ラビットフライ

皇海翔

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3・11後(2011年5月20日9時30分)

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 大手の医療機器メーカー、ニューロテック社は主力製品である心電図モニタ、血圧計、脳波測定モニタなどを埼玉県の自社工場で製造出荷している。ここに、介護用ロボティクス部門が立ち上がったのは十年以上も昔、石川高行が入社する二年前のことだった。広大な敷地面積を誇る構内には埼玉営業所のほか、三棟の製造工場が敷設されており、ロボティクス部門はそのうちの二階建ての一棟に収まっている。
   一階では、足の不自由な人のために開発された歩行アシストのロボットスーツ、また寝たきりの人の食事を補助するための食事介助用マニピュレーターが製造されており、これらの製品はすでに全国各地の病院、福祉施設などに納品されていた。すでに生産ラインが確立されている主力商品の本棟に比べれば、ロボティクス部門の工場はまだまだ人員も規模も小さいものの、時代の少子高齢化をにらみ、次世代はこちらが主力になるだろうと社に期待されている部門だった。タカユキは東京本社のシステム開発部とこの埼玉工場とを週に三度は往復していた。
 構内への出入り者をチェックする窓口の警備員にあいさつし、営業所で出社手続きを済ませると、タカユキはロボティクス棟へ続く通路の入り口で社員証を読み取り機に充て、中に入った。ロボットスーツの部品である人口繊維のゴムのにおいがかすかにする。天井からつるした何体もの下半身ばかりのロボットにとりついている作業員の一人に片手をあげてあいさつすると、そのままエレベーターで二階に上がる。狭い箱に揺られている間の数秒間、タカユキはここへ来るといつも感じる言い知れぬ寂しさを覚え、じっと胸元の社員バッジを見下ろした。本来なら、ここで働いている多くの工員たち同様、自分も水色の作業着を着て開発チームとともに四六時中をロボットと対峙していたかった。工具を手にすることはなくっても、プログラマーもまたエンジニアの一人なのだとタカユキは自認している。本社と工場を往復することの煩雑さから、またここのチームに溶け込みたい一心から課長に埼玉工場への出向を申し入れたが聞き入れてもらえなかった。既にほかの製品を納入している都内各所の病院から、光学機器に使用しているソフトの保守点検を依頼されるからだった。それは仕事としてやむを得ないことではあったが、ソフトの修正ならば他のプログラマーでもできないことではない。
   それよりも暗黙裡に、課長が出向を却下する理由がタカユキ自身にも理解されている。それは連日、残業時間に彼が取り組んでいる、より高度な人工知能の開発だった。
 棟の二階のフロアに降りた途端、表札一つない銀色の分厚いドアの横で再度社員証をかざそうとしたとき、彼はふと違和感を覚えた。フロア全体が妙にひっそりとしている。ドアを開け構内を一望すると、工具やおびただしい電子部品類が収納されている棚の前にも、工作機械のわきの作業台にも誰一人作業員がいなかった。通路に記された各部署への案内を示すペンキの矢印に従い奥へ行くと、二足歩行ロボットを歩かせるための傾斜や階段が設置してある。その先に、まるで舞台のセットのようなガラス張りの小部屋があり、そこでは病室を想定しても模したベッドのわきで、開発中のロボット『ヘブン』が背筋をピンと垂直に立て、患者用の丸椅子に腰かけていた。ベッドには病人を想定したマネキンが横たわっている。
 部屋の外壁にそっておかれた三台のパソコンの一つを覗くと、待機中と表示されていた。タカユキは立ったまま慣れた手つきで指先を這わせ、起動をクリックし、病室内からも画面がみえるようパソコンの向きをかえた。ドアをノックして部屋に入ると、同時にヘブンの頭部が回転し、CCDカメラの内蔵されたマスクがじっとタカユキを注視した。
「どうした?。何があった?。みんなはどこだ」言いながらガラスの外のモニタ画面をチェックする。
  ――音声認識 ニューロテック社 本社システム開発部 石川高行 どうした 回答不能 何があった
回答不能 みんなはどこだ みんな プロジェクトリーダー 海野秀樹 サブリーダー 前島健一 電子回路担当…タカユキを含めた12人の名前が次々と並んだ後、「どこだ」に至ると、ヘブンは頭部を回転させ、小部屋の外にある一つのドアを指さした。その間5・6秒でモニタには会議室、と表示された。
「上出来だ」
