愛しているから問題なくない?

秋草

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おかえりなさい

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 ああもう、失敗した。授業が終わってから真っ直ぐ帰ればまだ陽は沈んでなかったのに。それなのに、キャンパス内で遭遇した友人に誘われてカフェになど行ってしまったから辺りはすっかり暗くなっている。朝に感じた嫌な気配は今はないが、この時間では何があってもおかしくない。
 少しでも家に早く着かなくては……その一心で小走りにいつもの道を過ぎていく。そして交番に差しかかったとき、つい足を止めて中を覗いた。
 決して明かりが消えない安全の象徴、その中にはガタイのいい男性警官と、帰り際に呼び止められたらしい篠原さんの姿があった。

「篠原さん!」

 見慣れた人の姿に安堵して声をかければ、篠原さんはパッとこちらに顔を向けて柔らかい微笑みを浮かべてくれた。

「おかえりなさい、宮原さん。今日は何もありませんでしたか?」
「はい、大丈夫でした」
「……その顔、何かありましたね?」
「え?」

 そんな暗い顔をしたつもりはない、いや、むしろ安心して心から笑っているくらいだ。それなのに、なぜそう思われるのだろう。

「いつも以上に、とても安心した顔をしていますよ」
「あ、と、それは……」

 さすがは穂村さんの期待の後輩、全てお見通しということか。

「そのう、実は今日駅に着いたあたりから大学に行くまで、何か嫌な気配がしていたんです。それで、帰りは大丈夫かなと少し怖くなっていました」
「なんですって?」

 素直に全て話せば篠原さんは眉をひそめ、「ご自宅まで送ります」と目つきを変えた。いつもの柔らかな「お巡りさん」の顔ではない、人を守ることに全てを賭ける「警察官」の顔……この顔になったらこの人は頑として譲らない。

「すみません、ありがとうございます」
「お気になさらず。仕事ですから」

 そう言って目つきを変えずに微笑む篠原さんはとても頼もしかった。


**********


篠原さんに家まで送ってもらうのは何度目だろう。穂村さんがいた頃は、私に何かある度に穂村さんが家まで送り届けてくれた。そして今は篠原さんが、「あの人からの頼みだから」と口癖のように言って同じことをしてくれる。……町のヒーローを独り占めしている気がして、町の人に少しだけ申し訳ないな。

「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」

 篠原さんに向き直りぺこりとお辞儀をしたのは、柔らかなオレンジのライトが灯るエントランスだった。私が住んでいるのは住宅街の一角にそびえる10階建のオートロックのマンション、その8階だ。篠原さんは心配そうに「本当にここで大丈夫ですか?」と聞いてきたけれど、私は大丈夫だと答えて自動扉の鍵を解除した。

「宮坂さん、今日のお弁当もとても美味しかったです。ありがとうございました」
「本当ですか、よかった! また作って持っていきますね。……それでは、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」

 踵を返し、エレベーターに向かう途中の曲がり角の直前でふと振り返れば、まだ心配そうな顔の篠原さんが一礼してくれた。もう何度目の光景だろう。
 いつも通りのエレベーターに乗って、いつも通りに部屋の前に着く。そしていつも通り、手にしていた鍵で解錠してドアノブを回した。
……その瞬間の違和感は、わずかに開いた扉の隙間から漏れる光。
 部屋の電気が、点いている……。
 私はよく電気を消し忘れるから、だから、玄関は人感センサーによる点灯モードにしているはずだ。扉が開いたから? 違う、人が中に入るまでは点かないようになっている。なのに、なんで……そう思った時点で扉を閉めて、引き返すべきだった。
 中でガチャリと音がした後、小走りの足音が聞こえて内側から扉が押し開かれた。

「おかえり!」
「へ……?」

 私を出迎えた満面の笑み。
 こんな男、知らない。
 瞼を震わせることすらない私に、ソレは無邪気に小首を傾げた。

「どうかした?」

 何と言った?

「ああ、ここは君の家だからね、見知らぬ人間がいたら驚くに決まってるか」
「あ……」

 だめだ、逃げないと。きっとコレは危ない……そう思うのに足が動かない。背を伝う汗が、冷たい。

「とりあえず部屋に入ろう? もうご飯もできてるんだよ」

 だめだ、何も頭に入ってこない。

「あのね、君が好きなものを頑張って練習したんだ。その甲斐あって、結構上手く作れたと思うんだ。だから、冷めないうちに食べてほしいな」

 嫌だ、手を伸ばさないで。私に触れようとしないで。嫌だ、嫌だ、嫌だ、助けて、助けて……!

「れ、さ……」

 かすかに漏れたその声に、私に伸びていた手がピタリと動きを止めた。
 今だ、逃げろ。
 コンクリートの上に転がった荷物のことも忘れて、動かない体を叱咤して階段の方へと足を向ける。そして駆け出そうとした刹那。
 一歩を踏み出す間もなく、私は後ろから囚われていた。

「やっぱり君は変わらないんだね。緋鞠、ずっと会いたかった」
「は、はな……」

 離してと言いたいだけなのに、喉の奥が渇いて言葉が出てこない。どうして私の名前も知ってるの。この人は、だれ。

「ああもう、嬉しすぎて明日にでも死ねる」

 感じる震えは誰のものか。ソレは興奮で声を震わせながらそんなことをのたまう。恐怖のあまりこみ上げる吐き気ですら、この感情の前ではピタリと止まってしまうらしい。

「緋鞠、早くご飯を食べよう。ね?」

 そう言ってソレは、動けない私をひょいと横抱きにして部屋に引き込んでしまった。思わず目を瞑った私の耳に、確かにガチャリと鍵の音が響く。
 もうだめだ。もう、助からないんだ。

「緋鞠、なんだか軽すぎない? ちゃんと食べているの?」

 相変わらずソレは無邪気な声音で問いを投げ、私をゆっくり玄関に座らせた。

「緋鞠、靴脱がないの? このまま入ったら、家の中が汚れるよ?」

 落ち着け、まだ大丈夫。まだ生きている。落ち着け、落ち着け。そう自分に言い聞かせるほど、ソレの声が遠のいていく。
……そうか、一度寝てみれば、何か変わるかもしれない。
 そんなことを思ったのを最後に、私は意識を手放した。
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