画家と天使の溺愛生活

秋草

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機転の章

画家への溺愛

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 要真が自宅があるマンションに着いたのは、真静と別れた二時間後だった。彼女を家まで送ったのは良かったが、前回同様弾丸の如く飛び出してきた姉に殺気立った目で睨まれたことが意外と堪えたようで、妙に気分が落ち着かなかったため、それを紛らわせようと買い物をしてからの帰宅だ。画材を買いすぎて最上階へのエレベーターを二人分占拠してしまった。
 気だるげな手付きで鍵を開け、扉を引く。と、玄関に一足、見慣れてはいるが自分のものではない靴があることに気が付いた。
 黒い男物の革靴。脱いだ履き物をそっと端に並べるような男は、要真は二人しか知らない。一人はマネージャーの赤浜、そしてもう一人は……。
 特に揃えることもなく、適当に靴を脱いで廊下を進む。食欲をそそられるいい匂いが漂ってくる、があまり嬉しくない。
 少し苛立ちつつ、しかしそれを隠しながらリビングへの扉を開けると、食卓の側に男がいるのが見えた。
 落ち着いた明るめの茶色に染めた髪を短く切り揃えた長身の美男。そう、世間では中々の評判だ。
 食卓を整えていた彼はこちらを向くなり満面の笑みを浮かべた。
「よう、おかえり!」
「……あのさ」
 挨拶を返す気も起きず、要真は無表情で彼を見据えた。いや、若干苛立ちと呆れが眼に滲んでいる。
「勝手に予告なしに家に来るの、そろそろやめてもらえる」
 思ったより冷めてしまった声音だったが、相手は全く意に介していないようだ。
「だって、連絡したって見ないだろう。それに、連絡したら断られるからな」
「それを分かってるなら来ないでよね」
 少し意図的に語気を強めれば、相手は態とらしく肩を落とした。
「なんだよー、兄に向かってそれは冷たすぎないか?」
「兄さんが俺に構い過ぎなのが悪い」
「一人暮らしの弟が心配で毎週来るくらい誰でもするだろ!」
「……」
 そう、この男、もとい要真の兄は、真静の姉といい勝負になりそうなくらいのブラコンである。弟への過剰な愛情ぶりは、要真という名前自体が兄の提案と熱意によるものだという事実からも伺えるだろう。
 もういいや、と相手にすることを諦めた要真はリビングを足早に通過し、リビング奥の部屋に向かった。
「あれっ、もう夕飯できたぞ?」
 部屋に入ろうとする弟の後ろから兄の寂しげな声がかかる。二人でのんびり食べるつもりだったに違いないが、今は他にやりたいことがある。
「あとで食べる」
 ぶっきらぼうに言い放つが、兄はめげずに奥の手を使ってきた。
「今日はお前の大好物だぞー? 冷めたらまずいぞー?」
 大好物、まずい。そのワードを無視できるほど、要真は食事に無関心ではないつもりだ。
 部屋のドアノブにかけた手をしばし見つめ、深い溜め息とともに踵を返す。兄のしたり顔が癇に障るが、それを気にしては食事ができない。
 席についた要真の目の前に料理が運ばれ、兄も要真の向かいに腰を下ろす。
「さあ、召し上がれ。お前が大好きなグラタンだぞ」
「……いただきます」
 フォークを手に取り、グラタンの端に突き立てる。そのまま掬い上げようとしたところで、兄が「それで?」と切り出した。
「顔色悪いし帰りも遅かったけど、なんかあったのか?」
「別に、何もないけど」
「おいおい、この俺の目を欺けると思うなよ?」
「……」
 昔から、兄には些細な隠し事もできた試しがない。不気味なほど要真のあらゆる変化には敏感なのだ。他の人に対しては並より少し上の勘しか働かないのだが。
 寸の間黙り込んだ要真は深い溜め息をつき、フォークを置いた。代わりにコップを取り上げ、少し水を飲む。
「……この前絵画展を開いたでしょ? その時天使に会った」
「天使、だと?」
 流石に理解できなかったのか、はたまた本気でそのままの意に受け取ったのか、引き攣った顔で兄が手を伸ばしてきた。そして、何をするつもりかと眉を顰めた直後、むにっと頰をつままれた。
 想定外かつ少しイラついたせいで目が据わる。
「なに」
「感覚、あるか?」
「はあ?」
「生きてるか?! 昇天してないよな?!」
「……」
 兄は馬鹿なのだろうか。本気で弟にそう思われたとは夢にも思っていないであろう兄は、沈黙の後に弟から放たれた、刺々しいことこの上ない響きの「はあ?」に心から安堵し、背もたれに寄りかかった。
「よ、よかった……」
「死んでいるわけないでしょ。死んでいたらここにはわざわざ来ない」
「家にか? なんで?」
「兄さんが無断で侵入している可能性があるからに決まってる」
「は?! おま、どこまで兄を嫌えば気が済むんだ?」
「嫌ってるわけじゃないけど、結構鬱陶しい」
 オブラートに包むでもなく、言葉を選ぶでもなく、直球で言い放った要真の台詞は、兄の心を見事に砕いた。
「おおお……」
 胸を押さえて背中を丸める兄。しかし要真は黙々とグラタンを突っついている。
「……おおお」
 兄のうめき声は聞こえていないが如く、完全無視だ。
「慰めろよ!」
 たまらず叫んだ兄は年甲斐もなく涙目である。
「兄がこんなに傷ついてんのに無視?! 流石にひどくない?!」
「このグラタン美味いね」
「……」
 騒ぎ始めた直後の「美味いね」。その一言で嬉しさのあまり黙ることを、弟はよく知っていた。計算された言葉であると同時に、例え計算でも嘘は言わない要真の「美味いね」は真実でもあるわけで、黙らせるためと分かっていても、兄は嬉しくならざるを得ない。
「可愛い奴め」
 にやけた顔でそう呟き、彼はグラタンを頬張ったのだった。


