ラビットフライ

皇海翔

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石川高行

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 タカユキは夢遊病者のように俯いたまま暗い奈落を見下ろしていた。
 夜空のもと、眼下には月明かりに照らされて鈍く光る鉄軌が二条、押し黙ったまま列車の到来を待ち受けている。その隣にも、またその向こう側にも鉄軌は敷かれてあるのだが、それらの路線はついに自分とは縁がなかった――タカユキはそこまで思い詰めていた。今日まで彼が通勤に使っていた、なじみのある二本のラインが入った列車は数分おきにすぐ左手のホームに滑り込んだ。眼下の彼が逝こうとしている奈落には、それよりもいくらかの間隔を置いて水色の列車がやってきた。
 あの幅たった数センチに見える鋼鉄の上。そこにだけは地上のいかなる生命も数分以上、存在できない。その現実がいまさらながらタカユキにはたまらなく恐ろしいことに思われた。通勤中、人身事故の影響で列車が遅れるという車内アナウンスを耳にするたび、腹の煮えくり返るような苛立ちを覚えたものだった。なんと自分勝手な輩だろうと思う。死ぬのなら、人の迷惑にならない誰も知らないところでひっそりと逝けばいいのに――心中そう吐き捨てたものだ。
 ラッシュ時間帯はやめておこう。力なく彼はそう断念し、乗客が少なくなる最終間際の時間まで、ことを起こすのを先延ばしにすることにした。
「鉄道がお好きなのかな」
 背後から声をかけられた。振り向くとヘッドライトの光の中に頭を五分刈りにした六十過ぎほどの男が笑みを浮かべて立っていた。手には三脚を持っている。
「え・・・ああ、まあ」タカユキはあいまいに笑って答えた。
 男は激しくうなずきながら、「壮観ですよねえ。ここ西日暮里駅には十三組の路線が敷かれてあって、一日に二十種ほどの列車が行き交っています。私は特に夜間が好きでしてね、寝台列車があるでしょう、北斗星。あれにくぎ付けでしてなあ。生まれが青森なものだから、たまらなく懐かしいんです。あれに乗って故郷に帰る人がうらやましい。あなたはどの車種がお好きですか?」そう語りかけてきた。
 言葉がとっさに出てこなかった。「なんといいますか、この・・・ひっきりなしに行き交う列車を見ていると、なんだか胸が熱くなってくるんです」やむなくとっさに思いついたことを口にした。
「ああ・・・」男は幾分顔を曇らせ、じっとタカユキの顔色を注視している。
 わけのわからない後ろめたさから、弁解するようにタカユキはつづけた。「いやつまり、僕の言いたいのはこれだけの数の列車がいくらコンピュータで制御されているとはいえ、緊急時には運転手の判断に任されるのでしょう、それが一分、一秒の狂いもなしにこうして見事に表現されている場所って、ほかにそうないと思うんですよ。ダイヤというコンピュータに従うオーケストラの演奏を聴いているような、そんな感じがするんです」
 男はふっと目を細めた。「それがね、私の最近のテーマでもあって」言いながら肩から下げたズックカバンからアルバムを取り出した。「ちょっと見てやってください」
 男のヘッドライトの明かりの中で、表紙をめくるとそれは列車全体を写したものではなく車窓の中の乗客を個別に撮った写真だった。タカユキは眉をひそめた。すると今度は逆に男のほうがあわてて語りだした。
「いやよく言われるんですが、別に女子高生を狙ってるわけじゃありませんよ。車体の色で山手線か京浜東北線下かの区別はつくが、車窓の乗客だけを写したのがあるでしょう。私この写っている乗客の顔を見ただけで、それが東北に向かうものか、上越、もしくは甲信へ向かうものかだいたい察しがつくんです。やはり土地土地の顔ってあるものなんです。そうなんですよね、撮り鉄なんて言われていてもやっぱり人間に関心があるんです。そうでなくっちゃ、寂しすぎる」 
 タカユキは指先でアルバムをめくりながら口元を緩めて軽くうなずいた。「特急や新幹線に比べると、どうも京浜東北線の乗客は、居眠りばかりで写真にならないみたいですね」
「それがあなた、どうして」男もまたページをくくると最後のほうの写真を示した。「どうです」これから赤羽大宮方面に帰宅する通勤人たちの写真で立ったままつり革を握りしめ、がっくり頭を垂れている年配のサラリーマンたちの姿だった。ほろ酔いらしく、呆けたように口を半開きにしている人。額に深いしわを寄せ、深刻な面持ちで瞑目している人。どれもこれも疲弊しきった現代人のあらわな象徴のように見えてくる。
 五分刈りの男が言った。「どちらかというと、新幹線や特急のゆったりしたシートに身体をうずめてよだれを垂らしている人よりも、この近郊列車に揺られている人たちのほうが、私は人間臭く感じますな。頭にあるのは仕事のことでしょうか、家庭のことでしょうか。今日も一日お疲れさん、そう言ってやりたくなります」
 タカユキは思わず気色ばみ、自嘲の色を浮かべた。「僕も通勤で使ってますから、あなたに撮られていたかもしれないな」
「いや、そんなつもりは・・・どうも私は昔からおせっかいな質で――お兄さん、だいぶ長いことここで見入っておられましたな。もうかれこれ二時間以上も――それも列車を見ていたんじゃない、下の線路を見ていましたよね」
 タカユキはハッとして男を振り返った。
「ええ私、このすぐ先で和菓子屋を営んでいるものなんですが、仕事のほかに実はこういうこともしてまして」
 男の差し出した名刺を見ると、NPO法人命の絆、と記してあった。「そこの木の枝股に――男は神社の境内のクスノキを指さした。
「カメラが据えてあって、私の自宅で見れるようになってるんです」
「ちょっと、待ってください。ぼくはそんなのと違いますから。あのう、ただ考え事をしてただけなんで」タカユキは恥辱を覚え、耳を赤くして否定した。
「そうでしょう、そうでしょうとも。でもね、もしよかったら、少しお話を聞かせてもらえませんか、私でよければ。店はすぐ近くなんです。ちょっと寄っていきませんか。草餅お好きじゃないですか?」
「いや。いやいや結構です。余計な詮索はやめてください」タカユキは興ざめし、急に社会人らしい、いつもの正気に戻って男を見返した。「その、あかの他人を撮るのやめたほうがいいですよ。盗撮ですよ、あなたのしていることは。訴えられますよ。ぼくだって迷惑です、お願いですから一人にしておいてもらえませんか」
 男はうつむいてひどく悲しそうな顔をした。「そうですか、私の勘違いだったですか・・・」
「ええそうですね」
 鼓動が激しく波打っている。そんな団体があることは知っていたが、まさか自分が声を掛けられるとは思ってもみなかった。タカユキは早々に立ち去ろうかと思った。しかし一度追い詰めて意志した決意が、マンションに帰宅してしまったらまたも薄らいで気弱に揺らいでしまいそうな気がする。せめて胸中にある今の泡立った気分が収まるまでは、この場所で夜風に吹かれていたかった。
 行き交う光の窓の車列を見ていると、なるほど通勤電車の疲弊しきった光景に比べ、特急のシートで背を傾けている人は顔をほころばせ、どこか余裕のある人々に見て取れた。実際に茶菓子や缶ビールなどを並べている。けれどもあの異様に鼻先のつきだした新幹線は、青森に向かう途中、福島の原発や被災地を目の当たりにするはずだ。そうしてあの光景を見たならば、ああくつろいだ気分ではいられないはずだ。
 タカユキはぐっと瞳を閉じた。そしてつい半月前、仕事で行ってきたばかりの福島第一原発の荒れ果てた構内を回想した。今更振り返ったところでどうにもならないことではあった。それでもどうしても思い返さずにはいられない。
 社長の怒声が今も耳元にガンガンと鳴り響く。

 プロジェクトが動き出した当初、上層部からの厳命でロボットの福島への現地投入は遅くとも九月一日を予定していたが、開発途上様々な難題が噴出し、実際に会社の開発チームが福島第一原発に乗り込んだのは十月も半ばを過ぎていた。
 当日、国道6号を北上する間、タカユキは車中の後部座席に揺られつつ、半睡半眼の体でここ半年余りの開発チームと共にした日々を反芻していた。衝突や口げんかの絶えない日々だった。
 それでも今日という晴れの日くらい、充実した気持ちに満たされたことはなかった。前方を行く先頭車の黒塗りのセダンには、東電の幹部と社長、それに社の重役たちが便乗している。まさに自分たちは、社を代表して敵地に乗り込む勇者のようだ、そんな感懐すらした。ふだんは何かにつけて社員に畏れられている社長も、東京本社を出発するする際にはいつになく言葉少なく、老人ながらどうやら期待に打ち震えている様子だった。
 後続車両の大型トラックの荷台には、われらが期待の星「ヘブン」が、幾重もの緩衝材に厳重に梱包されて鎮座している。できるだけロボットの電子回路に衝撃を与えないよう、車列は法定速度の最低ぎりぎりを保って慎重に走行していった。
 原子炉建屋は分厚いコンクリート壁でおおわれているので無線による遠隔操作が利かない――初めに取り組んだのがその難題だった。放射線によりロボットはどの程度汚染されてしまうのか、その除染方法は? 回路に使われている半導体の誤作動防止、放射線測定機器の取り付け、そして何よりも瓦礫など障害物に乗り上げてしまった際のバランスの回復――数え上げればきりがないほどの課題難題が山積していた。それらを一つずつ七か月にわたって地道にクリアしていき、いよいよこれならいけそうだという目星がついたとき、ヘブンはほとんど介護用ロボットではなくなっていた。それは災害時、危険地帯に投入するためのレスキューロボットに近い。
 埼玉工場では、原子炉建屋内のあらゆる状況に即して、いくつもの階段や曲がり角を仮設し、シミュレーションを繰り返したが、現場へ行く直前になって、クライアントである東電側から、建屋と同型の施設が千葉にあるので、そこで動かして見せてほしいという願ってもない申し出があった。
 この時になって、タカユキは今回の仕事が一般のクライアントからの依頼というより、国家規模の失敗の許されない大事であったのを思い知った。部長や重役たちが事あるごとに青筋を立て、開発の進捗状況に一喜一憂するのも無理はなかった。モックアップと呼ばれる、本番前の試運転は千葉県にある工業大学構内で行われた。大学側でもむろん、独自に建屋内に投入するためのロボット開発が行われていたが、それは二足歩行のタイプではない、蛇型のような形態をしていた。ほかにも原発のプラントを手掛けたメーカーの建屋の模型が神奈川にあり、いくつもの企業や大学が惜しみなく互いの技術を提供しあい、建屋内を行き来するためのより理想的なロボット開発にしのぎを削っていた。
 一回目のテストでは、大学構内に設置された建屋の階段をヘブンは着実に上ったものの、傾斜の角度が当初渡された図面よりもきついことが判明し、脚部のモーターが過熱して、ヘブンは階段の途中で停止してしまった。それ以上続ければ、ほかの電子部品が摩耗し破損する恐れがあるので、リーダーの海野の判断でものの十五分で打ち切りとなった。模型である建屋のドアを開け、狭い通路を抜けて折り返し、そこから階段を七段ほど登ったところだった。この日本社からも部長が視察に来ていたが、彼は大変な剣幕で開発チームのスタッフを恫喝した。これではいつになったら福島へ行けるのか、社長や東電に何と報告したらいいのかと、激しく罵倒された。結局、モックアップはそれからひと月の期間をおいて五回繰り返された。メカに再三の手直しを加え、それからさらに一月後、ついにヘブンは各回でのワークを終えて建屋の最上階であるオペレーティングフロアまでたどり着いた。さらにそこから一階の地上部分までロボットを帰還させることに成功したのだった。
 その日、津田部長はもちろん学内で視察しており、学生たちや教授、それに他社の開発チームの関係者から、惜しみない拍手と歓声が沸き起こった。その時の感激と達成感をタカユキは生涯忘れないだろう。電子回路担当の涼子は、やや落ちくぼんでしまった目の下に、両手を当てて俯いて、涙にむせんでいた。
 思い出せばきりがないほどの開発チームの辛酸を、同乗しているメンバーの誰もが腹底でかみしめているに違いなかった。本番は無論これからだ。だが、失敗という考えは誰の頭にも去来していないに違いない。四たび、本社や部長から罵声を浴びせられ、あげくに五度目の正直でようやく成功したのだ。やるべきことはすべてやりつくした、開発チームの乗った車中はそんな解放感と清々しさに包まれていた。あとは練習した通りのことを繰り返すだけだった。
 腕組みをして、そうした苦労の一つ一つを思い返すうち、タカユキは大仕事を前にうかつにも車中で眠り込んでしまった。前の車に社長がいることは分かっていたが、そんなこともどうでもよくなった。ほかの席でも、やはりここ半年間の断続的な寝不足と疲労から、何人かが首を上下に振っている。
 車はかつてサッカー競技場だったジェイビレッジという施設に入っていった。そこで防護服に全面マスクといういで立ちに社長以下の全員が着替えさせられた。放射線測定器を胸に入れ、物々しい格好で再度、車に乗り込み原発を目指す。警戒区域に入るバリケードでは警察官がひとりひとりの所属と氏名を確認した。
 物々しいのは服装と警備ばかりではなかった。着替えたのち、防護服内の熱気に蒸され、再びうつらうつらしていたタカユキが、車の急ブレーキに思わず顔を上げると、窓外から黒牛がじいとこちらをのぞき込んでいたのだ。突然現れた白目をむいた黒牛の瞳に、タカユキは仰天して眠気がいっぺんに吹き飛んでしまった。
 町中の住宅の門扉や国道に交差する道路では、徹底してフェンスが設けられ人や車が出入りできないようになっている。商店のガラス戸はいたるところが砕かれ、薄暗い中、屋内には商品が散乱していたが、それも動物に荒らされたのか、もしくは泥棒にでも物色されたのかひどい有様になっていた。
 店内の柱時計は午後二時四十三分を指したまま停止していた。倒壊した家屋のほかにも、庭の草木が伸び放題になり廃屋としか思えない民家が多かった。空き地は大方荒れ野となって、丈高い草むらの陰に狸に似た小動物がうごめいている。そしてひこばえが伸び放題になった野面のかなたに、なぜかダチョウが佇立してこちらを見ていた。
 人間が立ち去った後の町というのは、短時日のうち瓦礫同様いつの日か、しかるべき方法で処分されることになるのだろう。
 黒牛のオーナーは、断腸の思いで彼らを野放しにしたに違いないのだ。農家の田畑の所有者たちは財産である土壌までも奪われてしまった。永遠に。そして何よりも、思い出の詰まった家や故郷までも――。
 汚染区域を目の当たりにして、タカユキは事故の重大さを再認識して寒気を覚えた。空はどこまでも澄んで蒼く、山の木々は深い生気にあふれている。それだのにここは人の住めない魔境なのだ。
 この殺伐とした光景を誰もが一目見ておくべきだ、そして取り返しのつかない過ちを犯してしまった、事実を同朋の痛みとして引き継いでいく義務が日本人にはある、そう思わざるを得なかった。
 自分たちが要請を受けてこれからする仕事は、廃炉という復興に向けての作業であるが、それが日本各地に点在する原発のセキュリティとして位置づけされるようなことがあってはならない。これは今回一度きりの仕事であってほしい――タカユキはしんみりとそう思った。
 車は福島第一原発に入ると免震棟前で停車した。指令室がここの二階に設けられており、白いタイベックスに身を包んだ人たちがせわしなく動き回っていた。原発で働く人々は現場をF1と呼んでいた。社長と重役の三人は、ここでロボットの制御室から送られる映像を見守ることになる。
 東電側との短い打ち合わせの後、開発チームのスタッフ四人はパソコンなどの機材を積んだ狭いコンテナに乗り込んだ。トラックは建屋から三十メートルほど離れた路上に停車した。その場所でも、外では一時間に40シーベルトの線量が計測されている。
 東京からのトラックの荷台から、チームの残りのスタッフ二人が慎重にヘブンの梱包を解き、ケーブルをつないで一端をコンテナ開口部のわずかな隙間から差し入れた。その間二十分ほどだったが、それだけで一人の線量計はけたたましい警報音を鳴らせてしまった。一定量被爆した二人はそれ以上この場にとどまることはできず、免震棟へと引き返していく。ヘブンの回収コンテナの中ですら、は、作業後コンテナ内に残った四人のうち誰かがやらざるを得なくなった。コンテナの制御室に残った四人は、予想外のハプニングに不穏な気分に襲われた。
 すでに議論している状況ではなかった。コンテナの中ですら、毎時10シーベルトが計測されるので作業は時間との戦いなのだ。
「いくぞ」
 パソコンを前にして、メインの操縦器を手にしたリーダーの海野が、背後で見守っているサブリーダーの前島、涼子、タカユキの三人に力強く声をかけた。
「お願いします」前島が緊張と興奮を抑えきれない、といった口吻で声を震わせて頷く。誰もが目をらんらんと輝かせていた。
 それを見た海野が鼻から息を吐いてフン、とせせら笑った。マイクを引き付け、
「いきます」そう指令室に告げると、コンテナ内のスピーカから
「慎重にやれ」
 そう、ひどく醒めた津田部長の一言が帰ってきた。
 ディスプレイ上の映像は、ヘブンの頭部に取り付けられたCCDカメラからのもので免震棟の指令室にも中継されている。指令室ではこの日、ニューロテック社ばかりでなくほかに二社のメーカーのトップやエンジニアたちが、かたずをのんでヘブンからの映像に見入っていた。だが最も真剣な面持ちをしていたのは東京電力の職員たちだった。図面を引き付け、制御室から送られてくる画像を一時たりとも見逃さぬ、そんな厳しい顔立ちをしていた。
 建屋の入り口までは、瓦礫はこの日までにすでに重機できれいに撤去されてあった。
 ヘブンがおもむろにドアを開ける。停止し、そこで前方の床面を見渡すと、建屋内部は崩れたコンクリート塊がいたるところに散乱していた。
「こいつは厄介だな・・・」海野がつぶやく。
「石川君、直進できない場合、床の障害物を避けて通れる角度を算出し、その都度口頭で僕に伝えてくれ」
「了解」タカユキは海野の隣のパソコンに陣取り、ヘブンから送られてくる三次元画像の分析にかかった。その時だった。タカユキが「ああっ」と小さな悲鳴を洩らせた。
「なんだっ!」海野ではない、社長の怒声がスピーカから漏れる。
「どうした?」こちらの声が指令室に伝わらないようマイクの向きをそらし、海野はゴーグルの中で無理に微笑し、タカユキに訊ねた。
「いや、手袋が・・・厚くって」指の先端で一つずつ押さないとキーが打てない。「これじゃあちょっと時間が――」タカユキの額からどっと汗が噴き出してくる。「あ。前が曇って――」
「どいてっ。あたしがやるわ」
 そこへすかさず涼子が割り込んでくる。タカユキは白く曇ったマスクを両手で抱え、なすすべもなく涼子に席を譲った。 
「直進・・・直進・・・左約三十度・・・停止。右に四十五度・・・停止」
「うまいぞ」海野が穏やかな声で涼子を励ます。
「階段を上がる手前で、原子炉上部の配管を写してもらえますか」
 スピーカに東電の職員から声がかかった。画像には三つのウインドウが開かれ、逐次線量が測定されている。
「了解」海野がヘブンを上向かせる。
 スピーカの向こう側から「ああ――」という職員たちのため息が漏れ聞こえた。折れ曲がった配管のところどころに亀裂が走っているのだ。
 線量を表すウインドウの値が毎時60シーベルトを表示している。
 職員の声がかかった。「行きましょう。ではゆっくりと、階段を上ってください」
「了解」海野のコントロールは繊細かつ堅実で、涼子の指示通り足元の瓦礫を慎重に踏み越えていった。階段を数段登ったところで、画像が急に左に傾いた。コンテナにいた四人は一斉に悲鳴を上げた。
「こんどはなんだっ。おい海野、きちんと口頭で説明せんかっ」部長のしっ咤が反響する。
 タカユキは、大学のモックアップで失敗したときの不吉な光景が脳裏によぎり、目の前がふっと暗くなった。
「なんだっ!」海野は声を荒らげた。
「ケーブルだわ。海野さん、ケーブル踏んづけている」
「ほんとか」
「本当です。おそらく、ヘブンの背後の瓦礫にケーブルが引っかかって、そこで少しずつたるみができていたんだわ」
 それまで黙ってかたずをのんで見守っていたタカユキは、いたたまれずとっさに涼子の前のパソコンに手を伸ばした。手袋を外した素手のままだった。
「石川さん、あなた――」涼子がとっさに顔を上げる。
「いいんだ。君ちょっと、どいて黙ってろ。海野さん大丈夫。転倒したわけでもケーブルが断線したわけでもない。ただ念のため、次の一歩はここで転ばないよう、手すりをつかんでいきましょう」
 海野は頷き、「そうしよう」タカユキの手を見てにやりと笑った。
「腕を上げる――」コントローラーを操作して、ヘブンが片腕を持ち上げ、指先で手すりをつかもうとした、その時だった。
「あっ。ちょっと待って。足元じゃなくって前方を見せて」
 東電側からそんな声がかかり、海野はとっさにヘブンの頭部を持ち上げた。しかし、手すりに向かうヘブンの指先の動作もまた、そのまま継続したままだった。ヘブンは前方を見上げるのと、手すりをつかむ動作を同時に行っていたのだ。カメラが上方の踊り場に白っぽい縄のようなものを映し出す。
「だめだっ」
 東電職員の叫声がスピーカから漏れたとき、画面の下方にまばゆく白い光が飛ばしった。コンテナにいた全員が凍り付いた。
「なんだっ」
 絶叫が、海野と指令室の両方から起こった。
 スピーカの向こう側から、東電職員の、
「破断した電線の導線が階段の手すりにかかっていたようです」そんな冷静な声がした。
 パソコンのディスプレイに、でかでかとエラーの赤文字が表示された。
「どうなった? おい海野、返事しろっ。ヘブンはどうなった――」
 社長の怒声が響き渡る。
「・・・制御不能です」
 海野はコントローラーのすべてのスイッチを試してみたが、ヘブンの四肢はピクリとも反応しなかった。
「制御不能? まだ映像は映っているじゃないか。線は生きているんだろう。指の一本でも動かすことはできないのか。今ヘブンはどうなってる」津田部長が割って入った。
「映っている映像は、建屋の崩落した天井のようです。つまりヘブンは今、階段の下部で仰向けの状態で倒れています。メカの回線がショートしたらしく、カメラ機能のほかは何一つ、動かすことができません」
 紛糾する指令室の動揺が露骨にスピーカから漏れてきた。
「回収しろっ!  回収しろっ! 」とわめきたてる、社長の切羽詰まった声が反響している。
 タカユキは血の気が失せて呆然と立ち尽くしていた。コンテナにいた四人は沈黙したまま、仰向けに倒れたヘブンが写す映像を見つめている。崩落した建屋のはるか上空にかすかに光っている、亀裂から覗くわずかな空の明るみを長い間見つめていた。
(・・・いつまでたっても届かない。あの空のかなたに僕はいつまでたっても到達できない)
 そんな諦念がぐるぐるとタカユキの頭の中を駆け巡った。
 海野は、ため息をついてゆっくりとコントローラーのプラグをパソコンから取り外した。
「免震棟へ引き揚げよう。制御不能だ。我々もこれ以上いたずらに線量を浴びている必要はない」
「だめだっ」スピーカから津田部長の怒気を押し殺した音声が漏れた。
「よく聞け、これは社命だ。いいか、お前たちはまだ一定量被爆したわけじゃないんだ。仕事はまだ終わっていない。コンテナを出て建屋内のヘブンを何としてでも回収してこい」
「いや、それは――」
 東電設備管理部長の困惑した声が割って入る。
「我々に任せてください。建屋内は想像した以上の高線量が検出されています。タングステンを装備した専門の作業員でなくては無理です。他社の次のロボットが待機しています。ここはひとまず、コンテナ内の四人を引上げさせてください」
「あのがらくたを東電さんは買い取ってくださるというのかね。安く見積もって六億ほどだが。あんたの権限でそんなこと決めてもいいのかね」社長の声がした。
「いや社長さん。ここはどうか冷静になってください。後続のロボットが、あるいは何とかしてくれるかもしれません。そちらと今後の対策を協議されてみてはいかがでしょう。ともかく私どもは他社のブースに移りますので、どうか短気だけは起こさないでください。放射能を安易に考えては危険です。それでは、失礼」
 狭いコンテナの中、四人が互いの顔色を窺っていると、コンテナの脇を一台の車両がゆっくりと近づいてきて、自分たちの前方に停車したのが分かった。
