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第一章 海難事故
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「明日から出張に行きます」
カフェから出たタイラーの目の前でアンリは、ごめんなさいと両手を合わせる。
拝むようなしぐさで謝罪する彼女に、タイラーは(なにも謝ることはなにのに……)と、思った。
「では、準備かな」
「そうなの。だから……」
合わせた手を少し傾け、タイラーを見つめてきた。
「うちで準備したいの」
「今日は君の家だね」
「ありがとう。助かるわ」
「いいよ。気にしてない」
アンリのお願いにタイラーは淡々と答える。
ひるがえるアンリと並んで歩き始めた。
手を繋ぐことはまずない。いわゆる恋人のような馴れ馴れしさを外で出すようなことは、彼女が好まないとタイラーは長年の付き合いから感じ取り、控えていた。
(こういう関係だから、プロポーズを恐れてしまうのだろうか)
アンリとの距離感は友人の時と変わっておらず、平行線な関係は壊すには惜しい居心地の良さがある。
アンリとは大学時代に出会った。
彼女は学生時代から興味がある物事に夢中に取り組み、好奇心こそが優先順位の上位にくるタイプであった。
だからといって、人を寄せ付けない雰囲気かと言えばそうでもなく、ほど良い愛想と愛嬌を備えている。
過剰にべたべたするのを苦手にしているだけで、人と笑い合うことは好きな女性だった。
そんな眩い彼女ゆえ、タイラーと違い、学生当時から恋人がいた。顔ぐらい知っている大学の先輩と別れたところに、たまたま同級生のタイラーがそばにいて、関係が進展したのが始まりだった。
文字通り、友達の延長線上で付き合いが始まり、いわゆる、一緒にいて楽だからというポジションが昔から今も続いている。
友達の延長線上にある心地よい関係にアンリと歩む未来があるのか。彼女が結婚まで考えていてくれるのか、どうか。
自信をもてないタイラーは、臆病になるばかりだった。
並んで歩くタイラーが話しかける。
「今回の出張先はどこなんだ」
「海辺の街にほど近い、小島。ってとこかしら」
口元に手を寄せ、アンリが考え込む。
「出張なのに場所が決まってないのか」
「おおよそは分かっているわよ。海辺の街であるとか、目的地とか……、ただ細かいことを言いにくくて……」
俯いたアンリが今までに見せたことがない険しい表情を見せる。
いつもなら興味あることを楽しそうに話す彼女が言いよどんだ。路上では聞かない方がいいだろうとタイラーは察する。
「夕飯はどうしようか」
「そうね、あるもので済ませたいの。いいかしら」
「かまわないよ。俺は腹がみちればいい」
「相変わらずね」
タイラーが話を変えると、アンリも簡単に乗ってきた。
食事の話をしているうちに彼女の家に到着した。
アンリの部屋は殺風景だ。
台所とつながっている居間には、ソファーとローテーブル。他にオープンな棚があり、必要な物はそこに並べている。最低限の化粧道具と、仕事道具、日用品。ホテルよりはましで、日常生活をおくるにしては生活感が乏しい。
『実家に置いてきた物が多いのよ』とはにかんで言うものの、タイラーからしてみたら、女性の家にしてはさっぱりしすぎているように見える。比べる基準がないにしても。
「ごめんね。今日、タイラーの家に行けなくて」
荷物を棚に置きながらアンリは謝罪する。
「今日行って、片づけようと思ってたんだけど……」
「いいよ。自分でもしないといけないとは思っているんだ。自分でやる」
「そう言って、いつまでも放置癖直さないのはなんでなの」
めっとアンリはタイラーを子どものようにしかりつける。
タイラーの部屋は雑然としている。実家に荷物を置いておくことがかなわず、古い物を捨てるのも苦手であり、物が溢れていた。それだけでなく、そもそも物を床に置いてしまう癖がとれない。
『床に物を置かなくなれば、少しはましになるのにね』
