悪い男は愛したがりで?甘すぎてクセになる

奏井れゆな

文字の大きさ
2 / 100

2.名刺に雫

しおりを挟む
 堂貫と補佐の長友聡士ながともさとしがエレベーターの前で立ち止まったところに、智奈は間に合った。
「あの!」
 呼びかけた声は、意外にエレベーターホールから廊下へと響き渡った。
 堂貫たちがおもむろに振り向き、智奈は少し身をすくめると、すみません、と一礼をした。
「あの、話しておきたいことがあるんですけど、お時間を少しいただけますか」
「いま?」
 堂貫は首をひねりながら問う。
「はい。いまのうちに考え直してもらったほうがいいと思うので……」
「考え直す? 何を?」
 せっかちなのか、時間が惜しいのか、堂貫は智奈をさえぎった。
「わたしは、会社をやめることになると思います。だから……」
「川上課長は、そんなことはひと言も云っていなかったが……『やめることになる』というのは、きみの意志じゃないということか?」
 智奈は密かに驚く。堂貫は智奈の言葉を正確に捉えていた。
 迷ったのはつかの間。そんな堂貫だからこそ、隠してもそう時間を置くことなく耳に入ったり、調べたりして情報を得るだろう。智奈はそう考え至って、うなずいた。
 リソースA企画は人材の仲介業メインの会社で、そこそこ信用を得て経営がうまくいっている。それなのに買収された理由は何なのか――と、それはさておき、智奈は経理の仕事を預かっている。去年まではほかの社員と同様、普通に働けていたのに、今年に入って智奈の環境だけ一変した。会社に居づらくなっている原因は、会社のせいでないのはもちろんのこと、智奈のせいでもないはずだ。けれど、無関係とは決して云えない。
「わたしの父は犯罪者です。会社から辞めるようには言われてませんけど、辞めないといけないと思っています。だから、さっきの話はほかの方にするべきです」
 今度はさえぎらないどころか、堂貫は意表を突かれたようにわずかに顎を上げたまま、沈黙してしまった。エレベーターホールは建物の隅にあって、堂貫は、採光のための窓ガラスを背にして立っている。智奈からは逆光になって、堂貫の目はまったく見えず、喜怒哀楽の大まかな感情さえ窺えない。
 犯罪者の父親がいることを知って、引いてしまったのかもしれない。そうだとしても、智奈が辞退しているのだから、堂貫は気を遣うこともなく人事を変えればすむ。もっとも、堂貫がそんなことで怯む人だとは思えない。そんな社員がいることを嫌うことはあっても。
「どんな犯罪だ。父親はどんな罰を受けてる? いま刑務所か?」
「いえ……父、三枝行雄ゆきおは税理士でした。ニュースでご存知かもしれません。フロント企業と関わっていたそうです。警察の家宅捜索が入ったあとに心臓発作を起こして、そのまま亡くなりました」
 任意同行から始まって、被疑者死亡、書類送検という言葉は耳にしたことがあるけれど、目の前に並べ立てられても智奈は理解できなかった。いまでも詳細が知らされることなく、よくわかっていない。
 ただ、フロント企業と云えば犯罪組織――ただの犯罪組織ではなく、暴力があたりまえの組織であることは明白で、表の人間ならだれでもが手を引きたがる。関わりたくないからこそ、きっと会社もはっきり辞めろとは言いだせない。智奈も裏の社会と繋がっていると疑われているのだ。けれど。
「きみが犯罪者ならともかく、辞める必要はない。たとえ、会社から辞めろと云われてもな。転職したいとか、きみに辞めたいという意志があれば別だが。ずうずうしく生きたほうが勝ちだ。一見は真っ当なクリアな世界であろうと、極めてグレーな上に成り立っている。おれは清廉潔白な人間を期待してなどいない。話はそれだけか?」
 まったく大したことのないように堂貫は云った。裏を返せば、無駄な時間だったと云っているようにも聞こえる。
「はい。時間を取ってすみませんでした」
 再び一礼をすると足音が聞こえだした。頭を上げる間にそれは近づいてくる。
 目の前に立った堂貫は、「長友、ペンを」と云いながらジャケットの内ポケットに手を入れ、カードケースを取って開いた。カードを一枚取りだしている間に、長友が傍に来て、どうぞ、とペンを差しだした。堂貫はそれを受けとると、するするとペンを走らせて何かを記し、それから智奈に差し向けた。
 智奈は反射的に受けとり、カード――名刺を見た。印刷された文字の隙間に、明らかに携帯番号だとわかる数字が並んでいる。
「何か面倒なことに巻きこまれたり、巻きこまれそうになったり、あとは相談事でもいい。そういうときは連絡してくれ」
 思いがけない言葉だった。智奈が驚いて返事もできないでいる間に堂貫は身をひるがえす。エレベーターの扉を開いたままにして待つ長友と一緒に乗りこんだ。
「ありがとうございます、お疲れさまでした」
 智奈が慌てて声をかけると、堂貫はかすかにうなずき、一瞬後に扉が閉まった。
 気を張っていたけれど、堂貫に云うべきことを伝えられたことで気が抜けたようにほっとした。それとは別に――
 堂貫はおざなりで行動を起こす人には見えない。見下ろした名刺にぽたりと雫が落ちて、数字が少し滲んでしまう。
 堂貫と話したのははじめてで、遠い人のはずが、智奈は父の事件が発覚して以来、頼れる人がいることの安心感を覚えた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

