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第三章<空白の谷の魔女編>
18:魔獣
しおりを挟む指摘を受けた魔女は、すっかり黙り込んでしまった。
世界中を巻き込めるほどの強大な魔力を持つ魔女なのだからと、そんな可能性を少しも考えてこなかったのだ。
けれど、今まさに訪れているこの沈黙こそが、その肯定なのではないだろうか?
「猫が好きだけど、猫アレルギーだから……恨みを募らせて洗脳魔法をかけたのか?」
「っ、違う……!」
今度ははっきりと、否定の言葉が返ってくる。
しかし、その否定が俺の言葉のどの部分にかかっているのかは、もうわかるような気がした。
「……ボクは、ずっと一人きりだった。自分たちにはボクみたいな魔力が無いからって、危険な存在だって言って、人間はボクを遠ざけたんだ。人間に何かをしたことなんか無いのに」
魔女についてを描いた絵本では、魔女は恐ろしい存在として扱われていた。
実際、俺のいた元の世界でも、魔女といえば悪い存在として認識されていることの方が多いように思う。
彼女は魔女であるということだけを理由に、人間から恐れられてきたのだ。
「人間の世界にボクの居場所は無いから、ここを造ったんだ。誰にも邪魔されない、蔑まれることも、怯えられることもない。ボクだけの世界だよ」
訪れた時から寂しい場所だと感じていたが、もしかすると空白の谷とは、ヴェネッタの孤独が反映されている空間なのかもしれない。
音も色も何もない、空白の、何もない世界だ。
「誰も、話を聞いてくれる人はいなかったのか?」
「フン。いたように見える? 魔女ってだけで、我先にって逃げ出してく奴ばかりだったよ。……人間はね」
「人間は?」
ヴェネッタの視線は、俺ではなく印章猫の方へと落とされているように見える。
印章猫もまた、彼女の方をじっと見つめ返していた。
「いつだったか、ボクが気を緩めた時に、入り込んできた猫がいたんだ。追い出そうかと思ったけど、別に害はなかったし……場所は有り余ってるんだから、好きにさせてやったよ」
「ってことは、猫と一緒に過ごしてたのか」
「長いこと話し相手もいなかったし、置いてやってもいいと思っただけだけどね。でも、猫と一緒に過ごすのは……悪くはなかった」
言い回しは素直ではないが、恐らくヴェネッタは猫を気に入ったのだろう。
だとすれば、なおさら洗脳魔法をかけた理由がわからなくなる。
「だけど、いつからか猫に触ると調子が悪くなることが増えたんだ。キミの言う、猫アレルギーってやつ。ボクはそんな病は知らなかったから、人間の手で呪いにかけられたんだと思ったよ」
「呪いって……」
「だって、ボク以外の人間はみんな変わらず猫に触ることができてるんだ。なのに、ボクだけが猫に近寄ることもできなくなってしまった。……やっとできた友人を奪われる気持ち、キミにわかる?」
数百年以上を生き続けているという話が本当なのであれば、ヴェネッタはそれだけの歳月を孤独に過ごしてきていたのだ。
同じ魔女の仲間がいるようにも見えない。
そんな中で、ようやく巡り会えた心許せる友人。それが猫だったのだとして、その猫までもを奪われてしまったことで、悲しみは憎しみへと変化していったのだろう。
「ボク以外の人間も、みんな猫に触れられなくなればいいと思った。だから、世界中の人間に洗脳魔法をかけたんだよ。『猫は恐れるべき魔獣だ』ってね」
「それなら、やっぱり洗脳魔法をかける以前の世界では、猫は普通に人間と一緒に暮らしてたってことか」
可能性はあると思っていたが、その予想は当たっていたのだ。
だからこそ野良猫たちは人間に慣れていたし、受け入れてくれる人間も多かった。
洗脳は強力な魔法なのだろうが、猫と人間との間に築かれた絆までは、消しきることができなかったのかもしれない。
「キミの魔法で、猫アレルギーを治すことはできなかったのか?」
「バカなの? できてたらやってるに決まってるじゃん。魔法を使えば何だってできるように見えるのかもしれないけど、ボクにだってできないことはあるんだよ」
念のためにと思っての問いだったのだが、やはり愚問だったようだ。
つまり、ヴェネッタはそれを試したということなのだろう。そして、結果は見ての通りだ。
「……ヴェネッタ。キミは孤独で、猫まで奪われて寂しかったんだろうけど、やったことは間違ってるよ」
「っ、ボクの何がわかるっていうのさ!? 少し話を聞いたくらいで、ボクのことを知った気に……」
「わからないよ。キミがどれだけ苦しんできたか、俺には想像もつかない。だけど、キミが猫たちにしたことは、キミが人間にされてきたことと同じなんじゃないのか?」
「……!」
「キミは人間に、魔女だからって理由だけで迫害されてきたんだろ? 猫たちにも、魔獣だからって理由だけで、同じ思いをさせてるんだよ」
「それは……だって……」
俺の言葉に明らかな動揺を見せるヴェネッタは、印章猫を見てその先の言葉を続けられなくなってしまう。
印章猫の瞳に、責められているように感じたのかもしれない。
「きっと、そんなつもりはなかったんだろ? だけど、結果的にそうなってしまってる。こうしている今も、世界中に迫害を受けてる猫たちがたくさんいるんだ」
途方もない時間を、ヴェネッタは一人きりで過ごし続けてきたのだ。
