ラビットフライ

皇海翔

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石川タカユキ

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 どこか遠いところで人の名を呼ぶ声がする。それが耳慣れた響きだったので、自分のことではないかと思うのだが非常な努力とともに全身のどこに力を込めても微動だにしない。けだるさを覚え、一呼吸すると、自分の意に反してわずかばかりの薄い空気が胸内に感じられた。それから猛烈な空腹感に襲われた。
「石川さん」
「高行っ」
「タカユキ!」
 呼びかけてくる声は二三人もいるらしいが、そのうちに紛れない母の声がする。そうだ、タカユキ‥・
女の声は実家の母に相違なく、その人が自分をタカユキと呼ぶのなら、自分の姓はイシカワというのだろう。
 イシカワ‥・タカユキ。頭の中で反芻すると、たちどころに西日暮里の高架から飛び降りた際の衝撃がよみがえってきた。順繰りに記憶をたどっていくにつれ、不幸なことの顛末が一瞬間のうちに脳裏をよぎる。失敗したのか‥・俺は生きることにも、死ぬることにも失敗したんだ‥・。
「石川さん、聞こえますか。聞こえているなら眼球を‥・目の玉ですね、右に左にゆっくり動かしてみて」
 耳慣れないしわがれた男の声がした。タカユキが応じると、
「うん‥・それでは瞼を‥・ゆっくりと開いてみて」
 医師らしい優し気な語り口に、眼球の上にあるはずの皮を渾身の力で動かそうとするのだが、それがまるで鋼鉄の扉のようにびくともしない。
 そうだった、瞼は上側に持ち上げるんだった‥・大事なことを忘れていたと思い、さび付いたシャッターの下に両手を差し込み腰を入れて持ち上げる――そんなイメージを懸命に頭の中で反芻すると、意外にも目尻がふっと軽くなった。
「勇気を出して‥・」再度静かな男の物言いを耳にしたとき、タカユキはハッとして頭の中で持ち上げようとしていたシャッターから思わず腰を引いて後ずさった。
(いやだ‥・)
 もう一度あの現実に戻るなんてもう嫌だ。
 高架橋から跳んだ時、自分はすべてのことをあきらめて、自分の意志で身を投げたのだ。それがどうしてこういうことになっているのか不可解だった。九年間取り組んできた仕事を失ってしまった、それが会社にとって、いや自分にとってどれほど重大なことであるのかを、ここにいる誰一人としてわかっていない。小さいころから一途に勉強に取り組んで、高専を卒業しさらに一流大学を出、メーカーで最新の科学データに基づいたオペレーションシステムを開発してきた、チームリーダーとしての自分の矜持を、ここにいる誰が分かってくれるというのか。勇気を出して‥・勇気を出して? 仕事を奪われた自分にこれから何をしろというのか。こんな残酷なことってあるか、自分はこの生を終わりにしたかったんだ。それをどうして‥・目尻に熱いものがこみあげてきて、それが頬をつたっていく。そのときだった。
「タカユキっ、おおっタカユキ。聞こえているんだねっ。力を振り絞って、お願いだから目を開けてちょうだいっ」
 嗚咽まじりの母の声を聞いたとき、かすかに悔恨の情が胸中によぎった。悲しみに、悲しみの度合いというものに、深浅ということがあるのなら、この人と、今自分が抱えている悲しみとでは、さしずめ母親の悲哀のほうがきっと大きくて深いのだろう。それだからすまないと感じるのだろう――そう判別できた時、アア――自分はすでに生を始めてしまっている、と気づかされた。
 ここはおそらく病院だろろう。自分は生かされたのだ。自分の意志とは無関係に。赤子として何もわからないままこの世に生を受けた時も、きっとこんなやりきれない気分だったに違いない。
 面倒なのだが、母の思いにほだされて、タカユキは頭の中のイメージにあるシヤッターの下に再度、両手をあてがうと、どうにでもなれといった捨て鉢な心境で力任せに鋼鉄の扉をまくり上げた。
 照明を落としたカーテン越しの、柔らかな光の中にぼんやりといくつかの顔がのぞき込んでいる。自分の中にたった一つだけ見つけることができた望みとかいうもの――一目、母の顔を拝んでやりたいという切望は実にあっけなくかなえられた。
