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俺にも俺の考えがある。

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 湖畔を巡る主要道から脇道へ逸れ、緩やかな坂道を上りきると、白樺の林が突然開けて草原と見紛うばかりの大地と青い空が覗く。そのすぐ先にあるのが、亀屋旅館本館だ。

 冬場はスキー客で賑わうこの辺りで、夏の観光の主軸は、名湯と名高い温泉と風光明媚な景色である。なかでも亀屋は当温泉地開発初期に創業された老舗の温泉宿だ。

 亀屋旅館本館の古風な和風建築は、趣があるといえば聞こえはいいが、実際のところ、増改築を繰り返した古い建物で、風雨にさらされた外壁は色褪せ、割れ欠けも散見される。

 ただし、その敷地面積は建物を背にして山ひとつと広大であり、費用の目処が立たず現在までほぼ手付かずでの放置を余儀なくされていたが、本格的に手を入れさえすれば、湖を望む美しい景観を手に入れることが見込まれる。

 亀屋の現在の経営者は創業から数えて五代目となる。四代目までは、都心からの利便性のよさ、温泉の質と地元の特産物を中心とした季節感豊かな山野の幸、行き届いたサービスを売りに、かなりの賑わいを見せていたらしいが、五代目社長に代替わりする頃にはその栄華も失われ、あと一歩で経営不振というところまで追い詰められた。

 旅館の再建を進める中、引退した四代目社長が西園寺グループ会長である祖父との個人的な縁故を頼り相談を持ちかけてきた。

 そして、その後の紆余曲折を経て無事買収が成立し、亀屋旅館は正式に我が西園寺グループの傘下に入ることとなった。

「この季節に来るのは久々だ」
「うん。涼しくていい」

 木々の間を抜ける風が爽やかで心地よい。午後のこの時間でも幾分気温が低く感じるのは、標高が高いせいもあるだろう。朝夕は冷えそうだ。

「ここの裏山で遊んだよな」
「ああ。子どもだけで勝手に行くなって酷く怒られた」
「そうそう。小父さん怒るとおっかねーのなんのって」
「あはは、そうだったなぁ」

 小学校中学年くらいの頃までの長期休暇の折、おとなたちは仕事の都合を付けて、俺たちを旅行へ連れ出してくれた。

 視察や講演会への出席などの仕事がらみの旅行もあり、旅先で放置され家にいるほうがよかったと文句を言うこともありはしたがそれはそれ。楽しい思い出となったのは間違いない。

 この亀屋もその家族旅行先のひとつだった。

 名湯だのなんだのいわれても、子どもにとっては所詮、ただの風呂でしかない。喜んで日に何度も入りたいおとなたちに隠れ、退屈しのぎに裏山探検へでかけるまでにはそう時間はかからなかった。

 旅館の裏手、浅い林の中で遊んでいるぶんには、なにも問題はなかったのだが、一度、奥まで入って日も暮れかけて遭難しかかった——俺と祐司は帰り道がわかっていたし、そんなつもりはまったくなかったのだが——あのとき、亀屋の四代目である小父さんの恐ろしかったことといったらなかった。

 まさか、旅先で罰として物置に閉じ込められるとは。祐司とふたり、物置の中で泣いたのはいい思い出だ。

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