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光石ほのか
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終業ベルが鳴り響き、日勤を終えた工員たちが渡り廊下をロッカールームへと引き返していく。陽気なブラジル人たちがけたたましい笑声を立てているなか、ほのかはこめかみに指先を当て、うつむきながら彼女たちの白いかかとを目で追っていた。頭がふらふらする。疲れがひどい。
「どうしたの? 大丈夫?」班長の上村が声をかけてきた。
「あ・・・ちょっとめまいが」
ラインにある回転盤がどうしても苦手だった。回転する大量のコロッケを見ていると気が遠くなることがある。そのうち慣れるだろうと思っていたが、半年たった今でも仕事中、立ち眩みを覚えることがある。けれどもそれ以上に、根本の新人いじめが執拗だった。仕事中嫌な思いをしない日がない。
「医務室で休んでいったら? なんだったらあたし付いていこうか?」
「あ・・・いえ、軽い貧血ですから」
ほのかは無理に笑顔を作って答えると扉を開け「あっ」と小さな悲鳴を上げた。
「どしたん?」上村が訊ねた。
「ないっ! ないんです。ペンダントのネックレス、ここに入れといたのに!」
「えっ。ネックレスってあなた、どうして貴重品箱に入れておかなかったの、だめじゃない」
電磁帽を取り、隣で着替えていた上村は、豊かにカールしてあるロングヘア―をゆすりながら作業着の前をはだけ、ほのかのロッカーを覗き込んだ。
「だって・・・」
貴重品の管理室は工場に入る直前の小部屋にあった。財布や車のキー、貴金属の類は個人にあてがわれた引き出しに入れてから仕事に就く決まりになっている。しかしそこでは誰がどんな指輪をしているか、財布はどれだけ膨れているかが同室している他人に分かってしまう。平気で真珠のイヤリングを入れていく人も中にはいたが、女性が八割がたを占めている現場の人たちに、ほのかはネックレスを見られたくなかった。ペンダントのメダルは、円の半分がオリジナルにカットされた、恋人同士が分け合って身に着けるタイプのものだった。余計な妬みを買いたくなかったのだ。
「高いの? いくらしたの?」畳みかけてくる上村に、
「人からもらったもので、シルバーだから多分値段はそんなに・・・でも、でもとっても大事なものなんです」
「だからそんな大事なもの、どうして貴重品箱に入れておかなかったの。鍵のかからないロッカーに置いとくなんて、あなたどうぞお持ちくださいって、言ってるようなもんじゃない」
「そんな・・・」
「ネックレスって言わないね、あれは」「しっ」ロッカーの反対側、通路よりのあたりから、根本と仲のいい小柄なブラジル人の会話が聞こえた。哄笑しながら二人の足音が遠のいていく。ハッとしてほのかが上村を振り返ると、班長はじっとうつむいたまま何も口にしようとはしなかった。
「班長、あの、まさか」「言っちゃだめ」「え?」
「軽々しく、そういうこと言っちゃだめ。このこと他の誰にも言わないで。あたしに預からせておいて。ね、いいでしょ? それとなくあたしから確かめておいてあげるから」
額のあたりに渦巻くめまいとともに、さらに気分がどん底に落ち込んでしまった。首の裏側から背筋にかけて、スウと悪寒が走り抜けた。何かが自分の中からごっそり抜け落ちてしまったようだが、タカユキとの大事な思い出の品をなくしてしまった、そのこと以上に大切な何かが、自分の体から遊離してしまったような虚脱感だった。(タカユキの身に何かが起こったのでは・・・)、ほのかは着替えを済ませ、井戸の底の水につかっているような気分のまま、ロッカールームを後にした。
階段の途中の踊り場に、<労働週間>と印刷された見出しのポスターが貼ってある。<うつ病に悩んでいませんか?>そんな見出しの下に、作業衣の裾をだらしなく出して肩を落とした、蒼白な顔をしたウサギのイラストが描かれてあった。このウサギはほのかの勤めている会社ばかりでなく、隣接する他の企業――食品メーカー、出版会社など工業団地内にある数社の労働組合が発行している、機関誌のイメージキャラクターだった。工場で働く職工たち同様、ウサギもまた穴倉暮らしであること、それに多産であることをかけてこのデザインにしたという。ポスターの下方には小さく、毎月第一木曜日、メンタルヘルスケアの相談を行っています。詳しくは医務室まで、と記してあった。
ほのかは以前、更衣室で同じ列のロッカーを使用している年配の主婦が、ロッカー全体に下着だの、コンビニの食べ残しを詰めたポリ袋のゴミだのを、ぎっちり積み上げているのを見てしまったことがある。それはまるでゴミ屋敷のロッカー版だった。
そうかと思うと、製造部ではまさに穴倉としか思えないような、電球一つぶら下がった薄暗い小部屋で、椅子に腰かけた男性の中年工員がコロッケの種にパン粉をまぶしながら、何かぶつぶつ独り言をつぶやいている。噂では、この男は日々そうしてコロッケ一つ一つに話しかけているそうで、「やあ君。今日は顔色がいいね」「ここを出たら君は広い世界に行ってしまうんだね」などと、就業中ずっとコロッケと対話しているのだった。
