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§ 悪魔降臨

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 ノーメイクに見せかけるため、ベースのファンデーションと口紅は塗らない。目の下は、アイシャドーで薄く色付けし、顔の中央、両頬から鼻筋には、そばかすを密集させる。そして、右のこめかみから頬にかけての広範囲に、青味を帯びた紅い痣を薄く描き、仕上げにパウダーを叩き込む。
 地味な黒縁眼鏡をかけ、痣を隠すように前髪を下ろし、飾り気のない黒いゴムで髪を束ねれば、誰でもひと目見たら目を逸らさずにはいられない完全武装のできあがり。

 服装は、流行を一切無視したシンプル・イズ・ベスト。体のラインを覆い隠す、もったりとしたデザインの白、または、アイボリーのブラウス。それに、濃紺、チャコールグレー、黒、何れかの、膝下丈のセミタイトスカートや、ロングパンツをコーディネート。
 秋から冬にかけては、やはり地味な色形のカーディガンとコートが加わる。
 最後に、黒い靴下と黒いローヒールは鉄板だ。
 外出用の基本スタイルであるこの装いは、ただの変身アイテムではない。機能性よし、コストパフォーマンスよし。特筆すべきは、毎朝、その日の服装を選ばなくて済むお手軽さ。素晴らしい。

 一通りの支度を調え、小夜が入れてくれたコーヒーを飲みつつ、メールをチェックしていると、正面から私の顔をマジマジと見ている小夜が、言った。

「その変装、好い加減止めたら? 瑞稀って素は超絶美人なのに、ホント、もったいない」

 一緒に出社する日はいつでもこうして、小夜にため息をつかれる。

「だって、面倒くさいんだもの」

 仕事は顔でするわけじゃなし。

「あんた、顔がコンプレックスだもんねぇ。私には信じられないけど」
「そう?」
「だって、そうでしょう? 美人はお得よ? たとえばさぁ……スーパーへ行くじゃない? 男性店員の目を見てニッコリ笑うだけで、三百グラムのお肉が三百五十グラムに増えちゃうのよ。払う金額は一緒なのにさ」

 それは、小夜さんだからこその技ですよ。

「ばかばかしい。私がそんなことしても、料理くらいしなさいってお説教されるのがオチだわ」

 そう。美人と称される女は、得をする美人と損をする美人という、ふたつのカテゴリーに分類される。
 私は、まさしく後者。背が高く、人目を引く派手な面立ちは、男に媚を売るだけの中身のないバカだと決めつけられる。反対に、実力ありと評価されたら、今度はお高くとまって生意気だとの虐めが、さらに追加されるのだ。
 たしかに、変装を止めれば、近寄ってくる男は後を絶たない。けれども、奴等の興味は所詮、顔と身体。褒められ、持ち上げられても、下心が透けて見えるだけだ。
 この容姿のおかげで、私がこれまでどれほど酷い目に遭遇してきたことか。とてもではないが、枚挙に遑がない。

「そうよねぇ。あんたって美人は美人でも、人間離れしてるもん」

 そりゃ、人形扱いしかされてきませんでしたが。

「間違ってはいないけれど、人間離れはあんまりよ。まあさ、人って結局のところ、見た目がすべてなのは認めるわ。でもね、だからこそ、この顔のほうが楽なの。批判されるのは見た目だけで済むでしょう? ああ、ほんと。小夜が羨ましいわ。私は便利に使われるだけのお人形で、小夜はどこから見ても守ってあげたいって思っちゃう、貞淑なかわいいお嫁さん。同じように美人って言われるのに、この差はなんなの?」
「そうね、やっぱり人徳?」
「…………」
「冗談よ」
「ホント、面倒くさいわ。見た目なんてどうでもいいのにね。小夜も私も、見た目と中身はぜんぜん違うのに」
「そんなの当たり前でしょう? あんたはちゃんと人間してるし、貞淑なかわいいお嫁さんも、ただの幻想。見た目と中身が同じ女なんて、この世に存在するはずないって」

 小夜は私を横目で見ながら、世の中すべての男を軽蔑するが如く、フフンと鼻で笑い、コーヒーを啜った。

「でもさ、あんたの話を聞いてたら、やっぱり同情しちゃうわ。もしも私がその手の顔だったら、あんたほどじゃなくても、似たような変装をすると思う。身を守るためにはあしらうよりはじめから寄りつかせない方が、手っ取り早いもの。だから私も協力してるじゃない? あ、でも、プライベートで私と一緒の時は、変装禁止よ。私が面倒くさくなるもの」
「うん。わかってるよ」

 ふたり、顔を見合わせて、にやりと笑う。

 小夜は、策士だ。
 タイプの違う美人がふたり並んでいると、相互作用が生じ、男が声をかけにくいのだ、とこれは、小夜の弁。
 小夜を好む男は、私を恐がり、私を好む男は、小夜に嫌われたくない。つまり、ふたりでいれば、小夜は変な男に付き纏われなくて済むし、素顔の私に浴びせられる批判や嫌みも、鳴りを潜める。
 これは、小夜に提案され、ふたりで外出するようになってから、初めて知ったこと。実際に効果も絶大だった。

「おっと。くだらない長話をしている場合じゃなかったわ。遅刻しちゃう。あ、瑞稀は今日から客先常駐だったっけ?」
「うん。気は乗らないけれど社長命令だからさ、断れないのよ。時々は会社へ戻れると思うけれど、最悪年末まで客先かな?」

 今日からの仕事場は別々。プロジェクトの進行具合によっては、夜の時間を確保できなくなる場合もある。私だって寂しいけれど、仕方がない。

「一緒にお昼ご飯食べられないの、つまんなぁい」
「なにを言っているんだか! あんたがつまんないのは、大好きな社長さんと一緒にご飯が食べられないからってだけでしょうが! まったく! 人を当てにしないで自分で誘えばいいじゃない」

 小夜が大好きな社長さんは、林啓司はやしけいじという。私の米国留学時代からの親友だ。四年前、先に帰国した彼が起業した折に誘われて、彼の会社に入った。一緒に働くようになっても、私たちの関係は相変わらずで、しょっちゅう一緒にランチをする。他人の男女のあれこれについて、偉そうに講釈を垂れる小夜は、自分のこととなると案外奥手。だから、いつも私を出しに使っている。
 今日から暫くの間、その出しがいない。小夜には、ほんのちょっぴりお気の毒だが、我慢してもらわなくては。

「えへへっ! じゃあね」

 逃げ足の速い小夜は、入谷駅に向かって走って行った。

 小夜を見送り、少し離れた稲荷町駅へ向かう。数歩足を進めたところで、はたと気づく。

 あの男はどの路線で通勤しているのだろう。
 もしも、同じ時間に同じ道を歩いて同じ方向の電車に乗ったら……。

 いや、このメイクだ。気づかれることはまずないと思う。でも、偶然の可能性を否定はできない。万が一ばったり会ってしまったら、平常心でいられる自信が無い。けれども、あの男がどの路線で通勤をしているのかは知らないから、遠回りも無意味だ。

 今日だけだ。今日だけ、運を天に任せてみよう。

 仕事に遅れるわけにはいかないから、と、駅への道を急いだ。

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