そう告げるアンリが月に何度か部屋へ来て片づけてくれる。手際よく床の荷物を仕分けていく様を見て、彼女がいかに仕事の早い女性なのかと、いちいちタイラーは感じ入ってしまうのだった。
ある一面において、アンリはタイラーにとって理想の男性を思わせる部分があった。頭の回転が速く、行動にも瞬発力がある。夢中になって取り組める仕事を持ち、飛び回るように働く。平均的な仕事をしているタイラーからみたら、彼女の仕事ぶりはうらやましい。
夢中になれるものがある。それはとても特別なことに見えた。
夕食を作るため台所へ立つアンリに、「先にシャワーを浴びてきて」とすすめられたタイラーは、寝室のクローゼットに置かせてもらっている部屋着を手にして、水回りへと向かう。
「脱いだ服はハンガーにかけておくのよ」
水回りの扉を閉める時に、アンリにぴしゃりとくぎを刺された。
シャワーから戻ると、アンリも部屋着に着替えて台所に立っていた。
「今、ゆでてるから待ってて」
彼女の声を背に受けながら寝室へと戻ったタイラーは、脱いだ服をハンガーにかけ、クローゼットの扉に備えられたフックにかける。
服をしまい込んだクローゼットに本棚、ベッド。それしかない寝室。もちろん床に置かれている物はない。
「できたよ。こっちにこれる」
届いた声に、タイラーは「今、行く」と返した。
トマトソースのパスタを二皿に盛り、フォークを差して両手に持つアンリと鉢合わせた。
「座って、食べようか」
アンリがちらりとタイラーを見て、笑んだ。上目遣いで得意げなアンリは、特に可愛い。こんな何気ない表情と出くわすたびに、未だにはじめて付き合ったころのような新鮮さを覚えてしまう。
ローテーブルに向かいあって座る。
アンリはフォークを器用に回し、小さめに絡めとったパスタを口へ運ぶ。髪が少し邪魔なようで、片手で耳にかけながら、首を少し曲げると、首筋がよく見えた。一口食むと、タイラーの目線に気づき、引き抜いたフォークをお皿に戻しつつ、咀嚼し飲み込む。
「どうしたの。食べないの」と不思議そうに首をかしいだ。
見つめていたことを誤魔化すように、食事に没頭し始めるふりをしてタイラーは「出張からはいつぐらいに戻るんだ」と切り出す。
アンリは「そうねえ」とフォークを動かしながら、「二、三日の予定よ」と曖昧に答える。
日程が決まっていないほど、急な出張なのだろうかとタイラーは疑問に思う。アンリの仕事柄、そんな急なことがあるのだろうか。
「珍しいね」
タイラーがそう呟いたのは、自然なことだった。
「わかるわ。急に決まったの」
真顔になるアンリにタイラーは少し面食らう。フォークの手を止めてうつむいた彼女が、ひどく傷ついた表情をしているように感じた。
「なにか気になることでもあるのか」
「気になるというか。ある目撃地がふってわいてきたのよ」
「へえ。あれを見れるのか」
「水平線上で目撃されるのは珍しいことではないわ。陸地から目撃できる地域は、ほんの影程度、望遠鏡などを通して見るのが一般的。
今回の目撃地は、ある海辺の街。
そこでは港からしっかり姿が見えるらしいのよ。
今まであまり話題にならなかったのは目撃頻度が低かったからね。年に何回かだったかしら。
海洋に出て目撃するととてつもなく大きいの。それがそのまま陸から見える。しかも近くの小島にはどうも目撃だけでなく、接触をにおわせる伝承もあるのよ。
見れるだけでなく、触れられる機会があった地域は珍しいわ。それだけで、行ってみる価値がある」
黙って耳を傾けるタイラーが苦笑する。毎度、アンリの熱弁は流れるようだ。
「今でこそ、私たち人間は竜種と共生する方向で進んでいるけど、ほんの百年程前までは命を削り合っていたわ。
時代背景を考えれば、竜種と共生例があるなんてレアもいいところでしょ。
すごいと思わない。そんな地域があったことに!」
「アンリらしいなあ」
夢中になる対象に惜しみない好奇心を抱くアンリ。眩しい彼女がタイラーは好きだ。
「そう? 今、この時代に生きているからできる研究よ。運が良かっただけよ」
