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第8話 夜伽
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「帯の締め具合は大丈夫ですか?」
アポロが紫鬼に尋ねる。
種族特有の衣装に身を包む彼女は、腹部に巻かれた帯のゆるみを確認して、
「ええ、問題ないわ」
納得したように深く頷いていた。
それは今まで見てきた中でも一等上等な衣装だった。
細かい細工の施された布地は見る角度によって色と煌めきを変え、浮かぶ模様は荒々しい炎を感じさせる。使われている素材も女郎蜘蛛や土蜘蛛族の縦糸を編んで出来ていて、柔らかくも強靭、一着で一軒の家が余裕で立つほど高価なものだった。
その日は主上との夜伽の日だった。直々の指名により、夕餉からそのまま夜の営みまでを共にする。派手に着飾るのはそこで飽きられないようにするためだった。
目が飛び出るほど高いそれを十枚、重ねて着る。金属鎧よりも頑丈な衣装は相応に重く、鬼種の筋力がなければ潰されてしまうだろう。
普段ですら三枚ほどなのだ。さすがに重さを感じないという訳にはいかず、紫鬼は立ち上がると少しよろめいていた。
「大丈夫ですか?」
「えぇ……」
額に薄く汗をにじませた彼女は、暑いと胸元を少し開く。
せっかく着つけた着物が崩れるのも厭わず、
「ちょっと、筋力が落ちてきちゃったかしら?」
困ったように笑っていた。
幾ら力が強くとも一日中寝て食べて呑んでの生活を続けていれば体もなまる。特に鬼種にとって運動とは即ち喧嘩、力比べだ。後宮内でそんなことを許可されるはずもなく、ストレスを吐き出すために呑むしかない。
種族の在り方すら変える生活にカーサは不快だった。しかしもう何も言わないとも決めていた。
納得して選んだ人間にかける言葉がなかった。
カーサは支度の終えた紫鬼に小物を手渡していく。
装飾品に香り袋、そして、
「あの、これ……」
最後に手渡したものは液体の入った小瓶だった。厳重に鍵のついた小棚に入ったそれを一つ取りだしていた。
中身が何かはわからない。しかし傾けてもあまり動かないことから粘性が強いことだけはわかる。
「ああ、気をつけてね。あまり身体に良くないものだから」
「何に使うんですか」
「うーん……」
紫鬼ははっきりとしない態度で苦笑していた。
珍しい、カーサはそう思いながら眉をよせる彼女の顔を見ていた。
目と目が合い、紫鬼は軽いため息をつく。小瓶を指先でつまんで振って見せた後、
「ちょっと恥ずかしいけど知っとかなきゃいけないことだものね」
そう前置きして、
「これは主上の子種を殺す薬なの」
つまりは避妊薬。
子供を作らずに夜伽をするにはそういう小細工が必要だった。その理屈に納得したカーサはかすかな好奇心から、
「あー……どうやって?」
と尋ねていた。
すると、紫鬼は小瓶を下腹部に当て、
「あそこに塗るのよ」
「……体に良くないんですよね?」
「ええ、だからあんまり長いことお勤めはできないの」
紫鬼は力ない笑みを向けていた。
またか、とカーサは思う。
女性の内臓に毒を塗ってまで夜伽をする。普通に考えれば非情非道な行いだ。それをよしとする関係者全員に鋭い怒りが沸く。
しかし突然沸いた熱は風のように一瞬で通り過ぎていた。もう何を言っても無駄だと諦めていた。
しかし一応と、カーサは不満をにじませて言う。
「もっといい薬はないんですか?」
「それがないの。主上に毒は効かないのは知っていると思うけれどそれが子種にも強く出ていて普通の薬じゃ効果がないかもしれないって」
「そんなの、酷すぎるわ」
「かもしれないわね。それでも私たちは主上に尽くさなければいけないのよ」
毎度のこと、最終的に同じところにたどり着く話にカーサは目を細める。
「どうして?」
「お勤めだから、ね」
時間になり、主上の屋敷に三人は訪れていた。
向かうのは主上の寝室だった。清々しいほど広いエントランスを抜け、階段を上った先に目的地はある。
屋敷の中には使用人の女衆の他、エメリアの姿があった。軽鎧姿の彼女は帯刀はしていないものの、予断を許さない雰囲気を纏っていた。
先導する彼女の後をついて行く。案内された部屋は若草色の草を編んだ敷物で満たされて、草原のような独特の匂いを撒いていた。
「ここでは履物を脱げ」
エメリアは短く告げる。それに従い、履物を脱いで近くの下駄箱へとしまう。
部屋の中は思いの外こじんまりとしていた。装飾も殆どなく、他の部屋に比べて異様に映るほど質素だった。
部屋の真ん中には大きなローテーブルが置かれ、一輪挿しの花瓶だけがその存在を主張している。他には幾つかクッションが並んでいるだけで本当に何も無い。
夜伽のためのベッドすらないのだ。カーサは疑問に思いながらも口を閉じて、動向を見守っていた。
主上の姿はまだなく、四人が部屋に入ると、後ろから現れた女衆がテーブルに食器や酒器などを並べていく。
どれも造り手の思いのこもった作品とひと目でわかる。ただしばらくすると、紙の貼られたパーテーションが目の前に置かれていた。
……なにこれ?