 にっこりと笑ってタカユキがそう言うと、ヘブンはすぐに表情を読み取り、対応している人間が喜怒哀楽のうち喜、もしくは楽を示していることを認識し、「上出来」から今の対応に誤りがなかったことが学習され、片腕を振り上げて握りこぶしの親指を立てた。
 ロボットのCPUは80年代、世にコンピューターが普及し始めた会社の創業時代から幾人ものプログラマーの手を経て受け継がれ、長年の試行錯誤が繰り返されてきた。タカユキもまた、前任者の仕事を受け継ぎ、さらに5年の歳月をかけて作り上げたもので、ニューラルネットワークの結晶ともいえる、社の最大の極秘プロジェクトだった。ニューラルネットは正しい学習が行われたのち、人間の脳の神経細胞同様、パターンが記憶されるようプログラミングされている。
 タカユキが会議室のドアをノックしようとした途端、中から女性の叫び声が漏れてきた。どうせまた、事態が紛糾するような問題が起きたのだろう。ここでは扱う分野の違うスタッフ間で、ロボットの開発指針の食い違いから作業や実験が中断すると、みなが納得するまで議論を戦わす、こうしたトラブルは日常茶飯事だった。ノックしてドアを開けると、電子回路担当の井上涼子が机に両手をついたまま屹立し、プロジェクトリーダーの海野を睨み据えていた。タカユキは苦笑を浮かべ、無言のまま誰にともなく一礼すると開いている席に腰を掛け、ほかのメンバー同様じっと涼子の面立ちを見上げた。テーブルの中央には何かの設計図らしいものが散乱している。
「石川さん、どういうことなんですかっ!」
 海野をにらみつけていた顔を振り向けて、涼子は血走った目でタカユキを見据えた。
「うん?。なにが?」
「君はまだ聞いていないのかね」海野が目元に疲れたような土気色の隈を浮かべて静かに尋ねた。
「ですから何を――?。あ、今日僕、本社によらず直行なんで」
 タカユキが言うと、涼子は「ふーっ」と声にして息を吐き、天を仰いだまま着席した。同時に室内にファックスの受信音が鳴り響き、続々と数枚の紙を吐き出してくる。それもまた図面の青写真のようだった。無言のまま若いエンジニアの一人が立ち上がり、用紙を受け取り海野に渡すと、海野は一瞥したなり用紙を机の中央に放り投げ、
「津田さんが、君が来たらすぐに本社に連絡を入れるようにといっていたよ」そう吐き捨てるように告げた。
「え?。課長じゃなくて部長が?。あ…はい。ちょっと失礼」タカユキが思わず胸に手を当て通勤中マナーモードにしていた携帯を出そうとすると、「ここでは無理だよ。工作室の有線を使いなさい」そう冷ややかに海野が言った。「あ、そうか。じゃあ、ちょっと」机上に散乱している図面をちらと見ながら、タカユキは慌てて退室した。図面は建築物の内部構造のようだった。
 作業場の壁に備え付けてある受話器を取り、本社を呼び出すとたちまち課長の怒鳴り声がさく裂した。タカユキは思わず受話器を耳から外して顔をしかめた。やがて内線の呼び出し音が鳴るのを見届けてから、再び受話器を耳に充てると、「やあ。ご苦労さん」そう、津田部長の野太い落ち着き払った声がした。一プログラマーのタカユキからすると神の声に近い。
「要点だけ言うから冷静に受け止めてほしい。福島第一原発の事故は知っているな?。昨日、東京電力からからうちに、ヘブンを原子炉建屋内に投入できないかというオファがあった。社長が乗り気でね。こうした要請は大学やよそのメーカーにも行っとるらしいが、今回の原発の事故対応には全世界が注目しとる。要請内容は倒壊した原子炉建屋内の映像撮影と放射線の計測だそうだ。むろん、現地の詳しい情報もまだわからないから、すぐにというわけじゃない。これまで通り、開発費には糸目はつけない。どうだ。ヘブンのデビューにはうってつけの大舞台だろう」
「あの、しかしヘブンは介助用として設定されていますから――」
「そんなことは解っとるよ!。だから今後のシステム変更の工程表を早急に見積もって、こちらへ送ってほしいと言っとるんだっ。東電の話では、三か月以内に納品してほしいそうだ。いいかね石川君。『しかし』はないんだよ。それに明子の話だと、君はそっちでの勤務を前から希望していたっていうじゃないか。この仕事が終わるまで当面は本社に顔を出す必要はないから、海野君の下で存分に力を発揮してほしい」
「あの、――三か月って、それはどういう根拠で――」
「…頼んだよ」
 通話は途絶え、信号音を繰り返す受話器をタカユキは呆然と見つめた。そうして思わずガラスの向こう側で端座しているヘブンを振り返った。
