ラビットフライ

皇海翔

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T

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  2030年度、第一0三回日本精神医学学会は北海道の札幌市コンベンションセンターで開かれた。
 巳一郎に言われたとおり、玲奈は勤務する大学病院の教授に頼み、学会の二人分の席を確保していた。仕事は多忙でとても休める状況ではなかったが、無理をして二日間の休暇願を出し、婦長の嫌味を聞き流して飛行機のチケットを手配し、先に既成事実を画策してから周囲の了解を得たのだった。ホテルの部屋まで予約したというのに、巳一郎は待ち合わせの時間になっても空港ロビーに現れなかった。携帯で確かめると、あろうことか大学の研究室で居眠りをしていた。これから行くから、とメールでは言っていたが、キャンセルした便のあと飛行機のチケットが取れたのかどうか、玲奈は札幌空港から会場へ向かう途中、何度かメールしてみたがつながらないところをみると機上の人にはなったのだろう。
 勝手にしろ、といった気分だった。 
 壇上では、資料を映し出すスクリーンの脇で、精神科では都内でも有数の松井精神医療センターの院長、犯罪心理学が専門の大谷教授の講演がすでに始まっていた。教授は地検に委嘱され、先月に起こった群馬県での小学生殺人未遂事件の容疑者を精神鑑定した、その際の経緯をとつとつと報告していた。
「ええ‥・皆さんご存じの通り、私は東京で勤務しておりますから、検察に移管の手続きを取っていただき、被告人を小菅の拘置所に移送してもらいまして、そこで頻回にわたって面接したのです。
 え、なお、私の前に太田の病院の先生が簡易鑑定を行っています。えっとまず、その際の映像を‥・と、その前にですね、今日はマスコミの方もおられるようだが、被告人は過去に精神科の通院歴があり、警察も氏名は伏せておりますので、この場ではTと、呼ばせていただきます」
 ふーっ、というため息が場内に漏れる。
 プロジェクターの開店する音とともにスクリーンに映像が映し出されると、突如、会場に絶叫が轟き渡った。画面の中で、ブルーシートに簀巻きにされた二十代後半と思しい男が白目をむいて、よだれを垂らしながらわめき叫んでいる、その音声だった。
『の‥・ぐぅわを‥・ぐげ‥・ぼばえが…ぼぐを…で、で、ぐわぁじゃん…にゃあじゃん、…が…ぎょく…うぢゅうぎょく…いじむら…いじけら…が、が、…ぞわっ、ぞわっ』
『もうこのくらいでいいでしょう。ロープをほどいて。腕を出して。ロヒプノールを吸って。2アンプル』画面の中の医師が告げる。
 注射液を吸わせたシリンジを手にした看護士が近づくと、そばにいる取調官らしい男がさっと看護士の手を制した。同時に周囲の制服を着た二人の警官が後ずさった。
『先生もう少ししゃべらせましょう』刑事はそう注進した。
『いや。刑事さんもう充分です。君、ロープを緩めてやって』
 医師が促すと、刑事と呼ばれた男の顔色を窺いつつ、警官の一人がロープに手をかけると、両側を二人の警官が押さえつけた。映像はビデオだったが、『チっ』という舌打ち音がした。
『ぐわあああああっ』
 ロープが緩むと同時にTの上体がのけぞり、両脇で抑え込んでいた警官がとっさに自らの膝を立ててTの両肩を抑え込み体重を乗せた。
『もめ、もめ』冷ややかに指示する刑事の声。
『片方でいいから、片方で』取調室に医師のややいらだった声が反響する。Tの腕まくりをした片腕に医師が慎重に鎮静剤を注射すると、
『あがが…ゆっばり、ゆっばり・・・うごががが・・・ゆっばり、ぼばえら・・・ぼばえら・・・がんじ・・・がんじ・・・げーっ・・・じでた、じでた・・・』意味不明の言葉を洩らしつつ、Tはがっくり首をうなだれてしまった。
『ビデオとめてっ!』撮影しているこちら側をちらと見て、医師が吐き捨てるように言い放つ。同時に画面がふっと暗くなった。
「・・・と、まあこれは事件当日の映像でありますが、こんな調子でありまして。私が再鑑定するまでもなく、明らかに刑法39条、心神喪失の状態です。ただ事件が事件でありますから、ビデオに写っておられる太田の先生の診断書、鑑定書と捜査記録等を精査しまして、事件から三日後、Tが移送できるまでに落ち着いたのち、都内で改めて私が診察しました。
