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§ 天空碧
拜拜の二
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「月老? 誰?」
「なによ? 月老知らないの? この界隈じゃ知らない人がいないほどの有名人なのに」
月老といえば、月下老人。さっきお参りした長い髭のお爺さんの神様ではなかったか。それにしても。
あの紳士然としたスタイルは、月老とは似ても似つかないのだが。
そりゃそうか。名前は同じでもさっきの人は生身の人間。神様の月老が実在なんてするわけがない。
「すごい。月老に会えるなんて! なんかもう一生分の運、使い果たしちゃったみたいな気がする」
なんと大げさな。
曉慧の目はキラキラと輝き、頬はピンク色に上気している。
「カッコいい……」
「きゃあ! こっち見た!」
それはそれは見事に色気たっぷりの流し目に射貫かれた、ふたりの女。
スターか。
サインでももらいに行きそうな勢いだな、と、思うが早いか、ふたりはすでに月老と呼ばれるダンディなその人に向かって走り出していた。
「月老! ファンなんです! サインもらえますか?」
「握手してください!」
ちゃっかりサインと握手を強請るふたりの燥ぎように、開いた口が塞がらない。
ここは他人の振りをしたいところではあるが、あちらもきっと迷惑に違いない。
自分の連れだし、やはり止めに入るべきだろうと一歩踏み出したところで、ふと目を上げた月老の視線が、わたしの視線と交わった。
「あ?」
——足が、動かない?
目だけが、ゆっくりと歩み寄ってくる月老を見据えたまま、まるで金縛りにでも遭ったかのように、突然体の自由が利かなくなった。
なんなのこれ?
焦り混乱しているわたしの目の前で足を止めた月老が、わたしの全身を舐めるように見ている。そして最後に、首元をじっと見つめた。
「天空碧か……。よくもそんなものが手に入ったものだ」
言われている意味はわからないが、その低い声になぜか体中の産毛がぞわぞわと逆立った。
強く見透かすような漆黒の瞳に見つめられ、背筋を冷や汗が伝う。ゴクリと、唾を飲み込んだ。
どれくらいの時間が経っただろう。ふっと月老の口元が緩んだのを機に、体中の緊張が解け、脱力すると。
「林美鈴——おまえの縁は、難儀だな」
「え?」
——なにを言っているのこの人?
「体調が悪かったり、なにか不可解なことがあったりしたら、相談に来なさい」
名刺大の紙を差し出されるのと同時に、わたしの手が勝手にそれを受け取った。
自分の体が自分のものではないみたいなこの感覚。いったいなにが起きているのだろう。
「小鈴だけ、ずるーい」
「ねえ、月老になにもらったの?」
ふたりの声が耳に響くと同時に、静寂が打ち破られた。我に返ったときにはすでに、月老の姿はなく。握らされたその紙を、曉慧とアマンダが興味深げに覗き込んでいる。
それは、なんの変哲もない白無地の名刺に印刷された文字——月老婚姻紹介所。ゆっくりと裏返すとそこには、所在地らしき略図がある。
「ねえ、月老婚姻紹介所……って、なぁに?」
「なによ? アマンダ。あんたまで知らないなんて情けない。月老婚姻紹介所っていえば、成婚率百パーセントを誇る、台北一の超有名な婚姻紹介所よ」
婚姻紹介所とはつまり、日本でいうところの結婚相談所のようなものだろうか。
「百パーセント……」
成婚率百パーセントとは、ずいぶん大きく出たものだ。
「ねえ、曉慧。成婚率百パーセントなんだったら、いっそ神様の月老にお願いするより、こっちの月老に相談したほうが、早くて確実に結婚できるんじゃないの?」
アマンダ、よく言った。それ、正論です。
「えー? だってそれじゃあ……」
「あ、そっか。別の人紹介されても困るもんね。曉慧には愛しのしゅ——むぅううう」
瞬時に顔を沸騰させた曉慧が、アマンダの口を塞いだが、もう遅い。
アマンダの目配せが、代わりに問えとわたしに言っている。
「ねえ、曉慧。篠塚さんとはどうなってるの? そこら辺のこともちゃんと聞かせてもらわないと」
曉慧の想い人、篠塚修さんは、仕事の傍ら中国語の研鑽にと、この春からわたしたちと同じ語学学校の個人コースに通っている、台北勤務のビジネスマン。
日本人離れした長身と涼やかな目元が特徴的な、落ち着いた物腰で大人の魅力たっぷりだが、茶目っ気もある楽しい人。
わたしたちは、曉慧を誘って参加した語学学校の校外イベントをきっかけに仲よくなった。
「煩い! 私のことはべつにいいのよ。それよりあんたでしょ、小鈴。あんたこそ名刺もらったんだし、ちょうどいいじゃない。相談に行きなさいよ」
「なんで話戻ってくるかな……」
「行く! あたしが行く! それであの流し目のきみを……」
「アマンダ?」
「それ! 本末転倒!」
「どうして? いいじゃない」
「アマンダ、あんた、守備範囲広すぎ」
「曉慧、あんただってサインもらってたでしょう?」
「それとこれは、別よ」
また始まった。
漫才のようなこの掛け合い。ふたりはいつでも面白い。
「なによ? 月老知らないの? この界隈じゃ知らない人がいないほどの有名人なのに」
月老といえば、月下老人。さっきお参りした長い髭のお爺さんの神様ではなかったか。それにしても。
あの紳士然としたスタイルは、月老とは似ても似つかないのだが。
そりゃそうか。名前は同じでもさっきの人は生身の人間。神様の月老が実在なんてするわけがない。
「すごい。月老に会えるなんて! なんかもう一生分の運、使い果たしちゃったみたいな気がする」
なんと大げさな。
曉慧の目はキラキラと輝き、頬はピンク色に上気している。
「カッコいい……」
「きゃあ! こっち見た!」
それはそれは見事に色気たっぷりの流し目に射貫かれた、ふたりの女。
スターか。
サインでももらいに行きそうな勢いだな、と、思うが早いか、ふたりはすでに月老と呼ばれるダンディなその人に向かって走り出していた。
「月老! ファンなんです! サインもらえますか?」
「握手してください!」
ちゃっかりサインと握手を強請るふたりの燥ぎように、開いた口が塞がらない。
ここは他人の振りをしたいところではあるが、あちらもきっと迷惑に違いない。
自分の連れだし、やはり止めに入るべきだろうと一歩踏み出したところで、ふと目を上げた月老の視線が、わたしの視線と交わった。
「あ?」
——足が、動かない?
