【本編完結】海辺の街のリバイアサン ~わたせなかったプロポーズリングの行方~

礼(ゆき)

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第一章 海難事故

5.

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 人魚島から海辺の街へ乗客を運ぶ定期船が沈んだ。

 第一報を知らせる新聞記事を読み始めたタイラーは、その現場がアンリの出張先だとすぐには気づかなかった。
 記事の末尾に乗組員や乗客の行方不明者名が記載され、そこにアンリエット・ファーマンの名前を見出し、一気に血の気が引いた。
 
 職場の休憩室にいたタイラーは顔面蒼白となり、手にしていたコーヒーを取り落とした。
 




 気が気でない数日を過ごす。
 アンリと連絡を取ろうにも、通信手段はどれも不通。

 事故における連絡先のあてがなく、まずはアンリの家族へ確認するべきか悩む。そんななか、彼女の家族から連絡が入った。
 事故のニュースが架空のものではないとナイフのように現実を突きつけられた。

 船がなぜ沈んだのか、原因が探られる。高めの波に、小雨が降る天候はいつものことであり航行に問題はない。船体が割れており、何かにぶつかった可能性は示唆された。リバイアサンとぶつかったのではないかとささやかれる。近くに怪我をした竜などいなかったので、遠くに逃げた可能性を言及する者もいたが、専門家なる人物がそれを否定した。船体の破損が大きく、とても逃げれるような傷ではなかっただろうという見解だった。ではなぜ沈んだのか。整備不良や経年の劣化、人為的な内部破壊、例はあがったがこれという確証はないとされた。

 事故原因の究明と捜索が進むなか、アンリの母親に彼女の部屋に呼ばれ、しばらくは部屋はこのままにする旨を伝えられる。いずれは引き払う可能性と、タイラーの物は一旦持ち帰ってもらいたいことと、先のことはまだ考えられないと憔悴した顔で告げられた。

 より悲しみ、苦しんでいる人がいる。自分がまだアンリの家族ではないという事実だけがタイラーに重くのしかかった。

 たとえ、アンリの家族が気遣ってくれても、こちらから頻繁に連絡を入れることは気が引ける。彼女を失った悲しみを前面に押し出せず、彼女の家族から連絡を待つだけというのはもどかしいことこの上ない。これが恋人という立場なのかとタイラーは苦悩するしかなく、一人宙ぶらりんのまま取り残された。

 平日は仕事に没頭し、ある程度忘れることができた。辛いのは週末だ。
 出かけることもできず、自宅のベッドに座りこみ、タイラーはうつむいてばかりだった。
 仕事がなければ廃人になっていたかもしれない。




 休日を控えた金曜の夜。
 ベッド脇に座ったタイラーは小箱を両手で包み込み、俯いていた。

 小箱には、渡せなかったプロポーズリングが入っている。
 アンリの悲報を受けて以降、タイラーはその小箱を開けることができなくなっていた。アンリに渡すか渡さないか迷っている最中には、開け閉め繰り返したというのに。

 この箱を開けた瞬間に見せたであろうアンリの表情かおは二度と見ることが叶わない。その現実が重くのしかかる。

 迷うという行為や感情にさえ酔っていたのだとタイラーは自覚した。一瞬のプロポーズを味わうためへの予行演習、助走期間が、あの迷いだったのだと気づく。

 箱を開け閉めする指先の悪戯は意味を失った。

 タイラーは小箱を投げつけた。壁にあたって床に落ち、跳ねた瞬間に蓋が開いた。リングが転がり出ると、回転しぱたりと倒れる。

 責めればいいのか、悔いればいいのか。タイラーは自分の感情さえ分からなくなっていた。

 


 数か月後、海難事故の捜索は打ち切られた。生存者はいなく、遺体は引き上げられなかった。

 アンリは二度と帰らぬ人となったのか。
 はっきりしないなかでも、家族はいずれ戻ってくると信じていた。
 そのかろうじて立つアンリの両親の背を見ながら、引いたところでタイラーはぽつんと一人立ち尽くす。

 海難事故の原因は不明として幕は引かれた。




 数か月間そのままにされていた独り暮らしのアンリの部屋は引き払われることになった。実家へと最低限のものが引き取られていく。

 タイラーは彼女の好きだったリバイアサンに関する本を数冊もらい受けた。

 本とともに、アンリが映った写真を部屋の片隅に飾った。彼女が生きていた頃はそんなことはしなかったというのに。

『床に物を置か無くなれば違うのにね』

 写真を見ていると、ふいにアンリの声が聞こえるような気がした。
 彼女が残した言葉を反芻し、床に物を置く癖を改めた。




(アンリだったらどうするだろうか)

 そう自問するたびに、日々のなかで垣間見てきたアンリの価値観が浸透していく。
 それは徐々にタイラーの基準となる。
 
 新たな価値基準を受け入れることは、アンリとの唯一無二の繋がりを感じさせた。
 どうして彼女が生きている時にできなかったのだろうと悔いる夜もあったが、彼女が生きていたという尊い証として胸に抱き込んだ。



 アンリと同化するように、タイラーは仕事へとのめりこんでく。



 これまでだって営業の仕事を軽んじていたわけではない。
 もちろん、割り切った仕事として、適当にやっていたわけでもなかった。
 なのに、アンリならどうするという視点一つ添えるだけで、タイラーの世界に対する捉え方が変わる。

 本を読むようになり、部屋も片付けるようになった。床に物を置かなくなれば、アンリの言うように、見栄えが良くなった。使うもの、使わないものに仕分けし、長年使わない物を捨てる。着ない服も処分した。

 アンリと過ごしていた時間がぽっかりと空く。そこを埋めるように仕事の書類を読み込んだ。契約を結ぶためのトークを思案し、顧客を理解することに努めた。ただ空白を埋めるための行動でも、ある意味その行動を突き動かす意識は、タイラーにとって夢中と言い換えてもいいものだった。

 迷った時は、アンリならどうするだろう、と腕を組んで考えた。
 脳内のアンリとの対話をもって、彼女が確かに自分と共にいたのだとかみしめる。
 そうやって彼女の姿勢を自身の中に取り込みながら、アンリのいない時間からもたらされる哀しみを誤魔化しつつ、彼女と一緒にいるような錯覚を得ていた。

 営業成績は上がっていく。自分一人ではこんな結果は得られなかっただろうと思うほどに。
 アンリを失って一年後、タイラーは始めて営業成績一位を獲得した。



 ある日、営業先へ出かける間際、ふと立ち止まった。
 壁に張り出された営業成績表でタイラーはトップを走っている。

「今月も、上々じゃないか」

 背後から上司に声をかけられ、振り向きざまにタイラーは軽く会釈した。

「たまたま大きな案件を契約できただけです。紹介をいただけることで、恵まれただけのことです」

 殊勝にあたりさわりなく答える。

「いやいや、ここ一年間の半分は君がトップだ。それだけの結果を出していれば、名実ともに君がうちの営業部の一番だろう」

 上司の話は長い。タイラーは手元の書類をちらりと見せて、「これから、お客様とのアポイントがあります。失礼します」

 と、上司の横を通り過ぎ、営業部を出た。






 もうすぐアンリがいなくなって三年目になる。

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