画家と天使の溺愛生活

秋草

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出逢いの章

天使を描いた

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 要真のアトリエとなっている高校の美術室は校舎の奥側にあり、四十人程を収容できそうな室内にはいくつもの絵が飾られていた。美術室後方のロッカー上にずらりと並ぶのは、全て彼の絵だ。教えられなくとも分かる。暮坂颯人の絵を観たときのように、本能が彼の絵だと告げるのだ。その世界にこちらを引き込む力は、颯人の絵に優るとも劣らない。
「わあ、どれも素敵です! この海の絵が特に好き!」
 興奮気味の真静が左端の絵を見つめれば、要真は嬉しそうに笑った。
「流石だね、佐成さんは。その絵が一番マシだと思ってる」
「それでは、今回はこれを出品する予定だったのですね。本当に素敵な絵……まるで暮坂さんのものみたい」
「え?」
 要真から漏れた声に、真静はハッとした。今、失礼なことを無意識のうちに呟いてしまったかもしれない。
「あ、の、すみません! 今の言葉は忘れてください!」
「いや、驚いただけだよ。画風はだいぶ暮坂と違うと思うんだけど、どの辺りが彼みたいだと思った?」
「それは……」
 発言を躊躇う真静に、目だけで先を促す。
 真静は彼の視線に負け、俯きながら呟くように言った。
「なんというか、その……感じるものが同じ、なんです」
「感じるもの?」
「雰囲気というか、絵から滲む何かが、私の心に響くんです。まるで、暮坂さんの絵を見たときのように……」
 言ってから顔を真っ赤に染め、両手で顔を覆う。だから見えていなかった。彼がひどく嬉しそうに頬を染めたのを。
「君の心に響くもの、か。ふふ、俺にはこの上ない賛辞だ」
「えっ、そ、そんな! 大袈裟です!」
 真っ赤な顔を上げて言えば、目を細めた彼と目が合った。
「そんなことないよ。本当に嬉しいんだから。どっちも君の心を動かせたのなら本望だ」
「そんな、恐れ多い……え?」
 聞き間違いかと真静の目が要真を凝視する。
「どっち、も……?」
 どっちもとは、どういう意味か。顔にはっきり戸惑いと緊張を浮かべた彼女に、要真のいたずらっ子の笑顔が向けられる。
「“新進気鋭”の若手画家、暮坂颯人と倉瀬要真、その“二人”の絵がってこと」
「そ……まさか……倉瀬さんが、暮坂、さん……?」
「そう。倉瀬要真が俺の本名。俺が暮坂颯人だってことは俺の中で一番の秘密だけど、君にはまた会えたら明かそうと前から思っていたんだ。無事に再会できてよかった」
「それは、その……」
 息が苦しい。あまりの衝撃で息ができない。憧れの人、敬愛して止まない存在が今同じ空間で自分と同じ空気を吸っていることが信じられなかった。
 要真はそんな真静の様子に気づいているのかいないのか、ただただ愉しげだ。
「あの日君が言ったことは衝撃的だったよ。あの絵に違和感があるって言葉が」
「え、あの、それでは私、ご本人の前で、絵が偽物だなんてことを……」
 正確には偽物とまでは言っていないが、まあ言ったも同然だ。そんな発言を本人に聞かれていたのだ。穴があったら駆け込みたい。その上で自らの息の根を止めたい。
 さあっと全身から血の気が失せた彼女に、要真は変わらず笑みを向けている。
「そんな人生の終わりみたいな顔しないで。君は正しいよ」
「ど、どういうことですか?」
「あの絵は俺の兄が描いたものなんだ。俺の画風を完璧に真似てね」
「お兄さん……」
 兄弟で天才画家なのだろうか、というか兄がいたのか、など、最早何に対して驚いているのか自分でも判らずに呆けていると、真静を見つめていた彼が何かを閃いた様子で準備室に消えた。すぐに戻ってきた彼の手にあったのは、新しいページを表に出したスケッチブックとパステルセットだ。
「折角だし、君を描いていいかな? すぐ終わらせるから」
「わ、私を、ですか? そんな、畏れ多いです」
「そんなことないよ。ね、描かせて?」
 描かせて、と頼みながら、彼は早くも描く用意を進めている。断ることは出来なそうだ。さっさと準備をしてしまったのは、要真の策略かもしれない。
「うう、はい……」
「よかった。ありがとう」
 真静が観念すれば、彼は心持ち声を弾ませた。
「じゃあ、そこに座って」
 真静は要真に指示されるまま近くの席に腰を下ろし、俯きがちに描き終わりを待った。


