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家族旅行

006

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まだ陽が高いうちの温泉も気持ちがいい。
お湯は少しぬるま湯でサラッとしていて残暑残る秋先には丁度いい温度だ。
周りは細い竹が茂るように植えられていて青々しさが綺麗で清涼感がある。
──露天風呂に浸かりながら自分の指を眺める。


『外したらダメだよ』

ハルの言葉を思い出す。

『指輪なんて要らないわ。私と貴方は身体の付き合いはあるけれど恋人ではないわ』

『これは男除けだよ。他の男が湖都子に近寄らない為の。それに海都に付き合っていると思われているのに指輪もあげない男なんて思われたくないよ』

『今まで付き合っていた女性に指輪を贈っていたの?』

ハルはあまり女性に本気にならないから別れる際に面倒な指輪は贈らないと思っていたけれど、今までも男の見栄からか贈っていたのかと思うと意外だなぁと思ってしまう。
それとも指輪は男性のマーキングみたいなものなのだろうか。
ハルがくれた指輪はプラチナの細身でネオンブルーの宝石が埋め込まれている。
──綺麗な湖のような色だ。

『失くしちゃったら悪いし──別の女性にあげて』

『──外さなければ失くさないよ』

ハルの声が少し低い。
折角買ってくれたのに喜ぶどころか他の女性になんて怒らせてしまったかもしれない。

『でも傷んじゃうし、指輪をつけたことないから慣れないわ』

『プラチナだしそうそう痛まないよ。それに普段付けないから価値があるんじゃない。私には男がいます。弟を愛してはいません〉って証明になるよ』

そう言って右手の薬指に指輪を通す。

『今は右手にするけれど──外したらダメだよ。お風呂も寝ている時も外さないで。これは湖都子の戒めだから。弟に──海都に手を出さない健全な人間でいられる御守り』

右手の薬指に嵌められた指輪はサイズがぴったりでその用意周到さにも驚く。指輪を嵌めた指にゆっくりとキスをする。
その姿が映画俳優のように綺麗な所作で思わず見惚れてしまう。

『──ハルはモテるんだから貴方だけを愛する人はいっぱいいるわ』

今は弟を好きな異常な女を揶揄からかう為に脅すような関係を性的に愉しんでいるのかもしれないけれどいつか飽きるだろう。
ハルの若く大切な時期をこんな関係で潰すのはどうかと思う。

『ハルの時間はハルのものなの──』

キスで唇を塞がれる。
口を開かされ蹂躙するように舌が舌を絡める。

『んっ、ハル──』

『僕が愛しているのは湖都子だって知ってるだろう?』

『──貴方はこの状況を愉しんでいるだけよ』

『──そうだね。そう思わないと湖都子は罪悪感で苦しいんだろう?僕が可哀想なんだよね。どんなに抱いても好きな女に愛してもらえないんだ。可哀想だよね』

違う。可哀想なのではなくて本当に分からないだけだ。
私の知るハルはよく女性を取っ替え引っ替えしていて女性に固執するタイプではなかった。それなのに私のハルの関係はもう3年になる。
私が大学一年、ハルが高校3年の時に出会った。
その時からハルは多くの女性と浮世を流していた。
年上も年下もハルの虜だった。
そんなハルと海都が友人なのはビックリしたけれど──なんだか一緒にいると癒された。
海都とも波長があっていたのか仲が良かった。
ハルに初めてそんな関係になったのは私が大学を卒業した日だった。
出逢って4年の歳月が流れる頃にはハルはフラッと家を訪れたり私の携帯に直接かけてくる間柄になっていて海都がいなくても度々ハルは顔を出していた。けれどハルが私に関係を求めることなんて一度もなかったし、時には女性に叩かれて頬を腫らしていたこともあった。
携帯やメールで何度も呼び出されて女性に会いに行っていた。
ハルが女の人を誑かしているのではなく、ハルは来るものを拒まないのか付き合っていた女の人はコロコロ変わっていた。
モテていると言えば聞こえがいいが私にはなんだか男娼のように自身を売っているように感じて少し悲しくなった。
けれど私が口を出すことではない。
もしかしたらハルの苦しみを癒す方法がそれしかないのかもしれない。
それを奪えばハルは苦しむだけだ。
私にとってハルは弟みたいなもの。
可愛い弟。
男同士では言えない悩みもある。
男女の関係では癒せない気持ちもある。
私とハルの関係は少し離れた従兄弟のお姉さんみたいな存在だと思った。
それがハルに安心させているのだろう。
ハルは私に何も与えなくてもいいし、私も何も求めない。
そんな関係がハルに楽だと思って貰えたら嬉しいなと思っていた。

