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第5章 夜鷹
1.ラブドナー
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ラブドナーで働かせられるようになって、この頃少し寒くなってきたと思えば九月も終わろうとしていた。
父の借金を知り高校をやめてクラブで働くことも激変だったが、あの夜はそれ以上に崩壊の日と云ってもいい。それから二カ月もたっていて、長いのか短いのかわからず、毬亜の時間の感覚は麻痺してる。与えられることをただこなすだけの毎日を繰り返しているからかもしれない。
「もう!」
控え室のドアを開け、室内をさっと見渡したあと、不満をぶちまけながら砂由里は戻ってきた。紫色主体の丈の短いベビードールにロングパンツという、出ていったときとは違う姿だ。
「時間制じゃなくって、あいつだけは一回いくらってしてもらえないかな」
「今日は何回だったの?」
「一コマで四回よ。早漏のくせにあたしを汚すだけ汚すんだから」
沙羅の質問に答えながら、砂由里は躰を投げだすようにして空いているソファに座った。
控え室はくつろげるよう、個人宅のリビング風にセッティングされている。いまは、戻ってきた砂由里を除外すれば、毬亜を含めて三人が思い思いに準備を整えながら待機中だ。
三十分まえに戻ってきた樹理は何があったのか、部屋に入るなり隅のローソファーに寝転がってそのまま動かない。
次の予約は大丈夫なんだろうか。毬亜は自分のことすら余裕がないのに心配になる。
サテンのベビードールはかろうじて太腿にかかるくらいの長さで、ショーツが剥きだしだろうがおかまいなしだ。
もっとも、毬亜もまたロングのベビードールとはいえシースルーだから、下着は丸わかりだった。いかにもという恰好も、あの夜、見せ物になったことを思えばまだましで、いまは慣れてしまっている。
斜め向かいで座椅子に寄りかかっている沙羅は膝を立てていて、毬亜から見ると、脚の間を隠すチェリーレッドのショーツが覗ける。
「あ、それちょうだい。口直し」
砂由里はテーブルに置いたトリュフを指差す。
「どうぞ」
毬亜はケースごと砂由里のほうに押しやる。口直しといえば、なんのサービスを要求されたか自ずと判断がつく。毬亜も指名時間が近づいていて、内心で憂うつを紛らすようにため息をついた。
「わあ、これって一粒いくらって世界のチョコじゃない? お客さんから?」
「吉村さんから差し入れがあったって」
どれにするか、選択を迷っているのか、まじまじとトリュフを見比べていた砂由里だったが、気が逸れたかのようにふと顔を上げた。
「マリちゃんて」
「なんですか?」
「特別待遇だよね。吉村さんの何?」
「それ、あたしも聞きたいかも。お姉さんたちがいると訊けないし、いまがチャンス!」
砂由里の質問に乗って沙羅が膝を抱えた腕を解き、テーブルに寄ってきた。
眠っているんじゃないかと思っていた樹里までもが頭をもたげる。が、すぐにまた伏せった。
お姉さんというのは、そのとおり年上のコンパニオンたちのことだ。いまここにいるメンバーは自己申告によれば二十歳前後ばかりだが、もっと上、三十歳前後の人もいる。お姉さんコンパニオンには逆らえないし、下手なことをしたり喋ったりして睨まれるのは遠慮したくなる雰囲気がある。さっきの砂由里みたいに堂々と客の文句は云えないし、ここでだらけているのも気が引ける。
「なんでもない」
ただ、生き延びろと云われているだけで。
今日にしろ、毬亜への差し入れであれば、じかに部屋に渡しにきていいはずがここ止まりだ。
毬亜の住み処になったマンションは七階建てで、一階に店舗の入った、一見普通のマンションにしか見えない。最上階は富豪向けの名目でワンフロア全体が一世帯という形態を取りながら、実はラブドナーのフロアだ。
一般客層のラブドナーはそれなりの場所にあって、ここは会員制の特別客専用になっている。
五階と六階はコンパニオンと支配人や従業員などラブドナーで働く人たちが住む。一階にあるコーヒーチェーン店共々マンションの経営者は存在するが、名前だけの代理人にすぎず、実質は丹破一家の持ち物なのだ。