   一方で、タカユキが会議室を出た時からこちらの動きを感知していたヘブンは、無言のままタカユキの動静をうかがっている。驚いたね、という顔をして、タカユキが両腕を開いて首を左右に振って見せると、ヘブンもまた、椅子に座ったまま両腕を開き、「やれやれ」とでもいったように頭を振った。こんな形でヘブンと向き合うことになろうとは思いもよらなかったが、重圧より、いよいよ出荷に向けた新しいプロジェクトに参加できることのほうが嬉しくて、タカユキは思わず吹き出してしまった。
 受話器を戻し会議室に戻る途中、ハッとして彼は今の部長の言葉を反芻した。(放射線の測定――?)じゃあどうやってヘブンを建屋まで運ぶのか。いや、それよりも――。ドアノブに手をかけて中に入ると、海野と3・4人の研究員がタカユキを振り仰いだ。
「あの――ヘブンは放射線浴びても大丈夫なんですかね。ほかに代えはきかないし」海野にそう言うと、
「知らんよ。そんなことは」椅子にのけぞり、海野はがっくりと両腕を頭の後ろに組みながらぶぜんとして言い放った。「しかしまあ、始めるとしたらそこら辺からなんだろうな。ともかく、今日の午後東電から人が来るっていうから、話を聞くまでは手の出しようがない」
「始めるんですか?」
 一人が不安げにつぶやいた。誰もがこれからの三か月が修羅場になることを懸念していた。
「もう、始まっているんだ」タカユキは言い放つと、システム担当の若いスタッフに「君、作業服余分に持ってない?」そう小声で尋ねた。
「三か月だなんて、開発期間が短すぎます。みんな生活があるのよ。失敗するのが目に見えているわ。石川さん、あなた放射線のことどのくらい知っているの?」険しい顔で涼子が食いつく。
「んーと、うちで扱っているX線とはまた違ったもんなんですかね」
「そんな程度よね」涼子は吐き捨てるようにつぶやいた。
「他社からも何台か出すっていう話です。負けるわけにはいかない」決然としてタカユキがそういうと、「勝てるわけない」そんな声が上がった。
「本店らしい考えよね」冷ややかにつぶやく涼子の蔑視に、タカユキは久々に胸内に燃え上がるものを覚えた。カっと瞠目して涼子をにらみ、「そんなんじゃあ、ないんだ」と応酬した。
「じゃあどんなのよ。あなただって、結果が出せなかったら本店に戻れないかもしれないわよ」
「かまわないさ」呻くようにタカユキはつぶやいた。「しかし現場がどうであっても、少なくともヘブンのCPUが誤作動を起こすようなことは絶対にない」

 タカユキには今、みなと違うものが映っていた。
 15年前、タカユキは地元である群馬県の工業専門高等学校で学んでいた。入学当初から取得しなければならない学科数の多さに面食らい、大変なところへ来てしまったと恐れをなしたが、ともかく自分の学びたい分野だけにピンポイントで没頭できるので、選んだ道が間違っているとは思わなかった。
 エンジニアを目指す者同士、講義の後の自主学習は和やかな雰囲気に包まれていた。中学生のころと違い、自分をオタク扱いするやつがいない、暗いと馬鹿にされることもなく安心してパソコンに向き合っていられた。
 何とか講義についていける自信から、ようやく余裕をもって受講できるようになった2年生の夏休み前、タカユキは毎日同じ電車に乗合す同級生に、ロボット研究会に勧誘された。学科の勉強だけに日々明け暮れていたタカユキにとって、通学中に聞く課外活動の内容は、高専生活をより活気ある、人間的なものにしてくれる魅力的なものに聞こえた。
 一体に、高専生は工学的な専門課程を学ぶので、一般校の学生と比べるとより実践的で、だれもが学問に真率に向き合っていた。卒業時には専攻した学科に従いオリジナルの製作品を作成し、提出しなければならないので、四六時中どこか抜き差しならぬ雰囲気を漂わせている。創作したマシンなり、プログラムなりが正しく作動しなければ、及第はおろかこれまで何を学んできたのかといわれてしまう。日々の知識がいずれ形として結晶するとわかっているので、同級のライバルにまねされては困るから口にこそ出さないものの、だれもが頭の中で常に独自の設計図を描いて生活していた。どれだけ他分野にわたって広く、また深く学んだか、それには不得意分野を習得するため友人との情報交換が欠かせなかったが、高専生は往々にして口下手で、感情をうまく表明できないものが多かった。コミュニケーション下手なものが多い。タカユキ自身、そのことが自分のスキルの欠点であることをなんとなく予感してもいた。彼は同級生からのロボット研究会への誘いを快く引き受けることにした。
 毎年暮れにテレビで放映される、NHKのロボコンはタカユキも見ていたが、スタッフのうち晴れの舞台に立てるのは三人だけで、会場で彼らをサポートするのが五人、あとは観客席からの応援だった。
