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三話

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意識が戻ってきた、つまり生きているもしくは自我がある。そんな事をぼんやりと思いながら、私が目を開けると、そこには白くて綺麗な、人の立ち入らないのだろう砂浜が広がっていて、私はぼんやりしながらも、何とか身を起こした。

先程と言うべきなのか微妙だけれども、海に誰かの手によって投げ入れられた後の事なんて何も覚えていない。

でも、あんなに荒々しく荒れていた海に放り出されて、五体満足で生きて、どこかの島に流れ着いたなんて、何て幸運な事なんだろう。

もしかしたら、船乗りの服だった事も、生き残れた理由の一つかもしれなかった。

だってこれが婚礼衣装だったら、水を吸って重さで沈んで溺れること待ったなしに違いなかったんだから。

そう思うと、幸運なのかなんなのか……といった気分にさせられた物の、生きてるだけまし、という事は間違いない。死んだらこんな事を思う時間も余裕もきっとない。

とりあえず身を起こして座り込んで、ぼうっと周囲を見渡すと、そこは本当にきれいな砂浜だった。

とにかく白い。白くて、海が鮮やかで透明なエメラルドブルーで、ヤシの実とかが見える。

そう言えば、お父様が、漂流した時ヤシの実があれば、飲み水を確保しやすいと話していた事を思い出した。ヤシの実の中の水分は、そのまま飲めるんだそうな。

それにけっこうたくさん水が入っているから、脱水状態でも助かりやすいとか何とか。

でも絶対に海の水をそのまま飲んではいけない、酷い脱水状態になる、とも言っていた。

お父様はお母様と結婚する前は、無茶な冒険をした事もある人だったから、その話はきっと事実だったんだろう。

そんな事を思った後に、結婚式はどうなるんだろう、と思った。花嫁不在の結婚式なんてありえないから、きっと中止されただろう。結婚式の代金とかを考えると、責任を押し付けられたら我が家は潰れてしまう……

でも、あれだけの暴言を吐く人と結婚しなくてよくなりそう、と考えると、少しだけ気分が明るくなる気がした。

それと同時に、夢に見た結婚式というものと、二度と縁がなくなるし、ぼんやりと思い描いていた、結婚して子供を産んで……という人生がなくなった事に対して、なんだか心が空っぽになるような気がして、気付くとぼろぼろと涙がこぼれていた。



ああそうだ、私は誰かと結婚したかった。だってお父様が昔こう言ったから。



「シャトレーヌの結婚式は、きっとすごく素晴らしい物になるな、お父様はその結婚式を見るのが楽しみだよ」



お父様は、お母様のようにカトリーヌを溺愛していたけれど、まだ話の通じる人だった。時々お母様がカトリーヌと一緒に行う散財をたしなめている人だったから。

よく分からない部分も多かった人だけれど、大好きな人だった。

そのお父様に見てほしくて、結婚式をしたかった。空から見ているだろうお父様に、シャトレーヌは幸せになります、と笑う顔を見てほしかったのだ。

それももう叶わないだろう、ここがどこか分からない以上、この島から脱出する事は困難を極めそうだった。

何しろ道具も何もないのだから。



「ふ、ふええええ……」



声をあげて泣いても誰も聞いちゃいない。だから私は、久しぶりに堂々と泣いて、散々泣いて、やっと自分を落ち着かせて、涙を袖で拭って立ち上がった。服がかなり乾いている。という事は、流れ着いてから結構な時間が経過したという事である。



「何か……道具……」



ナイフとかそんな風なの。どこかに落ちているとは思えないけれど、周囲を見回して、流れ着いた何かがないかと思ったけど、そんな都合よく物事は進んではくれなかった。

ない物はない、ならどうするか。色々考えながらも、私はとにかく水を探さないと生き残れないと、やっぱりお父様に聞いていたから、なんとか水を探すために歩き出した。











「はっ、 はっ、はっ……!!」



探すために歩き出して、それから私は現在進行形で死に物狂いで走っていた。

水場は運よく見つかった。そこでとにかく、水を飲んでいた時に、目が合ったのは……この島で生息しているらしい、野生のたぶん虎だったのだ。

あ、目が合った、と思ったら虎であろう縞模様の大型の獣が、こちらを獲物として認識したのが伝わってきて、死ぬ、という第六感のけたたましい怒鳴り声とともに、私は脊髄反射よろしく逃げ出したのだ。

痛めた足は走る事を邪魔するし、あの獣が追いかけてきているかもわからないけれど、とにかく走り続けた。

いったいどれだけがむしゃらに走り続けていただろう、飲んだ水が全部汗になっているんじゃないかと思うほど、必死に走り続けて、私は、背後から聞こえてくるがさがさという、明らかに人間の立てる音じゃない、獣の立てる音が耳に入ってきたから、いっそう血の気が引きながら、走った。

後から思えば、虎と追いかけっこをして人間が勝てるわけがないので、私はこの時かなり限界を突破して走っていたもしくは、音は虎の物じゃなかったのだ。

しかしそんなの分かるわけもなく、走って走って息が切れて、それでも追い付かれたら食い殺されるわけだから、何としてでも逃げ切らなくちゃいけなくて、ぜえぜえとひどい音を立てて息をしながらも、走っている間に目に飛び込んできたのは、あばら家と言っていいだろう建物だった。

誰かいるかもしれない!! こんな所に暮らしているなら、ああいった猛獣の対処法を知っているに違いない!! 

それしか考えられず、私はあばら家の扉を盛大に開いて、非礼は後で思い切り詫びようと決めて、中に飛び込んだのだった。







中はしんと静まり返っていた。誰も人がいない状態だったのだ。

でも、誰かが使っている痕跡に似たものが、あちこちに残されていた。

だってそうだろう、寝藁らしき明らかに、草を集めた寝床や、食べ物の欠片が落ちているんだから、人の痕跡以外にあり得ない。

それに火を熾そうとした形跡もある感じで、誰かが……現在進行形で使っているのは明らかだな、と思う室内だった。

私は大きく息を吐きだして、ばくばくと早鐘を打つ心臓をなだめて、その場にへなへなとしゃがみ込んだ。体が一気に熱く感じるほど、私は走り続けていたみたいだ。

しゃがみ込んで、そうだ、誰かどこかの陰にいるかも、と思って声を出す。



「もしもし……どなたかいらっしゃいませんか……? いきなり入ってきた事はお詫びいたします……」



その答えは返ってこなかった。息を整えて、外の獣の気配があるか必死に感じ取ろうとしながら時が過ぎ、私は物陰に隠れて、座り込み、少し休憩するだけ、と思って目を閉じた。







生暖かい息を感じる。ふうふうという鼻息は、ちょっと安心するのんびりとした感じを持っている。

なんだかお父様に連れられて、遊びに行った牧場で、ちょうどこんな感じの穏やかな息をした生き物に顔を舐められた気がする……と思いつつ、それも夢かな、なんて現実味のある、でもこの状況ではありえない夢だな、と思いつつ目を開けた私は、完全に凍り付いた。







そこにいたのは、私を見下ろしていたのは。





牛の頭をした、人間らしき体の生き物だったのだから。
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