毬亜は六階の角部屋に住んでいて、つまり、毬亜のためという意思があるなら吉村は店ではなくて部屋に届けていい。営業時間外に来るならなおさらだ。砂由里が云う特別ではなく、むしろおまえはだれとも立場はかわらないと示されている。そんな解釈もできる。
「そうなのかなぁ」
「うん。これはあたしがもらったんじゃなくて、みんなにってことだから」
「でも、マリちゃんが来るまで、吉村さんがこんなに頻繁に顔出すなんてことなかったよ」
「あたしはまだ来たばかりだし、よくわからないけど」
「お姉さんたち、吉村さんファンは多いから。あたしもだけど。セックスうまいんだよね」
この控え室で吉村は何度も話題にのぼった。話題になるのは今日みたいに差し入れがあったときとか、顔を出したときが専らで、ほかに客を比較するときの引き合いに出される。
毬亜は名前を聞くたびに、不安と会いたい気持ちがせめいで心臓が痛くなる。だから、吉村が世話をやいたのは自分だけではないということに、たったいままで少しも気がまわらなかった。
「え、沙羅ちゃん、吉村さんとセックスしたの!?」
毬亜が訊きたいことは砂由里が代弁した。その云い方からすると、砂由里は吉村とそういう関係ではないのだ。
「違う! してないって。お姉さんたちの話だよ。奥に当たってイイらしいの。客のなかにもめったにいないんだって。クラブから引っ張ってきたっていうのは同じでも、あたしみたいな子供は対象外なんだろうなぁ」
「そっかあ。歳の差を考えたらねー」
「マリちゃんはどうなの?」
みぞおちがきりきりと疼くような話のなか、沙羅の関心は毬亜に戻った。
「え?」
「吉村さんとセックスしたの?」
「ううん。してないよ。あたし、沙羅ちゃんより年下だし」
本当のセックスはやっていない。一気に支えがなくなったような不安は笑ってごまかした。
「でも、やっぱり特別は特別だよ。あたしたちみたいにマリちゃんは一般におりることないし、本番もナシでしょ」
云ってはいけない気がして彼女たちには話していないけれど、ここで本番がないかわりに毬亜には丹破の宴がある。
「違うのは慣れるまでってことだと思う」
「まだ十七だもんね、マリちゃんは」
どうにか納得したらしく、沙羅はうんうんとうなずいた。
「あたし、でも、せめてここ専になりたい。一般はたまに危ない奴来るから」
「あるよね。薄気味悪いとか、ストーカーっぽいとか。ラブドナーはマネージャーがしっかりしてるからいいけど、ほかの店の子は、出禁だけで尾行とかの外フォローはないって云ってた」
「ラブドナーは直接裏と繋がっててほかのとこと違うからね。今度、こっちだけにしてもらえないか訊いてみようかな」
ここの会員になれるのは、丹破一家の宴に集う社会的地位のある人たちの客とか紹介者のみだ。要するに、知られてはならない人たちのための秘密の場所だ。
砂由里によれば、高級エステと称されるここは法律違反だらけだという。法律がどういったものか、毬亜はわからない。けれど、違反を問題にしていてはきりがない。そういう世界に踏み入ったことだけはわかっている。
「マリさん、またこっちですか」
ドアが開いて程なく、室内をさまよっていた目が毬亜を捉えた。時間になって呼びにきたボーイは咎めるよりも困ったといった様だ。
「ごめんなさい。独りはさみしいから」
ため息をついたボーイは軽くうなずいて、案内します、とドアを支えて毬亜を待った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
砂由里たちの挨拶言葉に送られて毬亜はドアに向かった。
こんなふうに挨拶言葉を云う毬亜を砂由里たちはおもしろがる。普段から喋る人もいなくて、連絡を取る家族も友だちもいない毬亜にとっては貴重な会話だ。素性はもちろん、本名も知らないけれど、彼女たちは親しいと感じられる数少ない人たちで、世間と繋がっているという安心感を得られている。
毬亜が住む部屋は、鍵が内側にはなくて外側にある。つまり軟禁されていて、自由に出かけられないし、人と親しくなる機会もない。
