悪い男は愛したがりで?甘すぎてクセになる

奏井れゆな

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49.仕返し

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 智奈はデスクに戻ると、すっかり冷めたコーヒーをひと口飲んで、京吾から手渡された書類を何気なく見てみた。
 数枚を左上で留めた書類の表紙には『A企画』とだけ記され、なぜか『リソース』が省略されている。表紙を捲ってみると智奈は思わず二度見して、固まったすえ、ハッと我に返って表紙を閉じた。慌てたせいで紙の音が立ち、周囲の気を引いたかと焦りつつも、智奈は何事もなかったように努めた。
 京吾はまもなく三十歳になるというのに、少年というよりも子供みたいに悪戯好きだ。
 これはどういうつもりか、書類に見立てたペーパーにカラー印刷されていたのは、水着姿でポーズを取った女性たちだった。顔の部分がカットされていたから、ひょっとしたらマネキンかもしれない。
 確かめたい気持ちは半分、有吉は帰ったけれどもう片側には北村という若手の男性社員がいて、デスクの間に低いパーティションはあるものの見るにはためらう。
 もう! ――と、内心でキョウゴをなじっていると、デスクの上に置いていたスマホが振動し始めた。勘が働いて手に取ってみると、思ったとおりメッセージは京吾からだ。開いてみた。
『選んで。今度、プールに連れていくから。シャチと泳いでみたいだろう?』
 同棲しているのだから家でも充分できる話だ。しかも明日は土曜日で、なんなら家で相談しながら選べる。わざわざ会社で持ちかけるなんて、やはり京吾は悪戯好きのシャチだ。
 ただ、京吾が泳ぐところを見たい気持ちはずっとあったから、智奈は怒る気にも不機嫌にもなれない。
『京吾が恥ずかしくなるくらい、セクシーなのを選んでおく!』
 意味は伝わるだろうか。そう思いながら、智奈もまたちょっとした悪戯心を出して返信した。
「三枝さん、共有データの更新かけてるから、週明けチェックしてくれるかな」
 いきなりで――と感じたのは仕事中に見られてはならないことをやっていたからだろう、智奈はびくっとしてスマホを落としそうになった。そうなったところですぐ下はデスクの上で壊れることはないのに、あ――と小さく声をあげつつ智奈は慌ててしまった。
「――っ、はい、やっておきます」
 北村は奇妙な面持ちで智奈に目を留めた。返事した声はうわずっていたし、滑稽に見えただろう。
「べつに、メッセのやりとりくらいでだれも咎めないよ。席を外して長々と電話ってのは問題だけど」
 北村は親切心で云ってくれたのだろうが、あとのフォロー言葉は、智奈には耳が痛い。
 ついさっき、席を外してやっていたことといえば……。
 蒼ざめるような、それでいて赤くなるような、智奈は疾しさと恥ずかしさが入り乱れてうろたえる。あまつさえ、スマホが振動音を立てると、ばつの悪さしかない。内情をわかっていない北村にはどうということなく映るのだろうけれど。
「はい。仕事は、昇給してやろうって上司に思わせられるくらいに、ちゃんとやりたくてここに来たので」
「いい心がけだ」
 北村は可笑しそうにして、じゃあよろしく、と自分のパソコンに向き直った。
 北村は京吾より二つ年下で、大学の後輩だといい、経理部門の主任という役を担っている。年齢が近いせいか気さくに接してくれる。
 ただ、リソースA企画で四面楚歌だったぶん、北村や有吉の親切ぶりに最初は戸惑ったものだ。ふたりに限らず、財務部の同僚たちから昼休みにランチに誘われることも増えてきている。前勤務先とは別の意味で針の筵であることにかわりはないけれど、普通にコミュニケーションが取れることの居心地の良さは格段に違う。
 智奈は京吾から預かった“書類”を二つ折りにしてデスクの隅に置くと、持ち帰ることを忘れないよう、その上にスマホを置いた。その直前にちらりと見た京吾からの返信は『おぼえてろ』だ。ちゃんと意味は伝わったらしく、智奈はひっそりと笑って仕事に戻った。
 それから、北村に宣言したとおり智奈は仕事に集中できていたようで、ふと空腹感を覚えて時間を見れば二十時になっていた。
 おなかが減るはずだ。きりもいいし、帰ろう。
 京吾はもう帰っただろうか。スマホを見ると、三十分前に『ヘラートに行ってくる』というメッセージが届いていた。いまさらだけれど、智奈は『いってらっしゃい』と返信をして、帰り支度を始めた。
 まだ残っている北村に声をかけてオフィスをあとにする。オフィスはまだ人が残り煌々としていたけれど、一階のエントランスは総合受付もとっくに閉じている時間帯ゆえ、照明がありながらも侘しいような雰囲気だ。
 警備のためにエントランスのドアは施錠されていて、社員証を通して解錠しなければならない。智奈はカードリーダーに社員証をすっと通す。ドアが開いたとたん雨音がうるさくなった。
 昼間の雨は、濡れて歩くのも好きというくらい気にならないけれど、夜の雨は楽しくない。智奈は少し顔をしかめると傘を差してエントランスを出た。
「智奈」
 歩道に出て間もなく、雨音を掻いくぐって智奈を呼ぶ声が聞こえた。だれなのか、雨のせいで声音までは聞きとれず、瞬時には判別がつかない。
 智奈は少し傘を上げて声のしたほう――前方へと視線を伸ばした。目を凝らすと――照明のなか浮かびあがる雨のカーテンを通して、そこにいるのはシンジにしか見えなかった。
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