39 / 83
§ ふたりの関係が変わるとき。
02
しおりを挟む
母が彼に向かってにこやかに愛想笑いを浮かべながら、私の脇腹に肘鉄を食らわせ、座るように促した。仕方なく、私はそのお坊ちゃんの正面、母の隣のひとりがけのソファに腰をおろした。
ローテーブルの上には、ちょっと潰れたビールの空き缶が二本、ほぼ空になりかけたウィスキーのボトルと、グラスが三つ。うち、二つの主は、今、寝室で、大の字で寝ているあのふたりだろう。中央には食べかけの手料理が。どれも、洋酒の当てには最適なやつだ。
私が戻る前に何があったのか。今ここで、何が起きているのか。そして、このできごとの意味は何なのか。この有様を見ただけでも容易に想像できるのが腹立たしい。
「……ちょっと、お母さん!」
「いいから、あんたは黙ってらっしゃい。修造さん、ごめんなさいねぇ、お待たせしちゃって。この子が波瑠、うちの長女なの。波瑠、こちらは、お父さんのお友だちの息子さんで、佐伯修造《さえきしゅうぞう》さん。ほら、ちゃんとご挨拶して! ごめんなさいねぇ、なんかこの子、緊張してるみたいで……ホホホ」
なにがホホホだ。ふざけるな。
「……いえいえ、お義母かあさん、どうぞお気遣いなく」
お坊ちゃんが私を見据えたまま、どうも、と頷いた。
母がにこやかに、さも楽しそうに、ひとりで喋っている。お坊ちゃんは母の言葉に時折口角だけを少し上げる。きっと、笑っているつもりなのだろう。
母の言葉が私の頭に入ってくる余地は無い。なぜなら、怒りで爆発寸前だからだ。
状況説明は一切なかった。危篤……とまでは、確かに言われていない。どこが悪いとも言われていない。父が倒れた、ただそれだけ。言われたのは、目で捉えた現象だけだ。
確かに、父は倒れていた。酔い潰れただけだが。しかし、人の、しかも父親の生死に関わる嘘は、軽い冗談だったでは済まされない。
父が倒れた、その一言で、私がどれだけ驚愕し心配するか。騙されたと知った時、安堵とともにどれだけ傷つくか、わかっているのだろうか。まさかこの人がこんな嘘をつく人だなんて今の今ままで考えたこともなかった。
いや……あったな。この人は昔からそういう人だった。
子供の頃、この人の冗談とも嘘ともつかない悪ふざけに幾たび傷つけられ泣かされたか、数え上げたらキリが無い。ちょっと思い出すだけでもたくさんある。
あれは幾つのときだったか、お使いから意気揚々と帰ってきたら、この子は誰だどこの子だ家へ帰れと、私が泣くまで知らんふりを通された。あのときの、自分の家が母が突然自分のものではなくなったあの衝撃は、今でも忘れられない。
コーヒーゼリーと偽って醤油ゼリーを食べさせられたこともあった。この人にとってあれは可愛い悪戯程度のことなのだろうが、疑うことを知らない子供にはやはり衝撃だ。口に入れたときのあの違和感、気持ちの悪さ。あれ以来一度も、私はコーヒーゼリーを口にしていない。
そういえば、あのゼリーにはご丁寧に美しく絞り出した塩味の生クリームと、真っ赤なチェリーまで添えられていたっけ。
「……! ちょっと波瑠! なにぼーっとしてるのよ? ほら、あんたもちゃんとお話ししなきゃ駄目じゃないの」
「お話しって……」
「なんでもいいから。お母さん、ちょっとお父さんの様子見てくるから、ちゃんとお相手するのよ? わかった?」
「お母さん! ちょっと待って……」
母は私を無視し、ちょっと失礼しますねと、ありったけの愛想笑いをお坊ちゃんに向けながら、後ずさるように居間から出て行った。
いきなりお坊ちゃんとふたりきりなんて、私にどうしろというのだ。
ローテーブルの上には、ちょっと潰れたビールの空き缶が二本、ほぼ空になりかけたウィスキーのボトルと、グラスが三つ。うち、二つの主は、今、寝室で、大の字で寝ているあのふたりだろう。中央には食べかけの手料理が。どれも、洋酒の当てには最適なやつだ。
私が戻る前に何があったのか。今ここで、何が起きているのか。そして、このできごとの意味は何なのか。この有様を見ただけでも容易に想像できるのが腹立たしい。
「……ちょっと、お母さん!」
「いいから、あんたは黙ってらっしゃい。修造さん、ごめんなさいねぇ、お待たせしちゃって。この子が波瑠、うちの長女なの。波瑠、こちらは、お父さんのお友だちの息子さんで、佐伯修造《さえきしゅうぞう》さん。ほら、ちゃんとご挨拶して! ごめんなさいねぇ、なんかこの子、緊張してるみたいで……ホホホ」
なにがホホホだ。ふざけるな。
「……いえいえ、お義母かあさん、どうぞお気遣いなく」
お坊ちゃんが私を見据えたまま、どうも、と頷いた。
母がにこやかに、さも楽しそうに、ひとりで喋っている。お坊ちゃんは母の言葉に時折口角だけを少し上げる。きっと、笑っているつもりなのだろう。
母の言葉が私の頭に入ってくる余地は無い。なぜなら、怒りで爆発寸前だからだ。
状況説明は一切なかった。危篤……とまでは、確かに言われていない。どこが悪いとも言われていない。父が倒れた、ただそれだけ。言われたのは、目で捉えた現象だけだ。
確かに、父は倒れていた。酔い潰れただけだが。しかし、人の、しかも父親の生死に関わる嘘は、軽い冗談だったでは済まされない。
父が倒れた、その一言で、私がどれだけ驚愕し心配するか。騙されたと知った時、安堵とともにどれだけ傷つくか、わかっているのだろうか。まさかこの人がこんな嘘をつく人だなんて今の今ままで考えたこともなかった。
いや……あったな。この人は昔からそういう人だった。
子供の頃、この人の冗談とも嘘ともつかない悪ふざけに幾たび傷つけられ泣かされたか、数え上げたらキリが無い。ちょっと思い出すだけでもたくさんある。
あれは幾つのときだったか、お使いから意気揚々と帰ってきたら、この子は誰だどこの子だ家へ帰れと、私が泣くまで知らんふりを通された。あのときの、自分の家が母が突然自分のものではなくなったあの衝撃は、今でも忘れられない。
コーヒーゼリーと偽って醤油ゼリーを食べさせられたこともあった。この人にとってあれは可愛い悪戯程度のことなのだろうが、疑うことを知らない子供にはやはり衝撃だ。口に入れたときのあの違和感、気持ちの悪さ。あれ以来一度も、私はコーヒーゼリーを口にしていない。