店では、売れっ子でもないのに毬亜には待機する場所として個室が与えられていて、それも彼女たちが云う特別待遇だろうが、毬亜はお姉さんコンパニオンたちに気を遣おうがここのほうがよかった。
砂由里からはここでの働き方やサービスのやり方を教わって面倒を見てもらった。原因は違うかもしれないが丹破一家から逃げられない奴隷だという、彼女たちとの共通点は仲間意識を生んでいるのだろう。ちょっとした救いだ。
案内された客用個室には毬亜の常連になりつつある若い男が、下着にガウンという姿で待っていた。嵐司と同じ歳くらいだろうが、親が権力者なのか、喋りが毬亜を下級扱いした云い方で好きになれない。
この仕事を好きでやっているわけではなく、お金のために躰を商品にするのだから見下されても文句は云えない。対価を得る毬亜が云える立場にはないが、買ってコンパニオンをばかにする客も同等のはずだ。
そして、云うまでもなく客は選べず、毬亜はクラブにいたときのように営業用のスマイル仮面をつけ、何も考えないでマニュアルをこなし、客の要求に応える。
だだっ広い浴室のなか毬亜が奉仕するのが通例だが、逆に触りたいという客もいる。本番はなくても指を使われるし、感じているところを見たがる客もいる。コンパニオンも客もゼリーやローションを使うのが鉄則になっていることが救いで、感じていないのに感じているふりもできるようになった。
砂由里はさっき着替えて戻ったけれど、下着を身に着けたままというのを好む客もいたり、嗜好は様々で、それに応えなければならない。
結局、客は一コマ六十分に三十分延長して、二つの孔を弄りまわし、毬亜の口と胸の谷間で二回精を放って終わった。
シャワーで全身を洗っても、男の手の感触はなかなか落ちてはくれない。精の匂いも染みついている気がする。
毬亜は髪をある程度乾かしてから、待っていたボーイについていった。
「待って。あたし、――」
みんなの控え室ではなく、通りすぎて個室に行こうとするボーイを引き止めようとしたが。こっちでいいから、と云いかけたことは続けられなかった。
「おまえ、何考えてんだ!」
そんな怒鳴り声と同時に、悲鳴が聞こえた。
毬亜は首をすくめる。足がすくんだのは一瞬で、半ば本能で控え室のドアを開けた。
その瞬間、肌を弾く音が毬亜を迎えた。悲鳴が続く。
殴られたのは樹里で、ボーイ主任が倒れた彼女のベビードールをつかむ。引き起こすまえに布が破れた。
毬亜がいない間に何があったのか、伏せっていた樹里は、今度は髪の毛をつかまれて起こされ、その間、抵抗もせずに怯えていた。悲鳴をあげているのは、無抵抗の樹里ではなく沙羅とお姉さんコンパニオンたちだ。
「来いっ」
転びそうになりながら樹里は腕を引かれて出ていった。
毬亜は呆然として事務室のほうへ連れていかれる樹里の背中を追っていた。
こんな場面は見たことがない。丹破一家の店ではあっても、ここの男たちは取り立てを仕事にしている男たちとは違って、礼儀正しくてやさしいとすら思っていた。ボーイ主任もそうだ。体調も気遣ってくれるのに。
「マリさん、大丈夫ですか」
「……ここで、いいから。ありがとう」
口のなかが乾いていて毬亜は痞えながらボーイに云うと、控え室に入り、すぐさま沙羅の傍に行った。脚がふるえていて、自分で思うよりショックだったかもしれない。
「どう……したの? 樹里ちゃん、具合が悪いんじゃないの?」
沙羅もまた怯えた顔つきで毬亜を見ると、次には同情や困惑、そして落胆のような複雑な表情を見せた。
「あの子、客の子を妊娠したのよ」
答えたのはお姉さんコンパニオンだった。
「妊娠?」
「そう。わざとね。外出するのに客から送迎されてるのを見たことがあるわ。あたしたちが自由な恋愛なんてできるわけないのに。客が助けてくれるとでも思ったのかしら。客だって疑似恋愛を楽しんでるだけよ。ここに来る会員客は特にあたしたちを本気で相手にするわけない。結局、客から店に通報あってわかったっぽい」
肩をそびやかした彼女は、冷たくあしらっているが、そこには同情や憐れみが見えるような気もした。