 2・3年の時はプログラミングを手伝っていたが、あっけなく地区大会で敗退。専攻過程の4年生になってから、タカユキは初めて指導教員にシステムの全般を任され、後輩とともにロボットのCPUを書くことになった。このとき作成したロボットは群馬県の地区予選を勝ち抜いて全国大会への出場が決まった。教員をはじめ、話したこともない生徒たちからも称賛されて、研究会のだれもが浮足立っていた。
 この年の夏から秋にかけて、そしてあの両国国技館での屈辱を、タカユキは生涯忘れないだろう。
 設計は、機械工学科の5年生が担当したが、タカユキはこの年、競技のルールを自宅で自分なりにシミュレーとしていた。万全を期すつもりだったのだ。会場の舞台装置を3D画面で作成し、ロボットのどういう動きが得点を挙げるのに最も有効か幾度も試行したが、実際にとりかかってみると、これはこれで卒業テーマになりそうなくらい煩雑な工程を経なければ、納得のいく成果は得られそうになかった。操作する人間がどの位置に立つかでロボットのルートは変わってくるし、相手がどう出るのか、それも全く未知数だ。NHKへのロボットの図面提出期限が過ぎても、タカユキはパソコンでのシミュレーションをやめなかった。そうして得られたデータから、最適と思われるメカニクスを、夏休みののち概略ではあるが担当教諭に提出したのだ。教諭は目を見張って驚いていた。けれども、すでに研究会のロボットは順調に地区大会を勝ち進んでおり、すでに彼のアイデアを検討すべき時期ではなかった。ロボ研の作業小屋では全国大会の出場が決まってから、毎晩遅くまでメンバーによる調整のための手直しが行われていた。
   十月下旬ころのことだった。学校から駅に向かう途中、タカユキは研究会のメカニクス担当の五年生三人に呼び止められた。
「石川。お前なんだって今頃になって先生にくだらない図面を提出した?」
 五年生の声は怒気に震えていた。「お前は、お前に与えられた作業に集中してないな。いいか会の統率を乱すようなことはするな。みんな今回のロボットにどれだけの情熱を傾けてきたか、お前だって知っているだろう」
 それからタカユキが返答する間髪も入れずに、前方に立ちはだかる三人の壁から突然鉄拳が飛んできた。タカユキは顔面を両手で覆ってうずくまった。
「お前は東京へ無理して出張る必要はないぞ。プログラムはもういじらない。研究会へも顔は出すな。ご苦労だったな」薄笑いを浮かべつつ、そう言い残して五年生たちは去っていった。
 大会当日、タカユキは指導教員にメンバーとして選出されていたが、体調不良を理由に学校はもちろん国技館にも顔を出さなかった。結果は自宅のテレビで観た。初戦敗退だった。そして大会が終わっても、ロボ研には顔を出さず自然と退会扱いされてしまった。
 翌春、NHKからロボコンの最新ルールが発表されても、会に顔を出さずにいると、タカユキは研究会の担当教諭から直接呼出しを受けた。そこで再度チャレンジするよう説得された。上級生は卒業してもういない。けれども彼はその時いくつかの条件を申し出た。多くの高専生が就職を希望する中、タカユキは進学を希望していた。会には顔を出すが、週に一度だけにしてもらいたい、そう頼んだのだ。
 この年は、受験勉強が大切で設計まで手を出すことはできず、昨年年上の五年生に言われたようにプログラミングだけを担当した。メカニックの図面が仕上がるまでは、会の作業小屋にも顔は出さなかった。そして設計が確定したのちに図面を受け取り、回路図をにらみつつ入力の大半は自宅のパソコンで行った。
 プログラムが書けたのちは、バグや微調整といった手間のかかる作業を後輩に任せ、大きな変更があった時だけ作業小屋に顔を出した。そこでも新たな図面を受け取ると、自宅でため息をつきながら修正を行った。大会をどこまで勝ち進めるかといったことはもはや彼の眼中になかった。ただ、頼まれたプログラミングを細心の注意を払って組み立てていった。その頃はスタッフのだれもが、昨年以来彼を正会員とは見なしていない雰囲気があった。進学組だということと、そしてもう一つはメンバー同士の付き合いが悪いという理由からだった。