 えー私の所見を述べます前に、まずはTの生活史といったものをざっと振り返らせていただきます」場内に手帳をめくる音がする。
 その時、薄暗い会場の後方で聞いていた玲奈の右手に細長い明りが射しこみ、男が一人滑り込んできた。背後から、「ここかな…あれっ、違う」と呟く巳一郎の声がする。玲奈がしかたなく振り返って片手をあげて合図すると、
「はい。そこの方どうぞ・・・」と壇上から大谷教授の声がして、場内の人々が一斉に玲奈を振り返った。
「あっ、すみません間違いです」あわてて立ち上がって謝罪すると、咳払いがいくつか起こり、「はい・・・」と教授がつぶやいた。
 その時振り向いてこちらをにらみつけていた数々の顔のうち、すぐ三列前にいたあごの出張った男の顔に、玲奈はハッとして息をのんだ。まぎれない、たった今ビデオに映っていた取調官の刑事だった。
「あっ、すまない。みんなこっち見るからびっくりしちゃった」上体をかがめて、着席している人々の前を抜け、巳一郎が隣の席に腰を下ろす。
「もうとっくに始まってるわよ!」
「いや、今日の学会何なの? あっちでもこっちでもやってるじゃない。違うホールに紛れ込んじゃってさ。そしたら何と、研修医相手の講座でさ・・・ちょっと面白い話してたから聞き入っちゃって」
「あんた舐めてんの?」「え?」「あたしと、今お話ししている先生と、精神医学をなめてんのかって聞いてんのよっ」
「いや、そんなつもりは・・・ところで君、ユングの集団妄想って知ってた?」
「何の話よ」
「いや、偶然なんだけど、さっきいたホールでその話してて・・・」
「出てけ」「え?」「遅れてきたうえに人に恥をかかせて。ユングが何? 群馬の事件の鑑定報告を聞きたいってあなたが言うから、休みまで取って何から何まで手配してあげたんじゃない。これ以上わけのわからないこと言うんだったら、出てけ」「すまない、謝る」
「しっ」前の席の老人にしっ責されて、二人は思わず俯いた。
 右から巳一郎に肘でつつかれて、玲奈が横目でにらむと、手元に開いた携帯に「すみませんでした」と打ってある。会場に入る前に打ち込んであったのだろう。玲奈は巳一郎の左腕をぐいととると、右のバストにきつく押し当て、心持体を預けて壇上に見入った。
「えー…警察署における供述調書、並びに捜査記録等をみますと、Tの生活史並びに家族歴はおおむね次のようなものです」
 スクリーンに履歴書に似た年表が映し出される。ただし学歴に相当する部分はたった三行しかない。
「Tは1992年、群馬県太田市の農家に同胞二人第二子として出生しています。このころの父親は、生活が苦しく稲作では生活できないと農業に見切りをつけ、建設現場の日雇いをして働いていたようです。この父親による、母親への暴力が当時は日常化しており、この粗暴な性格のため、父親は近隣でも煙たがられるような存在だったようです。
 幼少期、Tは日常的に繰り返される家庭内の理不尽な暴力を物心つく前から目の当たりにしていました。ところが彼はおびえるふうもなく、父親というものは、どこの家でもそうした腕力で家族を束ねているのだろうと、そう解釈していたと言っています。
   父親の暴力は時に、はけ口を失って幼い姉弟にも向けられたそうですが、T本人はしかし、父親からの虐待を受けてもほとんど泣いた覚えがない、と申しております。これが本当なら、Tは先天的に精神に問題を抱えている子供であったと考えられますが、まあ幼児期の記憶ですから、これはのちになって記憶の修正が施されたものであると考えられます。
 父親が酒を飲み、暴力を振るうようになったのは、農業をやめて日雇いの仕事をするようになってから、と申しましたが、この父親はTが小学校に入る前の年、同じ市内に愛人を作り出奔しております。
 数年にわたる暴力から解放されて、母子にはさながら平穏な日々が訪れたようにも思えるのですが、父親の出奔を機に今度は母親が神経症を来してしまいます。無気力になり、あげく家事を放棄したまま子供らに食事を作らないといった育児放棄の状態でした。そして二日三日と家を空けるようになります。と言いますのも父親が家を出ていった後、家と田畑が抵当に入っていることが分かり、ほかにも金融会社の取り立てが連日のように督促に来ていたのだそうです。