 人々が歓喜の叫声を上げている。するとタカユキに絶望の大波がもんどりうって押し寄せてきた。
 それは久々に見た母の赤ら顔が涙と鼻水でひどく汚れているせいではなく、今もこの背に負っている、取り返しのつかない挫折からくるものだった。その落胆は、再び生きることを認めてしまった今、安堵している母よりもはるかに深刻で、あの晩、高架橋から鉄路を覗き込んだ時の底なしの暗闇と何一つ変わらないものだった。

 網膜に朝の光をほんのり感じる。同時におよそ人格を持つ人間であるならば誰しもが嫌悪するだろう、嗅ぎ慣れた不快な臭気がシーツの内側から漂ってきた。
「視覚、聴覚、嗅覚に問題はありません」
 担当医はそのことがあたかも奇跡であるかのように情熱をこめてタカユキに語ってくれた。医師の細かな説明を受けるまでもなく、視界の下辺に差し込まれた気道を確保するための二本のチューブや流動食を流し込むための太いパイプ、それに酸素マスクと点滴と、何より無感覚のまま排泄される糞尿がベッドの下に勢いよく流れ下る。その音を聞いただけで、自分がどういう状態であるのかは察しがつていた。
 五感がなんだというのだろう。身動き一つできやしない、まるで餓鬼のようにやせこけてしまったこの四肢を引っ提げて、今更感覚が何の役に立つというのか。不快だ、屈辱だと頭の中ばかりが煮えたぎる、せめてこの感情というもの、理性だの思考といったもの、それらの機能さえなくしていれば、何もわからなくって済んだものを!

 瞼を開いて、タカユキは天井から吊り下げられた赤外線カメラの赤い光を注視した。力を込めて瞬きすると、カチリ、というかすかな機械音とともに追尾型カメラのランプが緑に変わった。視線をベッドわきのリモコンに移動させると、それに伴い緑の光の矢もまたリモコンの赤外線通信ポートに照射される。
 リモコンの窓口に瞬きをして、ベッドの背もたれをゆっくりと上昇させた。上体が起き上がるにつれ、視界の中央に巨大なディスプレイが現れる。タカユキはそこでまたリモコンの停止ボタンに瞬きをした。
 視線をずらすと、右手の壁に彼の神経を逆なでする苦々しい掲示物が目に入った。兄の小学生になる子供が作ってくれた、タカユキの三十歳を祝う花飾りと、枕に頭をのせたまま両眼をあけて笑っている五分刈りの彼の似顔絵だった。
 病室の外では油蝉の唱和が聞こえているから今は七月か八月だろう。三十歳――? ということは自分が前後不詳であったのは、実に三年八か月にも及んでいたことになる! 自死を決意するまで、最先端の科学技術を追い求めていた彼にとって、その現実は最後通告を宣告されたのと同義だった。同じ身内でありながらどうしてこうも無神経なのか、すぐにでもそのへたくそな絵を破り捨ててほしかったのだが、そのことを訴えるすべすら彼にはなかった。やるせなさに、はらはらと下る涙を、見舞いに来た人々は無論うれし涙と受け取った。
「いつかきっと、お前は帰ってきてくれると信じていたよ」
 兄はそう言って微笑した。自分が意識不明のまま横たわっていた間、週に一度は母か兄の家族が群馬から東京まで見舞いに来てくれたのだった。家族の恩情に、本当なら手を合わさずにいられないところだったが、彼はこの幼稚なプレゼントを目にしたとき猛烈な怒気をもよおした。
 眼前のパソコンと特別注文の大型ディスプレイ、瞳孔の動きを追尾する赤外線カメラはタカユキの意識が回復してから、兄が調達してくれたものだった。兄はタカユキがアイコンタクトでのみ意思を通ずることが可能であるとわかってから、三月ほどもかかって秋葉原や方々の医療機器メーカーに手配し、少しずつ機能をグレードアップさせていた。瞼の瞬き一回が、ワンクリックでインターネットを閲覧できる。このシステムを与えられてからようやく彼は、何もかもが人々の厚意からしてくれたことなのだ、そう自制する思考の余裕を持つことができた。けれども日々悩まされる、自身の排せつ物の臭気だけは何としても我慢ならない。