*****


 兄との食事を終え、入浴まで済ませた要真は、兄が機嫌よくリビングの掃除をしているのを横目に見つつ自室にこもった。
 部屋の壁際には兄によって最高級クイーンサイズベッドが置かれ、そこから五歩先の大窓を開ければ時間を問わず暖かな陽の光と爽やかな風を感じられる。部屋にある家具といえばベッドの他はざっくり言って木製の仕事机のみだ。実に簡素だが、要真が不自由を感じたことは一度もない。
 要真は部屋の隅に置いていた本日の購入品達を抱え、部屋の片隅にある扉を引き開けた。この部屋はリビングからも入れる別室と続きになっており、彼はそこをアトリエにしていた。
 アトリエの壁際という壁際には“暮坂颯人”の作品が並べられ、次の展示会やコンクール、そして依頼人を待ちわびていた。そんな作品たちに囲まれたスペースは真っさらだ。ここに、時と場合に合わせた画材などを広げるのである。
 入室早々要真の手が伸びたのは、作品の中で唯一イーゼルに置かれた絵だった。
 青い衣に身を包んだ、天女の如き美女。彼女が浮かべる微笑は全てを包み込むような慈愛と大らかさを湛えていた。
 この絵のモデルは何を隠そう、佐成真静である。彼女に出逢ってからというもの、その美しさと清純さ、そして温かさが頭を離れない。そのせいで大資産家からの依頼作品に集中できず、この絵ばかりと向き合っていた。
 絵をじっと見つめ、今日の彼女との時間に想いを馳せる。
 今日彼女を呼んだのは、決して絵のモデルになってもらう為などではなかった。そんな理由は口実でしかなく、本当のところは、ただ会いたかったのだ。
 今度はいつ会えるだろうか。モデルになってくれと誘うか。はたまた一緒に出かけようと誘うか。どの道彼女の姉という壁が立ちはだかるわけだが、それはまあ、いずれ越えてみせよう。
 そんなことを考えながら、彼は日を越すまで天使を描き続けた。


 
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