 その際の非道なやり口について、Tは大変詳細に述べ立てましたが、それはちょっと今日この場で申し上げるには不都合かと思われますので省略します。まあ皆さんが思い描く、そうした輩の取り立ての行状、それをはるかに超えるほどのおぞましい仕打ちがなされたと思ってください。ですので母親は連中への対応に疲れ果ててしまって家を空けるようになったのでしょう。相手は大手のローン会社ではなく、暴利で貸し付けるいわゆる闇金業者だったということです。
 母親に育児能力がない、ということが市の職員により認定され、この年から姉弟は児童相談所に引き取られることになります。不幸な思い出しかない実家を出て市内にある施設で暮らすようになる。市の職員によりますと、子供たちを引き取りに来た際、昔農家だった実家はゴミ屋敷同然のありさまだったといいます。
 共同生活とはいえ、それからのTは初めて自分専用のベッドが与えられ、同世代の友達ができ、また姉と一緒に小学校へも通うようになり、時折笑顔を見せることもあったといいます。周囲の人の話では、このころは内向的でおとなしい少年だったそうですが、逆に言いますとどうも人間らしい感情を表出する機会をこの日まで奪われ続けてきてしまった、とも推察できます。この小学校に姉と通学した二年間だけが唯一、Tの人生において心安らぐ日々でありました。
 ええ、これはのちになって話しますが、こうした当時の状況は施設の職員、近隣の人や叔父にあたる人物から私が独自に聞き出したものです。捜査記録だけではどうもこの男の全容が見えてこなかったものですから――ですのでこうした事実が鑑定に直接的に影響するものでは決してありません。このことだけは申し上げておきます。
 さて…私、小学校に入学してからの二年間だけがTの人間らしい幸せな時期だった、と申したのですが、年表にある通りTが三年生に進級した年度の夏休み、姉は誰もいない校舎の屋上から飛び降り自殺をしています。
 何しろ二十年も前のことですから、当時は学校や市が訴えられたり、警察が同級生の子供を捜査するといったこともありませんでしたので真相はわかりませんが、この点についてT本人が大変拘泥しておりまして。また真剣でして、つまり姉の同級生による執拗ないじめがあったというのです。
 水商売をしていた姉弟の母親が町の複数の男と関係を持っている、といったたぐいのうわさが一部の他の生徒たちに広まっていたらしい。この年頃の女の子は、そういったことに潔癖すぎるほど敏感ですからな――。施設の職員によりますと、このころ母親とは月に一度市内の母親が借りているアパートで面会し、そのあとは食事をして別れていたそうです。Tはこの職員に、母親の部屋には高級ブランドのバッグやスーツが無造作に放り出してあったと報告しています。
 ええ…こちらをご覧ください。これは当時、Tが通っていた小学校に私が直接お願いして送ってもらった、彼の当時の成績表なんですが――三年の三学期から、Tはたびたび問題を起こしては、授業を中断させたり、ほかの子に手を上げたりするようになりました。不登校もこのころからです。午前中から近所の友達や施設の仲間とゲームセンターで過ごすようになり、タバコ、シンナーといったものも覚えるようになりました。御覧の通り、担任の先生からの通信欄には自己中心的、落ち着きがないといったことが書かれています。四年生になりますと、成績表では協調性が五段階評価の一、攻撃的である一方、学習意欲なし、などとあります。以上のことからも、この時期がTの内部において反社会性を培う土壌が生じていったものと思われます。
 さて、――どうも暑いな――君,暑くない?」
 教授はそう言って舞台裾に語り掛けると、「どうもちょっと」と呟き、聴衆に断りもせず、ふいにマイクから離れて緞帳の陰に消えてしまった。
 会場がざわめく。ややあって姿を現した教授はハンカチで顔をぬぐいながらあわただしくペットボトルの水をのどに流し込んだ。
「どうも…失礼。汗が止まりませんで。それも私だけなんですな。ホールの空調はこれでいいんだそうで・・・妙ですな。失礼。では話を続けます。