(ここの職場なんか変だ。病んでいる)
ほのかは他人事のように思いつつ、そのうち自分も専門医に話だけでも聞いてもらおうかな・・・そんな気持ちに傾いていた。
立ち眩みがあまりひどいので、続々と出勤してくる夜勤の人々を避けながら、工場の門から自転車を引いて歩いて帰った。買い物をする気力もない。ましてや家に帰ってから、酔って暴言を吐きつけるあの母親のため、料理を作る気になどとてもなれなかった。
(帰りたくない・・・)
緑道につましく咲いているアベリアの香りにふと目をやると、ほのかは自転車のスタンドを立ててベンチに腰を下ろし、はーッと大きなため息をついた。それから背後から射し入る夕日に、薄桃色に浮き立っているアベリアの花びらにじっと見入った。無意識にバッグの中の携帯を取ろうとしたが、メールをしてもどうせタカユキはこの時間、仕事中だろうと諦めて、また深々とため息をつく。「もう、何も考えられない。あたしの居場所なんかどこにもない」そうひとり呟いてみると、涙があふれ出てきた。それから頭の中が空白になった。
遠くから子供たちの歓声が聞こえてくる。
二十メートルほど先に小学校の緑色の金網フェンスがある。そうか今日は土曜日か・・それならタカユキも退社した後かもしれない。校庭開放で遊ぶ子供たちの声に、ほのかがバッグの携帯に手を伸ばそうとしたとき、
「キャーッ」
という叫声が校庭側にとどろき渡った。校門から、両手を天に突き上げた子供たちがバラバラと出てくる。
気のぬけた想いでいたほのかには、一瞬それがひどく滑稽な光景にみえた。緑道の先の出来事に、子供ということも忘れてあの子たち何しているのかしら・・・そうぼんやりと見とれてしまった。ハロウィン?・・・万歳をして駆け出してくる小さな子供たちに混じり、殺気立った顔をした高学年の少年が全力疾走でこちらに駆けてきたので、初めてほのかは異変に気付いた。
自転車を置いたままバッグを小脇に抱えると、ほのかは少年とすれ違いに金網フェンスにそって、ふらふらと校門の方へ近づいていった。校庭にはまだ四五人の人影が見える。その中央に灰色っぽい作業服を着た、髪を金髪に染めた長髪の男が、背をややこごめて立っていた。ほのかにはその男が、先ほど会社のポスターで見てきたばかりの蒼白な顔をしたうつ病のウサギの労働者にダブって見えた。
「ククゥ クウクウ ククゥ クウクウ」
灰色の作業服を着た男は奇妙な声でいななきつつ、一人の少年をまるでいつくしむように後ろから羽交い絞めにしていた。
「君、ニシムラ君? ニシムラ、ジュン君?」
名を呼ばれた少年は身震いすることすら許されず、ひきつった眼をして必死に監視員のアルバイト学生を探しているようだった。だが学生の姿はどこにも見当たらない。二階の教頭室では黒い影がいくつか動いていた。
淳はこの際正直に頷いた方がいいのか、うそをついてごまかした方がいいのか迷っていた。すると、数メートル離れた砂場の脇で、体育座りをしたままじいとこちらを見ている少女と目が合った。砂場の外や大銀杏の木の下では、驚愕のあまり動けずにしゃがみ込んでしまった低学年の子供が何人かいた。まるでサーカスの見物客のように、体育座りをしている少女――根本チハルだけは、無感動な眼差しでじいと淳を注視している。
「宇宙局指令室からの命令なんだ・・・君、このあたりに住んでいるの?」男が訊ねる。淳は小さくうなずいた。
「だったら、宇宙局からの指令が来なかった?」
淳は激しくかぶりを振った。
「ああ、それが何よりの証拠なんだよ。ニシムラ君」
淳は男の言っている意味が理解できず、涙ぐみ懇願するような目で男を振り仰いだ。
「だってね・・・逃亡犯に指令が聞こえるはずがないんだから・・・ね、そうでしょう? そうでしょう?」
男はそう言うと、少年の首から右腕を外し、ズボンのポケットから赤い柄の十徳ナイフを取り出した。
「毎晩のようにね・・・ぼく、この指令に悩まされていたんだ。でもようやくこれで楽になれる。君にはすまないけどね」
悪い予感がして、淳は思わずチハルの顔色を窺った。直観だった。この男はチハルに頼まれたのではないか、この男とあいつとは、知り合いなのか? チハルがいやに堂々としているのもそれでうなずける。そう思いいたると恐怖が抑えがたく湧き出して、膝頭がわななき熱いものがズボンの股間にほとばしった。
体をびくびくと震わせながら失禁し、ズボンに蒸気を立ち上げている少年を見ると、
「ああ・・・かわいいね、君。まるで小鳩のようだ」
うっとりとした面持ちで男はそう言って、少年を自分に振り向かせ、上からのしかかるように強く抱擁した。
「指令の内容はね、『殺して・・・だれかニシムラジュンを殺して』というんだよ。君、何か悪いことしたでしょう?」
淳の背後で、男はナイフの柄から爪を立てて小型のはさみを取り出すと、それをゆっくりとしまい、次に缶切りを取り出しては元に戻し、最後に刃渡り十センチほどの刀身をつまみだすと、胸を回して淳の首裏にあてがい、抱きしめたままスウと横に引いた。
