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十三話

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散々泣いて、牛頭の怪物は、私を閉じ込める事をやめたみたいだった。

あれだけ頑としてあけなかった鉄格子は、その日のうちに開かれて、そこから出て行っても、牛頭の怪物は止めてきたりしなかったからそう思っているだけで、実際には色々考えているのかもしれなかった。

というか、閉じ込めるという発想が出てくるあたり、それなりに人間社会というものを知っていたんだろうな、と改めて思うわけだ。



「出ていいの?」



恐る恐る鉄格子から出ていくと、牛頭の怪物はいつの間にか、私の近くでその様子を見ていた。

そのため、聞いてみたわけだけれど、彼が分かりやすい反応を返してくれるわけではなくて、ただ、なんとなく直感でいいたいことを推測するほかなかった。



「出て、いいんだ……」



気が変わらないうちに、迷宮アヴィスを出ていこうと思って、私はぎりぎり覚えていた道順をたどり、外に出た。

外の空気は美味しい。それはそうかもしれない。だってあれだけ奥まった場所にある鉄格子のあそこは、閉じ込めるためだけの場所にしか思えなかった。

そして、驚いた事に外に出て初めて、私は数日ぶりに喉の渇きとか空腹とかを覚えたのだ。

もしかしたら、迷宮アヴィスは、中にいる間はお腹がすいたり喉が乾いたりしない、そんな妙な魔法がかかっている場所なのかもしれなかった。

とにかく、食べられる物があるのは、あのあばら家しかないので、私は足場の悪い岩場をえっちらおっちら降りていって、方角からあばら家のある方向を考えて、そっちに歩いて行ったのだった。

そして、何日も牛頭の怪物の塒にいたからだろうか、臭いが染みついているのだろうか、野生の獣が襲ってこない事を、心底ありがたいと思った。私の力ではとても勝ち目がないし、短刀は海に放り投げられてしまったわけだし、手持ちのナイフはもっと頼りない。ないよりははるかにましだけれど、戦うための道具にはなかなかならないだろう。

これは道具を作るための道具であり、魚をさばくための物であり、他にももっといろいろ便利だけど、私はナイフで戦う心得は持っていないのだ。

多分、普通の貴族令嬢は、ナイフで戦う技術とか心得は持っていないだろう。持っていそうなのはそういうものを得物にして戦う戦士たちとかだ。短剣使いの戦士たちは身軽で懐に入って一撃を放つのが上手だとどこかで聞いた気がする。

とにかく、私は涙の塩気と海に落ちた後真水で顔を洗っていないからそれの塩気も合わさって、かなり顔がぱりぱりしつつ、あばら家がある場所に戻って……目を疑ったのだ。

あばら家の前に、優雅なつばの広い麦わら帽子をかぶり、こんな場所には不釣り合いな上品で可憐な真っ白いドレスを身にまとった女性が、立っていたら誰だってびっくりするだろう。

どなただ、と思うのは仕方のない事に違いない。

私は目の前の美女が、幻覚とかではないかをまず疑い、頬をつねった。とても痛い。夢ではなさそうである。

そして、がさがさと獣除けに音を騒々しく立てて動いていた私の方を見て、その美女が振り返る。

彼女は白髪を上品にまとめ上げていて、薄い化粧を施した年配の女性だった。最初に結婚式の日に、海に落ちたっきり、着替えも持っていない私からすると、気後れするというか、いたたまれなくなるくらい清潔な女性のように思えた。

彼女はどこから来たのだろう?



「初めまして、ミノタウロスの恋人さん」



振り返った彼女が、柔らかな唇で、聞き捨てならない事を言った。待って、ミノタウロスの恋人ってそれは一体誰の事だろう……?

私はほかに人がいるのだろうか、とあちこちを見回した。無論いない。いたら気が付く。そして私の反応を見て、彼女がふふふ、と軽やかに笑った。とても品のよい人で、ここでない、もっと街中で出会っていたら、とても気品のあるどこかの名家のご婦人にしか見えないだろう。

ここが島のあばら家の前という事も有って、彼女の似合わなさは相当だった。

あばら家に似合う人っていうのも、珍しいかもしれないけれども。



「あら、自覚がなかったのかしら?」



「ええっと……あの? ミノタウロスっていうのは……その、牛頭の怪物の事ですよね……? それで、その……恋人ってどういう事でしょう」



「あれが飛び切り執着して、そしてあなたはそれを受け入れているのだから、恋人というくくりで問題がないのではないかしら。あれは滅多なものには執着を見せないわ。その代わりとてつもなく恐ろしい力を持っているけれども」



新手の謎かけだろうか、と真剣に考えたくなる言い方だった。とにかく、一応自己紹介をしなければ。私はとりあえず、人に出会ったという事で一礼をした。やっぱり略式になるのは勘弁してほしい。服がそうじゃないのだから。



「あ、改めまして、自己紹介が遅れてしまいますが……私はシャトレーヌ・クレタと申します」



「あら、あの、黄金のクレタの娘さんだったの? クレタの黄金の髪の毛は伝説の様に有名だけれど、あなたは黒髪なのね」



「ええ、聞いたところによりますと、異国の姫君だったという曾祖母に似たのだとか」



「確かに、クレタには南の黒真珠が嫁いできていましたね。その名残ですか、確かに言われてみれば、そちらの雰囲気もありますね、あなたは」



褒められているのだろうか? エキゾチックであると……? と思いつつ、私は彼女が名乗ってくれるのを待った。

彼女に対する呼びかけを知りたかったのだ。

私が待っているのが伝わってきたのだろう。ドレスの彼女が、さらりと優雅な一礼をして、こう名乗った。



「初めまして。わたしはキュルーケ。あなたが知っていそうなのは、結界の魔女と言う通り名かしらね」



私は目がこぼれそうになった。つまり彼女は、このあばら家に呪いをかけてぼろにした魔女であり、牛頭の怪物を長年の間、迷宮アヴィスに閉じ込めていた強力な力の持ち主という事なのだ。