大学生になった海都は別にアパートを借りて出て行っていたにも関わらず、フラリと会いにくるハルに海都の状況を不自然にならない程度を装い聞いてしまう。

「最近の海都はどう?あまり家にも帰ってくれないから心配なの」

小さな頃から海都の面倒を忙しい母の代わりにしていたので言葉選びが姉と言うよりお母さん寄りだと自分でも思う。
海都が家を出ると聞いた時は衝撃であまり覚えてない。
最近は遅めの反抗期なのか私を避けるようになっていた。
──弟を男として愛している姉の近くにいるよりよっぽど健全な選択だ。
だから黙って家から送り出した。
寂しかったけれど悲しかったけれど何も言わなかった。
一人静かに泣いただけ。

「海都?海都は昨日から彼女と旅行だったと思うけど」

ハルの言葉に心臓がえぐられる。
けれど──ここで泣き叫ぶ訳にはいかない。

「そうなんだ──私は春には入社で不安なのに──羨ましいなぁ……」

どこに旅行中なのだろが?
どんな人なの?
いつから付き合っているの?
海都が好きになったのかな?
旅行に行くくらいだ──深い仲なのだろう。
どんどんと言葉が浮かぶ。
けれどどこまでが姉の立場で感情で聞いていいものなのか判別がつかない。
ましてこれだけ動揺している状態では絶対にボロが出そうだ。
だから羨ましいと呟くだけで精一杯の言葉だった。

「湖都子の卒業と就職祝いに飲みに行こうよ」

ハルが突然そんな事を言い出す。
ハルの家の内情は詳しくないけれど外でお茶をしても必ず支払ってくれようとする。
バイトをしている感じもしないし裕福な家庭なのだろうけれどそれではダメだ。

「ダメよ。いつも言っているでしょう。それは貴方が稼いだお金じゃないの。貴方のご両親が一生懸命働いて得た収入よ。無駄に使っちゃダメよ」

ハルの家庭の事情だ。けれど母が私達を育てるのに一生懸命働いていた事を知っている私にはハルのお金を無駄に使いたくない気持ちが強い。

「でもその気持ちは嬉しいから一緒に家で呑みましょう。母は夜勤でいないしハルも二十歳過ぎたしね」

「その前から飲んじゃってたけどね」

睨めつけるとハルが微笑む。

「じゃあ一緒に買い物に行こう。このお金はいつか両親に倍にして返すから今日は借金ということで僕に出させて」

ハルが私の気持ちを汲んでくれる。
実際は面倒だろうにその言葉をくれる。
優しい人。

「アルコールはスパークリングワインにしようよ。シャンパンは高いからね。スペイン産の美味しいの発見したんだ」

「ふふっ、ハルが値段気にしているの初めて見た。私といると一気に所帯じみちゃうわね」

買い物袋をぶら下げながらの帰り道。
つい笑いが込み上げる。

「いいよ。所帯じみでも、湖都子と一緒にいられるのは幸せだよ」

ハルが手を握るので無意識に離そうとするけれどしっかりと握られた指は離れない。
思わずハルの顔を見れば微笑まれる。

「海都も今頃──彼女と夕陽を見ながら手を繋いで歩いているのかもね」

ハルの言葉が海都の言葉に思えた。
私にではなく、知らない女性への言葉として。
きっと近い未来──海都は他の女性と買い物をして同じ部屋に帰り料理をしたりするのだろう。
そして私は一人でこの路を歩き夕日を眺めているのかと思うと切なくなる。

「お腹空いたね。早く帰ってパパッと作っちゃおう!」

「──そうだね」

「帰ったら茹でるから枝豆の皮を剥いてね。炒めてパルメザンチーズとガーリックと絡めると美味しいの。きっとハルも好きだよ」

「うん──好きだな」

シャンパングラスが割れないようにゆっくりと歩く。
衝撃吸収シートに包まれているけれど薄いグラスは繊細だ。
心が壊れないように──海都を忘れられるようにゆっくりと進むしかない。





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