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第七章 駆落ち

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「助けていただいたのに、あの時は、驚きのあまり声がでなくて。
ずっと、お礼を告げたかったんです。
でも、オーウェン様はとても偉い魔導士という職業の方だと聞いて、私から声をかけるのは畏れ多いと思っていたんです」

やはり、助けた直後はショックで声が出なかったようだ。

直後の生気の抜けたような顔にも赤みが差している。普通に働き、食べられている状況に安心し、英気が養われたのだろう。

「偶然だ。たまたま、目があったからな」

いや、本当にそうだろうか。
俺が前前世で見た最後の光景で、ジェナは助けを求めていた。
あの時は目を背け、巻き込まれないようにこそこそしていたのだ。

偶然目があったとはいえ、助けてほしがっていた女を助けたのは、ある意味、俺の自己満足。

前前世の俺にはできなくとも、今の俺にはできるのだ。
弱者から強者へと立場を変えたぞと、証明しただけだろう。

俺は腕を組んだ。

まじまじと女を見つめる。
日がさんさんと降りそそぐなかで働く女は少し焼けて健康的だ。
娼館にいただけあって、顔立ちも整っている。

なにより働くことをいとわない姿勢は、拾ってきた者として鼻が高い。

「ここの仕事は慣れたか」
「はい」
「なにをしているんだ」
「主に、洗濯と掃除に料理補助です。料理補助は、水くみと料理の下ごしらえを担当しております」
「では、今は料理の下ごしらえ中か?」
「はい」

俺は二つある木桶の一つを持った。ジェナは悲鳴をあげんばかりに驚いた顔をする。

「手伝おう」
「いいです。これは私の仕事で、木桶二つ分ぐらいもてますから」
「気にしなくていい。ジェナを拾って来たのは俺だ。仕事ぶりを確認するだけだ」

百年以上生きているのに、どうしてこう朴訥とした答えしかできないのか。
もう少し、気の利いたことを言えればいいのに。
歳を取っても、慣れないことは不器用なままだった。

俺は踵を返す。
厨房の裏口に向かって歩き始めた。

ジェナは慌てて追いかけてくる。

軽々しく口を利くのをはばかっているのか、俺の足が速すぎるのか、彼女は終始無言だった。

裏口で水桶を持ってジェナと俺が現れると、仮面を見た途端に、見習いの料理人が大慌てで奥に引っ込んで、料理長を連れてきた。
揉み手で頭を下げる料理長に、ジェナを拾って来たことを言い訳に仕事ぶりを見たいと告げる。

大慌てになる料理長と少々問答を繰り返し、俺は押し通した。

その間、ジェナと見習いはあんぐりと口をあけて俺を眺めていた。

次のジェナの仕事は厨房の出入り口外で、桶一杯の根菜の皮をむくことだという。

木箱を逆さに座ったジェナの傍に、俺もまた裏返した木箱に座った。




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