「樹里ちゃん、もう自由には出られなくなるね」
沙羅はあからさまにショックを滲ませながらつぶやいた。
父の借金を知り高校をやめてクラブで働くことも激変だったが、あの夜はそれ以上に崩壊の日と云ってもいい。それから二カ月もたっていて、長いのか短いのかわからず、毬亜の時間の感覚は麻痺してる。与えられることをただこなすだけの毎日を繰り返しているからかもしれない。
「もう!」
控え室のドアを開け、室内をさっと見渡したあと、不満をぶちまけながら砂由里は戻ってきた。紫色主体の丈の短いベビードールにロングパンツという、出ていったときとは違う姿だ。
「時間制じゃなくって、あいつだけは一回いくらってしてもらえないかな」
「今日は何回だったの?」
「一コマで四回よ。早漏のくせにあたしを汚すだけ汚すんだから」
沙羅の質問に答えながら、砂由里は躰を投げだすようにして空いているソファに座った。
控え室はくつろげるよう、個人宅のリビング風にセッティングされている。いまは、戻ってきた砂由里を除外すれば、毬亜を含めて三人が思い思いに準備を整えながら待機中だ。
三十分まえに戻ってきた樹理は何があったのか、部屋に入るなり隅のローソファーに寝転がってそのまま動かない。
次の予約は大丈夫なんだろうか。毬亜は自分のことすら余裕がないのに心配になる。
サテンのベビードールはかろうじて太腿にかかるくらいの長さで、ショーツが剥きだしだろうがおかまいなしだ。
もっとも、毬亜もまたロングのベビードールとはいえシースルーだから、下着は丸わかりだった。いかにもという恰好も、あの夜、見せ物になったことを思えばまだましで、いまは慣れてしまっている。
斜め向かいで座椅子に寄りかかっている沙羅は膝を立てていて、毬亜から見ると、脚の間を隠すチェリーレッドのショーツが覗ける。
「あ、それちょうだい。口直し」
砂由里はテーブルに置いたトリュフを指差す。
「どうぞ」
毬亜はケースごと砂由里のほうに押しやる。口直しといえば、なんのサービスを要求されたか自ずと判断がつく。毬亜も指名時間が近づいていて、内心で憂うつを紛らすようにため息をついた。
「わあ、これって一粒いくらって世界のチョコじゃない? お客さんから?」
「吉村さんから差し入れがあったって」
どれにするか、選択を迷っているのか、まじまじとトリュフを見比べていた砂由里だったが、気が逸れたかのようにふと顔を上げた。
「マリちゃんて」
「なんですか?」
「特別待遇だよね。吉村さんの何?」
「それ、あたしも聞きたいかも。お姉さんたちがいると訊けないし、いまがチャンス!」
砂由里の質問に乗って沙羅が膝を抱えた腕を解き、テーブルに寄ってきた。
眠っているんじゃないかと思っていた樹里までもが頭をもたげる。が、すぐにまた伏せった。
お姉さんというのは、そのとおり年上のコンパニオンたちのことだ。いまここにいるメンバーは自己申告によれば二十歳前後ばかりだが、もっと上、三十歳前後の人もいる。お姉さんコンパニオンには逆らえないし、下手なことをしたり喋ったりして睨まれるのは遠慮したくなる雰囲気がある。さっきの砂由里みたいに堂々と客の文句は云えないし、ここでだらけているのも気が引ける。
「なんでもない」
ただ、生き延びろと云われているだけで。
今日にしろ、毬亜への差し入れであれば、じかに部屋に渡しにきていいはずがここ止まりだ。
毬亜の住み処になったマンションは七階建てで、一階に店舗の入った、一見普通のマンションにしか見えない。最上階は富豪向けの名目でワンフロア全体が一世帯という形態を取りながら、実はラブドナーのフロアだ。
一般客層のラブドナーはそれなりの場所にあって、ここは会員制の特別客専用になっている。
五階と六階はコンパニオンと支配人や従業員などラブドナーで働く人たちが住む。一階にあるコーヒーチェーン店共々マンションの経営者は存在するが、名前だけの代理人にすぎず、実質は丹破一家の持ち物なのだ。
毬亜は六階の角部屋に住んでいて、つまり、毬亜のためという意思があるなら吉村は店ではなくて部屋に届けていい。営業時間外に来るならなおさらだ。砂由里が云う特別ではなく、むしろおまえはだれとも立場はかわらないと示されている。そんな解釈もできる。