視界を遮るように設置されているせいで辺りがまるで分からない。カーサはパーテーションに手をかけると、
「何かあるまでそこで待っていろ」
エメリアのきつい目が突き刺さる。
あくまで二人の空間を作る事が目的なのは理解したが、
暇ねぇ……
やることも無く寝ててもいけない。ただひたすら呼ばれるまでじっとしていることに耐え難い疼きを感じていた。
同意を求めるようにカーサはアポロへ目を向ける。しかし彼女はこの状況でも目を輝かせていた。
その顔はようやく主上に会えるということへの喜びに満ちていた。変に水を差すのも悪いと思い、カーサは話すことを止めた。
しばらくして、
「失礼します。主上がお見えになりました」
引き戸を開けて現れた女衆が一言告げると、一組の足音が部屋に入ってくる。淀みない足取りがその部屋の主であることを告げていた。
彼は座っている紫鬼の隣に腰を下ろす。その様子は影となってパーテーションに映っていた。
「まずは食事からになさいますか?」
まず紫鬼が話しかける。とくとくと酒器に酒を注ぐ音が部屋に響く。
「いや、話がしたい」
張りのある、若い男性の声だった。
主上の声にアポロは目尻を下げて、はぅと感極まった声を漏らす。
「ええ、わかりました」
そして他愛のない談笑が始まっていた。
後宮のこと、国のこと。好きな物、家族の話。主上は相槌を打つだけでなく自分からも様々なことを話していた。
この世界に降り立った時のこと、様々な地で冒険をしていたこと。出会った人々や敵となった人や獣達。
いいなぁ……
カーサはじっと耳を傾けていた。そこには自分が憧れる世界の姿があった。
命令とはいえこんな所で燻っている自分が嫌になる。憧れる世界に身を置いて、それを捨ててこんなところで時間を浪費する人を嫌いになる。せめてその顔を見てやろうと慎重にパーテーションから顔を覗かせていた。
横で見ているエメリアはその行為を一瞥して、咎めるような目で見るがそれ以上は口にしない。気付けばアポロも堪えきれずカーサと同じようにしていた。
あれが……
視界の先にいたのは想像通りの男性だった。逸話で語られる通り、痩せ型でそれなりに身長のある、とてもでは無いが戦争を停めた英雄とは想像出来ない弱々しい姿だ。
アポロが紫鬼に尋ねる。
種族特有の衣装に身を包む彼女は、腹部に巻かれた帯のゆるみを確認して、
「ええ、問題ないわ」
納得したように深く頷いていた。
それは今まで見てきた中でも一等上等な衣装だった。
細かい細工の施された布地は見る角度によって色と煌めきを変え、浮かぶ模様は荒々しい炎を感じさせる。使われている素材も女郎蜘蛛や土蜘蛛族の縦糸を編んで出来ていて、柔らかくも強靭、一着で一軒の家が余裕で立つほど高価なものだった。
その日は主上との夜伽の日だった。直々の指名により、夕餉からそのまま夜の営みまでを共にする。派手に着飾るのはそこで飽きられないようにするためだった。
目が飛び出るほど高いそれを十枚、重ねて着る。金属鎧よりも頑丈な衣装は相応に重く、鬼種の筋力がなければ潰されてしまうだろう。
普段ですら三枚ほどなのだ。さすがに重さを感じないという訳にはいかず、紫鬼は立ち上がると少しよろめいていた。
「大丈夫ですか?」
「えぇ……」
額に薄く汗をにじませた彼女は、暑いと胸元を少し開く。
せっかく着つけた着物が崩れるのも厭わず、
「ちょっと、筋力が落ちてきちゃったかしら?」
困ったように笑っていた。
幾ら力が強くとも一日中寝て食べて呑んでの生活を続けていれば体もなまる。特に鬼種にとって運動とは即ち喧嘩、力比べだ。後宮内でそんなことを許可されるはずもなく、ストレスを吐き出すために呑むしかない。
種族の在り方すら変える生活にカーサは不快だった。しかしもう何も言わないとも決めていた。
納得して選んだ人間にかける言葉がなかった。
カーサは支度の終えた紫鬼に小物を手渡していく。
装飾品に香り袋、そして、
「あの、これ……」
最後に手渡したものは液体の入った小瓶だった。厳重に鍵のついた小棚に入ったそれを一つ取りだしていた。
中身が何かはわからない。しかし傾けてもあまり動かないことから粘性が強いことだけはわかる。
「ああ、気をつけてね。あまり身体に良くないものだから」
「何に使うんですか」
「うーん……」
紫鬼ははっきりとしない態度で苦笑していた。
珍しい、カーサはそう思いながら眉をよせる彼女の顔を見ていた。
目と目が合い、紫鬼は軽いため息をつく。小瓶を指先でつまんで振って見せた後、
「ちょっと恥ずかしいけど知っとかなきゃいけないことだものね」
そう前置きして、
「これは主上の子種を殺す薬なの」
