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第一章 海難事故

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 本日のアポイント相手であるシーザー・グレミリオンが、契約書類をすべて確認して後、にこやかに告げた。

「人魚島という小島近くにある海辺の街へ行ってみないか。タイラー」

 人魚島、海辺の街。しばらく封印するように、避けていた単語が耳に飛んできて、ひとしきり説明を終え顧客へ渡す資料を整えていたタイラーの手が止まった。はねあがった心音が収まらない。
 手だけ動かし、封筒に資料をしまい込む。表情を整えながら、顔をあげていなくてよかったと思った。

 いつもの営業用笑顔に切り替え、顔をあげたタイラーは「人魚島ですか」と平静を装い返答した。






 営業一位を継続できたのは、シーザーのおかげと言っても過言ではない。細身の長身、黒髪で濃い紫の瞳を持ち、常に服装はシンプル。常時愛用する靴と時計の桁が違うような、古くから続く資産家の子息だ。親から引き継いだ子会社を経営し、株や債券などの個人名義資産はおそらく億をくだらない。

 お金とはあるところにはある。お菓子を買うように数千万や億のマンションを購入したかと思えば、しかるべき時に売却する。経営会社の利益と相殺するため中古の一棟マンションを法人購入する。減価償却で利益が十分出るため取引もスムーズだ。

 富裕層の取引は気を使う一面、ある意味楽である。会計士や弁護士、保険業者、証券会社、コネクションが数多あり、彼らの知恵や知識をアドバイザーとして駆使し応じてくれる。営業から知識を吸収し使い倒すような、肩透かしを食うこともない。

 彼のような立場なら、弁護士などのつてから不動産取引相手を探すこともできただろう。それがタイラーの元へつながったのは、本当に些細な偶然からだった。




 中古マンションのオープンハウス準備のため、マンション入り口に旗と看板を備えている時に声をかけられた。

「これを購入したい」

 値段を見る気配もなかった。三千万の物件を家具でも買うような素振りに面食らったのを覚えている。なんの悪戯かと一瞬思ったが、それこそラフな姿ながら、桁違いの価値を放つ身に着けた小物の迫力に、冗談ではないとすぐに察した。切り替えれば、通常通りの営業をこなすのみ。

 購入理由は単純だった。彼の親族が病院に通うため遠方から出向いた時の滞在場所にしたいという意向であり、いつもはホテル暮らしだが、それも落ち着かないと言うので、別宅を用意しておくのも悪くないと話していた矢先に見つけたというのだ。

 ありえないような本当の話である。




 それまで一度だけ営業一位になったものの、すぐに三位や五位に転落し、変動する順位が落ち着くことはなかった。アンリだったらと考え行動し得た結果は、以前の成績と比べれば高い位置におり、満足はしていた。

 飛躍のきっかけは、やはりシーザーとの出会いと言い切れる。努力して得た偶然は偶然ではない、そう評価してくれたのは今まで一位を取ることが多かった同僚だった。それまでの研鑽で身に着けた所作も生き、以降の不動産取引において、シーザーから声をかけられることが増え、今に至る。

 正直、顧客と営業である。一線を引いておきたい気持ちは強いが、いかんせんシーザー・グレミリオンの方がタイラーに気兼ねしないので、無下にもできず、距離感をつかめずにいた。

 彼が人懐っこいのである。勘違いしないようにと気を引き締めるタイラーだが、彼に気に入られていることを知る上司は、そのまま行けと旗をふる。顧客と一線を引けと言わない老獪め。タイラーは上司の下心が憎々しい。

「営業なんていつ裏切るとも知れませんよ」と、きつめな言葉を吐いても、遠慮のないタイラーの発言をシーザーは楽しんでいるかのようだった。







 今日、シーザーのオフィスに足を運んだのも、今後の募集などについてひとしきり立ち話を含め交わしてきた内容を書面に起こし、提案を踏まえての営業である。物件の確認や資料説明を経て、契約にこぎつけた。

 小奇麗で整えられた会議室のような一室に通された時に違和感は感じていた。
 契約時は立ち会う士業がいることも多いのに、今日はシーザー一人だった。

 説明を終えた直後に、人魚島と海辺の街の話題をふるために、一人でいたのかもしれない。

 彼からの申し出であっても、タイラーはその街に近づきたくなかった。もしアンリを求めて足を運ぶなら、彼女の両親が早々に現地入りしたのに合わせ、追いかけるように出向いて行っただろう。それができなかった自分に今さら現地を訪れる選択肢はないものとしていた。

 一緒に行きたいと言ったアンリ。
 その街に一人で足を運ぶのは、彼女がもう帰らぬ人だと自ら認めるような気もした。
 そんな心情を抱えていると知らないであろうシーザーは話を続ける。

「とてもきれいな海辺の街でね。僕も別荘を持っている。しかも肉眼でリバイアサンを目撃することもある珍しい地だ」

 知ってるとタイラーは心のうちでつぶやく。
 アンリはそれを目当てに旅立っていったのだ。
 胸がきしむ。悟られないよう、さりげなく資料を入れた封筒をシーザーの前に差し出す。

 シーザーは手を組み肘をつけ、その組んだ手に顎をのせると楽しそうな笑みを浮かべた。面白いおもちゃを見つけたんだよ、そんな子どものような表情だ。

「地上にいる竜種よりリバイアサンは体も大きく、青い姿態をうねらせ輝く美しい生物だ。ああいう大きな竜を見たい人は密かに本当に多いんだよ」
「そうでしょうね」

 リバイアサンに魅了されたアンリこそ、その最たる代表だ。話を続けたくはないが、仕事もある。別荘、景観、リバイアサンときて思いつくのは……観光か。

「観光関係でなにかお考えなのですか」

 島の話を聞きたくないタイラーは、話題を仕事に向けた。

「まあ、そうだね」シーザーがにやりとする。「別荘を持ってみて分かったんだ。時折荒れることはあっても、平時は穏やかで潮風も気持ちよく、ここは確かに穴場だと。
 君は知っているかわからないが、注目されるようになったのは、三年前の海難事故からだ」

 タイラーは再び血の気が引くような胸苦しさを味わう。膝に置いた手が震えだしそうだ。

「今までは知る人ぞ知るような地だったが、あの事故により一気に注目された。
 一時、船体の破損からリバイアサンとの衝突事故説が流れただろう。こんな陸に近い、リバイアサンからみたら浅い海になぜと思ったが、本当にあそこには来るんだよ」
「私は写真や絵でしかみたことがありません。貴重な経験ですね」

 声が上ずっている。冷房がきいているにもかかわらず、変な汗があふれそうだ。
 タイラーはシーザーという顧客がいる前で、私的な感情をあらわにすることもできず、内心もだえるような苦しみの渦に飲まれていた。

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