「次に建屋に入る、他社のロボットでしょうね。海野さん、ケーブルはどうしますか。彼らの作業の邪魔になるんじゃないですか」前島がそう訊ねた。
「ヘブンと切り離すことはできないんだ。へその緒を着けたまま免震棟へは戻れないよ。ここに残置していくより仕方がない」弱弱しく海野が答えた。「彼らの健闘を祈ろう」
 開発チームは技術者の集団だった。八か月もの期間をかけて、寝る間も惜しんで改良に改良を重ねてきたロボットの投入が、計画の半分もいかない地点でとん挫し、万策が尽きた今、より高度な技術を持ったチームに後を託すより仕方がない――そうした理性的、融和的な感懐に包まれていた。けれども、そうした最前線にいる四人の心境とは裏腹に、指令室とつながった回線からは、重役たちの露骨な密談が漏れ聞こえていた。
「ヘブンを回収できるロボットはどこの社が有望かね」「人海戦術でやるとしたら、下請けはどこになるか聞いてこい」「だいたい、高電圧のかかった手すりをつかめといったのは誰だっ」「手すりをつかまなくっても、バランスを維持することはできたはずだ」「海野に責任を取らせろ」「ロボティクス部門は当面閉鎖だ」「津田君、このざまをどう収拾つけるつもりかね」「残念だ、では済まないんだよ」「今日はあいつらの顔は見たくない」
 そんな会話が続いた後で、しばらくして津田部長のくぐもったような声がした。
「・・・戻って来い。我々は一足先に社に戻る。海野君、君たちは原発の警戒区域外に宿をとって、東電さんと協力し、ヘブンの回収作業に従事してもらいたい。分かったね」
 海野は青黒い顔をして、自嘲の笑みを浮かべて首を振った。ところがいまいましい指令室との回線を切ろうとした、その時だった。ヘブンの聴覚に機械音が感知され、それがそのままパソコンのスピーカから漏れ聞こえてきた。
「うん?」海野は反射的に操作機のスイッチをオンにした。
「これは――何の音だ。ヘブンか?」
 津田部長のやや興奮して震えたような声がする。
 しかし海野がいくつかのつまみをひねってみてもヘブンからは何の反応もなかった。
「このモーター音は・・・?」海野がつぶやいた時、パソコンのディスプレイに突如、二本の黒いバーが出現した。
「うん?」海野が再度ディスプレイに食い入った時、無表情の涼子が背後から冷ややかに公言した。
「台車型の他社のロボットのキャタピラーだわ。すてき。こんなに早くヘブンを乗り越えて行っちゃった。あれで充分なのね。いいえむしろあの型のほうが、ここの現場には適してるんだわ。初めからアンドロイドが立ち入るような現場じゃなかったってことね」
「だまれっ!」社長の恫喝の声がした。「おい海野、今、わしの、上に乗っかってるのはどこのどいつだ?」音声は怒りと屈辱に打ち震えている。
「はっ。・・・さ、さあ」
「津田君。今のは日立かね。それとも東芝かね」
「いや、あのタイプのロボットは・・・お、おそらくアメリカのアイロボット社の戦地用ロボットかと思われます」
「アメリカ・・・。アメリカ?」
 それからふつりと指令室との回線がオフになった。
 建屋前を離れ、免震棟へとつづく長い坂道を上り詰めていくコンテナの中、生ぬるい銅板の壁にもたれて、タカユキに映っていたのは十年前の高専時代、ロボコンで敗退した苦い情景だった。あの時は他校にそして今日は他社に叩きのめされた。今回は、チーム一丸となって能力と精力のすべてを使い果たした、そのあげくがこの惨めな撤退だった。
 数日後、ヘブンは福島第一原発で日常的にがれきの撤去作業に当たっている、下請けの建設会社の作業員によって建屋から慎重に運び出された。彼らがいったいどれほどの線量を被爆したのか、その情報を東電サイドから聞かされることはなく、海野たち開発チームの六人は除染したロボットを再梱包して帰途に就いた。
 東京へ向かう車中、時をずらせて海野とタカユキの携帯が鳴り、部長からの指示があった。それは二台の各車両に分乗していた開発チームのメンバーをどん底に突き落とすような内容だった。回収したヘブンは埼玉工場へ戻すのではなく、そのまま本社ビルの倉庫へ搬入すること。埼玉のロボティクス部門は当面閉鎖、介護用二足歩行ロボットの開発は中止。海野以下、六名には一か月後をもって辞令が下る。それまでに埼玉工場にあるチームの備品、私物、および施設の撤去作業に当たること。以上だった。
「・・・ううっ」車中に嗚咽が漏れた。

 タカユキはそれから埼玉工場の片づけを手伝い、アパートを引き払って二週間後に東京へ戻った。本社のソフト開発のフロアに顔を出すと、誰もがぎょっとした顔をしてタカユキを遠巻きに注視した。こうした野次馬的な反応はある程度覚悟していたものの、驚いたのは、自分のブースに戻ると後輩の工藤がタカユキの机に居座り、パソコンのキーを叩いていたことだった。
「おい。何をしている」怒気を含ませタカユキがうなると、
「ちょっと来い」
 逆にそうフロアの課長に呼びつけられた。
 小会議室での課長の話はいたって明快だった。タカユキはソフト開発部のチームリーダーの任を解かれ、赤羽にある子会社のIT会社へ出向するよう辞令が出ていた。
 呆然としたまま自分のブースに立ち戻ると、気を利かせたのか後輩は席を外し営業に出ていた。震える指先でパソコンのウインドウのいくつかを開くと、半年前までタカユキが入力していたニューラルネットワークのプログラムはごっそり抜き取られ、データが削除されてあった。愕然としてとっさに机の引き出しを手前に引くと、どうやら机の中だけは手を付けられていない様子だった。
「今回は大失態だったな。ところでその机の、鍵を渡してくれるかね」
 振り仰ぐと課長が冷ややかな目をして手のひらを突き出して立っていた。
「別に大したものが入っているわけじゃありませんよ」
 タカユキは課長に背を向けて、ポケットのキーホルダーから小さなカギを抜き取ると、引き出しの一番上のカギ穴に差し込み、箱の枠をつかんでいまいましげに引き抜いて見せた。
「どうぞ」
「たいしたものかどうかはこちらで判断する。ほかの引き出しも一通り調べさせてもらったが、念のためだ気を悪くするな」
 ボールペンの先で書類をめくったり、文房具の類をひっくり返した後で、「ふん、いいだろう。邪魔をしたな」そう吐き捨てるように言って課長は背を向けた。
 タカユキはいったん椅子に腰かけて、ブースの衝立の陰に逃れると、引き出しを開ける際とっさに掌中に握りしめた、何本かのUSBメモリをそっとポケットに落とし込んだ。それから無言のままフロアを出、総務で段ボール箱をもらい受けて机に戻ると、奥にいる課長に聞こえよがしに派手に段ボール箱に私物をぶちまけた。それを抱えたまま、赤羽の出向先へは行かずに、西日暮里にある自宅のマンションに直帰してしまった。

   雑居ビルの四階に入っている赤羽の会社は、総勢が所長以下五名のちっぽけな事務所に過ぎなかった。タカユキは後任の所長という待遇だったが、職務は納品先のシステムの保守点検で、それ以外の時間は本社システム開発部が手掛けているソフトのバグを修正することに費やしていた。
 前任の所長からの、形式的で簡単な引き継ぎ業務を終えたのち、リーダー格の男のパソコンを覗いてみると見慣れぬ記号や数式が並んでいた。
「うん?   これはC言語じゃないね」
「ええ――ジャバですが。ああ、所長は本社からいらしたから無理もないですが、今は取引先の大半がこれでやっているので、こちらもそれに合わせていかないと。あ・・・ジャバのマニュアルでしたら、あそこの棚に――」そう言って髭の生えた顎先を突き出した。
「慣れるまでひと月はかかりますよ」
「そうだろうね――。どれ」そう言って厚さ数センチはあるジャバのマニュアルを抱えて、机に戻ってひも解いていると、
「所長、駒込の病院の定期検査があるんですが行っていただけますか?」
「ああもちろん」
 男は激しくキーを叩きながら、まともにタカユキの顔も見ずに「お願いします」と口にした。
「それと――今日の外回りはその一件だけだけですので、何でしたらマニュアルお持ちになって、ご自宅でお読みになったら。なあ?」そう言ってほかの三人に声をかける。各人が二三度頷いている。「ここにいても意味ないし」
 タカユキは顔をこわばらせたが、無理に破顔して、「そう、そうだな。まずはこいつを習得しないと話にならんな」頷きながら全体を見回した。誰もディスプレイから顔を上げない。パチパチとキーを叩く音だけがした。
「うん。じゃあそうさせてもらおう」言いながら鞄を抱えて立ち上がった。(これではどちらが上司かわからないな・・・)
 殺風景な事務所を出ると、ドアの向こう側から失笑が漏れた。
「何よあれ。何しにここへ来たの?」
「居づれー」
 そんな揶揄の声がした。
 システムの保守業務は定期検査のほか、急の依頼を含めても日に二三件で、外回りを済ませるとタカユキにはすることがなくなった。一方で四人のプログラマーたちは毎晩九時過ぎまでプログラミングに追われ、山積みの仕事に事務所は常に殺気立った雰囲気に満ちていた。タカユキとて、手伝おうと思えばできない作業ではなかったが、とても彼らのスピードには追い付けないし、並行して確認しあいながら進めているシステムでは、むしろ足を引っ張る結果になった。
 本社から送られてくる未完のプログラムの量は膨大で、四人はいつ果てることもない量の仕事にきりきり舞いしていた。明らかに人手が足りない状況だった。タカユキの机には、本社からの納期を迫る檄の電話が日に三度は鳴り響く。しかしタカユキは何の戦力になることもできなかった。
 最年長のリーダーの言うとおりだった。自分はなぜここにいるのかわからなかった。まさに意味のない存在だった。

 崖上にある神社の境内をときおり冷たい夜風が襲った。思わずコートの襟を引上げたものの、かえって背筋にひんやりとした冷気が張り付いてしまった。
