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記憶の残滓編
episode196
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ハッと目を開け、キュッリッキは荒い息を何度も何度も吐いた。目からは涙がとめどなく流れ落ち、胸が苦しくてたまらない。
そうしているうちに、今は夢ではなく現実なのだと、ようやく認識できていた。
「フェンリル……フェンリルどこ?」
涙声で、弱々しく相棒の名を呼ぶ。
長椅子に置かれた青い天鵞絨張りのクッションに寝ていたフェンリルは、キュッリッキの声に目を覚ますと、素早く駆け寄りベッドに飛び乗った。
白銀の毛に覆われた顔を、キュッリッキの頬に労わるように何度も摺り寄せる。
「フェンリル…」
フェンリルの頬ずりに安堵し、キュッリッキの呼吸もだんだんと落ち着いてきた。
「幼い頃のことを、夢にみちゃってた…」
独り言のように呟くキュッリッキの言葉に、フェンリルはそっと耳を立てて聞き入った。
「修道院の崖から突き落とされた時のこと。あの時フェンリルが助けてくれなかったら、アタシ、死んじゃってたよ」
アルッティに突き飛ばされ、崖の外に弾かれたキュッリッキの身体は、風に巻き上げられ宙に浮いたあと、真っ逆さまに落下していった。
落ちていくときキュッリッキの頭の中は真っ白で、何一つ考えられていなかった。轟轟と唸る空気の音と肌を貫いていくような冷たさ。恐怖で塗り固められたように動かない身体。
もうダメだ! そう思った瞬間、小さな身体は地面に叩きつけられることもなく、柔らかなモノの上でふわっと跳ねて、座る姿勢でそっと着地した。
急に素足に感じるくすぐったい感触を、小さな掌で何度も摩るように触れる。
涙で濡れた顔をきょとんとさせ、目を何度も瞬かせた。
「ふぇ……りる?」
囁くように言うと、獣が喉を鳴らすような声が辺りに轟いた。
一つしゃくり上げたあと、周りをゆっくりと見渡す。
目の前には屹立した岩と、後ろには遠く眼下に広がる緑の大地、足元は白銀の広大な地面。
地面に手を押し付けると、柔らかな温かさが掌に伝わってきた。この感触は紛れもなく――
「フェンリル、おっきくなった」
キュッリッキは毛並みにボフッと抱きついて、その感触を頬で感じて小さな笑い声をあげた。
仔犬の姿しか見せていなかったフェンリルが、かりそめの姿を解いて巨狼の身体で顕現したのだ。フェンリルの本体を知ったのは、この時が初めてだった。
「フェンリルがあんなにおっきな狼だって知ったのも、あの時だったね。ずっと今みたいに仔犬の姿をしていたから」
フェンリルはキュッリッキの顔のそばで身を丸くして、じっと見つめている。
宝石のような水色の瞳には、労わるような優しい光が揺蕩っていた。
「ずっと一緒に居てくれたから、アタシ生きてこられた」
突き落とされ一命を取り留めたキュッリッキは、そのままフェンリルと一緒に修道院を黙って出た。戻る気にはなれなかったからだ。以来、一度も近寄ってもいない。
キュッリッキを突き飛ばしたあの子は、少しは反省をしてくれたのだろうか。気に病んでくれたのだろうか。
多分、そんなことはもう忘れてしまっているだろう。あの修道院のなかで、キュッリッキは片翼の異端だったから。
そうしているうちに、今は夢ではなく現実なのだと、ようやく認識できていた。
「フェンリル……フェンリルどこ?」
涙声で、弱々しく相棒の名を呼ぶ。
長椅子に置かれた青い天鵞絨張りのクッションに寝ていたフェンリルは、キュッリッキの声に目を覚ますと、素早く駆け寄りベッドに飛び乗った。
白銀の毛に覆われた顔を、キュッリッキの頬に労わるように何度も摺り寄せる。
「フェンリル…」
フェンリルの頬ずりに安堵し、キュッリッキの呼吸もだんだんと落ち着いてきた。
「幼い頃のことを、夢にみちゃってた…」
独り言のように呟くキュッリッキの言葉に、フェンリルはそっと耳を立てて聞き入った。
「修道院の崖から突き落とされた時のこと。あの時フェンリルが助けてくれなかったら、アタシ、死んじゃってたよ」
アルッティに突き飛ばされ、崖の外に弾かれたキュッリッキの身体は、風に巻き上げられ宙に浮いたあと、真っ逆さまに落下していった。
落ちていくときキュッリッキの頭の中は真っ白で、何一つ考えられていなかった。轟轟と唸る空気の音と肌を貫いていくような冷たさ。恐怖で塗り固められたように動かない身体。
もうダメだ! そう思った瞬間、小さな身体は地面に叩きつけられることもなく、柔らかなモノの上でふわっと跳ねて、座る姿勢でそっと着地した。
急に素足に感じるくすぐったい感触を、小さな掌で何度も摩るように触れる。
涙で濡れた顔をきょとんとさせ、目を何度も瞬かせた。
「ふぇ……りる?」
囁くように言うと、獣が喉を鳴らすような声が辺りに轟いた。
一つしゃくり上げたあと、周りをゆっくりと見渡す。
目の前には屹立した岩と、後ろには遠く眼下に広がる緑の大地、足元は白銀の広大な地面。
地面に手を押し付けると、柔らかな温かさが掌に伝わってきた。この感触は紛れもなく――
「フェンリル、おっきくなった」
キュッリッキは毛並みにボフッと抱きついて、その感触を頬で感じて小さな笑い声をあげた。
仔犬の姿しか見せていなかったフェンリルが、かりそめの姿を解いて巨狼の身体で顕現したのだ。フェンリルの本体を知ったのは、この時が初めてだった。
「フェンリルがあんなにおっきな狼だって知ったのも、あの時だったね。ずっと今みたいに仔犬の姿をしていたから」
フェンリルはキュッリッキの顔のそばで身を丸くして、じっと見つめている。
宝石のような水色の瞳には、労わるような優しい光が揺蕩っていた。
「ずっと一緒に居てくれたから、アタシ生きてこられた」
突き落とされ一命を取り留めたキュッリッキは、そのままフェンリルと一緒に修道院を黙って出た。戻る気にはなれなかったからだ。以来、一度も近寄ってもいない。
キュッリッキを突き飛ばしたあの子は、少しは反省をしてくれたのだろうか。気に病んでくれたのだろうか。
多分、そんなことはもう忘れてしまっているだろう。あの修道院のなかで、キュッリッキは片翼の異端だったから。
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