【本編完結】海辺の街のリバイアサン ~わたせなかったプロポーズリングの行方~

礼(ゆき)

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第一章 海難事故

1.

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 平日の仕事帰り。
 列車を降りた一群が、改札口を出て家路を急ぐ。
 翌日も仕事が控えている人々は、寄り道をせず、足早に四方へと散っていく。

 そんな帰路に就く人ごみから、薄手のコートを羽織るスーツ姿の男が抜け出した。彼は通りに面したガラス張りのカフェへ入店する。
 自動ドアを通り抜けると、そわそわと店全体を見渡した。



―― もより駅近くにて、タイラーは恋人のアンリと待ち合わせる。



 目当ての女性が見当たらず、タイラーはレジへと向かう。
 スモールサイズのコーヒーを注文し、通りがよく見える丸いテーブル席を陣取った。

(今日も仕事が長引いているんだろうな)

 カップを両手で包み込んだタイラーは、背を丸めて通りを眺める。

 日が暮れかける時間帯。
 帰宅する人々がガラス越しに目の前を通り過ぎてゆく。
 目を凝らしても、アンリらしき人影は見当たらない。

 早く会いたい。
 まだ時間が欲しい。
 そんな真逆の気持ちを行ったり来たりする落ち着きがないタイラーは、気ぜわしさに体をゆすり、深く息を吸いこんだ。
 


―― ため息をつくタイラー・ダラスは恋人のアンリエット・ファーマンへのプロポーズをいまだ果たせずにいた。




(今日こそは、今日こそは……、プロポーズを……)

 椅子の背もたれに体を預け、ポケットへ手を突っ込んだ。引き出した小箱をテーブルの上にあげようとしてためらう。小箱を握ったまま太ももに手をのせた。

 大きな手に握りしめる小箱の中になにが入っているか。見なくても分かるのに、カップに添える手をはなし、そっと開けて確認せずにはいられなかった。

 小箱にはプロポーズリングが一つ。

 婚約指輪を先に買って怒られた同僚の話から、プロポーズの際は形だけでもと思い用意した。先走って婚約指輪を購入し、あからさまに嫌な顔は向けられなくても、苦笑いされれば、彼女以上に傷つく自分をタイラーは強く自覚していた。

 リングを見つめて、これで良かったのかとぐらぐら迷う。

 所詮それが『結婚してほしい』というセリフを言い出せない気持ちと混同し、増長させた迷いであるとうすうす分かっていても、懊悩するループへと浸り、先延ばしを続ける自分をタイラーは止めることができなかった。

 ガラス越しの空を見上げて、うつむく。

『結婚してほしい』
『生涯、一緒にいてほしい』
『幸せにするから、この指輪をうけとってください』

 頭の中にセリフが浮かんでは消えていった。
 もう一度ため息を吐いた。冷めつつあるカップに手を添える。口元へ運べば、かぐわしい香りが鼻孔を通り抜け、気持ちを幾ばくか慰めた。

 ガラスの向こう側で跳ねる人影がタイラーの視界に飛び込んでくる。

 行きかう人々をぬいながら直進する小柄な女性は、蝶のようにくるりと旋回した。片手の平を顔に垂直に寄せ、すり抜ける際にぶつかりかけた人に一礼すると、また前を見て走り出す。

 アンリが駆けてくる。
 
 肩にかけた大きなベージュのカバンが重そうだ。
 服装はいつもシンプルで動きやすさを重視している。
 ヒールのない靴を履き、飾り気のないシャツにパンツ。寒さしのぎのコートを羽織り、裾をひらめかせる。身長は平均よりも少し低く、栗色の髪を肩ほどまで伸ばしている。煌めく淡い緑の瞳が印象的だ。

 人ごみに紛れてもアンリをみつけることができる。そういう時に、タイラーは自分が彼女を愛していると意識できた。

 目が合うと嬉しそうにほほ笑む。
 無邪気に駆け寄ってくる彼女は愛らしい。

 特徴のない冴えない男と自認するタイラーは、どうしてこんな輝く女性が一緒にいてくれるのかと常不思議に思う。

 幼少期から水泳を習っていたタイラーはそれなりにしっかりした体つきをしているものの、頭脳は平均的であり、仕事もまあまあ。大学卒業時、いくつか受けた就職先で内定をもらえ、就職にこぎつけた。
 その後、一度の転職を経て営業として落ち着き、今に至る。
 営業成績も、これまた学業の成績と同じく中の上というところであり、集団に入るとどうしてこうも似通ったポジションに落ち着くものかと思うほどだった。

 仕事にプライベートに楽し気に過ごすアンリにどことない後ろめたさを覚える。

 彼女に相応しくないのではないか?
 繰り返す自問もまた、プロポーズを送らせている原因の一つだろう。

 ひらひらと手を振りアンリに応えるタイラーは残ったコーヒーを飲み干した。

 自信もない、実績も乏しい。アンリと比べ、一段劣っている後ろめたさを感じていながら、プロポーズを決意したのも訳がある。

 付き合いも八年という長期になり、共通の友人から届く結婚の知らせや、招待状が重なるようになってきたためだ。
 流されていると言われれば、その通りである。

 なにも言わないアンリが結婚を望んでいるのかどうか分からなくとも、自分が切り出さねば、誰が切り出すのだと、半ば言い聞かせるようにして準備した。

 しかしながら、今日もタイラーより遅くまで仕事に取り組んでいるアンリに『今は仕事が恋人なの。結婚なんて考えられないわ』と言い切られてしまえば、終わる。

 タイラーはそっとポケットに小箱をしまい込んだ。
 むなしいかな。アンリを前にすると、やっぱり明日にしようと怖気付いてしまう。

 熱意を持って仕事に取り組むアンリ。明るく、人懐っこく笑う彼女に誰もが声をかけそうに思うのは、欲目なのだろうとタイラーも思う。

 アンリと一緒にいたい気持ちと、それを拒否される不安と、結婚という制約がなければいずれは自分が捨てられるのではないかという疑いが入り混じる。
 ならばプロポーズすればいいのに、断られれば後がないという緊迫感を覚え、途端に怖気づいてしまう。
 恐怖とともに、このままアンリが何も言わないならそれもいいじゃないかという甘い囁きが割り込んでくる。

 先延ばしばかり続ける勇気のない臆病者。
 こんな男のどこがいいんだとタイラーはアンリに常々聞きたかった。

 駆け寄ってきたアンリがガラス越しに立つ。
 席を立ったタイラーは彼女と向き合う。

 肩まで伸びた栗色の髪を邪魔そうに、耳にかけなおすアンリ。頬を紅色させ嬉しそうに笑う。かきむしるほどの愛しさがタイラーの胸を過る。

 手を伸ばしガラスに指先が触れると、アンリも手を伸ばし指先を近づけた。
 触れれそうで触れられない。
 冷たいガラスの感触が指先を伝う。
 アンリの額には走ってきた証拠の汗がにじむ。まるでタイラーを見つけ、喜び勇んで走ってきてくれたかのようだ。
 こういう時に、アンリの好意を実感し、タイラーは安堵する。
 
 待っててと口を動かしたタイラーに、分かったと同じく口を動かし答えるアンリ。タイラーが動き出すと、アンリも店の入り口へと歩き始める。
 コーヒーカップを下げ、タイラーも店外へ足を向けた。

『これからも俺についてきてほしい』

(そんなセリフを言える男らしさを持ち合わせることができたなら、どんなにいいだろうか……)

 些細な彼女の様子に一喜一憂し、プロポーズさえできずにいる意気地のなさを、タイラーは自嘲するしかなかった。

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