照れる彼女もまた可愛らしい。
アンリの仕事は、研究者。研究対象は、竜種の中でも、珍しい海の竜種リバイアサン。
彼女の好奇心は昔から変わらない。
カフェから出たタイラーの目の前でアンリは、ごめんなさいと両手を合わせる。
拝むようなしぐさで謝罪する彼女に、タイラーは(なにも謝ることはなにのに……)と、思った。
「では、準備かな」
「そうなの。だから……」
合わせた手を少し傾け、タイラーを見つめてきた。
「うちで準備したいの」
「今日は君の家だね」
「ありがとう。助かるわ」
「いいよ。気にしてない」
アンリのお願いにタイラーは淡々と答える。
ひるがえるアンリと並んで歩き始めた。
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(こういう関係だから、プロポーズを恐れてしまうのだろうか)
アンリとの距離感は友人の時と変わっておらず、平行線な関係は壊すには惜しい居心地の良さがある。
アンリとは大学時代に出会った。
彼女は学生時代から興味がある物事に夢中に取り組み、好奇心こそが優先順位の上位にくるタイプであった。
だからといって、人を寄せ付けない雰囲気かと言えばそうでもなく、ほど良い愛想と愛嬌を備えている。
過剰にべたべたするのを苦手にしているだけで、人と笑い合うことは好きな女性だった。
そんな眩い彼女ゆえ、タイラーと違い、学生当時から恋人がいた。顔ぐらい知っている大学の先輩と別れたところに、たまたま同級生のタイラーがそばにいて、関係が進展したのが始まりだった。
文字通り、友達の延長線上で付き合いが始まり、いわゆる、一緒にいて楽だからというポジションが昔から今も続いている。
友達の延長線上にある心地よい関係にアンリと歩む未来があるのか。彼女が結婚まで考えていてくれるのか、どうか。
自信をもてないタイラーは、臆病になるばかりだった。
並んで歩くタイラーが話しかける。
「今回の出張先はどこなんだ」
「海辺の街にほど近い、小島。ってとこかしら」
口元に手を寄せ、アンリが考え込む。
「出張なのに場所が決まってないのか」
「おおよそは分かっているわよ。海辺の街であるとか、目的地とか……、ただ細かいことを言いにくくて……」
俯いたアンリが今までに見せたことがない険しい表情を見せる。
いつもなら興味あることを楽しそうに話す彼女が言いよどんだ。路上では聞かない方がいいだろうとタイラーは察する。
「夕飯はどうしようか」
「そうね、あるもので済ませたいの。いいかしら」
「かまわないよ。俺は腹がみちればいい」
「相変わらずね」
タイラーが話を変えると、アンリも簡単に乗ってきた。
食事の話をしているうちに彼女の家に到着した。
アンリの部屋は殺風景だ。
台所とつながっている居間には、ソファーとローテーブル。他にオープンな棚があり、必要な物はそこに並べている。最低限の化粧道具と、仕事道具、日用品。ホテルよりはましで、日常生活をおくるにしては生活感が乏しい。
『実家に置いてきた物が多いのよ』とはにかんで言うものの、タイラーからしてみたら、女性の家にしてはさっぱりしすぎているように見える。比べる基準がないにしても。
「ごめんね。今日、タイラーの家に行けなくて」
荷物を棚に置きながらアンリは謝罪する。
「今日行って、片づけようと思ってたんだけど……」
「いいよ。自分でもしないといけないとは思っているんだ。自分でやる」
「そう言って、いつまでも放置癖直さないのはなんでなの」
めっとアンリはタイラーを子どものようにしかりつける。
タイラーの部屋は雑然としている。実家に荷物を置いておくことがかなわず、古い物を捨てるのも苦手であり、物が溢れていた。それだけでなく、そもそも物を床に置いてしまう癖がとれない。
『床に物を置かなくなれば、少しはましになるのにね』
そう告げるアンリが月に何度か部屋へ来て片づけてくれる。手際よく床の荷物を仕分けていく様を見て、彼女がいかに仕事の早い女性なのかと、いちいちタイラーは感じ入ってしまうのだった。