 メディアプレーヤーのアイコンをクリックし、CDの中でもとりわけけたたましいハードロックを選択すると、タカユキは音量を最大限にして瞳を閉じた。耳をつんざくようなギターとドラムスの狂騒が鳴り響き、やがて看護士が血相を変えて病室に飛び込んできた。
「石川さん、今度これやったらパソコン一日使えなくなりますよって、婦長さんから言われてますよね。隣の部屋でまだお休みになってる患者さんだっているんですよ。呼び出しボタンのポートはベッドのリモコンの手前にあるの知ってるでしょ? どうしてそちらを使わずに毎朝こんな――」
 看護士はパソコン本体のマウスに手を伸ばそうとした。タカユキはそれより先に、ディスプレイに表示されたプレーヤーの停止ボタンを瞬きでクリックした。途端に音響はやみ、早朝の静かな院内の気配に立ち戻ると、ものも言わずに困惑した表情で振り返る、小太りの若い女のたじろぐ姿を、彼は小気味よさそうに注視した。それからウインドウを切り替え、文書作成画面を表示する。ファイルの一つをクリックすると、あらかじめ入力しておいたお決まりの文句を表示させた。
            クソのにおいがたまらない
            なんとかしてくれ
「まだそんなに溜まってませんよ。あたしこうして近くにいても、そんな臭ってなんかいませんけど」ベッドの下を覗き込んでから、看護士の岩田はけだるそうに枕もとのタカユキを見下ろした。
 その位置から俺を見下ろすのはよせ、そう岩田に言いたかった。最も間近に対峙する、枕もとのその位置から自分を見下ろしていいのは担当医と母親の二人だけなのだ。
 憎悪の目で睨み返すと、「はいはい、分かりましたよ」そう言って岩田はベッドわきの台車を手前に引き寄せ、かがみこんで排泄チューブをポリタンクから外す作業にかかった。
 彼女は、取り外したポリタンクを台車に乗せる前、半透明の容器をタカユキの鼻面に持って行き、底をゆすって音を鳴らした。そうして「ほらね」と言った。わずかばかりの茶褐色の液体が目の前に波打っている。意趣返しのつもりだろうか。もし片腕だけでも自由になるなら、この女を殴り飛ばしてやりたかった。人権侵害で訴えることはできないだろうか――いや。金の無駄か‥・そう思考を巡らせた後、タカユキはうっとりとした微笑を目元に浮かべ、岩田を見つめた。
「いいんですよ。それで石川さんの気が済むんでしたら」
 あろうことか岩田は、彼が感謝の意を表そうとしている、そう解釈したようだった。なんて鈍い娘なのだろう。
 聞こえよがしにあくびを洩らし、台車をガラガラ鳴らせて便所に汚物を捨てに行く、その後姿を見送ると、タカユキはめまぐるしく眼球を動かして、ディスプレイ上の文字盤にポインタを這わせた。岩田が戻ってくると、画面には新たな文字列が提示されていた。
               きみはきゅうかくおんちかい
               たんくじゃなくってしりからうんちがしみだしているんだ
 岩田は表情を硬くこわばらせた。
「おむつ交換はみんな九時からってことになっていますから」そう言うと、彼女はワードのウインドウを閉じもせず、無造作にパソコンの電源コードを引き抜いてしまった。
 ディスプレイが一瞬にして闇になる。
「あ゛っ」という名状しがたい悲鳴が、瞳孔から噴出したように彼は感じた。俺が‥・この俺がせっかく入力した文字列を、この女は、この女は‥・両眼をむいて岩田を睨むと、上方に設置したカメラもまた角度を変えて、彼女の側頭部に緑色の光点を照射した。
(アア、あのカメラが拳銃だったなら!)瞬き一つでこの女の脳みそを吹っ飛ばしてやれるのに――。
 岩田はポリタンクを元に戻すと、「約束ですから」ひっそりと呟いて病室を出ていった。

 なすこともなく、天井の一点を見つめていると不意に涙が出ることがある。悲しいことを考えていたわけでもないので、なぜ涙腺が緩んだのか彼自身にもわからなかった。パソコンが使えるときには操作のたびに瞬きをするので眼球が乾き、なおも操作を続けていると自然に涙があふれてきたが、それは頭上の介護用機器を操作して目薬を滴下すれば収まるものだ。
 これまで何百時間も見続けてきた天井は、つまり自身の内部を見ているのと同じことだ――入院生活が長引くにつれ彼はそう観じる様になった。