チハルは、普段何となく熱望していたことが、今目の前に淡々と実現していく有様に、まったく観客の好奇心でもって眺め入っていた。ところが淳の首筋に鮮血があふれ出したのを見た途端、光るナイフとともに蘇らせたくない記憶が頭の中に奔騰した。そしてはじけるように立ち上がった。
「アーッ!」
かつてないほどの絶叫をとどろかせると、チハルはがっくりとひざを折って、そのまま前のめりに昏倒してしまった。ゴッ、という鈍い音を立て、チハルの前頭部はアスファルトに激突し、華々しくバウンドすると再度、顔面を地面に強打した。
チハルの叫声が響き渡った時、しかし最も驚愕したのはナイフをあてがっていた男自身だった。がっくりして倒れている少女を顧みると、
「おまえが・・・おまえが? 通信局?」
そうぶつぶつといいながら少年を突き放し、ふらつく足取りでゆっくりと少女に歩み寄っていく。首筋を鮮血で汚した淳は全力で校門に向けて駆けだした。
同時に、校舎の側から「コラーッ」と叫ぶ大人の怒声が起こった。二人の教員と監視員の学生が猛然と駆け寄ってくる。ふらつくような足取りで、かろうじて少女にすがり寄った男は、背後から飛びかかった大柄な男性教員の容赦ないタックルにあっけなく押しつぶされてしまった。
方々の空から、けたたましいサイレン音が近づいてくる。
ほのかは、少女の叫声と同時に気が遠のいてしまい、金網フェンスをつかんでしゃがみこんでしまった。
ハッと我に返った時、校庭ではすでに警察官が男の腕を抱えこみ、体重を乗せて抑え込んでいるところだった。警察無線を口に当てた別の警官が男を見下ろし状況を報告している。応援のパトカーがさらに三台駆けつけ、普通車にサイレンを乗せた車や救急車が続々と校門付近に集結した。おや――と思うのは、黒いスーツに身を包んだ刑事らしい人や警官たちが二手に分かれていることだった。校内に入る大多数のほか、駅の方角に走っていく警官がいる。そちらでは、一台の車が縁石に乗り上げてガードレールを押し倒し、歩道の垣根に突っこんだまま停止していた。車内にはまだ人が残っているらしい。
ほのかには、いったい何が起こったのかわけがわからなかった。ただ一つだけはっきり言えることがある。それは少女が叫んだあの瞬間、本当に頭の中が空白になってしまったということ、そして眼前にありありと見たのだ。
ひろい、広いいちめんの鉛色の空にびっしり畝雲が居並んでいた。今にも雨が降り出しそうに熱をはらんだくらい曇天に、やせこけた醜いウサギが跳ねていたのを――。歯茎をむき出し真っ赤な目をむいた、胴にあばらを浮き出しているひどくやせこけたウサギだった。体中いたるところの体毛が抜け落ちて、一部は骨が露出し、血や腸や内臓や膿が噴出している。
その時自分はうつむいていたのにどうして空が見えているのか不思議だった――不安になって顔を上げて、この街の上空を仰いだけれども、目に映る映像は畝雲の連なった鉛色の空だった。それとそこに舞い踊る、一匹の巨大なウサギだったのだ。今も眼底にありありと残っている、この残像はいったいどこから来たのだろうか。
ほのかはかつてないひどい頭痛に襲われた。こめかみに震える指先を当て、一方の手で金網フェンスにしがみついたまま、そこから立ち上がることができなかった。
「それで――その時あなたは気を失っていたわけね?」
小学校での事件から二週間が過ぎたころ、ほのかは会社の医務室でメンタルヘルスケアの問診を受けた。幼いころから貧血気味であること、ラインについているときたびたびめまいに襲われること。同じ班にいる先輩に入社以来、執拗な嫌がらせを受けていること。そしてとくにその日は頭痛がひどく、就業後は自転車を引いて帰ったこと。
一通り、ほのかが事件当日の症状を訴えている間、精神科医の高見沢玲奈はパソコンに電子カルテを作成しつつ、時折脇に置いたノートに手書きで乱雑な文字を連ねていた。
「あ・・・ちょっと待って」玲奈はインターフォンで受付を呼び出すと、「ごめんお待ちの方あと三十分くらい遅れそうなんだけど」そう告げて、再びほのかを促した。
「どうしても、その時に見た光景が頭から離れなくって」ほのかは症状を訴えた。
「ウサギが空飛んでいたっていう?」
「はい」
「そのウサギをさ、ちょっとここに描いてみてくれる?」「え・・・」「ざっとでいいから」玲奈はそう言ってレポート紙を一枚破ると、ほのかに下敷きとペンを差し出した。
「描きながらでいいから答えてね。その嫌がらせをするっていう人だけど、名前言える?」「それはちょっと・・・」「班長さんは知ってるの?」「と、思います」「具体的に、どんな嫌がらせなのかしら」「キレちゃうんです。その、ちょっと普通の人じゃないみたいに、ラインが止まると人柄が豹変しちゃうんです」
「ああ・・・」玲奈はそれを聞くとに三度頷いてパソコンにパチパチと何事かを打ち込んだ。
「できたかしら?」
「はい。こんな感じで・‥」
「あら? そのー、さっきあなたが言ってたのとちょっと違うみたいなんだけど。このウサギ服着てるわね」