ある一面において、アンリはタイラーにとって理想の男性を思わせる部分があった。頭の回転が速く、行動にも瞬発力がある。夢中になって取り組める仕事を持ち、飛び回るように働く。平均的な仕事をしているタイラーからみたら、彼女の仕事ぶりはうらやましい。
夢中になれるものがある。それはとても特別なことに見えた。
夕食を作るため台所へ立つアンリに、「先にシャワーを浴びてきて」とすすめられたタイラーは、寝室のクローゼットに置かせてもらっている部屋着を手にして、水回りへと向かう。
「脱いだ服はハンガーにかけておくのよ」
水回りの扉を閉める時に、アンリにぴしゃりとくぎを刺された。
シャワーから戻ると、アンリも部屋着に着替えて台所に立っていた。
「今、ゆでてるから待ってて」
彼女の声を背に受けながら寝室へと戻ったタイラーは、脱いだ服をハンガーにかけ、クローゼットの扉に備えられたフックにかける。
服をしまい込んだクローゼットに本棚、ベッド。それしかない寝室。もちろん床に置かれている物はない。
「できたよ。こっちにこれる」
届いた声に、タイラーは「今、行く」と返した。
トマトソースのパスタを二皿に盛り、フォークを差して両手に持つアンリと鉢合わせた。
「座って、食べようか」
アンリがちらりとタイラーを見て、笑んだ。上目遣いで得意げなアンリは、特に可愛い。こんな何気ない表情と出くわすたびに、未だにはじめて付き合ったころのような新鮮さを覚えてしまう。
ローテーブルに向かいあって座る。
アンリはフォークを器用に回し、小さめに絡めとったパスタを口へ運ぶ。髪が少し邪魔なようで、片手で耳にかけながら、首を少し曲げると、首筋がよく見えた。一口食むと、タイラーの目線に気づき、引き抜いたフォークをお皿に戻しつつ、咀嚼し飲み込む。
「どうしたの。食べないの」と不思議そうに首をかしいだ。
見つめていたことを誤魔化すように、食事に没頭し始めるふりをしてタイラーは「出張からはいつぐらいに戻るんだ」と切り出す。
アンリは「そうねえ」とフォークを動かしながら、「二、三日の予定よ」と曖昧に答える。
日程が決まっていないほど、急な出張なのだろうかとタイラーは疑問に思う。アンリの仕事柄、そんな急なことがあるのだろうか。
「珍しいね」
タイラーがそう呟いたのは、自然なことだった。
「わかるわ。急に決まったの」
真顔になるアンリにタイラーは少し面食らう。フォークの手を止めてうつむいた彼女が、ひどく傷ついた表情をしているように感じた。
「なにか気になることでもあるのか」
「気になるというか。ある目撃地がふってわいてきたのよ」
「へえ。あれを見れるのか」
「水平線上で目撃されるのは珍しいことではないわ。陸地から目撃できる地域は、ほんの影程度、望遠鏡などを通して見るのが一般的。
今回の目撃地は、ある海辺の街。
そこでは港からしっかり姿が見えるらしいのよ。
今まであまり話題にならなかったのは目撃頻度が低かったからね。年に何回かだったかしら。
海洋に出て目撃するととてつもなく大きいの。それがそのまま陸から見える。しかも近くの小島にはどうも目撃だけでなく、接触をにおわせる伝承もあるのよ。
見れるだけでなく、触れられる機会があった地域は珍しいわ。それだけで、行ってみる価値がある」
黙って耳を傾けるタイラーが苦笑する。毎度、アンリの熱弁は流れるようだ。
「今でこそ、私たち人間は竜種と共生する方向で進んでいるけど、ほんの百年程前までは命を削り合っていたわ。
時代背景を考えれば、竜種と共生例があるなんてレアもいいところでしょ。
すごいと思わない。そんな地域があったことに!」
「アンリらしいなあ」
夢中になる対象に惜しみない好奇心を抱くアンリ。眩しい彼女がタイラーは好きだ。
「そう? 今、この時代に生きているからできる研究よ。運が良かっただけよ」
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