 作成したロボットは地区大会の決勝まで勝ち進んだが、エリア内で対戦相手の予期せぬ妨害を受け、ロボットの身動きが取れなくなってタイムアップのまま無残な負け方をした。タカユキはその日、主力の選抜組のメンバーになるのを断って、会場の体育館の二階席で見ていたが、対戦後何やら審査員たちがざわついている様子だった。相手校のロボットにルール違反が認められないかどうかを協議しているらしかった。しかしタカユキの高専生活は、審判の旗が上がった瞬間に収束していた。負けは負けだ。メカに相手の妨害をかわすだけの機敏さが欠けていたのだ。後輩たちが行った、事前のシミュレーションにも緻密さと、何度も回数を重ねる粘り強さが足りなかった。そしてつくづくと痛感したものだ。どんなにメカニックの要望に完璧に応じられるプログラムを作成したところで、シミュレーション研究と当初の設計が甘ければ、自分の書いたプログラムなぞ永遠に日の目を見ることはない。メンバーの能力がこの程度では、ましてや後輩を殴りつけるような先輩がいたチームではなおさらのことだった。
   悔し涙を浮かべている、まだ興奮の冷めやらない選抜組を見下ろしながら、タカユキは索漠とした思いのまま席を立った。するとその時会場からこちらを見上げにらみつけている者がいた。四年前、通学途中の車内で吊革に揺られながら談笑しつつ、タカユキをロボ研に誘ってくれたかつての同級生だった。
 彼は二階席に駆けつけてくると、タカユキをにらんで恫喝した。
「どうしてもう少し、本気で取り組んでくれなかった?。去年のように設計から携わらなかった?。お前なら違うタイプのロボットを立ち上げることができたはずだ」
「今年は受験勉強に集中したかったんだ」
「違う。お前は逃げたんだっ。研究会からも自分からも逃げたんだっ。どうして去年からそうつれなくなった?。会員のだれもがお前を会員とは見なしていない。それは当然だろう。たまにぶらりと来てメカにも触れずさっさと帰っちまうような奴だからな。だけど俺は違う。お前ならいつか必ず本腰を上げてくれると待っていたんだ。それなのにお前は…」
 二階席で応援していたそろいのトレーナーを着た後輩たちの視線も気にせず、彼はうつむいたままボトボトと涙をこぼした。
「すまない」そう言うと、タカユキも苦しくなって会員たちに一礼し、会場の後片付けも手伝わずに体育館を後にした。一階に降りると審査結果が発表されて、相手校の優勝が決まり、どっとブーイングと歓声の混じった声が起こった。タカユキもそれにつられて場内を振り返った。 
   高専生活最後の名残に、つくづくと会場全体を見渡した。体育館にはNHKのほか協賛各社の垂れ幕がかかっている。そのうちの一つに東京電力の『君たちの夢を応援します』と染め抜かれた巨大な白布が下がっていた。(俺たちの夢?…)そう口中につぶやくと、言いようのない怒気とむなしさがこみあげてきた。タカユキはロボ研のトレーナーをまくり上げて首から脱ぐと、それを丸め、体育館の外に置かれた可燃ごみの集積所に力任せにたたきつけた。

   会議室に続々と送られてくるファックスは東電からの原子炉建屋内の構造を表す図面だった。階段がある、通路がある、そして様々な構造物とそれらにそった何本ものパイプが張り巡らされている。
   これは大変なことになったと正直、あぜんとせずにいられなかった。作業場にある病室を模した実験室では、部屋内の各隅に赤外線を感知するセンサーが設置してあり、ヘブンは各センサーからの距離を瞬時に測定して自身の居場所を認知している。将来、介助用ロボットとして出荷する際には、被介護者の寝室なり、病院にセンサーを設置して使用する、そうした想定内で開発してきたからだ。けれどもすでに放射能漏れがわかっている建屋内に、センサーを設置することは不可能だ。とするなら建屋内の構造を前もってヘブンのCPUに入力しておかねばならない。それもヘブンが移動すると想定される場所すべてを、ミリ単位でだ。それには当然、今このフロアにあるような歩行実験の施設をどこか広い場所で、しかも建屋内と同一の構造物を実際に建造し、徹底的にシミュレーションすることが必要だった。
 一つの小部屋で、一人の人間をやさしく抱きかかえ、揺り起こして車いすに移動させる、もしくは食事介護する、たったそれだけのことをさせるのに今日まで四苦八苦してきたロボットに、未知の広大な構造物内を思い通りに行き来させる、そんなことが果たして可能なのだろうか。
 莫大な金と時間がかかるのは、それだけでも知れているのに、まだ分かっていない未知のものを含め技術的な難題が山積している。先の見える日が本当に来るのか、それすらも覚束ない。リーダーの海野をはじめ、電子回路担当の涼子がため息をつくのも無理のないことだった。テーブルの中央に折り重なった図面の小山を前にして、開発チームのだれもが「痛い」としか言いようのない、沈鬱な面立ちを浮かべていた。プログラムを全交換するような一大プロジェクトを眼前にして昇給、ボーナスといった報酬のことよりも会社に社員としての真価を問われ、なおかつ突然、がけっぷちに立たされているような心境だった。