つまりは避妊薬。
子供を作らずに夜伽をするにはそういう小細工が必要だった。その理屈に納得したカーサはかすかな好奇心から、
「あー……どうやって?」
と尋ねていた。
すると、紫鬼は小瓶を下腹部に当て、
「あそこに塗るのよ」
「……体に良くないんですよね?」
「ええ、だからあんまり長いことお勤めはできないの」
紫鬼は力ない笑みを向けていた。
またか、とカーサは思う。
女性の内臓に毒を塗ってまで夜伽をする。普通に考えれば非情非道な行いだ。それをよしとする関係者全員に鋭い怒りが沸く。
しかし突然沸いた熱は風のように一瞬で通り過ぎていた。もう何を言っても無駄だと諦めていた。
しかし一応と、カーサは不満をにじませて言う。
「もっといい薬はないんですか?」
「それがないの。主上に毒は効かないのは知っていると思うけれどそれが子種にも強く出ていて普通の薬じゃ効果がないかもしれないって」
「そんなの、酷すぎるわ」
「かもしれないわね。それでも私たちは主上に尽くさなければいけないのよ」
毎度のこと、最終的に同じところにたどり着く話にカーサは目を細める。
「どうして?」
「お勤めだから、ね」
時間になり、主上の屋敷に三人は訪れていた。
向かうのは主上の寝室だった。清々しいほど広いエントランスを抜け、階段を上った先に目的地はある。
屋敷の中には使用人の女衆の他、エメリアの姿があった。軽鎧姿の彼女は帯刀はしていないものの、予断を許さない雰囲気を纏っていた。
先導する彼女の後をついて行く。案内された部屋は若草色の草を編んだ敷物で満たされて、草原のような独特の匂いを撒いていた。
「ここでは履物を脱げ」
エメリアは短く告げる。それに従い、履物を脱いで近くの下駄箱へとしまう。
部屋の中は思いの外こじんまりとしていた。装飾も殆どなく、他の部屋に比べて異様に映るほど質素だった。
部屋の真ん中には大きなローテーブルが置かれ、一輪挿しの花瓶だけがその存在を主張している。他には幾つかクッションが並んでいるだけで本当に何も無い。
夜伽のためのベッドすらないのだ。カーサは疑問に思いながらも口を閉じて、動向を見守っていた。
主上の姿はまだなく、四人が部屋に入ると、後ろから現れた女衆がテーブルに食器や酒器などを並べていく。
どれも造り手の思いのこもった作品とひと目でわかる。ただしばらくすると、紙の貼られたパーテーションが目の前に置かれていた。
……なにこれ?
視界を遮るように設置されているせいで辺りがまるで分からない。カーサはパーテーションに手をかけると、
「何かあるまでそこで待っていろ」
エメリアのきつい目が突き刺さる。
あくまで二人の空間を作る事が目的なのは理解したが、
暇ねぇ……
やることも無く寝ててもいけない。ただひたすら呼ばれるまでじっとしていることに耐え難い疼きを感じていた。
同意を求めるようにカーサはアポロへ目を向ける。しかし彼女はこの状況でも目を輝かせていた。
その顔はようやく主上に会えるということへの喜びに満ちていた。変に水を差すのも悪いと思い、カーサは話すことを止めた。
しばらくして、
「失礼します。主上がお見えになりました」
引き戸を開けて現れた女衆が一言告げると、一組の足音が部屋に入ってくる。淀みない足取りがその部屋の主であることを告げていた。
彼は座っている紫鬼の隣に腰を下ろす。その様子は影となってパーテーションに映っていた。
「まずは食事からになさいますか?」
まず紫鬼が話しかける。とくとくと酒器に酒を注ぐ音が部屋に響く。
「いや、話がしたい」
張りのある、若い男性の声だった。
主上の声にアポロは目尻を下げて、はぅと感極まった声を漏らす。
「ええ、わかりました」
そして他愛のない談笑が始まっていた。
後宮のこと、国のこと。好きな物、家族の話。主上は相槌を打つだけでなく自分からも様々なことを話していた。
この世界に降り立った時のこと、様々な地で冒険をしていたこと。出会った人々や敵となった人や獣達。
いいなぁ……
カーサはじっと耳を傾けていた。そこには自分が憧れる世界の姿があった。
命令とはいえこんな所で燻っている自分が嫌になる。憧れる世界に身を置いて、それを捨ててこんなところで時間を浪費する人を嫌いになる。せめてその顔を見てやろうと慎重にパーテーションから顔を覗かせていた。
横で見ているエメリアはその行為を一瞥して、咎めるような目で見るがそれ以上は口にしない。気付けばアポロも堪えきれずカーサと同じようにしていた。
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