまま目を閉じてしまいたくなった。
水を飲んだのに、頭がすっきりしないのは何故だろうか。
俺は額に手を当て、深く息を吸って吐いた。それでも、不快感は胸の中心から抜けていってくれず、むしろその気持ち悪さは次第に増していくような気もした。
先ほど、セシルに対してあんなことを思ってしまったからだろうか。
自分が醜くて、いかに自己中な人間であるか気づいてしまったからか。自分が理想としていた自分に反したため、それを受け入れられないとでもいうのだろか。
不安は胸にある。
再攻略、一生記憶を取り戻さないかもしれない。今のままでもいい。でも、空っぽだ。
二人の思い出は?
二人で過ごしたあの日々のことは?
君が俺を救って、俺が君を救ったことは?
セシルの中に何が残っているの? 俺のことは、俺の、俺とのこと、俺の――
「ニル」
「……っ」
名前を呼ばれ、俺は悲鳴を上げそうになった。それをぐっと飲み込んだ後、振り返ればそこにいたのはゼラフだった。安堵と共にやってきた落胆に、俺は自分を殴ろうかとも考えた。だが、そんなことができるほど俺の拳は強くなかった。
「大丈夫か、お前、顔色悪すぎだろ」
「……ちょっと、お酒飲んじゃった」
「はあ!? あんだけ、飲むなって釘刺しておいただろうが」
「間違えたんだって……でも、水二杯、飲んで……中和して……」
「あーあーもう言わんこっちゃねえ。あの皇太子探して、今日はお暇しようぜ。お前、十分頑張ったよ」
「俺、頑張ってない」
「………………頑張ってんだよ。少しは、自分のこと誉めてやれよ。お前は、理想が高すぎる」
その言われた一言に、俺は開いた口がふさがらなくなる。
「理想……」
「ああ……って、別にいじめたわけじゃねえよ。それが、悪いって言いたいわけじゃねえ。ただ、そう簡単に思い通りにならねえし、理想のために、自分を叩いて、否定するのって、自己肯定感がさがんだろ。そこまでして、自分を追い詰める必要ねえってことだ。いろいろ、不安だろうが、不安ばっかに目を向けてたら、今を見失っちまう」
「……ゼラフは」
「つっても、そう思うようになったのは、お前が俺を助けてくれたからだからな?」
ゼラフは、俺が何かを言う前に口をはさみ自分はもともとそうじゃなかった、と付け加えた。
そうだっけ? と思ったが、彼は「そうなんだ」と、俺に言い聞かせるように顔を近づけてきた。今日はきれいなハーフアップだな。いつもは、ぼさぼさなのに、なんて変なところに着眼点を置いて、俺はゼラフの幻想的なビーナスベルトの瞳を見つめた。
不安そうな俺がそこには映っていたが、ゼラフもまた不安層……というより、心配そうだった。
「お前が、魔塔のことでいろいろあったとき助けてくれた。出会ったときから、お前は輝いていた。輝いて見えたのは、お前にとって大切なものがあって、それを一身に守ろうとしていた、好きでいようとしていたんじゃねえかって。上手く言えねえけど。俺にとってニルは輝かしい、手を伸ばしても届かない存在なんだよ。俺のほうを一瞬でも見てくれりゃあいい、笑いかけてくれりゃあいい……けど、そんなのわがままだって。でも、お前の一番になれずとも、一番になりたいっつう気持ちは捨てられなかった。それに、捨てずにいようっつ思ったんだよ」
黒いハーフグローブをつけた手が俺の頬を掠める。
まるで腫れ物に触る手つきに、思わずくすぐったさを覚えたが、ゼラフは俺を愛おしそうな目で見つめた後「ニル」と再び名前を呼ぶ。
それはきっと辛いことだ。
自分に振り返ってくれない人がいる。その人を求め続けること、好きでい続けることなんて、生半可な覚悟じゃできないこと。
でも、ゼラフにはその覚悟があるのだ。
「俺の闇を照らしてくれたのはお前なんだよ、ニル。だから、俺はお前がつらいときに支えてやりてえ。本来であれば、あの皇太子がその役なんだろうが、今は俺が……俺は、性格わりぃから、今この状況をチャンスだって思っちまってるけどな」
「ゼラフ……らしいね」
「まあ、俺の言葉なんて信用できねえと思うけど」
「信用してるよ……君のこと……少なくとも、数年は一緒にいるし。君の孤独も、辛さも……全部理解したって言いきれないけど、君が教えてくれたから。そのうえで、俺の護衛になってくれて、俺を守ってくれて。心を守るまでは職務外のことじゃない?」
「いーや、含まれてんだよ。お前だってそうだっただろ?」
