夏のお弁当係

いとま子

文字の大きさ
32 / 33

32.世界で一番幸せなひと

しおりを挟む
 肌をなぶる涼しい風が心地よい。
 幸せな余韻に浸りながらウトウトしていると、大丈夫ですか、と優しい声が降ってきた。
 賢治くんの手が僕の髪を梳く。汗で額に張り付いた髪を払いながら、賢治くんは言った。

「俺ももう、恋はしないと思ってました」

 僕は賢治くんの穏やかな声に耳を傾ける。

「兄貴は家族をほしがったけど、俺は怖かったんです。でも、雨恵さんを好きになってしまったら、自分じゃどうしようもないなって気づきました。付き合うとか結婚とかをするしない関係なしに、雨恵さんのこと、すごく好きになってしまったから」

 僕も同じだ。賢治くんのことを好きになってしまった。諦めなければと思っていたのに、好きな人と結ばれたことがどれだけ幸せなのかを知ってしまった。もう手放したくないと、この幸せをしっかりとかみ締めた。
 奇跡が起こった今なら何でも言える気がして、僕はずっと聞きたかったことを尋ねる。今聞くのは、ずるいのかもしれないけれど。

「……賢治くんは、いま幸せ?」

 その問いに、賢治くんは柔らかい笑みを浮かべた。

「幸せですよ。雨恵さんがここにいるから」

 その笑みもその言葉も、僕に向けられているものだと思うと、泣きたくなるぐらい嬉しい。

「野球選手になりたかったんでしょう?」
「父さんと母さんが事故に遭ったからその夢を諦めたともいえますけど、農業をやりたいと思ったのも俺なんです」

 賢治くんは笑って、続けた。

「もし野球選手になってたら雨恵さんには会えなかった。冬の早朝の気持ちよさも、一仕事終えたあとのすがすがしさも、雨恵さんの弁当の美味しさも知らないままだった。今の俺じゃなかったら、全部分からなかったことですよ。そんなものがきっとたくさんあるんです」

 感触を確かめるように、賢治くんは僕の頬を軽くつついた。

「俺は今、幸せです。雨恵さんとこうしているのだって、きっと運命なんですよ。……なんて」

 そういうと、賢治くんははにかんだ。

「ほんとに僕でいいの?」
「雨恵さんじゃないと駄目だって、まだ分かってくれないんですか?」

 賢治くんは微笑む。僕はその優しげな表情に、いろんな感情がこみ上げてくる。言葉が喉の奥で詰まり、ぐっと奥歯を噛んだ。

「雨恵さん?」

 不安げに顔を覗き込む賢治くんに、僕はかぶりを振った。

「ごめん……僕も今、すごく幸せなはずなのに、やっぱり不安になるんだ」

 きっとこの思いは一生拭えない。ずっと同性を好きになることに負い目を感じてきたから。これから先も、人生の節目に、幸せを感じたときに、ふとした日常のひとときでさえ、不安や負い目を感じることがあるだろう。
 それでも僕は、この幸せだけは離したくない――そんなことを考える欲深い自分も、嫌になってしまうときがあるかもしれない。

「雨恵さん、話してくれてありがとうございます。不安にならないで、っていうのは難しいかもしれませんけど、不安になったら俺に話してください。なんとか、不安を消せるよう頑張るので」

 そっと、僕の頬を賢治くんの手が包み込む。大きな手、硬い指先、熱い手のひら。たったそれだけで、心を覆う黒い靄が晴れていく。すべてが愛おしく、胸を締め付けた。

「雨恵さんが不安でも、これだけは確かだから覚えておいてください。俺は今、すごく幸せなんですよ。世界一幸せです。だから、それを否定しないでください」
「け、けんじ、くん……」

 賢治くんが僕の頬を軽くつまみ上げた。むにっと口角が上がる。賢治くんも僕と同じように口角を上げた。

「ははっ、だから雨恵さんも笑って」

 言いながら、賢治くんはつまんだ僕の頬をぐにぐにと動かす。涙の膜ができたのは少し痛いからだって言い訳できる。

「雨恵さんは、一人で考えすぎなんですよ。これはもう、雨恵さんだけのことじゃないんです。不安になるなら俺はそのたびに好きだっていいますし、悩んじゃうのなら、一緒に考えましょう」
「……一緒に?」
「もちろんです。当たり前じゃないですか。ふたりのことなんだから」

 賢治くんがすぐに頷く。『一緒に』なんて僕には考えつかないことだった。井村さんのことにしても、結局はひとりで考え、自分の中で折り合いをつけなければいけないことで、この先もずっと自分を納得させていかなければならないと思っていた。