 確か仏教に達磨という人がいた。修行僧が壁に向かって何年も座っているのは、こうした効果を知っていたからではないだろうか。それなら自己の内部を顧みて、俺はなぜ泣くのだろう。何が悲しいというのだろう。それすらも解らない、ということが悲しいのだろうか。自分がどれだけ悲惨なのか、その度合いを確かめるための尺度がないのだ。
 彼は余命を宣告された、不治の病の患者と自分とではどちらが悲惨だろうかと考えた。それから眼球すら動かせず、意思を伝えるすべを持たない重篤患者を思い浮かべた。自分の方がやや救われている、そう結論すると留飲の下がる思いがする。そうしてそんなことで幸不幸を見比べている自分は何とあさましい人間だろう、そう思い当たり、情けなさに再度涙があふれてくるのだった。堂々巡りを繰り返しているうち、思考はやがて常に似たような研ぎ澄まされたような心境に収れんした。生かされている。望む望まないにかかわらず、生命はなべて生かされている、そんなありきたりな境涯だった。
 タカユキはこれまで神仏にすがったことはない。自分を生かしているものが宗教でいう創造者であるのか、医者であるのか、家族であるのか、あるいは今も活発に脈打っているこの心臓のおかげなのか、つまりは細胞のおかげなのか、線引きをどこに置いたらよいのかそれすらも解らなかった。

 ドアをノックする音に視線を投げると、光沢のある値の張りそうなスーツに身を包んだ、見慣れない六十ほどの男が立っていた。
「意識が回復されたそうで。おめでとうございます。大変でしたね。私ニューロテック社の顧問弁護士を仰せつかっております、梶と申します。詳しいお話はご家族からお聞きに‥・?」
 男は微笑を絶やさずじっとタカユキの瞳を覗き込んだ。相手が誰であろうとこの際、来訪者は救いの神に思われる。そう思ってから、神?‥・こともあろうに辞めた会社の弁護士をそう感じてしまったことに、また複雑な思いが去来した。もう考えることにも疲れ果てたな、タカユキは心中そうつぶやきつつ、カメラの起動スイッチに瞬きをして、上体を起こしベッドわきのナースコールを作動させた。
「ええっと。どうしたらいいのかな」
  弁護士は、目元に好意を浮かべて自分を見ているタカユキを前に、当惑した面持ちで突っ立っていた。彼はベッドから二メートルほど離れたタカユキの足下から、それ以上近づこうとはしなかった。またノックがして顔を紅潮させた看護士が飛び込んできた。
「はいっ今度は何? どうしていつもいつも‥・あっ、御面会の方?  どうもご苦労様です、看護士の岩田と言います。あの、今すぐパソコンの電源入れますから‥・ちょっと事情がありまして。石川さん、じゃあ今日は特別ね?」
 善人らしく微笑んでいる岩田をタカユキは無表情のまま見返した。
「ええッと、じゃあ文字盤を出しますね? ああ初めてですか。あの、彼がポインタを操作して文字列を書き出しますので。簡単な内容でしたらイエスかノーで。瞬き一回がイエス、二回がノーです。私はどうしましょう、ここにいたほうがいいですか?」
 タカユキは力を込めて二度瞬きをした。それがちょうど彼女が弁護士を振り返った時だったので伝わらずに無視された。
「ええ。ぜひここにいらしてください。ちょっとあなたにも立ち会っていただきたい内容があるものですから」梶がそう言うと、
「あ、はい。かまいませんよ」興味津々といった顔つきで岩田は丸椅子に腰を下ろした。落胆した眼差しで、タカユキは義務のごとく文字盤にポインタを這わせた。
           かいしゃには ごめいわくをおかけしました すべて ははとあにからきいてます
 入院費、治療代はすべて前にいた会社のニューロテック社が肩代わりしてくれるという思いがけない申し出は、彼が意識を取り戻してから幾日もしないうち、母親から聞かされていた。