「東電の人はいつ来ることに?」
 重苦しい空気を破ってタカユキがおずおずと尋ねると、
「資材部の人らしいが、今日の昼過ぎだと言っていた」海野が答えた。
「あ、じゃあ僕ちょっと、東京へ戻って歯ブラシとか着替えとか、私物整理してきますんで…いいですか?」
「私物整理してくるって、あなたまさかここへくんの?」涼子が尋ねた。
「そういうことになりました」
「ええっ」げーっ、という顔をして涼子があらわな困惑の色を浮かべていると、
「話は部長から聞いている。荷物はここへ送るのかい、それともアパートでも借りるか?。なんだったら僕の所でも構わないけど」そう海野が聞いてきた。
「そうですね、どうするかな。とりあえず寝袋持ってきて、今日はここで寝ますよ。ヘブンと二人で」そう言ってタカユキは会議室のドアを指さして微笑した。
「やめて―あたしのヘブンちゃんに」涼子が不快と絶望の入り混じった顔で声を上げた。
「いや。ぼくらも当面ここで寝泊まりするのを覚悟しなければならないかもしれん」
 海野はようやく決断らしい言葉を口にした。
「寝袋はともかく、寝具を何組か用意しておいたほうがいいだろう。シャワーは一号棟のものを使わせてもらうとして、そうだ弁当の業者に夜食も配達するように手配しておいたほうがいい」
 ガタガタと年少の若いスタッフが席を立った。「いやーん」わめく涼子をしり目に、「楽しい合宿の始まりだ」メカニクス担当の一人があごひげをなでながら腰を上げた。
「私も、いったん帰ってちょっと支度してきます。今日乗ってきた車、女房の車なんで」
「うん。みんなそれぞれ事情があるだろう。今日ここに残るのは僕一人でいいから、明日からに備えて、身の回りの準備をしてきてほしい。その代わり明日からは修羅場だぞ」
 言いきらぬうちに次々とスタッフたちが会議室を出ていく。残ったのは海野とタカユキ、それにぶぜんとして腕組みをしたまま座っている涼子の三人だった。
「リーダー私困る」「うん」「来月の有休、海野さん許可してくれたじゃないですか」「うん」「初めての海外旅行なんですよ?」「うん」「チケットだって予約しちゃったし、彼氏とずっと温めてきたプランなんですよ?」「うん」
「うん、うんって、どうすんですかっ」
「どちらが君にとって必要か、一人になって考えてみなさい」
「そんな」
「君自身が判断することだ」
「あ…じゃあ僕これで失礼します」タカユキが慌てて席を立つと、
「あんた、何にも分かっていないのよ」涼子が罵声を浴びせてきた。
「現場の私たちが、今日までどれだけここの作業場で苦労してきたか、これっぼっちも解っていない。あんたは人生リセットして嬉しいでしょうけど、あんたがねえ、たった一行本社でプログラミング変えるたびに、メカの人が油まみれになって、どれだけ大変な思いをしてきたか、そんな気持ちあんた分かってんの?」
「よさないか」海野が静かにたしなめる。
「現場には現場の事情ってもんがあんのよっ!」
 きっと海野が涼子をにらんだ。
「だって、だって…」
 鼻声ですすり上げる声音を背にしたまま、タカユキは黙って会議室のドアから外に出た。

   ラッシュアワーのピークを過ぎて、都心へ向かう列車内は閑散としていた。人垣がなくなり大きな車窓から午前の穏やかな日差しが足下にまで及んできている。こんな安閑とした時間帯が一日のうちにあったことをタカユキはある種の驚きをもって迎え入れていた。
 激務に次ぐ激務の日々、それが明日からまた始まる。窓外の密集した建築群を無心に眺めつつ、けれども彼の頭の中はめまぐるしく回転していた。
 現場の人間の苦労を分かっていない、そんな批判を十年以上昔、高専時代に浴びせられて以来、幾度似たようなセリフを聞かされてきたろう。当初は自分なりの言い分を通してきたが、社会人になり歳を重ねるにつけ、反駁して生じる人間関係の亀裂を忌むようになった。井上涼子は若い。彼女ほどの年齢のころ、自分もまたああだったような気がする。
 議論の対象がヘブンのように目に見えたはっきりしたものなら、そこには必ず究極の答えが存在する。けれども考え方のスタンスといったものは、他者に押し付けるべきものじゃない。専門の畑が違うのだから見えている景色もまた違う。たったそれだけのことを身に染みて痛感するのに自分でも十年はかかった。