「あの、私が見たのは傷だらけの姿だったんですけど、そこの‥・」ほのかは医務室の外の階段を指さした。「踊り場に貼ってある労働週間のウサギと、私なんだか混同しちゃって‥・今、毎晩みる夢の中ではいつも灰色の作業着を着ている工員姿のウサギなんです。それと、あの時校庭にいた男が灰色の作業着、着てたもので」
「イメージがダブっちゃった?」「ええ。でも、あたしには、どうしてもあれがポスターの労働者のウサギに見えたんです」
「そう‥・で、もう一度確認したいんだけど、実際に、というか小学校の現場で頭に浮かんだのは、やせこけた傷だらけの方だったわけね?」
「はい」
ほのかの返事を確かめると玲奈はノートにまたペンを走らせた。
「幻覚‥・だったんでしょうか」ほのかは玲奈の医師としての対応に何か不自然なものを感じた。
「うん、そこがね、あたしも知りたいところなんだけど」パタン、とペンを置くと玲奈は改めてほのかを正視した。
「あなた一人が見たっていうなら、それは幻覚。でもね、幻覚って当人からすると間違いなく見えている、その事実には変わりないの。つまりCTでスキャンすると幻覚を見ている時、脳の視覚野がちゃんと反応しているわけね? だから本当なら反応しちゃいけない神経細胞がどういう理由でか、発火しちゃっているわけね? あなたの場合、失神している時にそれを見たわけだから、過去の記憶によるものか、あなたが作り上げた妄想、いわゆる幻視といえるんだけど‥・」
ほのかは眉間にしわを寄せてうつむいた。
「ねえ、あなたさ。あの日おまわりさんに何か訊かれなかった?」
「はい、訊かれました。いま先生にお話しした通りの、ありのままを言ったんですが」
「制服のおまわりさんに訊かれた後で、私服の刑事さんにも訊かれたでしょ」
「はい。名前と住所を――あの、それが何か?」
「新聞は見た?」
「はい」
「あの日小学校で事件があったとき、同じ時間帯に周辺で交通事故が四件発生しているの。運転手さん以外、幸いけが人は出なかったようだけどね。新聞に書いてあるとおり小学校で逮捕された男は、意味不明の内容を呟くばかりで、いま精神鑑定がなされているわ。精神科のある病院に鑑定留置されてるわけね。一方で車で事故を起こした四人も、警察の聴取を受けた後、太田や舘林の病院に運ばれたの。そしたら外科の治療の後、心療内科で意外なことが分かったの」
「何ですか」
玲奈はしばらくためらった後でほのかに告げた。
「‥・あなたはあの日、現場にいた目撃者だから、当事者であり私の患者でもある。警察に話を聞かれたっていうから不安でしょう? だから正直に言うわ。でも他の人には話さないで」
「ええ」
「犯人を含め五人ともが既往歴を持っていたの」
「キオウレキ?」
「みんな以前、か現在。精神科、もしくは心療内科に通院していた、そのカルテが各病院の記録にあったのよ」
「じゃあ、あたしも?」
「軽い外因性鬱だと思います」
「はあ‥・」
事故を起こした運転手がみな何らかの精神病であったことは意外だったが、それより自分までがうつ病と診断された、それはしかし何となく予感していたことではあった。(いつから自分はこんな風になってしまったんだろう。タカユキと会わなくなってから?)その境目が、ほのかには実感としてつかめなかった。
「光石さんあなた、貧血気味だって言ってたけど、鉄分を含んだ食事きちんととってる? 造血剤はのんでるの?」
「はい」「じゃあね今日のところは精神安定剤だしておきますから、あまり深刻に悩まないで」「はい」「ところでご家族とはうまくいってる?」「あ、あの‥・」タカユキのことが頭に浮かび言いよどんで俯いてしまうと、
「いいの、いいの。それは今度で」玲奈はおっとりと微笑んだ。
「ね。約束して。次回の検診にも必ず顔を出して。あなたの班の根本さんとは会わないよう、時間の方は調整しておくから――ね?」
「あっ」目を見張ったほのかに、玲奈はそ知らぬふりをしてインターフォンに語りかけた。「次の方どうぞ」
一礼して去っていく、ほのかの悄然とした丸い背中を横目で見送ったのち、玲奈はパソコンに入力した文言のいくつかを太文字に変換した。ラインに就いているとめまいがする、これは部長なり工場長に報告する必要があった。また家庭内に問題がある、訊いたわけではないがその可能性があることも、報告書に付記しておく必要がある。
問題のすべてが構内作業によるものではない、それは会社の要望する診断でもあるからだ。いつもここで診察する際、玲奈がそれを確かめるのも嘱託委としての立場上、抗えないことではあったが、近ごろはそうした手心を加えた打診を我ながら苦々しく思うことがある。
それから傍らに置いた、ほのかが描いた醜いウサギの絵柄にぼんやり見入った。同日同時刻、別病院とはいえ同じ精神科にかかっている六人がどうして卒倒失神してしまったのか。この件はまだほのかに打ち明けるわけにはいかない。来週開かれる、北海道での精神医学学会での報告を待たねばならない。この工業団地で同時に起こった小学生殺人未遂と、四件の車両事故――その相関性について、警察はもちろん犯人を診ている鑑定医ばかりでなく、運転手たちのカルテを所持している各病院の精神科医、それに東京でも幾人かの同業医師が関心を示していた。
