そんなの、知らない 【夫人叢書①】

紛擾雑駁の了知

x68_櫂_

侑梨と凛子さんは別人だ。
分かってはいるが
──死ぬほどマウロを愛した女の娘──
その言葉が脳裏から離れない。
あの苛烈な裏切りを許せない気持ちが
侑梨に向いてしまう。
侑梨に苛立ち、血が逆流する。
頬に触れると侑梨が身体を強張らす。
マウロの前の侑梨はどんな表情をするんだ？
自分に向けられた怯えた目に胸が痛くなるが、
このまま抱き潰したい感覚が強い。
勿論、夫人との契約を忘れてはいないし、
今侑梨を抱くつもりはない。
だが──
〈抱きしめられてキスされた〉
ダメだ──
ヤツが侑梨の頬に触れ食むように唇を絡めとる。
想像するな‼︎
自分に言い聞かせるが、侑梨とマウロが睦み合う。
侑梨は被害者だ。
そう分かってはいるのに、
あの幸福感を与えた侑梨にも苛立つ。
「なぜ、夫人に会おうと？あの人の怖さを知ってるだろう？」
「それにマウロが来たのに何故逃げなかった」
侑梨の行動が理解できない。
「……マウロが……好きなのか？」
自分の言葉に打ちのめされる。
侑梨の顔が見れず、彼女を押さえつけたまま胸元で項垂うなだれる。
「……らい」
侑梨の絞り出すような声に思わず顔を上げる。
涙目で俺を拒絶する瞳と目が合う。
「……大嫌い」
彼女の言葉に押さえつけていた手が緩む。
今更自分の行動を後悔するが後の祭りだ。
「侑梨…」
「大嫌い！大嫌い‼︎櫂なんて大嫌い‼︎」
遂に瞳からは涙がボロボロと溢れる。
それでも彼女は櫂を睨む。
「…ごめん」
触れようとすると子猫のように拒絶する。
引っ掻かれそうだ。
「何に対しての『ごめん』？」
何の…
侑梨を閉じ込めた。
侑梨を契約の材料にした。
凛子さんへの憤りを侑梨に向けた。
マウロへの嫌悪を侑梨に向けた。
自分の不甲斐なさに、
侑梨の涙に罪悪感で埋め尽くされる。
「……櫂が心配だったの。心配しちゃダメなの？貴方は私に何も教えてくれない。それがどんなに不安か……苦しいかそれを分かってもくれない！」
侑梨が俺に対して怒りを向けるのが初めてで困惑する。
謝りたいが、解決策を提示できない上に、マウロとのキスが頭を離れない。
侑梨は俺から顔を背け目も合わせない。
彼女を傷付けた俺に対する拒絶が伝わる。
謝ろう。解決策もマウロも自分の都合だ。
だが侑梨の呟く小さな声が強烈な追い討ちをかけた。
「彼は信用できないけれど……私の気持ちを分かってくれたわ……」