そういえば、あのゼリーにはご丁寧に美しく絞り出した塩味の生クリームと、真っ赤なチェリーまで添えられていたっけ。
「……! ちょっと波瑠! なにぼーっとしてるのよ? ほら、あんたもちゃんとお話ししなきゃ駄目じゃないの」
「お話しって……」
「なんでもいいから。お母さん、ちょっとお父さんの様子見てくるから、ちゃんとお相手するのよ? わかった?」
「お母さん! ちょっと待って……」
母は私を無視し、ちょっと失礼しますねと、ありったけの愛想笑いをお坊ちゃんに向けながら、後ずさるように居間から出て行った。
いきなりお坊ちゃんとふたりきりなんて、私にどうしろというのだ。
0
あなたにおすすめの小説
我慢しないことにした結果
宝月 蓮
恋愛
メアリー、ワイアット、クレアは幼馴染。いつも三人で過ごすことが多い。しかしクレアがわがままを言うせいで、いつもメアリーは我慢を強いられていた。更に、メアリーはワイアットに好意を寄せていたが色々なことが重なりワイアットはわがままなクレアと婚約することになってしまう。失意の中、欲望に忠実なクレアの更なるわがままで追い詰められていくメアリー。そんなメアリーを救ったのは、兄達の友人であるアレクサンダー。アレクサンダーはメアリーに、もう我慢しなくて良い、思いの全てを吐き出してごらんと優しく包み込んでくれた。メアリーはそんなアレクサンダーに惹かれていく。
小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
婚約破棄、ありがとうございます
奈井
恋愛
小さい頃に婚約して10年がたち私たちはお互い16歳。来年、結婚する為の準備が着々と進む中、婚約破棄を言い渡されました。でも、私は安堵しております。嘘を突き通すのは辛いから。傷物になってしまったので、誰も寄って来ない事をこれ幸いに一生1人で、幼い恋心と一緒に過ごしてまいります。
【完結】地味な私と公爵様
ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。
端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。
そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。
...正直私も信じていません。
ラエル様が、私を溺愛しているなんて。
きっと、きっと、夢に違いありません。
お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)
俺の可愛い幼馴染
SHIN
恋愛
俺に微笑みかける少女の後ろで、泣きそうな顔でこちらを見ているのは、可愛い可愛い幼馴染。
ある日二人だけの秘密の場所で彼女に告げられたのは……。
連載の気分転換に執筆しているので鈍いです。おおらかな気分で読んでくれると嬉しいです。
感想もご自由にどうぞ。
ただし、作者は木綿豆腐メンタルです。
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー
小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。
でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。
もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……?
表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。
全年齢作品です。
ベリーズカフェ公開日 2022/09/21
アルファポリス公開日 2025/06/19
作品の無断転載はご遠慮ください。
物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜
丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。
与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。
専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、
失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。
そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、
セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。
「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」
彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、
彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。
嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、
広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、
独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。
栄養と愛情を取り戻したセレナは、
誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、
社交界で注目される存在となる。
一方、セレナを失った伯爵家は、
彼女の能力なしでは立ち行かず、
ゆっくりと没落していくのだった――。
虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる