ラビットフライ

皇海翔

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『アルプ』にて

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 毎年、冬のクリスマスになると、西小泉駅前の喫茶店『アルプ』でささやかなパーティーをするのがほのかの高校時代からの慣習になっている。集まるのはともに山登りしたワンゲル部員たちであったが、十数名いた部員たちも高校を卒業すると数名は短大や専門学校へ進学するため東京へ行き、地元に残った仲間たちとも三年たつと少しずつ疎遠になり、今では四、五名集まればいい方になってしまった。喫茶店のマスターに頼んで以前なら店を貸し切って騒いだものだが、今日はテーブル一つで済みそうだった。
「オードブルは一皿でいけそうかな?」カウンターの中からマスターがもの静かな調子でほのかに尋ねた。
「あ、うん。たぶん」
 携帯を開いて景子からのメールを確かめたものの、返事はまだ届いていない。部員間同士の連絡役は学生のころから景子の役目だった。性格の温順な景子は仲間内でのトラブルがあるといつも間に入って双方をなだめた。知らずのうちにそんな役回りになっていた。三年生の時、ほのかは部長だったが、皆をまとめてくれたのはお景のおかげだと思っている。実際に登山したとき体力や登山技術ではほのかの活躍が目立ったが、一人一人の気持ちをつかんでいたのはむしろ景子のほうだった。卒業後も、景子は携帯のラインでみなと連絡を取り合っていたが、ほのかは参加していなかった。景子からの連絡が途絶えてしまうと、ほのかには手の出しようがなかった。パーティーはそれぞれの都合もあるので何となく七時と決まっていたが、ほのかは工場の終業とともにその足で店に来たので、始まるまで一時間以上も待つことになった。泥酔している母親のいる家に、クリスマスの晩帰宅するのは我慢のならないことだった。
 まだ封を切っていないシャンパンとワインを前にして、ほのかは空になったコーヒーカップの底に視線を落とした。
 窓の外はみぞれ交じりの雪だった。駅前のロータリーは出入りするタクシーとバスが積もった雪を跳ね返し、黒い路面があらわになっている。轍がそれた部分では、雪が二十センチほどの畝を盛り上げており、タクシー営業所の事務員がそれをスコップでかき出している。
「いや今日は暇かと思ったらとんでもないや」
 そう言って時折タクシーの運転手が暖を取りに店に入ってきた。店内には四角く切った土間に昔ながらの薪ストーブが燃えており、木片を足すたびに灰をかき出す穴から木の燻した香りがふんわりとほのかのいるテーブルにも漂ってくる。運転手はあわただしくパスタを口に放り込むとコーヒーもそこそこに帽子をかぶり、すぐに車に戻っていった。
「忙しそうだな」マスターがカウンターの中からほのかに言った。ほのかは微笑してマスターを見つめた。店内では二組のカップルが仲睦まじそうに小声で会話していた。ほのかはロータリーとは反対側の、駅のホームが見える窓に見入った。
 西小泉駅は館林から西に延びる小泉線の終着駅だ。二両編成の列車を降りると、運転席の先はまるで楽譜の冒頭に記すト音記号のようにレールが丸く立ち上がっている。それを見るにつけ、ほのかはいつもある種のやるせなさに襲われる。もうここより先はない、といったなんともやるせない気持ちになるのだ。東京に出ていった娘たちにとってはここが旅立ちの始発駅になる。けれども家の事情で地元から離れられないほのかにとっては、未来すらこの街で途絶えてしまっているようで絶望的になるのだった。自分にとってはこの町が終着駅でまだ二十一なのにここで運命が断ち切られているような暗い気分に沈んでしまう。ほのかはその先端が丸く渦を巻いているレールを憎んだ。ガリバーみたいな巨人になったら、ペンチでまっすぐに引き延ばしてやりたかった。
「みんな遅いね」
   マスターに言われて店の時計を見ると、アンティーク調の柱時計はすでに七時を回っていた。ほのかは少し肌寒さを覚えた。誰も来なかったらどうしよう…そう考えて、テーブルに置かれた二本のボトルを侘びしく見つめた。三年目――ぼちぼち、私たちもお別れの季節が来たのかな…そう冷静に考えてみた。みんなそれぞれの人生で忙しいのだとほのかは思う。