目だけが、ゆっくりと歩み寄ってくる月老を見据えたまま、まるで金縛りにでも遭ったかのように、突然体の自由が利かなくなった。
なんなのこれ?
焦り混乱しているわたしの目の前で足を止めた月老が、わたしの全身を舐めるように見ている。そして最後に、首元をじっと見つめた。
「天空碧か……。よくもそんなものが手に入ったものだ」
言われている意味はわからないが、その低い声になぜか体中の産毛がぞわぞわと逆立った。
強く見透かすような漆黒の瞳に見つめられ、背筋を冷や汗が伝う。ゴクリと、唾を飲み込んだ。
どれくらいの時間が経っただろう。ふっと月老の口元が緩んだのを機に、体中の緊張が解け、脱力すると。
「林美鈴——おまえの縁は、難儀だな」
「え?」
——なにを言っているのこの人?
「体調が悪かったり、なにか不可解なことがあったりしたら、相談に来なさい」
名刺大の紙を差し出されるのと同時に、わたしの手が勝手にそれを受け取った。
自分の体が自分のものではないみたいなこの感覚。いったいなにが起きているのだろう。
「小鈴だけ、ずるーい」
「ねえ、月老になにもらったの?」
ふたりの声が耳に響くと同時に、静寂が打ち破られた。我に返ったときにはすでに、月老の姿はなく。握らされたその紙を、曉慧とアマンダが興味深げに覗き込んでいる。
それは、なんの変哲もない白無地の名刺に印刷された文字——月老婚姻紹介所。ゆっくりと裏返すとそこには、所在地らしき略図がある。
「ねえ、月老婚姻紹介所……って、なぁに?」
「なによ? アマンダ。あんたまで知らないなんて情けない。月老婚姻紹介所っていえば、成婚率百パーセントを誇る、台北一の超有名な婚姻紹介所よ」
婚姻紹介所とはつまり、日本でいうところの結婚相談所のようなものだろうか。
「百パーセント……」
成婚率百パーセントとは、ずいぶん大きく出たものだ。
「ねえ、曉慧。成婚率百パーセントなんだったら、いっそ神様の月老にお願いするより、こっちの月老に相談したほうが、早くて確実に結婚できるんじゃないの?」
アマンダ、よく言った。それ、正論です。
「えー? だってそれじゃあ……」
「あ、そっか。別の人紹介されても困るもんね。曉慧には愛しのしゅ——むぅううう」
瞬時に顔を沸騰させた曉慧が、アマンダの口を塞いだが、もう遅い。
アマンダの目配せが、代わりに問えとわたしに言っている。
「ねえ、曉慧。篠塚さんとはどうなってるの? そこら辺のこともちゃんと聞かせてもらわないと」
曉慧の想い人、篠塚修さんは、仕事の傍ら中国語の研鑽にと、この春からわたしたちと同じ語学学校の個人コースに通っている、台北勤務のビジネスマン。
日本人離れした長身と涼やかな目元が特徴的な、落ち着いた物腰で大人の魅力たっぷりだが、茶目っ気もある楽しい人。
わたしたちは、曉慧を誘って参加した語学学校の校外イベントをきっかけに仲よくなった。
「煩い! 私のことはべつにいいのよ。それよりあんたでしょ、小鈴。あんたこそ名刺もらったんだし、ちょうどいいじゃない。相談に行きなさいよ」
「なんで話戻ってくるかな……」
「行く! あたしが行く! それであの流し目のきみを……」
「アマンダ?」
「それ! 本末転倒!」
「どうして? いいじゃない」
「アマンダ、あんた、守備範囲広すぎ」
「曉慧、あんただってサインもらってたでしょう?」
「それとこれは、別よ」
また始まった。
漫才のようなこの掛け合い。ふたりはいつでも面白い。
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