ゼラフに言われ、俺は三、四回瞬きをして、確かにそうかも、と頷いた。
俺も、セシルの心を守りたかった。
俺が自分の死亡フラグを回避しようとした理由が、セシルの心を守るためだった。
主人公が現れれば、主人公がセシルの心を癒してくれるだろうと思った。でも、そんなのは幻想で、俺がしたいことじゃなかった。俺が死ぬことで、彼の心に傷がつく。その傷が一生癒えないものであると理解していたからこそ、俺は彼のために生きようとがむしゃらになったのだ。
(なんだか、過去の自分のこと思い出すと恥ずかしくなっちゃうな……)
けれども、大切なことだ。
あの日、あの時願った思いは、抱いた思いは俺の胸の中にあるから。
「ありがとう、ゼラフ。俺、もうちょっと頑張れそう」
「そうかよ。んでも、早いとこあいつ探して帰ろうぜ。お前らの仲は誰にもバレてねえだろうし」
「あーそうだったね。それが目的だった」
「忘れてたのか?」
「まあ、ちょっとは……ちょっと、なんかさ、頭ぼーっとするんだよ」
俺がそう言うと「大丈夫かよ?」と心底心配そうな表情で顔をのぞかれてしまい、俺は慌てて首を横に振った。
ゼラフには心配かけてばかりだな、と俺は苦笑いを浮かべるが、その笑みすらも、彼にとっては気になる要素の一つだったのだろう。
「ともかく! いいの、俺の顔が変なのは」
「別に変っていってねえだろ」
「ほらほら、セシル探しに行こうよ。俺が遅いって心配してるかも」
俺は、ゼラフの背中を押しながらグイグイと歩く。
みんな俺たちのことに気を止めることなく、話し込んでおり、絶えず流れているワルツに身を委ねて踊っている人たちもちらほらと見えた。
もう一度、セシルを誘ったら踊ってくれるかな、なんて淡い期待を胸に抱きつつも、自分がダンスが下手なことを思い出しては落胆する。
「そういや、竜対策本部が近々つくられるんだってな」
「もう、完成しているようなものだと思うけど。精鋭部隊……ウヴリの捕縛、あるいは鎮静、またあるいは対話を目指すための対策本部ね」
「あの竜が、俺たちの話に耳を傾けてくれるか分かんねえけど」
「あのさ……ゼラフ」
彼の背中を押していた手を止め、脚も一緒に止めた。
俺の少し低い声……かすれた声に気づいたのだろう。ゼラフは「また、頼み事か?」と分かったように言う。
「頼み事、うん。頼み事だね」
「どうせ、また無茶すんだろ。お前、ほんっとうに懲りねえよな」
「だって、出来ることはしたいでしょ……俺にまた魔力を注いでくれる?」
俺の質問に対し、セシルの指先がピクリと動いた。かすかにこめかみも動き、彼の顔がだんだん険しくなっていく。
「魔法を使う気か?」
「……一つだけ思いついた方法がある」
「お前、自分の身体のこと心配しろよ。何で、そんなこと言えるんだよ」
「俺の氷の魔法は、氷帝の……母が生前教えてくれたことなんだけど、傷つけず、ただ氷の中に閉じ込めておくことができるらしいんだよ。生きたまま。冷凍保存っていうのかな?」
「おい」
「対話を目指すわけだけど、竜たちは俺たちに攻撃してくるかもしれない。でも、竜は竜の血が入った人間を家族とみなして攻撃しない――なら、俺が前線に出て、ひきつければいい。それで、俺が氷の魔法でウヴリ側についている飛竜たちを凍らせればいい。でも、そのためには、自分の魔力を制御する必要がある。俺は今まで、人を殺す威力でしか魔法を打てなかった。けど、それじゃあだめだ。今回は、誰も傷つけずに、対話を目指す。今度こそ、ウヴリと話して、俺がこの災厄を退ける」
周りの騒音に、俺の声は飲み込まれていく。
しかし、心に決めた決意は揺るがなかった。
俺にしかできないことがあるなら、俺はそれをしたい。それがたとえ自分の身体を傷つけることになったとしても――生きてさえいればいい。
(セシルが守ってくれたから、俺はここにいるんだ。少しぐらい、また守らせてよ……)
今の彼を護れるのは俺しかいない。もともと、セシルを守り、彼が危険にさらされなくて済むようにするのが俺の役目だった。
俺の話を聞いて、ゼラフの顔は今まだに見たことがないくらい歪んでいた。
「どうして、お前はそんなことが言えるんだよ……」
「君にしか頼めないよ。もしものときはお願いしたい。それが、一番最善」
「……それは、命令か?」