 病院に担ぎ込まれた翌日、彼の家族が駆け付けた時、すでにこの男は病室の前の廊下で家族を待ち受けていた。今後のタカユキの処遇について、梶は三週間かけて小出しに会社の譲歩案を提示してきた。意識の回復する見込みがなく、入院が長期にわたると診断されると、タカユキは除籍され辞職扱いになった。会社が提示してきた条件とは、入院費等は会社が持つが、彼の私物から仕事に関する資料が見つかった場合、それを速やかに会社に返還するというものだった。
 ローンが六年は残っていた彼のマンションは家族立会いの下契約が打ち切られ、私物は都内のトランクルームに移された。その際パソコンのハードディスクは抜き取られ、机の引き出しにしまってあったUSBメモリの類も根こそぎ会社のセキュリティ部門の職員が持ち帰ったということだった。携帯の着信、送信履歴から仕事に関するものはアドレス、電話番号に至るまですべて削除するという徹底ぶりだった。タカユキの属していた部署は、それほど社内機密の保守について厳格な規約を設けていた。
「ええっとですね、実は今日窺ったのはもう一つ確認しておきたいことがありまして。メールを送らせていただいたんですが、そちらはまだ?」
 タカユキは文字盤ではなく看護士の岩田をにらみつけた。
「ああっ、はいはい、メールね?  実は今日彼、パソコンいじってなかったものだから」言いながらあわてて岩田がメールのアプリをクリックする。会社からの未開封のメールには、同意書なる文書が送りつけられていた。
「読んでいただければお分かりかと思いますが、そこにあなたの署名、捺印が欲しいんです」
 同意書は、今回のタカユキの自死行為が、仕事上のものでなく、あくまで家庭内、もしくはプライベート上の問題で起こしたものであることを、彼自身に承諾させる内容だった。
(そいつはどうかな・・・)
 とっさにいぶかしく感じたものの、すでに入院費の面で世話になっている以上、ここでもめるのは利口ではない。そのことも弁護士は見抜いているはずだった。一も二もなく、彼は瞬き一つでイエスと答えた。
「ええ。それじゃどうしましょう。書類はここにも用意してありますが」言っている間にも、タカユキはディスプレイ上の署名欄を四角く切り取り、手書きのアプリを呼び出すと、つたない動きでポインタを這わせて漢字の石という文字を描き出した。
「ははあ。たいしたものですな」順調に事が運ぶのを見て取った弁護士は相好をくずしてディスプレイに眺め入っている。
 すべては終わったことだった。今さら会社に迷惑をかけるつもりはない。ただ彼が取り組んでいたニューラルネットワークの開発がその後どうなったのか、それだけでも誰か会社の者に教えてほしかった。仕事上のことで思い悩んで、自死行為に走ったのではないかとわざわざ念書まで取りに来たこの男なら、当時の状況についてある程度まで調べ上げているに違いない。署名を済ませ、法律事務所あてに返信すると、タカユキは再び文書作成画面を呼び出して梶に訊ねた。
            わたしのしごとは えんどうくんがひきついでいるとおもいますが
            あのぷろじぇくとは そのごどうなりましたか
「さあ。お仕事のことは‥・私その、理工系は苦手でして、ソフトのお仕事っていうのもいまひとつピンと来ない方なんで」
            そうですか しつれいしました
「いいえこちらこそ。お役に立てなくってすみません。どうぞお大事になさってください」
 あれだけ徹底して身の回りの私物を整理していった者たちだ。社内情報を顧問の弁護士が漏らすはずもない。梶に促され、タカユキの見ている前で岩田が印鑑を代わりに捺印すると、彼は帰り際にやや鋭い目をしてもう一度タカユキを振り返った。
「その‥・今でもプログラミングを?」
 目薬を滴下させていたタカユキは意想外の問いかけに驚いた。不可能です、と文字を打つのも面倒なので、梶を見つめ二度瞬きをしてノーと伝えた。
 充血した目に透明な液体を溢れさせている病人を、弁護士は冷ややかに見つめた。「それはそうでしょうなあ。いやお邪魔しました」頷きながらそう言うと、梶は深々と一礼して去っていった。
(プログラミングがどれほど煩雑な作業であるか、あの男は知っている)タカユキは直感でそう思った。
「いいの?  これで」廊下に遠ざかる足音を聞きながら、看護師の岩田はタカユキに語りかけた。タカユキはディスプレイを注視した。