「そうなのかなぁ」
「うん。これはあたしがもらったんじゃなくて、みんなにってことだから」
「でも、マリちゃんが来るまで、吉村さんがこんなに頻繁に顔出すなんてことなかったよ」
「あたしはまだ来たばかりだし、よくわからないけど」
「お姉さんたち、吉村さんファンは多いから。あたしもだけど。セックスうまいんだよね」
この控え室で吉村は何度も話題にのぼった。話題になるのは今日みたいに差し入れがあったときとか、顔を出したときが専らで、ほかに客を比較するときの引き合いに出される。
毬亜は名前を聞くたびに、不安と会いたい気持ちがせめいで心臓が痛くなる。だから、吉村が世話をやいたのは自分だけではないということに、たったいままで少しも気がまわらなかった。
「え、沙羅ちゃん、吉村さんとセックスしたの!?」
毬亜が訊きたいことは砂由里が代弁した。その云い方からすると、砂由里は吉村とそういう関係ではないのだ。
「違う! してないって。お姉さんたちの話だよ。奥に当たってイイらしいの。客のなかにもめったにいないんだって。クラブから引っ張ってきたっていうのは同じでも、あたしみたいな子供は対象外なんだろうなぁ」
「そっかあ。歳の差を考えたらねー」
「マリちゃんはどうなの?」
みぞおちがきりきりと疼くような話のなか、沙羅の関心は毬亜に戻った。
「え?」
「吉村さんとセックスしたの?」
「ううん。してないよ。あたし、沙羅ちゃんより年下だし」
本当のセックスはやっていない。一気に支えがなくなったような不安は笑ってごまかした。
「でも、やっぱり特別は特別だよ。あたしたちみたいにマリちゃんは一般におりることないし、本番もナシでしょ」
云ってはいけない気がして彼女たちには話していないけれど、ここで本番がないかわりに毬亜には丹破の宴がある。
「違うのは慣れるまでってことだと思う」
「まだ十七だもんね、マリちゃんは」
どうにか納得したらしく、沙羅はうんうんとうなずいた。
「あたし、でも、せめてここ専になりたい。一般はたまに危ない奴来るから」
「あるよね。薄気味悪いとか、ストーカーっぽいとか。ラブドナーはマネージャーがしっかりしてるからいいけど、ほかの店の子は、出禁だけで尾行とかの外フォローはないって云ってた」
「ラブドナーは直接裏と繋がっててほかのとこと違うからね。今度、こっちだけにしてもらえないか訊いてみようかな」
ここの会員になれるのは、丹破一家の宴に集う社会的地位のある人たちの客とか紹介者のみだ。要するに、知られてはならない人たちのための秘密の場所だ。
砂由里によれば、高級エステと称されるここは法律違反だらけだという。法律がどういったものか、毬亜はわからない。けれど、違反を問題にしていてはきりがない。そういう世界に踏み入ったことだけはわかっている。
「マリさん、またこっちですか」
ドアが開いて程なく、室内をさまよっていた目が毬亜を捉えた。時間になって呼びにきたボーイは咎めるよりも困ったといった様だ。
「ごめんなさい。独りはさみしいから」
ため息をついたボーイは軽くうなずいて、案内します、とドアを支えて毬亜を待った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
砂由里たちの挨拶言葉に送られて毬亜はドアに向かった。
こんなふうに挨拶言葉を云う毬亜を砂由里たちはおもしろがる。普段から喋る人もいなくて、連絡を取る家族も友だちもいない毬亜にとっては貴重な会話だ。素性はもちろん、本名も知らないけれど、彼女たちは親しいと感じられる数少ない人たちで、世間と繋がっているという安心感を得られている。
毬亜が住む部屋は、鍵が内側にはなくて外側にある。つまり軟禁されていて、自由に出かけられないし、人と親しくなる機会もない。
店では、売れっ子でもないのに毬亜には待機する場所として個室が与えられていて、それも彼女たちが云う特別待遇だろうが、毬亜はお姉さんコンパニオンたちに気を遣おうがここのほうがよかった。