 タカユキは窓外にやっていた目を床面の穏やかな日射しに落とした。慢性の眼精疲労が亢進しているように思われる。自分では気にすまいと流していても、ああ露骨に感情をぶつけられると体の弱っている部分に支障が起こる、そんな歳になってきた。あの直情的なところが他の仕事ができない涼子のむしろ長所なのだと思いたい。タカユキは目をつむり、ぐっと両の瞼をつまんだ。数秒間そうしてから、さあ仕事だ――そう自らにはっぱをかけた。
 MRIのデータ入力は当面できなくなるだろう。まずはT大の速水巳一郎に離別の詫びを入れねばならない。胸ポケットから携帯を取り出して開くと、三度の課長からの呼び出しの前に、光石ほのかの着信があった。先に巳一郎と普段医療機器ソフトの保守点検で出入りしている病院、福祉施設の担当者に事情を伝え、最後にほのかからのメールを開いた。
【去年もとうとう会えなかったね。お仕事のほうはどうですか?。順調にいってる?。今年のお盆にはこっち来るん?。有給相当たまってるって言ってたもんね。駅前の『アルプ』で待ってます。お体大切にしてください】
 以前ならもっと打ち解けた感じでメールしてくれたのに,いつから敬語なんか使うようになったろう。タカユキがいぶかしく思った時、車内アナウンスが降車駅の名を告げた。タカユキは慌ててほのかに携帯の返答を打った。
【新しいプロジェクトが立ち上がった。今年の夏はとても帰れそうにない。これまでにない大仕事なんだ。すまない】
 列車のドアが開き、タカユキは携帯をたたんで慌ててホームに飛び降りた。






















































































































































































































 
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戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。 数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、 今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、 わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。 彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。 それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。 今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。   「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」 「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」 「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」 「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」   命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!? 順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場―― ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。   これは―― 【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と 【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、 “甘くて逃げ場のない生活”の物語。   ――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。 ※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。

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