唯一ともいえるような安らぎを奪われた彼女は、自分のかけた魔法によって猫たちがどうなるかということにまで、考えが及ばなかったのかもしれない。
人間に対する憎しみが、猫を大切に想うはずの彼女の目を曇らせてしまったのだ。
「それと、猫アレルギーを発症した後も、キミは一人じゃなかったんじゃないかな」
「え……?」
「コイツ、多分だけど……キミのことを知ってるんじゃないのか?」
俺は、ヴェネッタを見つめ続けている印章猫を顎先で示す。
これは完全に俺の推論だったのだが、印章猫はずっとこの空白の谷を探しているように、俺たちに着いてきていた。
見えない壁を見つけ出したのも印章猫だったし、人懐っこいというだけではない。彼女と縁のある猫なのではないかと考えたのだ。
「……ここに迷い込んできた猫。ネイは、この子の親だった」
「そうか……ここに辿り着けたのは、コイツのお陰なんだ。キミに会いたかったんじゃないのかな」
「そんなわけ……」
否定を続けるはずだった言葉を、ヴェネッタは飲み込む。もしかすると、そうであったらいいと思ったのかもしれない。
彼女だって、猫を嫌いになったわけではないのだろう。
だとすれば、きっとヴェネッタ自身も印章猫に会いたかったはずなのだ。
けれど、それを叶えさせてくれなかったのは、彼女を蝕む病だ。
「……なあ、ヴェネッタ」
俺は手にしたままだった杖を横に置くと、鞄の中から小さなプラスチックのケースを取り出す。
その中から摘まみ出した透明な青いカプセルを、ヴェネッタに向けて差し出した。
それは、アルマに渡すつもりで持っていた、猫アレルギーの治療薬だ。
「これを飲んでみてくれないか? 猫アレルギーを治すために、作ってもらった薬なんだ」
「猫アレルギーを治す……って、そんなことできるわけ……」
「俺も始めは信じられなかったよ。だけど、この薬を作るためにいろんな人が協力してくれたんだ。まだ実際に試したわけじゃないけど……絶対に効果があるって信じてる」
猫たちを苦しめる原因を作った張本人なのだ。本来ならば、この薬を渡すべきではないのかもしれない。
それでも、彼女は俺と同じように猫アレルギーに苦しめられてきた一人だ。
そして、同じように猫が好きな女の子なのだ。
その苦しみを知っているからこそ、薬を渡さないという選択肢は無くなっていた。
「…………ボクを騙そうとしても、無駄だからね」
「騙したりなんかしないよ。どのみち、俺はもう抵抗できないし」
その薬が本当に猫アレルギーを治すためのものなのか、彼女は疑っているようだった。
けれど、印章猫と薬を交互に見たヴェネッタは、猫を避けるようにして俺のところへ近づいてくる。
そして、受け取った薬を思い切って口内へと放り込んだ。
ヴェネッタの喉が動いたので、それを飲み込んだのだろうということはわかる。
この世界の薬なので、効果は時間を待つことなくすぐに得られるはずだ。
しかし、本当に薬の効果が出ているかはわからない。魔法のように光ったり、何か目で見てわかる変化があれば良いのだが。
「……何か、変わった感じはあるか?」
「…………わからない」
見ているだけの俺もそうだが、薬を飲んだ彼女自身も特に変化は感じられないらしい。
ギルドールの腕を信用しているとはいえ、彼にとっても初めて試作した薬なのだ。思うような効果が得られない可能性だって無いとは言い切れないだろう。
「ニャア」
そんな俺たちの微妙な空気を破ったのは、印章猫の鳴き声だった。
ヴェネッタを見上げる印章猫は、明らかに彼女に向けて声を掛けている。
「ッ……」
思わず一歩下がってしまうヴェネッタだが、そこで踏み留まる。
見た目で変化がわからない以上、猫に触れてみなければならないということは理解しているのだろう。
その場にしゃがんだ彼女は、恐る恐る印章猫の頬に触れた。
俺にとっても緊張の一瞬だったのだが、毛並みを何度か撫でても、ヴェネッタの様子に変化は見られない。
思い切ってその身体を抱き上げて、尻を支えるようにして身を寄せてみる。
そのまましばらく待ってみても、彼女が苦しみ出すような反応は無かった。
「ニャウ」
「……!」
それどころか、印章猫がヴェネッタの頬をペロリと舐めたのだ。
これには彼女も驚いていたが、それでもなお症状が出ないところを見ると、薬が効いたのだということがわかった。
「やった……成功したんだ……!」
実際に試してみるまでは確証を得られなかったが、ギルドールの作ってくれた薬は、確かに猫アレルギーを治すことに成功したのだ。
俺は思わずガッツポーズをしてしまうが、脇腹が痛んだことで背を丸める。
「…………っ、う」
「……ヴェネッタ……?」
だが、彼女の呻き声が聞こえたような気がして、痛みを堪えて顔を上げる。
まさか遅れて症状が出始めたのかと危惧したのだが、どうやらそうではないらしい。
「ッう、っ……うわああああああん!!」
印章猫を抱き締めたままだったヴェネッタは、まるで小さな子供のように、声を上げて泣き出してしまった。
それを慰めようと、印章猫が舌で涙を拭うのだが、それでは追いつかないくらい大粒の涙が次々と溢れ出ている。
顔をくしゃくしゃにしながら泣き続ける彼女の姿を、俺はただ黙って見守ることしかできなかった。
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