轟町ヒルサイト ―― On Her Majesty 's Private Service ――

甘野正雪

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第二章 銫はセシウムの意味をもつ

第二章―02

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 これが、涼包すずしげの困ったときの癖だ。
 いや、これこそが、
 ――涼包すずしげ かんなの必殺技。
 ――老若男女を悩殺する三白眼さんぱくがんビーム。
 ――全ての者に全ての罪を容赦ようしゃさせる困惑の微笑ほほえみ
 等々、過去に囁かれてきた形容の言葉をあげれば枚挙まいきょいとまがない…が。
 ――しかし、こいつは、ほんとに気がついてないんだろうか?
 この表情が、どれほど人をハッとさせるか……ということに。
 普段は貞淑ていしゅくな乙女を絵に描いたような顔をしてるくせに、この時だけ、こうやって斜向はすむいてやや眉を上げ、すると少し斜め、上目遣うわめづいに見つめる目が三白眼さんぱくがんをなし、さらにプックリとした唇の片端かたはがわずかなをえがいて微笑ほほえんでみせる……そんなとき、それはとんでもなく麗艶れいえん後光ごこうを発するのだ。『困惑の微笑』とは彼女の立場を察して形容してるだけのことで、それを投げかけられた方からすれば、もはや『魅惑の微笑』以外の何ものでもない。異性に限らず、同姓に対しても、それは同様の効果をあげる。だから人は許す。誰もが許す。ハッとしてたじろぐと、次の瞬間には彼女の全てを受けいれようと努力する。
 つまり――魅了されるのだ。
 しかし、彼女の罪作りなところは、やはり、彼女自身がそれに気付いてないところなのだろう。だから、彼女が普段にまとっている厳粛げんしゅくさや貞淑ていしゅくさといったイメージは健在で、彼女に魅了された者がその次なる欲望の階梯かいねいを登ろうとするそんなよこしまな感覚にブレーキをかけさせる。
 まるで蛇の生殺なまごろししだ。
 それでも彼女が暴漢に襲われることもなく、19年間、もうすぐ20年か…、とにかく平気で生きてこれたのは、彼女のまとっているそのイメージが半端じゃない、ってことだ。
 そう――彼女は、最早、天上人なのだ。
 それはある意味、小春井巻あづきとも通底するところだけれど、違うところは、彼女が誰にでも優しくできるというところで、それが『天使』という名の別称をもつ所以ゆえんでもある。だからみなは、彼女と接するとき、まるで天使が示現じげんしたかのように身をただす。心きよめられた…といった感じで真摯しんし振舞ふるまう。そうやって魅了された心を隠しつつ、なおもそう振舞うことで魅了された心のパーツを排斥はいせきするのだ。 
 カゲロウが背を向けた訳もまた、少なからず魅了されるのを恐れてのことだった。何気なにげに、胸元むなもとに山とかかえているハードカバーを一冊とると、それを雑然と並んでいる本と本の隙間にねじこみながら吐息する。
「どうしたの?」
 また涼包の声が背中を撫でつける。
「いや、お前の問いかけが、すでに俺への回答をなしてたような気がしてさあ…」
 そう言いながらまた、抱えてる一番上のハードカバーを手にとり、その返却場所を探してカゲロウの体が巨大な本棚の前を右方にそよぐ。二歩…三歩…とカゲロウの体がそよぐと、涼包も「そうなの?」と言いながらその後についてくる。
 そこで何か思い出したように、
「あ、そうだ。わたしは凸凹坂あいさかくんを叱りに来たのでした」
 涼包は、まるで忘れてしまっていた自分の頭を自身で小突こづくような声音こわねを発した。
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