「先のことはどうにでもなるって、兄貴が言ってましたけど……というか、どうにかしましょう、ふたりで」

 賢治くんは自信満々に言い切った。

「ふたりでなら、大丈夫ですよ」

 クーラーで冷やされていく身体は、触れ合っているその部分だけ熱い。僕とは違う体温を感じる。
 僕はもうひとりではない。

「……ありがとう。賢治くんには、助けられてばかりだ」
「そんなことないです。お互い様」

 僕は唇を尖らせる賢治くんの頬をつまみ返した。

「僕に、してほしいこと、ある?」

 賢治くんは頬をつままれたまま、目を輝かせた。

「そんなん、いっぱいありますよ! 何度も好きだって言ってほしいし、思い切り抱きしめてほしいし、キスもしたい、なんならもう一回触らせてほしいし、ずっと一緒にいてほしいし――」
「い……っ、いまっ、とりあえず今できることで!」

 恥ずかしくなって慌てて止めた。その拍子に思い切りつねってしまい、「いひゃいです」と賢治くんが声を上げる。

「ご、ごめんね、大丈夫?」
「ふふ、大丈夫ですよ。さっき言ったこと、今すぐ全部やってもらいたいんですけど、じゃ、まずはふたつほど」

 赤くなってしまった頬を擦りながら賢治くんは笑って、指を二本立てた。

「とりあえず、一緒に弁当を食べましょう。雨恵さんが渡してくれたやつ。腹減って」

 お弁当は毎日のように作っていたが、二人で一緒に食べたことはなかったかもしれない。
 中身はどれも簡単なおかずばかりだったが、賢治くんはどれも「美味いです」といって食べてくれた。僕ももらって食べる。昔は空腹が満たされればいいと思って作っていたお弁当だった。でも今は自分で言うのもなんだが、すごく美味しく感じられた。そう言うと、賢治くんは笑った。

「ずっと言ってたじゃないですか、美味いって」
「自分だけじゃ分からないよ。それに僕は、ほんとに人に褒められるほど料理上手じゃない。味付けが上手いわけでも、つくるのが早いわけでもない。レシピを見ないとつくれないし、失敗することもあるのに」
「料理のうまさって比べるものじゃないかもしれませんけど、他の人から見たら、雨恵さんのお弁当は普通なのかもしれません。でも、俺は美味いと思うし、俺や家族のために考えて頑張ってつくってくれてた、それも含めてすごく好きで特別なんです」

 今までたくさん褒めてくれていて、そのたびに分不相応の褒め言葉だと思っていたけれど、一番しっくりきた。みんなに認められなくても、誰かひとりの特別になれたら十分すぎるほどだ。
 お弁当つくってきて、本当によかった。

「もう一つはなに? 僕にしてほしいこと」

 賢治くんは視線を落とし、弱々しく微笑んだ。

「向こうに帰っても、俺のこと忘れないでくださいね」
「忘れないよ。忘れられるわけない」

 ここで過ごした、短くも濃厚な夏の日々は、僕にとってかけがえのないものへとなった。
 賢治くんは『世界一幸せです』と言っていたけれど、世界で一番幸せなひとは、僕だ。
 賢治くんと出会えた運命と、お互いの気持ちが重なったこの奇跡を神様が起こしたのなら、ふたりの意思でこの幸せな時間を続けていこう。
 僕は賢治くんに軽く口付ける。賢治くんも同じようにキスを返した。じゃれあうように何度も繰り返すたびに、あたたかい幸福に満たされていった。
 甘い時間が過ぎていく。それと同時に、別れの時間も迫ってくる。
 寂しさを不安も感じなかった。賢治くんが今、目の前にいる。その光景を何度も目に焼き付けた。
 僕の頬にキスをし、賢治くんは「それから」と付け足した。

「もう一回、たまごパンが食べたいです。飛び切り甘いやつを」

 僕は思わず噴き出した。二つって言っていたのに。
 それでも僕は、賢治くんの願いは断われない。断わりたくない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

イケメン俳優は万年モブ役者の鬼門です

はねビト
BL
演技力には自信があるけれど、地味な役者の羽月眞也は、2年前に共演して以来、大人気イケメン俳優になった東城湊斗に懐かれていた。 自分にはない『華』のある東城に対するコンプレックスを抱えるものの、どうにも東城からのお願いには弱くて……。 ワンコ系年下イケメン俳優×地味顔モブ俳優の芸能人BL。 外伝完結、続編連載中です。

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

完結|好きから一番遠いはずだった

七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

僕の恋人は、超イケメン!!

BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?

処理中です...