「マスター憶えている?」
「なにを?」
「あたしたちがまだ十九で未成年なのにここで酔っ払って騒いじゃった晩のこと」
「ああ――だってお景ちゃんが駅の自販機で買った缶チューハイ、こっそり飲んでんの見ちゃったからさ。だったらもう成人式なんだから、こそこそ呑んでいないで胸張ってうちでのめって言ったのさ」
「それから店のビール飲みだしたらさ、一人酔っぱらって壁にかかっている写真の額縁、落として割っちゃったじゃない」
「そうだっけ?」
「うん。そしたらマスター、カンカンに怒っちゃってさ」「そりゃ怒るだろうな」
「マスター、その時こう言ったのよ。『お前ら、クリスマスの晩に女ばかりで集まって、ほかに行くところがないのか』って」
「言ったかね」
「言ったのよ。お景なんか焼酎とビール飲んでて目が座っちゃててさ、『マスター、そのうち誰もこの店に来なくなるから』って、マスターのこと睨み返したら、マスター蒼くなっちゃって『えっ、どうして?』って」
「うん」
「そしたらお景がね、『クリスマスの晩に来なくなったら、それが男ができた証拠だから。そのうち誰も来なくなるわ』って言い放って」
「はは。なるほど」
「でもその日がこんなに早く来るなんて、思ってなかった」
「結婚した娘もいるんだろう?」
「うん」
「だったら、しょうがないさ」
   カップルたちが勘定を済ませて店を出ていき、客はほのか一人になった。七時四十分になろうとしている。
「あたしの呑もうかな」
 ほのかはそう言って封を切っていないボトルに手をかけた。
「無理しなくっていいよ。酒ならしまっておけば誰かが呑むから」
「じゃなくって飲みいの。あたしなんだか疲れちゃった。待ってばかりいてバカみたい」
「…どっちにする?。ワイン?。シャンパン?」
「ポン酒、あったっけ」
「えっ、ああ――俺のがあるけど…八時か。どれ、暇そうだし俺もご相伴させてもらうかな」そう言って紙パックの日本酒とコップを抱いてカウンターからマスターが出てきた。
「そうだこいつも食っちまおう」外からカウンターに覆いかぶさると、調理台からアルミ箔をかけたままのオードブルの大皿を持ち上げ、大事そうにほのかのいるテーブルに置いた。
「やけ食いしよう」
「ごめんねマスター」ほのかはテーブルに置かれた日本酒を持ち上げ、マスターのコップに注ぐと紙パックを傾けてそこに映されている雪渓の図柄を眺めた。「懐かしいなこれ」
「だろう。松本の酒造店から取り寄せているんだ――でもなほのちゃん、君はやっぱりあの娘たちのリーダーだったんだ。さすがだよ。最後の一人がいなくなるまでこうして見届けたんだから」
 ほのかは苦笑して首を振った。「パーティーをいったん組んだら下山するまでだれ一人として見放してはならない、その責任がリーダーにはあるって教えてくれた人がいたのよ」
「石川君だね」
 ほのかは黙って透明な液体を口に含んだ。それからすぐ横の壁にかかっている写真を見上げた。山好きなマスターの趣味で、店内にはモノクロの山岳写真が飾られてあったが、ほのかたちがいつも座るテーブルの横だけにはカラー写真を引き伸ばした一枚がかけられていた。三年前の夏、北アルプス涸沢小屋で撮った当時のワンゲル部員の集合写真だった。中央にはその時山で足をねんざしてしまった部員が写っており、ほのかと景子が彼女の脇下にそれぞれの肩を入れて笑っていた。
 そして――一番端に石川タカユキがやや緊張した面持ちで両腕を組み、胸をそらせてこちらを見ていた。

 三年前の夏。
 標高2700メートルある穂高のザイテングラートの巨大な岩尾根で、ほのかたちワンゲル部員はすさまじい暴風雨に襲われていた。体全体が強い力で押し戻され、バチバチとレインスーツにはじける風雨は山上から強い力で体ごと引きはがそうとしていた。また一方で谷筋からの吹き上げでフードの中の髪はずぶぬれになり、暴風はすり鉢状の急斜面を施回していきなり尾根筋から下界につき飛ばそうとする。一定した風向きではないので、どちらに身構えたらよいのか見当がつかなかった。