デキナイ私たちの秘密な関係

美並ナナ
恋愛
可愛い容姿と大きな胸ゆえに 近寄ってくる男性は多いものの、 あるトラウマから恋愛をするのが億劫で 彼氏を作りたくない志穂。 一方で、恋愛への憧れはあり、 仲の良い同期カップルを見るたびに 「私もイチャイチャしたい……!」 という欲求を募らせる日々。 そんなある日、ひょんなことから 志穂はイケメン上司・速水課長の ヒミツを知ってしまう。 それをキッカケに2人は イチャイチャするだけの関係になってーー⁉︎ ※性描写がありますので苦手な方はご注意ください。 ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。 ※この作品はエブリスタ様にも掲載しています。

暴君幼なじみは逃がしてくれない~囚われ愛は深く濃く

なかな悠桃
恋愛
暴君な溺愛幼なじみに振り回される女の子のお話。 ※誤字脱字はご了承くださいm(__)m

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

訳あって、お見合いした推しに激似のクールな美容外科医と利害一致のソロ活婚をしたはずが溺愛婚になりました

羽村 美海
恋愛
狂言界の名門として知られる高邑家の娘として生を受けた杏璃は、『イケメン狂言師』として人気の双子の従兄に蝶よ花よと可愛がられてきた。 過干渉気味な従兄のおかげで異性と出会う機会もなく、退屈な日常を過ごしていた。 いつか恋愛小説やコミックスに登場するヒーローのような素敵な相手が現れて、退屈な日常から連れ出してくれるかも……なんて夢見てきた。 だが待っていたのは、理想の王子様像そのもののアニキャラ『氷のプリンス』との出会いだった。 以来、保育士として働く傍ら、ソロ活と称して推し活を満喫中。 そんな杏璃の元に突如縁談話が舞い込んでくるのだが、見合い当日、相手にドタキャンされてしまう。 そこに現れたのが、なんと推し――氷のプリンスにそっくりな美容外科医・鷹村央輔だった。 しかも見合い相手にドタキャンされたという。 ――これはきっと夢に違いない。 そう思っていた矢先、伯母の提案により央輔と見合いをすることになり、それがきっかけで利害一致のソロ活婚をすることに。 確かに麗しい美貌なんかソックリだけど、無表情で無愛想だし、理想なのは見かけだけ。絶対に好きになんかならない。そう思っていたのに……。推しに激似の甘い美貌で情熱的に迫られて、身も心も甘く淫らに蕩かされる。お見合いから始まるじれあまラブストーリー! ✧• ───── ✾ ───── •✧ ✿高邑杏璃・タカムラアンリ(23) 狂言界の名門として知られる高邑家のお嬢様、人間国宝の孫、推し一筋の保育士、オシャレに興味のない残念女子 ✿鷹村央輔・タカムラオウスケ(33) 業界ナンバーワン鷹村美容整形クリニックの副院長、実は財閥系企業・鷹村グループの御曹司、アニキャラ・氷のプリンスに似たクールな容貌のせいで『美容界の氷のプリンス』と呼ばれている、ある事情からソロ活を満喫中 ✧• ───── ✾ ───── •✧ ※R描写には章題に『※』表記 ※この作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません ※随時概要含め本文の改稿や修正等をしています。 ✿エブリスタ様にて初公開23.10.18✿

小野寺社長のお気に入り

茜色
恋愛
朝岡渚(あさおかなぎさ)、28歳。小さなイベント企画会社に転職して以来、社長のアシスタント兼お守り役として振り回される毎日。34歳の社長・小野寺貢(おのでらみつぐ)は、ルックスは良いが生活態度はいい加減、デリカシーに欠ける困った男。 悪天候の夜、残業で家に帰れなくなった渚は小野寺と応接室で仮眠をとることに。思いがけず緊張する渚に、「おまえ、あんまり男を知らないだろう」と小野寺が突然迫ってきて・・・。 ☆全19話です。「オフィスラブ」と謳っていますが、あまりオフィスっぽくありません。 ☆「ムーンライトノベルズ」様にも掲載しています。

処理中です...