砂由里からはここでの働き方やサービスのやり方を教わって面倒を見てもらった。原因は違うかもしれないが丹破一家から逃げられない奴隷だという、彼女たちとの共通点は仲間意識を生んでいるのだろう。ちょっとした救いだ。
案内された客用個室には毬亜の常連になりつつある若い男が、下着にガウンという姿で待っていた。嵐司と同じ歳くらいだろうが、親が権力者なのか、喋りが毬亜を下級扱いした云い方で好きになれない。
この仕事を好きでやっているわけではなく、お金のために躰を商品にするのだから見下されても文句は云えない。対価を得る毬亜が云える立場にはないが、買ってコンパニオンをばかにする客も同等のはずだ。
そして、云うまでもなく客は選べず、毬亜はクラブにいたときのように営業用のスマイル仮面をつけ、何も考えないでマニュアルをこなし、客の要求に応える。
だだっ広い浴室のなか毬亜が奉仕するのが通例だが、逆に触りたいという客もいる。本番はなくても指を使われるし、感じているところを見たがる客もいる。コンパニオンも客もゼリーやローションを使うのが鉄則になっていることが救いで、感じていないのに感じているふりもできるようになった。
砂由里はさっき着替えて戻ったけれど、下着を身に着けたままというのを好む客もいたり、嗜好は様々で、それに応えなければならない。
結局、客は一コマ六十分に三十分延長して、二つの孔を弄りまわし、毬亜の口と胸の谷間で二回精を放って終わった。
シャワーで全身を洗っても、男の手の感触はなかなか落ちてはくれない。精の匂いも染みついている気がする。
毬亜は髪をある程度乾かしてから、待っていたボーイについていった。
「待って。あたし、――」
みんなの控え室ではなく、通りすぎて個室に行こうとするボーイを引き止めようとしたが。こっちでいいから、と云いかけたことは続けられなかった。
「おまえ、何考えてんだ!」
そんな怒鳴り声と同時に、悲鳴が聞こえた。
毬亜は首をすくめる。足がすくんだのは一瞬で、半ば本能で控え室のドアを開けた。
その瞬間、肌を弾く音が毬亜を迎えた。悲鳴が続く。
殴られたのは樹里で、ボーイ主任が倒れた彼女のベビードールをつかむ。引き起こすまえに布が破れた。
毬亜がいない間に何があったのか、伏せっていた樹里は、今度は髪の毛をつかまれて起こされ、その間、抵抗もせずに怯えていた。悲鳴をあげているのは、無抵抗の樹里ではなく沙羅とお姉さんコンパニオンたちだ。
「来いっ」
転びそうになりながら樹里は腕を引かれて出ていった。
毬亜は呆然として事務室のほうへ連れていかれる樹里の背中を追っていた。
こんな場面は見たことがない。丹破一家の店ではあっても、ここの男たちは取り立てを仕事にしている男たちとは違って、礼儀正しくてやさしいとすら思っていた。ボーイ主任もそうだ。体調も気遣ってくれるのに。
「マリさん、大丈夫ですか」
「……ここで、いいから。ありがとう」
口のなかが乾いていて毬亜は痞えながらボーイに云うと、控え室に入り、すぐさま沙羅の傍に行った。脚がふるえていて、自分で思うよりショックだったかもしれない。
「どう……したの? 樹里ちゃん、具合が悪いんじゃないの?」
沙羅もまた怯えた顔つきで毬亜を見ると、次には同情や困惑、そして落胆のような複雑な表情を見せた。
「あの子、客の子を妊娠したのよ」
答えたのはお姉さんコンパニオンだった。
「妊娠?」
「そう。わざとね。外出するのに客から送迎されてるのを見たことがあるわ。あたしたちが自由な恋愛なんてできるわけないのに。客が助けてくれるとでも思ったのかしら。客だって疑似恋愛を楽しんでるだけよ。ここに来る会員客は特にあたしたちを本気で相手にするわけない。結局、客から店に通報あってわかったっぽい」
肩をそびやかした彼女は、冷たくあしらっているが、そこには同情や憐れみが見えるような気もした。
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沙羅はあからさまにショックを滲ませながらつぶやいた。
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