 ただじりじりと岩尾根に残されているかすかな踏跡をたどり伝って、ここまで登ってきたのだった。視界が悪くまるで荒磯のように白くしぶく横殴りの雨でろくに顔を上げてもいられなかったが、行く先にはそこより上がない、稜線と暗く濁った雨天との境目――それがはっきりと先頭を行くリーダーのほのかには見えていた。自分の足下の踏跡と、最後尾で足をねん挫した部員を支えつつ、苦しい登攀を強いられている景子の目をほのかは交互に見返した。
 男は上方の大岩の陰からいきなり出現し、まるでこちらに押し寄せるような態度でほのかの眼前に立ちふさがり、
「けがをした娘がいるんだろう。降りたほうがいい」そう進言した。
「誰よあんた」
   ほのかは不意に接近してきた男に好戦的な口調で問いただした。山行中、女ばかりのパーティーに何かと理由をつけて言い寄ってくる男たちを数多く見てきた。内心では自分も含め異性に興味のないものなどいるはずはないことは解っているが、代々ワンゲル部の鉄則として山行中は決して男をパーティに迎え入れない、またほかのパーティに合流しないことが定められている。個人的な恋愛を否定するものではない。しかし山行中、親しくなったからといって行動を共にすると男は往々にしてパーティの主導権を握ろうとした。それが全体の統率の乱れを生じ、心的に各々の気持ちが分裂してしまう。結果、行動を別にするのが自然な状況になってしまい、パーティが二分してしまう、最悪の場合はそれが事故につながった。登山技術の浅い男の言い分を信用し、それぞれが別ルートをゆくようになってしまい危うく遭難しかけた、そんな苦い経験が先代の先輩達の時代にあったのだ。
 山行中困ったことがあってもできる限り自分たちの力で解決する、その信条は部員たち一人一人に浸透していた。
「山頂小屋はもう目と鼻の先でしょ。登ったほうが早くつくわ」
「君たちが登ってくるのを上からずっと見ていたんだ。そのペースではまだたっぷり一時間はかかるぞ。この荒天を見ろ。仮に下りに二時間かかったにしても、稜線に向かうよりは下ったほうが風の向きも安定するし、体力的にも楽だ」
「私はこのパーティのリーダーで光石といいます。あなたが誰か知らないけど私たちだって天気図くらい調べて、荒れるのを覚悟で登ってきたんです。この低気圧は今夜中に本州を抜けて、明日は飛び切りの快晴になるわ。予定では山頂をピストンして明日下ることになっているの。だから午前中のうちに山頂小屋まで行きたいんです」
「予定の話をしているんじゃない。今君たちはこれ以上進むべきじゃないと言っているんだ」
 ほのかは男をきっとにらみ、「見ず知らずのあなたに指図されたくありません」と言った。
 男は無言のまま、ほのかの脇を素通りし、動きを止めて下から様子をうかがっていた部員たちが、身を引くわずかな隙を抜けて岩尾根を素早く下って行った。そして最後尾でけがをした部員を抱えている景子の前にうずくまると、二言三言、何やら話をしているようだった。そうしている間にも風雨は間断なく部員たちに襲い掛かり、動きを止めるとみるみる体温を奪われていく。一分でも無駄にしたくない気持ちで急いでいたほのかは険しい顔で男のすることを見ていた。
 男は下から腕を振るって降りてくるよう、ほのかに指図している。
(最悪だわ)そう思いつつ男のもとに駆け寄った。
「あなた、何してるのよ!」ほのかは大声でかがみこんでいる男の背を𠮟り飛ばした。
「これを見ろ」男が両手で差し上げたのは、けがをした部員の足首で、傍らに登山靴が転がっていた。血の気のない真っ白な足先は像の皮膚のようにパンパンに張り切っている。
「触ってみろ」
 ほのかがしゃがみ込んで触れてみるとひどい熱を持っていた。
「ここだけじゃない」そう言って今度は片手で部員のフードを持ち上げると、額に手を当て、「ひどい熱だ」とほのかに言った。
 けがをした部員の顔色は蒼白で、唇があせた紫色になっており、フードを脱がされても顔すら上げようとせず俯いたまま荒い呼吸をはいていた。
「お景――」そう言ってほのかは思わず景子を振り返った。
「下ったほうがいいかも」景子は真摯な目をしてそうほのかに訴えた。「山は逃げないって」
 ほのかは黙って再度、男を睨んだ。男もまた、横殴りの雨に打たれながら無言のままほのかを見返している。