目がこぼれそうだし口はあんぐりと開いたし、かなり貴族令嬢としては落第の反応を見せた私に、キュルーケさんはころころと鈴の転がるような声で笑った。声まで美人のそれであり、とてもうらやましく思えた。



「うふふ、そんなに驚いてもらえると嬉しいわ。結界の魔女というだけで、怯える人もとても多いの」



「ふ、不愉快でしたか……?」



「驚かれるのは楽しいわ。私は驚かせるのが大好きなの」



どっきりがお好きな人か、とわかりやすく考えて、ここに来た理由を聞く事にした。



「あの、あなたはその……任期が終わったから、ここを出たと聞いていましたが……」



「ええ、任期が終わったのに、交代の新しい結界の魔女が来ないから、腹が立って出て行きましたよ。でも、海神の怒りが解けた事を海が教えてくれましたから、ここにいるという、ミノタウロスの恋人を見に来たの」



「私はお言葉ながら、ミノタウロスの恋人じゃないですよ」



「自覚がないって大変ね。あんなに執着されて、櫛まで渡されたのに」



「櫛ですか……?」



何でそれを知っているのだと思うが、海という超常的な物に教えてもらったと言われれば納得の発言だ。秘密なんてこの人には全部筒抜けになるのかもしれない。悪い事は出来なさそうだ。

櫛が一体何なのだと思いつつ、聞かなくちゃいけない事だと気付いた私が問いかけると、キュルーケさんは知らなかったの、と目を丸くした後に、ふふふ、とまた笑って教えてくれた。



「知らないって怖いわね。でも知らないからこそあなたを、ミノタウロスは求めたのかもしれないけれど。王族にとって、櫛というのは特別に霊威のある品物なの。だから自分のそれを相手に渡すというのは、とても古めかしい求愛の印なのよ」



「そ、そうだったんですか……」



知らなかった事実に頭が痛くなってくる。つまりなんだ……私は牛頭の怪物の求愛の品物を、何も考えずに受け取って、向こうの基準としては求愛を受け入れたという事になっていたのか……

そこまで考えて、苦い声が出て来る。



「そりゃあ……そこまで受け入れて、帰るとか言われたら怒りますね……」



牛頭の怪物の視点からすれば、求愛して受け入れてもらったという事は、これからずっとそばにいるという事になっていたのだろう。

それだというのに、陛下が来たから帰る、と言って船に乗って行こうとした私はとんだ裏切り者に違いない。

……これって命があってよかったと思うネタではなかろうか?

そこまで考えて、ぞっとした。何か間違えていれば、私はきっと今息をしていなかった、と気付かされてしまったせいだ。



「あら、あなた帰るって言ったの? よく五体満足でいられたわね……ミノタウロスでなくとも、半殺しにしかねない案件よ」



「でしょうね……」



キュルーケさんはさらに言う。



「それに、あなたミノタウロスを餌付けしたでしょう。弱っている相手に餌付けをしたら、一頃になるのはわからない?」



「餌付けになるほどのご馳走は作れませんでしたよ」



「ミノタウロスの方から見れば、自分のためにご飯を作ってくれるだけでもう、特別の中の特別で、別格の中の別格よ」



「あんな雑な料理で……」



食べられればいい程度のご飯だったのに、それすら餌付けになるとは恐ろしい。

そんな事を思いつつ、キュルーケさんがこの後どうするのかが気になった。

というのも陛下の目の前で、私は海に引きずり込まれて島に連れ戻されたわけで、陛下が何か行動を起こす事は明白だったからだ。

誰だって、怪物に島に連れて行かれた娘の恩人なんていう相手がいたら、助けようと思うだろう。

面倒くさいごたごたが近付くのも明白だ。



「どんなに雑でも、自分のためのご飯というのは、特別なものでしょう? それも見ず知らずの他人が、その時にできる精いっぱいで作ってくれたらね」



色々見通されているのだろう事は、キュルーケさんの発言から明らかだった。

全部知られているのかもしれない、と思いつつ、私はこう言った。



「それなら、町でもっと美味しいご飯を食べさせてもらったら、執着も薄れるのでは?」



「あなたは獣の力を持つ相手の一途さを甘く見ているわ。痛い目に遭いたくなかったら、自分は溺愛されているという認識を持った方がよろしくてよ」



デキアイ……? とてつもなく私には不似合いな単語のような気がした。



「さて、迷宮アヴィスは女の子が暮らせる場所じゃないし、あなたがこれからどうするのかを考えるためには、ちゃんと考える時間が持てる住居が必要ね。結界の魔女が、あなたに贈り物をあげましょう。私が仕事を継続していたら、あなたを助けてあげられましたからね。ちょっとした罪滅ぼしと思ってちょうだいな」



くすくす笑うキュルーケさんはそういって、あばら家に向かて指をパチンと打ち鳴らした。

……私はここで初めて、魔法というものを目の当たりにしたのだった。こんな物が実際に目の前で行われるとは思わなかったので、それが始まってから腰が抜けて、座り込んでしまって、それでもキュルーケさんは不愉快に思わなかったらしくて、手を貸してくれたのだった。



驚いた理由は明白で、あばら家が土地に寄り添っているのだろう一軒家になったのだから、理解できるだろう。あばら家があっという間に変貌すれば、誰だって腰くらい抜けるに違いなかった。
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