「そうだね。命令。君が魔力を注いでくれさえすれば、俺は死なないだろうし。まあ、確かに、あの魔法は魔力が切れるきれない以前に、人の手に余るものだけど。俺の身体がボロボロになろうと、それは仕方ないことだよ」
治癒魔法を上回る速度での凍結。そうなれば、俺の身体は人間としてもたないだろう。
ゼラフは、大きなため息をつき髪をガッとかき上げた。
「断れねえってのに」
「とにかくよろしくね。まあ、そんなことなければいいんだけど」
「お前は、無茶するから監視してなきゃいけねえな」
「頼りにしてるよ」
「……皇太子の野郎が記憶を取り戻したら、ほんと監禁コースだな」
「あー……………………………………確かに」
「……俺、今冗談で言ったんだが?」
ゼラフが引きつった顔でこちらを見てきたため、俺は思わず顔を逸らしてしまった。
セシルにこのことがバレたら本当に監禁されそうだと俺は思うのだ。ゼラフは冗談で言ったのにかかわらず、俺は真面目に返してしまった。
墓穴を掘ったなと恥ずかしくなったが、それ以上俺はゼラフに踏み込んないよう言って、再びセシルを探して歩き始める。ゼラフは律儀に何も言わずに俺の後ろをついてきてくれた。その切り替えの早さは見習いたいものがある。
そうこうしているうちに、俺はセシルを見つけることができたが、何やら、彼の周りには人だかりができていた。
「いてっ……いきなり止まんなよ、ニル……って、なんだあれ」
「……さあ」
「既婚者なのに群がってくるんだな。まあ、皇太子殿下は見た目はいいしな。側室狙いのやつはいっぱいいるんじゃねえの?」
セシルの周りにいるのは、彼と同い年くらいの令嬢たちだった。セシルを取り囲んで、何やら興奮気味に話している。頬を赤らめ、身体のラインを見せつけるような仕草に、俺は少しぞっとしてしまう。
ゼラフの言うように、セシルは俺という伴侶がいるわけで……
(ああ、でも側室……か……)
記憶を失う以前のセシルはそう言ってくれたが、今はどうだろうか。
まだ、側室の座があるかもしれないと狙っている令嬢たちはいるという噂は聞いていたが、それを目の当たりにすることになるとは思わなかった。
セシルは、感情を捨てたような顔でうなずくことも瞬きすることもなかった。本当に興味がないのだろうと思ったが、興味がなさ過ぎて、囲われていることに関しても無関心なようだ。そのせいで、自分にチャンスがあるかもしれないと周りが勘違いしてしまう。
「俺がいってこようか?」
「それは悪いよ。俺の問題だし」
「つっても、お前だけの問題じゃねえだろう。あいつ……無関心を貫くだけじゃ、ああいうやつらには逆効果だってわかんねえのか?」
ゼラフの言い分もごもっともだが、セシルの性格からして「退け」とか「邪魔だ」とも言わないんだろうなと思う。本気で嫌だったら、目つきを鋭くさせるので、今はただ彼女たちが自分に興味を失って離れてくれるのを待っているようだ。
(もう、セシル……)
皇太子殿下、と甘い声色でセシルを上目遣いする令嬢たちは、セシルが全くの無関心を貫いているのにもかかわらず、あれこれと話題を振っている。それに対して、セシルは時々視線を動かすが、それ以上は何のアクションもしない。
令嬢たちは我先にというようにセシルに群がり、気を引こうと必死なようだが、自分たちのやっていることがいかに非常識な行為か知ってほしい。
彼女たちが自分で気付いて去ってくれるのを期待したが、どうやらその期待も空しく打ち砕かれてしまった。
令嬢たちは、本当に能天気に話し、ついにはセシルに腕を伸ばした。その指先が彼の身体に触れそうになったとき、俺の身体はようやく動いた。
彼女たちを少し押しのけるように「セシル」と彼の名前を呼ぶ。そこでようやく、彼の顔がこちらを向いた。夜色の瞳は大きく見開かれ、どこか安堵したように「遅かったな」なんて、こっちも能天気なことを言う。
「ごめんね、君たち。殿下は俺の伴侶だから。悪いけど、べたべた触らないでほしい」
俺が一瞥すると、令嬢たちはひっと短い悲鳴を上げるように「そ、そうですわね。おほほほ」というようなわざとらしい演技をする。
自分たちが何をやったのかあまり理解していないような顔に眉が寄るのを感じたが、俺はなるべく怖がらせないようにと細心の注意を払った。皇室に不満と言った負の感情をいだかれてはこちらも困るというものだ。
皇室のブランドのためにも、平穏な帝国を目指すためにも。波風立てないのが一番――