*****


 要真がスケッチブックと向き合い始めて三十分。真静は静止状態から漸く解放された。腰が少しばかり痛い。
「腰痛そうだね。大丈夫?」
「へ、平気です。変に緊張してしまっただけなので」
「緊張なんかしなくていいのに」
 彼はさも簡単そうに言うが、この状況ではそうもいかない。絵のモデルというだけで充分緊張する上に、憧れの画家が相手なのだから。
 真静は腰を摩り、呼ばれて彼の脇に立った。と同時に、感嘆の声が漏れる。
「綺麗……」
 自分そのものの姿を誉めたわけではない。彼が真静を理想化したとしか思えぬ美しさが、絵の中の美術室で虚を見つめる少女にはあったのだ。
「佐成さんは美人だから、描き甲斐があるよ。また描かせてもらってもいい?」
「そ、そんな、これ以上は本当に畏れ多いです!」
 無理無理、と首を振る真静だが、要真は相変わらず「そんなことないって」と取り合わない。
「暮坂颯人としてのお願い。また描かせてね、佐成真静さん」
「うっ……」
 暮坂颯人の名前を出されては拒否ができなくなる。そのことを見透しているのか、要真の目はいたずらっぽく輝いている。それを少しだけ意地悪だと思いながら、真静は小さな声で了解した。
「ありがとう、佐成さん。それじゃあ、連絡先交換しよう」
 早速バッグからスマホを取り出した彼に「アプリとメールなら、どっちがいい?」と問われ、真静は咄嗟にメールを希望した。最近はあまり使わない分、特別感がある。
 要真が見せてくれたアドレスを自分のスマホに打ち込み、挨拶を添えてメールを送った。
 要真は真静からのメッセージを受信すると、すぐにアドレス登録を済ませた。
「交換完了。さて、そろそろ帰ろうか」
「は、はい!」
 真静は極度の緊張から早く解放されたかったが、“暮坂颯人”のそばにいられることの喜びが勝り、結局彼が片付けを終えるまで留まった。
 要真は準備室から持ち出した黒い不織布のバッグに、美術展に出す予定だった海の絵を入れてから、真静に微笑んだ。
「お待たせ、佐成さん。行こうか」
 そうして二人は肩を並べ、談笑しながら学校を出た。室内では気にしていなかったが、西の空はすっかり橙に染まっている。
「遅くなってごめんね」
 要真が謝ると、真静はゆるゆると首を振った。その顔には幸福に満ちた微笑みが浮かんでいる。
「暮、倉瀬さんとお話しできましたから、大満足です。こちらこそありがとうございました」
「……佐成さんって、モテるでしょ?」
 突然真顔で言われ、真静の目が丸くなる。今の流れでなぜそのような話題が飛び出すのだろうか。
「き、急に何ですか?」
「いや、なんとなくそう思ったんだ。佐成さんは美人だから、男が放っておかなそうだな、と」
「……」
 たしかに、十五年の人生で告白されたことは幾度となくあった。しかし、それでも真静は自分の顔が特別と思ったことはない。それに、自分が好きでない人と付き合うつもりはてんでないため、今までに恋人がいたこともない。
「男子からは放っておかれても、いいのですけれど」
「へえ、モテたくないの?」
「恋愛対象として大勢に好かれる、ということにはあまり関心がありません。自分が想った相手に愛してもらえれば、それで満足です」
「……実は贅沢な想いだね」
「はい」
 贅沢であることは重々承知の上だ。男子から絶大な支持を受ける彼女からこんな話を聞けば、大勢の女子から文句が殺到するかもしれない。もっとも、真静はモテることをまったく鼻に掛けていないため、今のところは女子受けも良いのだが。
「佐成さんのお眼鏡にかなった男は、今はいるの?」
 要真は世間話の気軽さでにこやかに質問を投げたが、その眼に真剣さ以外の色はない。
 彼の眼差しに胸のときめきと違和感を覚えつつ、真静は緩く首を振った。それを認め、要真がどこか安堵したような、それでいて残念がってもいるような顔をする。
「そっか」
 それだけ言って正面を向き、ぼそりと呟いた。
「……まあ、まだチャンスはあるってことか」
 その言葉が真静に届くことはなく、彼女が怪訝な顔を要真に向けても「何でもないよ」とはぐらかされたのだった。

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