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26.贅沢な願望
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フロアを跨ぐ、深く巨大な水槽の中、いろんな海洋生物に混じって白黒斑のシャチが優雅に泳ぐ。下のフロアから見えるのは、専らシャチのおなかだ。
「智奈、本当に水族館が好きなんだな。水槽にへばりついてる。カエルみたいだ」
ぱっと声のしたほうを振り向くと、目の前に、ほら、と飲み物の容器が掲げられた。
三月最後の日曜日、キョウゴから誘われた初デートで水族館までやってきた。久しぶりに来て、やっぱり魚を見るのは好きだと実感している。
特別、天井の高い大きな水槽の前から動かない智奈に痺れを切らしたのか、キョウゴは飲み物を買いにいくと云い、けれどその言葉も智奈はいいかげんに聞いていたのだろう、びっくり眼になりながらカップを受けとった。
「カエルって……もっと可愛く云ってくれるといいのに」
智奈は少し口を尖らせた。
「可愛くって例えば?」
「えっと……てんとう虫は?」
「はっ。確かに、小さいところは似てる。……それと、体液を飛ばすところも」
一瞬なんのことかと考えた。てんとう虫の習性――攻撃されたとき黄色い体液を出すことを思いだし、その意味を察すると、智奈は慌てて周りを見た。
すると、すぐ近くにいる女性同士の連れ二人と目が合ってしまう。そうして彼女たちの視線がキョウゴへと転じる。そうなると、彼女たちが果たしてキョウゴの発言に反応したのか、それともキョウゴ自身に反応しているのか、どちらかは判別がつかない。
「おかしなこと云わないで!」
智奈は音にならない囁き声でキョウゴを咎めた。そうしたところでキョウゴに効き目はなく、にやりとしながら澄まして肩をすくめると、智奈を水槽へと向き直らせた。キョウゴはぴたりと背中に張りつき、水槽の壁に片手をついて、もう片方は腹部に手をまわして智奈を囲う。
「おかしなことじゃなくて事実だろう。おれは気に入ってる」
キョウゴはからかうと、身をかがめて智奈の耳もとに顔を寄せて――
「ちなみに、カエルがひっくり返った恰好も気に入ってるけど」
耳もとで熱い吐息をこぼしながらキョウゴは嫌らしいことを囁いた。
だれかに聞かれなくても智奈は慌てた。ベッドのなか、最後の砦はまだ守られているけれど、ひっくり返ったカエルみたいな恰好でなされる行為は恥ずかしすぎる。抗議してもやり込められることはわかっているから、智奈は平気な振りを装ってだんまりを通した。
その努力すらもキョウゴは察しておもしろがっている。その証拠に、背中にくっついた躰が持続して小さく揺れた。
「キョウゴはもう、こんなふうに人前でベタベタする年じゃないと思うけど」
「ベタベタ? おれは智奈を守ってる、約束どおりに」
やり込めようとしてもキョウゴはどこ吹く風だ。ただ、その言葉を聞いてふと智奈は堂貫のことを思いだした。自ずと、およそ二週間前のことが脳裡に甦る。
堂貫とキョウゴ。髪の匂いを気にする共通点。似ているという以上に同じだ。あのとき、ぼんやりとそうは思っても、パラダイスから抜けだす気にはなれなくて、智奈は眠りについた。
いざ翌日になると、自分の考えが突飛な気がして、訊ねるのは控えてしまった。
背の高さ、頬から顎にかけての輪郭、声、そして髪の匂いを気にするところ、いろんなところが似ていて、けれど、喋り方は違って、昼間の仕事と夜の仕事というところも違っている。
類は友を呼んだにすぎないのか、それとも双子?
