画家と天使の溺愛生活

秋草

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再会の章

溺愛者の心当たり

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 真静の兄の冷気に当てられ、家に帰った要真はかなり疲弊していた。過保護なところのみならず、予想以上の精神ダメージを与えてくるところも真静の姉と同じだ。まったく動く気になれない。
「佐成家の壁、厚すぎる……」
「なんだ佐成家の壁って?」
「っ⁉︎」
 彼がいることに気がつかないとは一生の不覚だ。
 身を投げ出していたソファから気怠さ全開で起き上がり、声の主に目をやる。
 要真に睨まれた彼は大袈裟に身を震わせ、わざとらしく眉を顰めた。
「なんだよー、そんな怖い顔するなっての」
「誰のせいだと」
「帰ってきたら俺がいる、なんてよくあることだろ? いい加減慣れろよ」
「慣れるわけないでしょ」
 兄が無断で家にいるなど、慣れるほど頻繁にあっていいはずがない。
「今日は疲れているから、もう帰って」
「うん、見れば分かる。寿司を買ってきたから、それ食べて風呂入って早く寝ろ」
 言いながらせっせと食卓を調える兄はスーツ姿のままで、仕事帰りに違いなかった。弟の健康維持のために疲れた身体で訪れ、弟に悪態をつかれ、それでもにこにこ笑っているとは大したものだ。少しは感謝すべきなのかもしれない……が、無断侵入であることに違いはなく、ただ弟の顔を見たくて来ている部分も多いはずなので、結局お礼の必要性は感じなかった。
「ほら、早く座れ」
 兄に再度声をかけられ、だるい身体で食卓に向かう。買ってきた、と言っていたお寿司はプラスチックの容器に入ったものではなく、丸い寿司桶に入ったものだった。
「なにこれ、何かのお祝い?」
 見覚えのある寿司桶だな、と思いつつ尋ねると、兄はいい笑顔を浮かべて答えた。
「俺が食べたかっただけだな!」
「……」
 思い出した。この桶に書かれた店名は兄一押しのお店だ。食べたかったから、で買うような値段ではないはずだが、兄にはこの程度日常の一出費でしかない。
「いただきまーす」
「いただきます」
 二人揃って箸を持ち、共にマグロの握りに直行する。昔から好きなネタは一緒で、こればかりは変えられない。
 しばし黙々と箸を進めていると、例のごとく兄が口を開いた。
「で、今日はどうした?」
「……以前話した天使のことで、少しね」
「なんだ、またお姉さんに叱られたのか」
「その方がずっと良かった」
 渋い顔でぼやいた弟を怪訝な顔で見つめ、すぐ合点がいったように兄の口角が上がった。
「さては、さらなる門番の登場か?」
「そういうこと。佐成さんの兄が、外国から帰ってきたんだ。いかにもエリートって感じのくせに変態レベルのシスコンだった」
「佐成……エリート……」
 兄が腕を組み、首を傾げる。
「なあ要真、その人の下の名前は?」
「たしか、たくみ、だよ」
「やっぱりか」
 どこか嬉しそうな、意地の悪そうな声音。こういう時の兄は大体何かを企んでいるものだ。
「兄さんの知り合い?」
「いや、まだ知り合ってないな。だが、ぜひお近づきになりたいものだ」
「……何者なの、あの人」
 兄が目をつけるとは、相当優秀な人物なのだろう。兄の人を見る目と優秀な人を嗅ぎつける能力は誰もが認めるところだ。
 上機嫌な兄は機密に触れない範囲で巧のことを話してくれた。
「佐成巧といえば、最近のうちの人事部じゃ中々に有名な男だぞ。何をやらせても要求以上、ってな」
「万能なんだ」
「そ。イギリスに行っていたのも、大方大手企業との取引のためだろう」
 あれで社会人二年目だぞ、と肩を竦める兄だが、兄が驚くことでは無いと要真思った。兄も社会人二年目だが、すでに人事部のプリンスなどと言われているらしい。顔はもちろんのこと、手腕が並みのそれではないのだとか。
 それはともかくとして。
「そんな人が新たな障害か……」
 あの様子では要真と真静の今の付き合いも認めてくれなさそうだ。
 大変なことになったな、と内心ため息をつき、要真は大トロにかぶりついた。
——まあ、なんとかなるだろう。