その情報をくれたのは、母校のT大で研修医のころからの付き合いがある、神経科学者の速水巳一郎だった。北海道での学会の夜、二人が泊まる部屋を予約するよう携帯で巳一郎に頼まれたのは、事件がマスコミに報道されてからわずか三日後のことだった。
「どうしたの? 大丈夫?」班長の上村が声をかけてきた。
「あ・・・ちょっとめまいが」
ラインにある回転盤がどうしても苦手だった。回転する大量のコロッケを見ていると気が遠くなることがある。そのうち慣れるだろうと思っていたが、半年たった今でも仕事中、立ち眩みを覚えることがある。けれどもそれ以上に、根本の新人いじめが執拗だった。仕事中嫌な思いをしない日がない。
「医務室で休んでいったら? なんだったらあたし付いていこうか?」
「あ・・・いえ、軽い貧血ですから」
ほのかは無理に笑顔を作って答えると扉を開け「あっ」と小さな悲鳴を上げた。
「どしたん?」上村が訊ねた。
「ないっ! ないんです。ペンダントのネックレス、ここに入れといたのに!」
「えっ。ネックレスってあなた、どうして貴重品箱に入れておかなかったの、だめじゃない」
電磁帽を取り、隣で着替えていた上村は、豊かにカールしてあるロングヘア―をゆすりながら作業着の前をはだけ、ほのかのロッカーを覗き込んだ。
「だって・・・」
貴重品の管理室は工場に入る直前の小部屋にあった。財布や車のキー、貴金属の類は個人にあてがわれた引き出しに入れてから仕事に就く決まりになっている。しかしそこでは誰がどんな指輪をしているか、財布はどれだけ膨れているかが同室している他人に分かってしまう。平気で真珠のイヤリングを入れていく人も中にはいたが、女性が八割がたを占めている現場の人たちに、ほのかはネックレスを見られたくなかった。ペンダントのメダルは、円の半分がオリジナルにカットされた、恋人同士が分け合って身に着けるタイプのものだった。余計な妬みを買いたくなかったのだ。
「高いの? いくらしたの?」畳みかけてくる上村に、
「人からもらったもので、シルバーだから多分値段はそんなに・・・でも、でもとっても大事なものなんです」
「だからそんな大事なもの、どうして貴重品箱に入れておかなかったの。鍵のかからないロッカーに置いとくなんて、あなたどうぞお持ちくださいって、言ってるようなもんじゃない」
「そんな・・・」
「ネックレスって言わないね、あれは」「しっ」ロッカーの反対側、通路よりのあたりから、根本と仲のいい小柄なブラジル人の会話が聞こえた。哄笑しながら二人の足音が遠のいていく。ハッとしてほのかが上村を振り返ると、班長はじっとうつむいたまま何も口にしようとはしなかった。
「班長、あの、まさか」「言っちゃだめ」「え?」
「軽々しく、そういうこと言っちゃだめ。このこと他の誰にも言わないで。あたしに預からせておいて。ね、いいでしょ? それとなくあたしから確かめておいてあげるから」
額のあたりに渦巻くめまいとともに、さらに気分がどん底に落ち込んでしまった。首の裏側から背筋にかけて、スウと悪寒が走り抜けた。何かが自分の中からごっそり抜け落ちてしまったようだが、タカユキとの大事な思い出の品をなくしてしまった、そのこと以上に大切な何かが、自分の体から遊離してしまったような虚脱感だった。(タカユキの身に何かが起こったのでは・・・)、ほのかは着替えを済ませ、井戸の底の水につかっているような気分のまま、ロッカールームを後にした。
階段の途中の踊り場に、<労働週間>と印刷された見出しのポスターが貼ってある。<うつ病に悩んでいませんか?>そんな見出しの下に、作業衣の裾をだらしなく出して肩を落とした、蒼白な顔をしたウサギのイラストが描かれてあった。このウサギはほのかの勤めている会社ばかりでなく、隣接する他の企業――食品メーカー、出版会社など工業団地内にある数社の労働組合が発行している、機関誌のイメージキャラクターだった。工場で働く職工たち同様、ウサギもまた穴倉暮らしであること、それに多産であることをかけてこのデザインにしたという。ポスターの下方には小さく、毎月第一木曜日、メンタルヘルスケアの相談を行っています。詳しくは医務室まで、と記してあった。
ほのかは以前、更衣室で同じ列のロッカーを使用している年配の主婦が、ロッカー全体に下着だの、コンビニの食べ残しを詰めたポリ袋のゴミだのを、ぎっちり積み上げているのを見てしまったことがある。それはまるでゴミ屋敷のロッカー版だった。
そうかと思うと、製造部ではまさに穴倉としか思えないような、電球一つぶら下がった薄暗い小部屋で、椅子に腰かけた男性の中年工員がコロッケの種にパン粉をまぶしながら、何かぶつぶつ独り言をつぶやいている。噂では、この男は日々そうしてコロッケ一つ一つに話しかけているそうで、「やあ君。今日は顔色がいいね」「ここを出たら君は広い世界に行ってしまうんだね」などと、就業中ずっとコロッケと対話しているのだった。
(ここの職場なんか変だ。病んでいる)
ほのかは他人事のように思いつつ、そのうち自分も専門医に話だけでも聞いてもらおうかな・・・そんな気持ちに傾いていた。