「あなたお仕事左遷されて職場を追われたってお兄さんが‥・」
          でていってくれ
 そう表示すると、彼は疲弊した瞼を静かに閉じた。
 文書をたった数行作成するだけでこのありさまなのに、プログラムを組むなんてできるわけがない。会社はどうしてそんなことをいまさら知りたがるのか不審だった。だがそれも、考えたところで今の彼に知りうることでもなかった。
 看護士が部屋を出ていく。
(岩田さん、パソコンの電源抜かずにいったな)瞼を閉じた後にそう気づいて、ほっと安堵しているうち彼は知らぬ間に午前の浅い眠りに落ちていった。

 蝉の声はいつからしなくなったのだろう。
 窓ガラスに容赦なく雨粒を叩きつける秋雨前線の時期が過ぎて、タカユキの入院生活は四年目に入ろうとしていた。
 ネットの交流サイトで話し相手を見つけるのは簡単なことだ。彼が身上を打ち明けると、たちまち十数本のアクセスがあり、中には彼同様、寝たきりのまま日々を過ごしている人もいた。相手は老人だったが、希望を捨てないで、といった内容をしきりに送ってくる。当初はていねいに返礼していたが、生々しい生命欲とでもいうのかポジティブな老人の性向が次第にうっとうしく感じる様になり、サイトにアクセスするのもやめてしまった。
 車いすでの移動が可能になると、担当医は自宅での療養、もしくはリハビリ施設への転所をそれとなく示唆した。家族もまた群馬の実家へ帰ることを望んでおり、弁護士の梶は医師のはっきりとした退院許可が下りた時点で入院費は打ち切りになると通告してきた。ネット上の見知らぬ人に励まされるより、また家族になだめられるよりも、この有無を言わせぬ弁護士の通告が最も現実的なので、タカユキはむしろ清々しさを覚えた。
 自分のうちにはもはや一揺らぎほどの炎すら立たぬ。何のためのリハビリなのか、彼にはその意義が見いだせなかった。電子書籍と映画を観る以外、パソコンを操作することも少なくなり、日中の間、兄が買ってくれた大型ディスプレイには、決まった文言が表示されたままになっていた。
        しにたい
        えんめいちりょうはのぞまない
 文言は看護士の岩田がいるときにだけ表示される。医師や家族との面会の時には消していたが、彼の意志は当然家族にも伝えられた。
 岩田は、この文言の前でよくベッドわきの丸椅子に腰かけ、無心に編み物をしていた。タカユキが興味深げに眺めていると、
「あなたにじゃないのよ。彼氏にあげんの。うぬぼれないでね」
 優しい口調でそう言った。「石川さんに呼ばれてばっかりいるから、誕生日までに間に合わないの」
 そんな彼女の言い草が、このころは心地よく感じられる。この娘は俺が嫌いなのだろう。俺もそうだ。彼女は仕事で仕方なく俺に付き合っている。けれども弁護士同様、そうした態度は誠に自然で噓がない分、心地よかった。死にたいという本音も、大嫌いなこの娘になら平気で打ち明けられる。彼女に侮蔑的な言葉を浴びせられると、近頃は不思議とこちらも愉快になった。
 そして思う。俺はこんなにも卑屈な男になり下がった。もしくは相当性根がゆがんでしまったのだろう。すると、この心臓を握りつぶしてしまいたい、再びそんな寧網な衝動にかられた。

 見知らぬ女性の面会を受けたのは、タカユキがそうした鬱屈した心境でいる頃だった。
「はじめまして。日本医科大病院の高見沢と申します」
 病室に入ってきて、会釈をするなりいきなり腰をかがめ、目の前に名刺を差し出されたので、タカユキはカメラの視界を奪われてディスプレイの表示を切り替えることができなかった。
 精神科とある名刺の下辺には、巨大なバストの谷間があらわになっている。あわてて名刺から視線をそらそうとするタカユキを見て、高見沢は背後のディスプレイを振り返り、「しにたい」という文字列を見た。そしてタカユキの顔を見つめ、おっとりと微笑した。
「あっ、ごめんなさい」名刺をベッドわきの小机に置くと、玲奈は一歩後ずさりした。タカユキは慌てて文字盤を操作した。
          せいしんかは しゅうにいちどここでみてもらっています あなたは?