 悔しかった。長い準備期間と訓練を経てここまで来たのに、山頂を目前にして退却するのもさることながら、不意に現れた見ず知らずの男の言いなりになるのが生理的に受諾できない。ほのかは改めて舐めるように男のフードからつま先までの全身を見た。思案している余裕はない。ほのかは冷静になろうとかぶりを振ると、腕組みをしてゆっくり自分のザックを置いたパーティの先頭に登り返していった。それからそこに着くまでの、あと数歩間に結論を――
そのように自分に課していた。ザックを拾い上げ背負いなおして稜線を見上げる。白いまだら模様になびく風雨のカーテンの向こう側に確かに奥穂高岳の大地の突端が垣間見えていた。それから背後を振り返り、黙ってこちらを見上げ佇立している男の真剣な眼差しを見た。
(命令しているわけではないようね・・・)そのことを確かめると、やはりこちらを見上げている景子の必至な眼差しを受け、最後に景子に取りすがったままうなだれてしまっている部員を見た。
「引き返します。先頭はお景。その娘は置いていいから先に行って。帰りは私が抱えていくから」ほのかは大声で部員たちに通告した。
 景子がホッと安堵した面立ちで深々と頷き、片足をはだけた部員に靴下を履かせ登山靴をあてがって、痛がるのをなだめながら少しずつむくれた足先を押し込んでいった。
「この娘は俺が背負っていこう」男はそう言うとザックを肩から落として、天蓋に乗せてあったザイルをほどき始めた。そしてザイルの先端をもやい結びで自分の腰に巻き付け、ハーネスを取り出して最後尾にいたほのかを大声で呼びつけた。
「急な岩場では後ろ向きに降りるから、君に確保してもらいたい。ハーネスを着けたことは?」
 ほのかは頷くと、男の差し出したハーネスを手にして露骨に顔をしかめた。もともとは堅牢な白帯だったと思われる、ベルトの布地は黄褐色に変色し、また股に通す部分もシミが出ていたるところ擦り切れている。これまで一度も洗ってないのが一目でわかった。ほのかがむっとした顔をしてハーネスを装着すると、「これな」と言って男がエイト環を投げてよこした。ほのかは男の腰から三メートルほどザイルを伸ばしたところで自らの腰のエイト環にザイルを通した。
 けがをした部員の胸と腰に大幅のスリングをあてたとき、それまでうなだれていた部員がハッとしたように男の顔をまじまじと見つめた。「あたし、支えてもらえば大丈夫です」
「君一人の故障が全員を危機にさらしてるんだ。恥ずかしがっている場合かっ」
 男が怒鳴りつけると、すぐにまたがっくりと首をうなだれ幼児のように男の背に覆いかぶさった。男は部員の脇下に充てたスリングの輪に両腕を通し、「よっ」と快活な声を出して軽々と部員を背負いあげた。ザイルの束をほのかに差し出し、「頼んだぞ」と声をかける。ほのかはほとんど反射的にザイルの束の輪に肩を通し、不必要にたるんだ部分をエイト環から引き絞った。男が白い歯をのぞかせて初めて笑った。
「そうだ、いいぞうまいな」
「いいから早く行って」ほのかはこの際、余計な考えは持つまいと自らに言い聞かせて鋭い口調で男を促した。
   暴風雨の中、男は堅実な足取りで岩尾根を下っていった。段差のある所や一枚岩が傾いているような危険な箇所になると体の向きを変え、脇の岩角をつかみつつごくゆっくりと下っていく。背中にいるけが人を最大限にいたわった、そんな足の運び方だった。濡れそぼって黒く光る滑りそうな大岩に足を置くとき、男はちらとザイルのゆるみを気にしたが、その都度ほのかは男の腰の動きに合わせ、神経質にザイルを繰り出したり引き絞ったりした。男はたまに、下る前に「ここは緩めっぱなしでいい」と呟いたり、「張って」と怒鳴ったりしてほのかに指示を与えたが、一度もほのかと目を合わせようとはしなかった。当たり前だが懸命なのだ。
「クライマーか――」ふっと、そうした類の山男にほのかが思いを巡らせていると、
「おい、張って」下からややいらだったような男の声が飛び、ほのかは慌ててザイルを絞り、頭の中の雑念を振り払った。
 岩尾根を下りきり、北穂高岳南陵へ向かう長大なトラバースにかかる頃には先行した部員たちのパーティはすでに樹林帯にのまれて姿が見えなくなっていた。もろい岩くずの道で稜線からの落石に注意しなければならないが、行く先は端まで一直線に大石が埋め込まれており登山道が整備されているので歩きやすい。