立ち眩みがあまりひどいので、続々と出勤してくる夜勤の人々を避けながら、工場の門から自転車を引いて歩いて帰った。買い物をする気力もない。ましてや家に帰ってから、酔って暴言を吐きつけるあの母親のため、料理を作る気になどとてもなれなかった。
(帰りたくない・・・)
緑道につましく咲いているアベリアの香りにふと目をやると、ほのかは自転車のスタンドを立ててベンチに腰を下ろし、はーッと大きなため息をついた。それから背後から射し入る夕日に、薄桃色に浮き立っているアベリアの花びらにじっと見入った。無意識にバッグの中の携帯を取ろうとしたが、メールをしてもどうせタカユキはこの時間、仕事中だろうと諦めて、また深々とため息をつく。「もう、何も考えられない。あたしの居場所なんかどこにもない」そうひとり呟いてみると、涙があふれ出てきた。それから頭の中が空白になった。
遠くから子供たちの歓声が聞こえてくる。
二十メートルほど先に小学校の緑色の金網フェンスがある。そうか今日は土曜日か・・それならタカユキも退社した後かもしれない。校庭開放で遊ぶ子供たちの声に、ほのかがバッグの携帯に手を伸ばそうとしたとき、
「キャーッ」
という叫声が校庭側にとどろき渡った。校門から、両手を天に突き上げた子供たちがバラバラと出てくる。
気のぬけた想いでいたほのかには、一瞬それがひどく滑稽な光景にみえた。緑道の先の出来事に、子供ということも忘れてあの子たち何しているのかしら・・・そうぼんやりと見とれてしまった。ハロウィン?・・・万歳をして駆け出してくる小さな子供たちに混じり、殺気立った顔をした高学年の少年が全力疾走でこちらに駆けてきたので、初めてほのかは異変に気付いた。
自転車を置いたままバッグを小脇に抱えると、ほのかは少年とすれ違いに金網フェンスにそって、ふらふらと校門の方へ近づいていった。校庭にはまだ四五人の人影が見える。その中央に灰色っぽい作業服を着た、髪を金髪に染めた長髪の男が、背をややこごめて立っていた。ほのかにはその男が、先ほど会社のポスターで見てきたばかりの蒼白な顔をしたうつ病のウサギの労働者にダブって見えた。
「ククゥ クウクウ ククゥ クウクウ」
灰色の作業服を着た男は奇妙な声でいななきつつ、一人の少年をまるでいつくしむように後ろから羽交い絞めにしていた。
「君、ニシムラ君? ニシムラ、ジュン君?」
名を呼ばれた少年は身震いすることすら許されず、ひきつった眼をして必死に監視員のアルバイト学生を探しているようだった。だが学生の姿はどこにも見当たらない。二階の教頭室では黒い影がいくつか動いていた。
淳はこの際正直に頷いた方がいいのか、うそをついてごまかした方がいいのか迷っていた。すると、数メートル離れた砂場の脇で、体育座りをしたままじいとこちらを見ている少女と目が合った。砂場の外や大銀杏の木の下では、驚愕のあまり動けずにしゃがみ込んでしまった低学年の子供が何人かいた。まるでサーカスの見物客のように、体育座りをしている少女――根本チハルだけは、無感動な眼差しでじいと淳を注視している。
「宇宙局指令室からの命令なんだ・・・君、このあたりに住んでいるの?」男が訊ねる。淳は小さくうなずいた。
「だったら、宇宙局からの指令が来なかった?」
淳は激しくかぶりを振った。
「ああ、それが何よりの証拠なんだよ。ニシムラ君」
淳は男の言っている意味が理解できず、涙ぐみ懇願するような目で男を振り仰いだ。
「だってね・・・逃亡犯に指令が聞こえるはずがないんだから・・・ね、そうでしょう? そうでしょう?」
男はそう言うと、少年の首から右腕を外し、ズボンのポケットから赤い柄の十徳ナイフを取り出した。
「毎晩のようにね・・・ぼく、この指令に悩まされていたんだ。でもようやくこれで楽になれる。君にはすまないけどね」
悪い予感がして、淳は思わずチハルの顔色を窺った。直観だった。この男はチハルに頼まれたのではないか、この男とあいつとは、知り合いなのか? チハルがいやに堂々としているのもそれでうなずける。そう思いいたると恐怖が抑えがたく湧き出して、膝頭がわななき熱いものがズボンの股間にほとばしった。
体をびくびくと震わせながら失禁し、ズボンに蒸気を立ち上げている少年を見ると、
「ああ・・・かわいいね、君。まるで小鳩のようだ」
うっとりとした面持ちで男はそう言って、少年を自分に振り向かせ、上からのしかかるように強く抱擁した。
「指令の内容はね、『殺して・・・だれかニシムラジュンを殺して』というんだよ。君、何か悪いことしたでしょう?」
淳の背後で、男はナイフの柄から爪を立てて小型のはさみを取り出すと、それをゆっくりとしまい、次に缶切りを取り出しては元に戻し、最後に刃渡り十センチほどの刀身をつまみだすと、胸を回して淳の首裏にあてがい、抱きしめたままスウと横に引いた。
チハルは、普段何となく熱望していたことが、今目の前に淡々と実現していく有様に、まったく観客の好奇心でもって眺め入っていた。ところが淳の首筋に鮮血があふれ出したのを見た途端、光るナイフとともに蘇らせたくない記憶が頭の中に奔騰した。そしてはじけるように立ち上がった。
「アーッ!」