「お手間を取らせてごめんなさいね。こちらの担当の先生には先ほどお会いさせていただきました。診察に来たわけではないので、お気持ち楽にしてくださいね? 今日はあなたに大事なお話が合ってきました。あの‥・イエス、ノーは?」玲奈が看護士を振り返ると、先ほどから緊張して直立していた岩田は生真面目に説明した。
「うん、ちょっと込み入った内容なので、先に大まかに説明させてね」
 タカユキは瞬いてイエスと答えた。
「込み入った、と言ってもそれはこれからお話しする施設の設備が込み入ってるんで、私のお話は単純なことなの。実は今、あなたのように体がマヒしてしまって動けない患者や、脳疾患で意識の戻らない患者、それに重度の精神障碍者を収容するためのリハビリセンターが、埼玉県に建設中なの。これまでにない方法で、短期間に症状を改善させることを目指しています。これまでにない、と言ってもあなた、プールで手足を動かす、体を吊ってするリハビリはご存じでしょう?」
 タカユキはイエス、と答えた。
「うん、要はそれを応用させたものなんだけど、一つ違うのは脳機能を回復させるために、ちょっと重たいヘッドギアを装着してもらうの。何をするかって言うとね、あなたの脳内をCTで計測しながら同時に欠損した脳細胞を活性化させるため、微弱な信号を脳内に送ります。視覚は別にゴーグルを当ててもらって、脳に送られる信号と矛盾しない、主観的な映像が配信される。3D映画? まあ、あれを全身で体験してもらうと思ってもらえればいいかしら。その間、身体的にはプールで適度な運動をしてもらう。簡単に言うとそんなとこなんだけど‥・、怖い顔なさってますね?」
 聞きたいことが山ほどあった。けれども何から聞き出したらいいのか、この人に、自分が文字盤を操作する間、ずっとここにいてもらえるのか、まずはそのことが気がかりだった。
           しゅつりょくはわかる MRIがそこまでしんかしていたとはしりませんでした
           しかしにゅうりょくは?   のうにちょくせつでんきょくをうめこむのですか?
           それよりしんごうは どういったこんきょで ひょうてきのさいぼうをみつけだすのです?
「各人に送られる信号は、CPUが一括管理しています。それぞれの人に送る信号が適切かどうかもCPUが判断します。その根拠は、過去に受信した脳内情報から、欠損や不備のある点をコンピュータが補填して、矛盾が生じないよう、また不快な情報にならないよう、調整されたうえで各人に配信されます。
 ここが重要なの。患者さんが最も望んでいる映像を配信するの。電極は埋め込まない、無侵襲よ。システムのことは‥・あたしよりあなたのほうがお詳しいと思うんだけど」
         ぼうだいなビッグデータをかんりする スパコンなみのシステムがひつようなはずだ
         どうしてぼくのことを?
「このシステムを開発したのはニューロテック社よ。映像を配信するゴーグルを作成した他社のゲーム機器メーカーや、和光市の脳科学研究センター、それにT大との共同開発でね。プロジェクトには国からも援助金が出ているの。
あなたは以前、ニューロ社のエンジニアだったのよね?   このシステムの一部には、あなたが昔書いたプログラムが応用されていると聞かされています。そのあなたもまた、このシステムを前任者の方から受け継いできたんですってね?   ニューラルネットワークは、まさにニューロ社の積年の悲願だったわけでしょう? だったらあなた、ご自分が手掛けたシステムがその後どう開発されたか、興味がおありなんじゃないかしら?」
 緊張のあまりタカユキは全身が身震いした。
         そのことをあなたはだれからききました?   こんかいのはなしは かいしゃがしむけたことなん
         ですか?
「センターの完成を目指して、オブザーバーとしてニューロ社とはたびたび打ち合わせはしています。けれどもあなたのことは、ニューロ社ではなく別の方から伺いました」
         だれから?
「あなたが卒業した大学の、速水巳一郎さんです。ちなみにあたしも同窓なのよ?   来年の春センターが完成したら、彼そこの副所長に就任することが決まっているの」
 タカユキはディスプレイから目を離し、玲奈の顔をまじまじと見つめた。 
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