 アルプと同期させる十一時を回り、終電が近くなった。「命の絆」の親父も姿を消した。親父は帰り際に一言、「思いつめてはいけませんよ」と声をかけていった。
 声をかけられたときには、恥ずかしくなり舞い上がってしまったが、決意は幾日も積み重ねてのことなので、何一つ悔悛するつもりはない。しかし何もかもがどうでもよくなり絶命しようとするこの段になっても、見栄を張る心理が不意に首をもたげるなんて――そう思うと我ながら情けなかった。
 中学生のころ、つまらないことで親と喧嘩して「死んでやる」と捨て台詞をはいて家を飛び出したことがある。頭に血が上っているうちは本気で死んでやると思っていたが、街中をさまよっているうち次第に馬鹿らしくなって、悄然として帰宅したものだ。翌朝苦々しい気分は残っていたが、何事もなかったように登校した。そんな誰にでもありそうな経験はあったが、今回は明らかに違っていた。
 朝起きるたび、なぜ今日という一日がこれから始まるのだかわからない。会社へ行く理由が見つからない。そうした起床がもう半月近くも続いていた。あの無味乾燥な職場へは戻る気がしなかった。
 給料をもらうためだけにする仕事――各々の、分をわきまえて与えられた下処理をこなす日々。そこにタカユキは何ら自分を鼓舞するものを見出せなかった。
 半年前まで取り組んできた、ニューラルネットの構想が、今でも頭の大部を占めている。しかし自分はもう、あのひそかに進められてきたプロジェクトに携わる資格を取り上げられてしまった。T大との共同開発で社内でも一部の人間しか知らない、人の脳を極限まで模したシステムの構築は、新リーダーの工藤にゆだねられた。自分はお払い箱になったのだ。T大研究室の准教授はタカユキの大学時代の先輩だったが、メール一本こなくなった。学内の通行証を取り上げられたうえ、一切の研究室との連絡を禁じられたのだった。それはタカユキ個人ばかりでなく、大学側にも通告されているようだった。長年携わってきた大命題から、放逐されたあげく、口を挟もうにも両手足をもがれたような、惨めな立場に追いやられてしまった。
 今日まで俺は何をしてきたのだろうと考えると、苦笑でもしているより仕方がない。思えばエンジニアなぞ製品のごく一部を担うだけの職人と変わらないが、いつかは自分の手掛けた、世界を驚愕させるようなソフトを開発してみせると、つい先日まで意気込んできた。しかし空想の城はあっけなく他人の手に渡ってしまった。要は誰でもよかったのだ。この仕事は自分だけが完成させることができると信じてきた、そのうぬぼれ加減がまさに苦笑となって今、自分の中から芥のように滲み出してくる。
 タカユキはポケットの中にある三本のUSBメモリを軽く握りしめた。
開発にあたってまだ誰にも知られていない、彼独自のアイデアを反映させた試作のソフトだった。誰の目に触れることもなかったこのソフトを、今生との別れに道連れに連れていくつもりだった。本社を追われて以来、そのつもりで肌身離さず持っていたのだ。
 最後にまだローンが十年以上残っている、眼前のタワーマンションを見上げた。あの高層階からの眺めは素晴らしかった。仕事で失敗した今、結果として自慢できるものといえばあの居間からの展望だけだった。空気の澄んだ日、遠い山並みが油然と地平に隆起している、峰の一つ一つをタカユキは今でもはっきりと脳裏に思い浮かべることができる。
 レールを鳴らす振動とともに列車のライトが近づいてきた――そうだ、この至福な気持ちを胸に抱いたまま、跳ぼう、と決意し足下の鉄柵をまたいだ時、胸内に突然、ブーンという震えが起こった。片足を引いてとっさに後ずさりする。ぎくりとして、長年の習慣からタカユキは反射的に胸に手を当て、携帯を開いた。
[今年も、逢えなかったね。お仕事忙しいんだね。春になったら、また桜の木の下で会いたいな。待ってるからね。あたしこの街でずっと、あなたのこと待ってねからね。FROMほのか]
 今日がクリスマスだったのをすっかり忘れていた。待っている――待っている?  、いや、この子のことを考えてはいけない。それにこんな姿をほのかや故郷の人々にさらすつもりはなかった。それでも最後の後始末として簡単なメッセージだけは残しておくことにした。クリスマスの深夜、送信するのは気が引けるので、後日送信されるように設定した。
 それからしばらく思案したのち、カバンから封筒を一枚出してそこに携帯とUSBメモリを入れ、封をして足下に置いた。終電と思しい列車の鼻先を目指し、タカユキはおもむろに目をむいて跳躍した。ふつうに跳べばよかったものを、蹴出した勢いのまま重心が前のめりになってしまい、なんとも無様な格好で落ちていく。(まるで月夜のウサギだ――)そう思った時、ものすごい風圧と照明がすぐわきを襲ってきた。それを感じた途端全身に激突の衝撃が走り、タカユキの意識は根絶した。
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