かつてないほどの絶叫をとどろかせると、チハルはがっくりとひざを折って、そのまま前のめりに昏倒してしまった。ゴッ、という鈍い音を立て、チハルの前頭部はアスファルトに激突し、華々しくバウンドすると再度、顔面を地面に強打した。
チハルの叫声が響き渡った時、しかし最も驚愕したのはナイフをあてがっていた男自身だった。がっくりして倒れている少女を顧みると、
「おまえが・・・おまえが? 通信局?」
そうぶつぶつといいながら少年を突き放し、ふらつく足取りでゆっくりと少女に歩み寄っていく。首筋を鮮血で汚した淳は全力で校門に向けて駆けだした。
同時に、校舎の側から「コラーッ」と叫ぶ大人の怒声が起こった。二人の教員と監視員の学生が猛然と駆け寄ってくる。ふらつくような足取りで、かろうじて少女にすがり寄った男は、背後から飛びかかった大柄な男性教員の容赦ないタックルにあっけなく押しつぶされてしまった。
方々の空から、けたたましいサイレン音が近づいてくる。
ほのかは、少女の叫声と同時に気が遠のいてしまい、金網フェンスをつかんでしゃがみこんでしまった。
ハッと我に返った時、校庭ではすでに警察官が男の腕を抱えこみ、体重を乗せて抑え込んでいるところだった。警察無線を口に当てた別の警官が男を見下ろし状況を報告している。応援のパトカーがさらに三台駆けつけ、普通車にサイレンを乗せた車や救急車が続々と校門付近に集結した。おや――と思うのは、黒いスーツに身を包んだ刑事らしい人や警官たちが二手に分かれていることだった。校内に入る大多数のほか、駅の方角に走っていく警官がいる。そちらでは、一台の車が縁石に乗り上げてガードレールを押し倒し、歩道の垣根に突っこんだまま停止していた。車内にはまだ人が残っているらしい。
ほのかには、いったい何が起こったのかわけがわからなかった。ただ一つだけはっきり言えることがある。それは少女が叫んだあの瞬間、本当に頭の中が空白になってしまったということ、そして眼前にありありと見たのだ。
ひろい、広いいちめんの鉛色の空にびっしり畝雲が居並んでいた。今にも雨が降り出しそうに熱をはらんだくらい曇天に、やせこけた醜いウサギが跳ねていたのを――。歯茎をむき出し真っ赤な目をむいた、胴にあばらを浮き出しているひどくやせこけたウサギだった。体中いたるところの体毛が抜け落ちて、一部は骨が露出し、血や腸や内臓や膿が噴出している。
その時自分はうつむいていたのにどうして空が見えているのか不思議だった――不安になって顔を上げて、この街の上空を仰いだけれども、目に映る映像は畝雲の連なった鉛色の空だった。それとそこに舞い踊る、一匹の巨大なウサギだったのだ。今も眼底にありありと残っている、この残像はいったいどこから来たのだろうか。
ほのかはかつてないひどい頭痛に襲われた。こめかみに震える指先を当て、一方の手で金網フェンスにしがみついたまま、そこから立ち上がることができなかった。
「それで――その時あなたは気を失っていたわけね?」
小学校での事件から二週間が過ぎたころ、ほのかは会社の医務室でメンタルヘルスケアの問診を受けた。幼いころから貧血気味であること、ラインについているときたびたびめまいに襲われること。同じ班にいる先輩に入社以来、執拗な嫌がらせを受けていること。そしてとくにその日は頭痛がひどく、就業後は自転車を引いて帰ったこと。
一通り、ほのかが事件当日の症状を訴えている間、精神科医の高見沢玲奈はパソコンに電子カルテを作成しつつ、時折脇に置いたノートに手書きで乱雑な文字を連ねていた。
「あ・・・ちょっと待って」玲奈はインターフォンで受付を呼び出すと、「ごめんお待ちの方あと三十分くらい遅れそうなんだけど」そう告げて、再びほのかを促した。
「どうしても、その時に見た光景が頭から離れなくって」ほのかは症状を訴えた。
「ウサギが空飛んでいたっていう?」
「はい」
「そのウサギをさ、ちょっとここに描いてみてくれる?」「え・・・」「ざっとでいいから」玲奈はそう言ってレポート紙を一枚破ると、ほのかに下敷きとペンを差し出した。
「描きながらでいいから答えてね。その嫌がらせをするっていう人だけど、名前言える?」「それはちょっと・・・」「班長さんは知ってるの?」「と、思います」「具体的に、どんな嫌がらせなのかしら」「キレちゃうんです。その、ちょっと普通の人じゃないみたいに、ラインが止まると人柄が豹変しちゃうんです」
「ああ・・・」玲奈はそれを聞くとに三度頷いてパソコンにパチパチと何事かを打ち込んだ。
「できたかしら?」
「はい。こんな感じで・‥」
「あら? そのー、さっきあなたが言ってたのとちょっと違うみたいなんだけど。このウサギ服着てるわね」
「あの、私が見たのは傷だらけの姿だったんですけど、そこの‥・」ほのかは医務室の外の階段を指さした。「踊り場に貼ってある労働週間のウサギと、私なんだか混同しちゃって‥・今、毎晩みる夢の中ではいつも灰色の作業着を着ている工員姿のウサギなんです。それと、あの時校庭にいた男が灰色の作業着、着てたもので」
「イメージがダブっちゃった?」「ええ。でも、あたしには、どうしてもあれがポスターの労働者のウサギに見えたんです」