でも、双子なら一心同体などと云わずに、普通に双子と云えばすむ。
それ以降、あらためて髪の匂いを気にされることなく、偶然にすぎなかったかもしれない。第一、別人を装ってなんの意味があるのか。まったく見当がつかない。
もっと云えば、智奈の願望がそう思わせるのだ。堂貫とキョウゴが同一人物であれば、何も惑ったり迷ったりしない。
その日から二週間がたって、ふたりの違いはくっきりしてきた。
堂貫はお詫びだといって父の事務所の清算を申し出たが、有言実行、さっそく動いてくれていて、来週の金曜日、智奈は最後の手続きに立ち会うことになっている。
堂貫とふたりきりになることはもうなく、対面してのプライベートな会話は会社のエレベーターホールの前で見送りをするつかの間だけ、電話がかかってきても用件のみ、仕事のときはあたりまえに至ってビジネスライクだ。
がっかりするのはきっと筋違いだ。堂貫は仕事の付き合いの延長上で、すぎるほど親切にしてくれているのにすぎない。
智奈がその都度お礼を云うたびに堂貫は、『お詫びだ、約束は守る』と、そんなことを返す。
堂貫がそうやって外側の障害――面倒事から智奈を守るのに対して、キョウゴの場合は、今日みたいにデートに誘って楽しませてくれたり、同棲して智奈を孤独から救ったり、内面の部分を守っている。
ふたりの守り方は違っていて、だからこそ智奈はふたりがひとりだったらと思ってしまうのだ。
贅沢な願望だ。
「智奈、本当に水族館が好きなんだな。水槽にへばりついてる。カエルみたいだ」
ぱっと声のしたほうを振り向くと、目の前に、ほら、と飲み物の容器が掲げられた。
三月最後の日曜日、キョウゴから誘われた初デートで水族館までやってきた。久しぶりに来て、やっぱり魚を見るのは好きだと実感している。
特別、天井の高い大きな水槽の前から動かない智奈に痺れを切らしたのか、キョウゴは飲み物を買いにいくと云い、けれどその言葉も智奈はいいかげんに聞いていたのだろう、びっくり眼になりながらカップを受けとった。
「カエルって……もっと可愛く云ってくれるといいのに」
智奈は少し口を尖らせた。
「可愛くって例えば?」
「えっと……てんとう虫は?」
「はっ。確かに、小さいところは似てる。……それと、体液を飛ばすところも」
一瞬なんのことかと考えた。てんとう虫の習性――攻撃されたとき黄色い体液を出すことを思いだし、その意味を察すると、智奈は慌てて周りを見た。
すると、すぐ近くにいる女性同士の連れ二人と目が合ってしまう。そうして彼女たちの視線がキョウゴへと転じる。そうなると、彼女たちが果たしてキョウゴの発言に反応したのか、それともキョウゴ自身に反応しているのか、どちらかは判別がつかない。
「おかしなこと云わないで!」
智奈は音にならない囁き声でキョウゴを咎めた。そうしたところでキョウゴに効き目はなく、にやりとしながら澄まして肩をすくめると、智奈を水槽へと向き直らせた。キョウゴはぴたりと背中に張りつき、水槽の壁に片手をついて、もう片方は腹部に手をまわして智奈を囲う。
「おかしなことじゃなくて事実だろう。おれは気に入ってる」
キョウゴはからかうと、身をかがめて智奈の耳もとに顔を寄せて――
「ちなみに、カエルがひっくり返った恰好も気に入ってるけど」
耳もとで熱い吐息をこぼしながらキョウゴは嫌らしいことを囁いた。
だれかに聞かれなくても智奈は慌てた。ベッドのなか、最後の砦はまだ守られているけれど、ひっくり返ったカエルみたいな恰好でなされる行為は恥ずかしすぎる。抗議してもやり込められることはわかっているから、智奈は平気な振りを装ってだんまりを通した。
その努力すらもキョウゴは察しておもしろがっている。その証拠に、背中にくっついた躰が持続して小さく揺れた。
「キョウゴはもう、こんなふうに人前でベタベタする年じゃないと思うけど」
「ベタベタ? おれは智奈を守ってる、約束どおりに」
やり込めようとしてもキョウゴはどこ吹く風だ。ただ、その言葉を聞いてふと智奈は堂貫のことを思いだした。自ずと、およそ二週間前のことが脳裡に甦る。
堂貫とキョウゴ。髪の匂いを気にする共通点。似ているという以上に同じだ。あのとき、ぼんやりとそうは思っても、パラダイスから抜けだす気にはなれなくて、智奈は眠りについた。
いざ翌日になると、自分の考えが突飛な気がして、訊ねるのは控えてしまった。
背の高さ、頬から顎にかけての輪郭、声、そして髪の匂いを気にするところ、いろんなところが似ていて、けれど、喋り方は違って、昼間の仕事と夜の仕事というところも違っている。
類は友を呼んだにすぎないのか、それとも双子?
でも、双子なら一心同体などと云わずに、普通に双子と云えばすむ。
それ以降、あらためて髪の匂いを気にされることなく、偶然にすぎなかったかもしれない。第一、別人を装ってなんの意味があるのか。まったく見当がつかない。
もっと云えば、智奈の願望がそう思わせるのだ。堂貫とキョウゴが同一人物であれば、何も惑ったり迷ったりしない。
その日から二週間がたって、ふたりの違いはくっきりしてきた。
堂貫はお詫びだといって父の事務所の清算を申し出たが、有言実行、さっそく動いてくれていて、来週の金曜日、智奈は最後の手続きに立ち会うことになっている。
堂貫とふたりきりになることはもうなく、対面してのプライベートな会話は会社のエレベーターホールの前で見送りをするつかの間だけ、電話がかかってきても用件のみ、仕事のときはあたりまえに至ってビジネスライクだ。
がっかりするのはきっと筋違いだ。堂貫は仕事の付き合いの延長上で、すぎるほど親切にしてくれているのにすぎない。
智奈がその都度お礼を云うたびに堂貫は、『お詫びだ、約束は守る』と、そんなことを返す。
堂貫がそうやって外側の障害――面倒事から智奈を守るのに対して、キョウゴの場合は、今日みたいにデートに誘って楽しませてくれたり、同棲して智奈を孤独から救ったり、内面の部分を守っている。
ふたりの守り方は違っていて、だからこそ智奈はふたりがひとりだったらと思ってしまうのだ。
贅沢な願望だ。
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