*****


 倉瀬兄弟が高級寿司を頬張っているころ、佐成家もまた豪華な食事を家族で楽しんでいた。兄の提案で駅前のレストランに行ったのだ。
 仕事から急いで帰って来た父を含めた五人でテーブルにつき、乾杯をする。そして各々が一口飲むと、母が興奮気味に話し始めた。
「もう、突然帰ってくるから驚いたわ。もう少し長いのではなかったの?」
「本当はその予定だったけど、取引先がすぐにこちらを気に入ってくれてね、話が早めにまとまったんだ」
「まあ! 本当、自慢の息子よねえ、あなた?」
 妻に手を握られて上機嫌な父は、すっかり緩みきった顔で頷いた。
「うむ、そうだな。よく頑張った」
「やめろよ父さん。母さんのせいで緩みきった顔で、らしくもなく褒められるとむず痒い。それに、俺はあっちでひたすら取引先の機嫌を取っていただけで、話を短期間でまとめ上げたのは先輩の力だよ」
 謙遜しつつも、兄の頰はほんのり赤みがかっていた。なんだかんだ言って、父に褒められるのは嬉しいのだろう。
「それにしても、帰ってきたら真静が男といるものだから、卒倒しそうになったよ。あいつは誰?」
 いざ本題、とでも言うように、巧が真静を見つめる。その横では姉もこちらを伺っていた。
「あの人は……友達よ」
 憧れの人、などと言っては絶対誤解を招く。だからといって友達と言っても良いものかという迷いから一瞬言葉をためらってしまい、結果それが彼らの目つきを厳しくした。
「友達? 本当に?」
「ええ。他校の人なのだけど、素晴らしい絵を描く人なの」
「他校の奴ということは分かるよ。知らない顔だったからね」
「へ?」
 まさかとは思うが、全員の顔を覚えているとでも言うのだろうか。
 いやいやまさか、と真静が首を振ろうとしたとき、兄が事もなげに言い放った。
「真静が通う学校の人達の顔くらい覚えているさ」
「それは……同学年全員の?」
「全学年」
「……」
 優秀な頭脳の無駄遣いにも程がある。
「真静、男には気をつけろよ? いつ襲われるか分からないんだからな?」
「……お兄ちゃん」
 心配してくれるのは分かる。が、知らないとはいえ暮坂颯人をそのように言われるのは堪えかねる。
「倉瀬さんがそんな人な訳がない。万が一の話だとしても、倉瀬さんを悪く言ったりしないで」
 思ったよりも声に感情が出てしまい、僅かながら低くなる。と、兄は絶望にも似た色を目に浮かべた。
「ま、真静、怒った?」
 今の彼を見て、誰が大手企業営業部の期待の星と思うだろうか。
「お、怒らないで」
 目に涙を浮かべる彼のあまりに情けない姿に、隣に座っていた姉、柚依の視線が絶対零度の冷たさを帯びた。
「あんたは小学生か」
「柚依っ! 真静が怒ったんだぞ⁉︎ 誰が泣かずにいられるかってんだ!」
「お、お兄ちゃん、私別に怒ってはいないわよ?」
「怒った。ムッとしてた」
 こうなったら兄はしばらく元に戻らない。しばらくは幼児化を続けるのが常だ。
 普段はあんなにエリート感を出しているのに、とため息をついたものの、結局真静は兄を宥め続けた。それが巧の行動を助長するのだと姉に窘められたのは、まあ別の話だ。
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