「そう‥・で、もう一度確認したいんだけど、実際に、というか小学校の現場で頭に浮かんだのは、やせこけた傷だらけの方だったわけね?」
「はい」
ほのかの返事を確かめると玲奈はノートにまたペンを走らせた。
「幻覚‥・だったんでしょうか」ほのかは玲奈の医師としての対応に何か不自然なものを感じた。
「うん、そこがね、あたしも知りたいところなんだけど」パタン、とペンを置くと玲奈は改めてほのかを正視した。
「あなた一人が見たっていうなら、それは幻覚。でもね、幻覚って当人からすると間違いなく見えている、その事実には変わりないの。つまりCTでスキャンすると幻覚を見ている時、脳の視覚野がちゃんと反応しているわけね? だから本当なら反応しちゃいけない神経細胞がどういう理由でか、発火しちゃっているわけね? あなたの場合、失神している時にそれを見たわけだから、過去の記憶によるものか、あなたが作り上げた妄想、いわゆる幻視といえるんだけど‥・」
ほのかは眉間にしわを寄せてうつむいた。
「ねえ、あなたさ。あの日おまわりさんに何か訊かれなかった?」
「はい、訊かれました。いま先生にお話しした通りの、ありのままを言ったんですが」
「制服のおまわりさんに訊かれた後で、私服の刑事さんにも訊かれたでしょ」
「はい。名前と住所を――あの、それが何か?」
「新聞は見た?」
「はい」
「あの日小学校で事件があったとき、同じ時間帯に周辺で交通事故が四件発生しているの。運転手さん以外、幸いけが人は出なかったようだけどね。新聞に書いてあるとおり小学校で逮捕された男は、意味不明の内容を呟くばかりで、いま精神鑑定がなされているわ。精神科のある病院に鑑定留置されてるわけね。一方で車で事故を起こした四人も、警察の聴取を受けた後、太田や舘林の病院に運ばれたの。そしたら外科の治療の後、心療内科で意外なことが分かったの」
「何ですか」
玲奈はしばらくためらった後でほのかに告げた。
「‥・あなたはあの日、現場にいた目撃者だから、当事者であり私の患者でもある。警察に話を聞かれたっていうから不安でしょう? だから正直に言うわ。でも他の人には話さないで」
「ええ」
「犯人を含め五人ともが既往歴を持っていたの」
「キオウレキ?」
「みんな以前、か現在。精神科、もしくは心療内科に通院していた、そのカルテが各病院の記録にあったのよ」
「じゃあ、あたしも?」
「軽い外因性鬱だと思います」
「はあ‥・」
事故を起こした運転手がみな何らかの精神病であったことは意外だったが、それより自分までがうつ病と診断された、それはしかし何となく予感していたことではあった。(いつから自分はこんな風になってしまったんだろう。タカユキと会わなくなってから?)その境目が、ほのかには実感としてつかめなかった。
「光石さんあなた、貧血気味だって言ってたけど、鉄分を含んだ食事きちんととってる? 造血剤はのんでるの?」
「はい」「じゃあね今日のところは精神安定剤だしておきますから、あまり深刻に悩まないで」「はい」「ところでご家族とはうまくいってる?」「あ、あの‥・」タカユキのことが頭に浮かび言いよどんで俯いてしまうと、
「いいの、いいの。それは今度で」玲奈はおっとりと微笑んだ。
「ね。約束して。次回の検診にも必ず顔を出して。あなたの班の根本さんとは会わないよう、時間の方は調整しておくから――ね?」
「あっ」目を見張ったほのかに、玲奈はそ知らぬふりをしてインターフォンに語りかけた。「次の方どうぞ」
一礼して去っていく、ほのかの悄然とした丸い背中を横目で見送ったのち、玲奈はパソコンに入力した文言のいくつかを太文字に変換した。ラインに就いているとめまいがする、これは部長なり工場長に報告する必要があった。また家庭内に問題がある、訊いたわけではないがその可能性があることも、報告書に付記しておく必要がある。
問題のすべてが構内作業によるものではない、それは会社の要望する診断でもあるからだ。いつもここで診察する際、玲奈がそれを確かめるのも嘱託委としての立場上、抗えないことではあったが、近ごろはそうした手心を加えた打診を我ながら苦々しく思うことがある。
それから傍らに置いた、ほのかが描いた醜いウサギの絵柄にぼんやり見入った。同日同時刻、別病院とはいえ同じ精神科にかかっている六人がどうして卒倒失神してしまったのか。この件はまだほのかに打ち明けるわけにはいかない。来週開かれる、北海道での精神医学学会での報告を待たねばならない。この工業団地で同時に起こった小学生殺人未遂と、四件の車両事故――その相関性について、警察はもちろん犯人を診ている鑑定医ばかりでなく、運転手たちのカルテを所持している各病院の精神科医、それに東京でも幾人かの同業医師が関心を示していた。
その情報をくれたのは、母校のT大で研修医のころからの付き合いがある、神経科学者の速水巳一郎だった。北海道での学会の夜、二人が泊まる部屋を予約するよう携帯で巳一郎に頼まれたのは、事件がマスコミに報道されてからわずか三日後のことだった。
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