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本編二話 母親の仕事

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会話が一切ない食事風景であるが、会話をしていたら今度こそ、タマヨリは学校に遅刻してしまう。
学校に遅刻してしまったら大変である、と二人が思っているからこそ、二人は黙々と食事を行うわけである。
先に自分の食事を平らげたタマヨリが、忙しない声で言う。

「ごちそうさま!」

そして手元に置かれていたぼろ布で、自分の口の周りを拭いた。
ぬぐったと思ったらもう、学校に行くための包みを片手に、反対の手には弁当の入った布を掴み、家を飛び出していこうとする。
その頭髪は、鳥の巣どころか爆発した後の何かのように絡まっている。

「タマヨリ、待ちなさい」

ヒルメは出て行こうとする子供の襟首をつかんで、言った。

「頭をとかしてから学校に行きなさい、と何度言ったら分かるのかしら?」

そう言いながら彼女は、手元の台に置かれていた目の粗い櫛を使い、息子の髪をとかしていく。この年頃の男の子にしては、長く伸ばされた髪の毛は、簡単に言って寝ぐせだらけだ。
その寝癖を直しながら、ヒルメはもう一度注意する。

「村の子供たちだって、ちゃんと頭を整えているのに。笑われてしまうわよ」

「でも母様、とかさなくっても死なないよ」

そういう問題ではない。ヒルメは少し強く言った。

「だめよ。大きくなっても髪の毛をとかさない癖がついてしまったら、だらしのない人のように見られてしまうわ。そうなったら、ちゃんとした稼ぎもできなくなってしまうのよ。自分の身なりをある程度整えられないと、父様の言い方でいうなら、舐められしまうっていう物だそうだから」

「でも、父様の頭って結構ぐちゃぐちゃで帰って来るよ」

「父様は白の森の中で、荷物になるかなくすかだから、櫛を持たないだけなのよ。家にいる時はきちんと髪の毛を整えているでしょう」

この言い返しに、息子は反論したい気持ちでいっぱいになったらしい。

「それは母様が髪をとかしているからでしょ! 父様いっつも、母様に、髪の毛をすいてくれ、っていう」

それを聞いたヒルメは、そうじゃない時を思い出そうとしたのだが、思い出せなかった。
思い出せないほど、夫はヒルメに髪をいじってもらう回数が多かったらしい。

「そうねえ、でも父様は、母様が父様のあの、長く伸ばされた髪の毛をとかすのが好きって知っていらっしゃるから、やらせてくれるのよ」

「父様がやってほしいんじゃないの?」

「そうかもしれないわね、ほら、できた。タマヨリは今日も格好いい男の子よ」

髪を綺麗にくしけずったタマヨリは、はっとするほど見た目のいい美少年である。
こんな辺鄙な村のさらに先の、森のはずれにいるとは思えないほど、綺麗な少年なのである。
はっきり言って髪の毛がぐちゃぐちゃでも、タマヨリは綺麗だが、ヒルメはそんな事を言わないようにしていた。

「じゃあ今度こそ行ってきます!!」

「行ってらっしゃい、日が暮れる前に帰ってくるのよ! どこかでおやつをもらったらちゃんと教えてちょうだいね!」

「はーい!」

くすくすと笑った母親は今度こそ、扉の前で子供を見送る。子供は身軽なことこの上なく、弾丸のように家から村へ突っ走って行った。

「いつ見てもあの子の足はとても速いわ」

そう言いつつ彼女は家の中に戻り、今日の仕事に取り掛かる。
全ての植物も動物も白いという、きわめて特殊な森であるしろのもりは広大だ。その広大な森の入り口にあたる場所に構えられた、小さな家の生計を立てる仕事は、白の森で狩人をしている夫の収入のほかは、皆ヒルメが担っている。
彼女がもっぱら得意とする仕事は機織りだ。材料を採取し、煮て繊維をほぐし、それから糸を紡いで、より合わせて、布地を追っていく。
白の森特産の純白の麻や木綿の原種に近い植物たちは、しっかりと煮込まなければ繊維がほぐれず、熱いうちに繊維をほぐさなければ、なかなかほぐれない。
そのため熱湯に近いお湯に手を突っ込む仕事は、なかなかに大変な作業だが、この真っ白極まりない光り輝くような麻や綿の布地は、日用品との交換にも持ってこいだが、租税として納める時も少量で済むため重宝していた。
そして古来より機織りは、神々に捧げる神聖な儀式であると同時に、女の収入源の中でも実入りのいい物の一つだ。
村では栽培したものを使って布を織るのだが、ヒルメは近くで採取してくるため、本物の白い布地になる。
白の森の麻や綿の布地は、強力な魔除けになるという事もあって、大変に価値が高い物でもあった。
それらと村で野菜や日用品を交換するたびに、村にいてほしい、もっと村の近くで暮らしてほしいとあちこちの村人から言われるものの、ヒルメはそれには、うんとは言わない。
学校が近いし人がたくさんいる事は、獣の心配を今よりもしなくていい事である。
だが、ヒルメは今の仕事や暮らしを気に入っているのだ。
少なくともここでひっそりと暮らしていけば、厄介ごとがやってくる心配だけはなかったのだから。
人との交流が多ければ多いほど、人が持ち込む厄介ごとは雪だるま式に増えていく。
町の上流階級として暮らしていたヒルメは、そのあたりをよく分かっていたのだ。
彼女にとって親子三人で平和に暮らせる事は、人との交流が多い事よりもずっと、素晴らしい事だった。
それを止める事は今のところ考えられない位に。
息子のタマヨリはそれをわかっているのか感じ取っているのか、村で暮らしたい、とねだった事はない。
人が多い所での暮らしは、子供にとっては新しいものの連続で、楽しいだろう。
それに日が暮れる前にこの家に帰るという事は、かなり早くに遊びを切り上げなければならない。
あの子だってもっとたくさん友達と遊びたいだろう、と思わない事はない。
子供心にもっと遊びたい、という思いを口に出さないあの子は、いつかは街や村に飛び出していってしまうだろう。
この三人だけの家を、退屈だと思って、いなくなってしまったりするかもしれない。
ヒルメはそれらをわかっていたので、せめてあの子が言い出すまでは、と思っていた。
あの子がもっと広い世界に行きたいというまでは、この森でひっそりと。
それが彼女の、小さな願いであり祈りだった。
彼女は昨日のうちにかなり糸を紡いでいたため、もう機織りの機械に縦糸を張れるところまで手順が進んだ。
縦糸まで張れば、あとは完成したも同然、とは機織りの一連の作業の中でよく言われる話だ。
彼女は機織り機の前に座り、踏板に足を乗せた後、大きく深呼吸をし、ぱたんぱたんと旗を織り始める。
これは何か考えていると、織り目に乱れが生じるため、何考えない位頭を空っぽにして作業に没頭した方がいいのだ。
彼女はそのため、ただ無心に旗を織っていく。
他人が見たら何かの神への儀式のように映るだろう。
それくらい、彼女がまとう空気は、普段と大きく違っていた。
ぱたん、と最後まで織り終えてようやく、彼女は息を吐きだした。
そこではっと意識が戻って来る。
こう言った事は、前の夫と暮らしていた頃はまるで無縁の世界だった。
そんな事を思った彼女に口から、小さな声がこぼれた。

「……もう七年もたつのね」

遅い昼ご飯を口にしながら、彼女は月日の流れを思ってしまった。
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