 ほのかたちが樹林帯に入ると、それまで四六時中たたきつけていた激しい風雨から逃れ、ようやく人心地付いた気がした。しかし登山道には巨岩を削って通すようなところもあるので最後まで油断ができなかった。
 ほのかたちが眼下の樹間に山小屋の赤い屋根を見出した時、ほかの部員たちはすでに圏谷の底をテントサイトに向けて行進していた。山小屋のテラスにたどり着くと、今しがた下から登ってきたらしい登山者が二組、合羽を着たまま丸木の椅子に腰かけていた。ザイルを腰に当てて人を背負った一行を見ると、誰もがおや、と意外そうな顔をして三人を見た。小屋の薄暗い自炊場の中からも、何人かがこちらを見ている。
 北穂南陵の先端、岸壁直下に建つ小屋のテラスでは白く光る細かな雨が垂直に落ちていた。男は空いているテーブルの上に背負っていた部員の尻をそっと乗せ、「お疲れさん」と言って朗らかに笑った。肩幅のあるがっしりとした男の背中から濛々と白い蒸気が沸いている。ほのかはこれほど清々しく迫力のある人間を見たことがない、そう素直に思った。てっきり、自分たちが設営している涸沢カールのテントサイトまで同行してくれると思っていたので、気の抜ける思いで男を見つめた。
 男は腰からザイルを解くと、「ちょっと待ってて」そう言い残し小屋の玄関に入っていった。受付近くの小窓から、小屋の主人らしい年配の人物が細く鋭い目をしてじいとほのかたちを見つめている。男と主人は玄関うちのたたきで二言三言、会話を交わすとすぐに男がテラスに引き返してきた。
「空いている部屋があるそうだ。パーティ全員はちょっと無理なんだけど、その娘だけでも、今夜はここで休ませてやればいい」
 ほのかは、まだぽかんとした顔をして男を見つめていた。
「いえ、あのもう、これ以上甘えるわけには・・・私たち天幕なんで」そう言って眼下のテントサイトに目をやった。
「こういう時は遠慮するもんじゃない。小屋には常備薬がそろっている、湿布薬もある、患部に充てて一晩休めば彼女だって明日には歩けるようになるだろう」
「あの私たち・・・その、限られた予算で来てるんで」小声で言って俯くと、今度は男のほうがきょとんとした顔になった。
「いや、そうじゃなくって、僕の知り合いということで。つまりこれは社長の厚意なんだ」笑って男がそう言った。ハッとしてほのかが小窓の中の主人を見ると、厳しい目をしてこちらを見つつ、ゆっくりと一つ頷いている。ほのかは緊張のあまり深々と頭を下げた。
「あの・・・あなたは?」
「ああ、そう言えば自己紹介がまだだった。ぼくはここの小屋の従業員で石川高行。学生なんで、今は夏の間だけここで働いているんだ。」そう言うと、部員の脇下に肩を入れ、「さあ、雨に打たれるのはもううんざりだ。早く小屋に入って温まろう」言いながら部員を抱え上げた。ほのかは慌てて反対側の脇下に肩を入れ、三人は同時に玄関のガラス戸から中に入った。
 受付の主人に対面し、「よろしくお願いします」とほのかが挨拶すると、主人は小窓の中でやはり固い面もちのまま佇立して、腕組みをして頷いた。怒られるのかな――けが人を出しながら山頂目指して強行しようとした自分の行為を、山の番人である小屋の主人ならきっとしっ責するだろう――ほのかは内心そう覚悟していた。登山靴を脱ぐのに三人が同時に床板に腰を下ろすと、主人は静かにドアを開けて受付から出てきた。そして受付の前に立つと両ポケットに手を突っ込んでいきなり胴間声で言い放った。
「なんだ石川。おまえ岩登りに行って二人もお客さん連れてきてくれただか。いくら暇だからって、そんな気ぃ遣ってくれなくてもよかったものを」
 えっ、という顔をして三人はとっさに主人を振り仰ぐ。すると、小腹をゆすって主人は愉快そうに「いひひ」と言って哄笑し、それからひたとほのかを見つめた。
「今日は一日大変だったづらい。まあ今夜はここでゆっくりしていきなさい」
 そうしわがれ声でやさしく言った。

 あの、フォークロアは忘れない。喫茶店『アルプ』にかかった記念写真を見上げつつ、ほのかはいつもそう思う。