そう思っていても、記憶がないとはいえ、大切な人に触れられそうになったとき、手が出そうになった。怒りがわき、彼は俺のだからと主張しなければと思ったのだ。
強く言うことなんていくらでもできた。でも、それをしないのは、少なくとも俺が争いごとを嫌っているからというしょうもない理由なのだろう。
令嬢たちは、まだセシルを見ていたいのかその場を離れようとしなかった。確かに、セシルは鑑賞するだけでもうっとりできるほどの美貌の持ち主だ。しかし、伴侶である俺がきたのだから、少しは気を遣って欲しい。
そう思っていると、グイッと、セシルが俺の腰を抱きよせた。
「セシル?」
「貴様たちは何か勘違いしているようだが、俺は、ニルを待っていただけだ。悪いが、先ほど何を話したかすら覚えていないし、聞いてもいない」
「……セシル」
セシルが一蹴すれば、さすがに魔法がとけたように令嬢たちはその場を去っていった。彼の近くにいたからわかったが、セシルは思った以上に怖い形相で彼女たちを睨みつけたらしい。五人ほどいた令嬢たちは散り散りになり、あっという間に姿を消した。
令嬢たちがいなくなった後、セシルは改めて小さなため息をついた。鬱陶しいと心のどこかでは思っていたらしい。
「セシル、大丈夫?」
「大丈夫だ。気にする必要はない……それにしても、遅かったな」
「ちょっと迷ってて」
「この距離で迷子になるか?」
「なるんだって……セシル、さっき、てか、今ありがとうね」
「何の話だ?」
俺が感謝の言葉を述べると、理解できていないというようにセシルは首を傾げた。
やはり無意識だったかと思うと同時に、そうだにょねというあきらめも続けてやってきた。
「令嬢たちに絡まれてたじゃん。俺が割って入っても、すぐに退こうとしなかったし。それで、セシルが一蹴してくれたから」
「俺も面倒くさかったんだ。お前が返ってくるのが遅いから……」
「俺の静?」
「ああ、お前のせいだ」
セシルは繰り返していって、俺の腰をぎゅっと抱く。
密着した姿勢は下半身に響くからやめてほしい。俺は、講義の声を上げようとしたが、無意識でやっている相手にいっても意味がないと諦めることにした。
「うっとうしかったんだ」
「俺は既婚者だからな。それに、お前がいる」
「俺がいるなら、もっと早く断ってくれれてもよかったのに」
「黙っていれば、どこかに行くと思ったんだ。俺の見当違いだったな」
「そうだよ。ああいう令嬢たちって結婚とかに躍起になってるんだから、気をつけなきゃダメ」
俺の言葉にセシルはうなずくが、それ以上のリアクションは見せなかった。
ふと、人ごみに目を移せばゼラフがいる。ゼラフは、俺たちの邪魔をし兄ようにと腕を組んで後方から見守ってくれているらしい。
セシルの腕は俺を拘束している腕は放そうとしなかった。顔は涼しい表情をしているが、独占欲が感じ取れる。
(ああ、セシルだな……)
記憶の有無ではなく、彼が目の前にいることは感じられた。
俺を守ってくれるのはセシルだ。それに甘えていちゃいけないけど。
「今日はお暇しようよ。疲れた」
「ニルがつかれただけだろう?」
「そうともいうけど、ほら、行こう。二人でいなくなった方が、俺たちの仲をアピールできるし」
「もう十分アピールしていると思うぞ」
望んでいてた言葉が彼の口から飛び出す。
「……記憶戻ってないだよね」
「ああ」
「……セシル最近、俺に甘くない? 気のせい?」
「お前がそう思えばそうなんじゃないか?」
「答えになってないんだけど」
面影を感じずにはいられない。
今にも目の前の彼が元の彼に還ってくれればいいのにと、思わずにはいられない。
(君がいない世界は耐えられないからな……)
生きていてくれるだけでいいけれど、欲深い俺はそれでも願ってしまう。
また彼が、心の底から俺の名前を呼ぶ瞬間を、俺に愛をささやく声も表情も、いつかは戻ってきてほしい。
俺は、寂しいし、悲しいんだ。
(分かっるつもりだったんだけどな……)
俺こそ、無意識に閉じ込めていた感情が今になって決壊し出す。
あの日もっと言っておけばよかった好きも、今はいう相手がいない。
俺は、セシルの手を握って、優しく会場の出入り口まで誘導した。
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