 小屋で一泊した翌日は抜けるような快晴だった。ねん挫した部員の熱も下がり、むくみはまだとれなかったもののストックを突いてなら何とか自力で歩けるようになった。テントを撤収したワンゲル部員たちが小屋のテラスに集合して、記念写真を撮っていた時、カールの底からくぐもったような太鼓の音と、トンビの声に似た軽快な笛の音が届いてきた。涸沢カールに横たわる大岩を舞台にして、四五人がアンデス地方の山岳民謡を奏でていた。そしてみんな笑っていた。部員たちの誰もが、登頂した後のような晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。夏季の合宿山行は成功だった、ほのかはこの時初めてそう確信できた。登頂できなくっても、きずなが深まった分、三年間の総ざらいとして先輩達にも堂々と胸を張れる山行だった。・・・この、石川高行という男のおかげで。
 小屋脇に続く石段を下り、いよいよ穂高の山々ともお別れという地点で山小屋を振り仰ぐと、テラスの柵にもたれてタカユキはまだ照れ臭そうにこちらを見ていた。ほのかは号令をしてパーティを停め、小屋に向き直ると部員たちを横一列に整列させて小屋のテラスに向かって再度、
「ありがとうございましたっ!」
 そう大声で挨拶し、全員で謝礼した。タカユキが小さく手を振っている。そうして本館よりのテラスの端に、やはり両手をポケットに突っこんだまま、主人がじいとこちらを見下ろしていた。
 群馬に戻るとほのかはさっそく、ワンゲル部顧問の教員に事情を話し、山小屋にお礼の手紙と二人分の宿泊費を書留で送った。夏山合宿が終わると三年生は事実上、引退したも同然になる。受験や就職活動が本格化するからだが、山と離れる寂しさはしばらくの間ぬぐえなかった。穂高から帰宅して以来、ほのかは部屋の隅に置き捨てられた山道具を見るのもつらく、ろくにザックの中身すら片付けずに打ち捨てたままにしてあった。
 年が明けて春になり、まだ就職先も決まらずに悶々としていたころ、ほのかは気晴らしに山へでも行こうかと思いザックの中を確かめてみた。するとスタッフバッグに丸めたも同然のまましわだらけで押し込んであったレインウェアのポケットから、ゴトリと何かが床に落ちた。エイト環だった。あの時、ハーネスはタカユキに手渡しで返したはずだが、雨に降りこめられてあわてて小屋に入った際、知らずにポケットに入れてしまったのだろう。涸沢小屋の主人にそのことを電話で伝えると、タカユキの連絡先を教えてくれた。携帯で東京にいるタカユキに連絡を取ると、驚いたことに彼は同じ群馬のしかも館林市が実家で、四月になったら東京から一度こちらへ戻るので、その時に会おうと言ってくれた。
 小泉駅近くにある城山公園の桜が満開のころ、二人は大勢の人出の中、夜桜を見に初めてデートした。口実はエイト環を返すのだったから、ほのかもそのつもりでいたのだが、露店を眺めたり近くのアンティーク屋へ立ち寄ったりして、なんとなく互いにだらだらと時間を引き伸ばしていた。そして別れ間際、桜祭りの会場から少し離れた堀端に立つ桜の陰で、タカユキはほのかをそっと包み込んだ。ほのかは満身の力でタカユキにしがみついた・・・。

 閉店時間の十一時を回ろうとしている。
携帯を調べてみたものの誰からもメールは来ていない。今日『アルプ』で飲み会があることをほのかは一か月も前にタカユキに伝えてあったが、それへの返事すらなかった。それでも、もしかしたらという気持ちでほのかはそれとなく駅の改札口を気にしていた。それから俯いてぐっと日本酒をのどに流し込むと、新規作成画面を呼び出してタカユキに再度メールを送った。
 ワンゲル部員の写真を見上げながら、とろんとした目でマスターがつぶやく。
「パーティーは、・・・終わったんだね」
 ほのかは微笑み返すと、再び壁の写真にじいと見入った。むろん、一番端でややこわばった顔をして写っている日焼けした山男の顔を――。































































































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