――小学五年生になると、Tは地元の不良少年たちのリーダー的存在になっています。万引き、恐喝をして警察にたびたび取り押さえられている。初犯から今回の殺人未遂事件に至るまでの犯罪歴が、こちらになります。窃盗が四件、家宅侵入二件、放火三件、少年院に送致されたのは中学二年、十四歳の時ですが、収容された少年院でもたびたび問題を起こしています。手にリストカットの痕を発見した刑務官が所長に報告し、医療少年院に連れていかれたのが十六の時。これがその時のカルテでして、人格障害並びに統合失調症とあります。拘留中、少年院に母親が面会に来ることはありませんでした。彼を訪ねてやってくるのはやくざ風の男一人だったそうです。ただし手紙は三か月に一度くらい、女文字らしい封書が届いていました。Tを訪ねてくる男というのは、以前から襲われていた闇金業者で、執拗に母親の居場所を聞き出そうとしたといいますから、手紙が母親からのものであったとしても、差出人の名前、住所等は記してなかったのでしょう。
 Tが少年院を出院する十八の春、市内の店を転々としながらホステスをしていた母親が繫華街の路上で腹部をナイフで刺され、殺害されるという殺人事件が起きています。
 彼が出院する三週間前のことですが、一方で事件のあった二日前に、Tは少年院を脱走しています。母親の死と何らかのかかわりがあるとみて、警察はTの身柄を暑に連行し、当日のTの行動について相当念入りに調べたのだそうです。が、凶器のナイフには指紋がなく、またほかにめぼしい証拠がないうえに、事件当日、Tは日本アルプスの高山に登山をしていたという供述がありました。
 彼がその日宿泊したという北アルプス涸沢の山小屋の宿泊名簿――これは遭難を防ぐため、翌日の行動予定を記入するものなんだそうですが、これに間違いなくTの筆跡により、本人の氏名が記入されておりまして、一人ではなく他に彼と同行した人もいたらしい。
 一体どうして出院前に、脱走を企ててまでして山へ行ったのか、またそういった志向がいつTに芽生えたのか、登山が出所後ではなぜいけなかったのか、疑問は多々残るものの、なにしろアリバイが成立してるわけですから、拘留を解かれ、Tは再び少年院に還送されています。容疑がすっかり晴れたわけではなく、そうした警察の意向もあったからでしょう。協議の上、さらに半年間Tは少年院で過ごすことになります。またその間、同室の少年に傷害を負わせ、まったく反省の態度が見られないことから、結局彼が少年院を出るのは二十歳の冬になります。
 このとき彼の伯母にあたる人が身元引受人になったわけですが、ええ…幼少期とは逆に、ここからは主にT自身の供述になりますが、この伯母という人が実に非道な人物でして、叔母の家では常にやくざ風の男が出入りし、どうも近所の年寄りや、失業者に金を貸して高利で取り立てる、違法な商売をしていたようです。
 Tもまた、取り立てを手伝うよう強要されたといいます。十代は闇金業者に追われていた者が、今度は追う側になったわけです。これにはからくりがありまして、T家族の借金は母親の殺人事件があった際、貸付業者に警察の手が入り、契約書は法的意義を持たない紙切れ同然になっていました。少年院にいてもその事実を知らずにいたTに、伯母は借金はすべて肩代わりしたから、見返りに家の仕事を手伝うようにと、つまり住むところと食事、それに多少なりとも報酬を支払うから、そう迫られたということです。
 そもそも伯母に依頼された取り立てがうまくいかないと、一時間近く殴る蹴るの暴行を三人、ときには複数の同業の男たちから受けていたといいます。
 そうした地獄のような暮らしが半年近くも続きます。
 やがて彼の保護観察官がある日、Tの体に残る青あざに気が付きまして、伯母の家を出るよう勧め、Tの自活をうながします。Tはその後、住み込みの宅配業者やパチンコ店、社宅を持っている町工場の職工の仕事などを転々とすることになるのですが、これはどうも職場での人間関係が成立しなかった、というのが本当のところらしい。どこの会社の人に訊いても、彼の勤務態度、それ以前に無断欠勤や給料の前借などで、いるにいられず追い出されたというのが実状です。
   この間、監察官の勧めで以前訪れたことのある病院の精神科で再度、医師の診断を受けています。カルテには統合失調症のほかに被害妄想、人格の脆弱化といったことが付記されています。この時点でTは再び幼児期のような感情を表出しない、抑うつ的で無気力な精神状態に回帰してしまっています。叔母の家での監禁状態に近い半年間にわたる虐待が原因かと思われます。
 それからのTはホームレス同様、日中は公園のベンチで何もせず呆然と何時間も座っている、そして深夜になると飲食店のゴミバケツをあさったりと、そんな暮らしぶりであったらしい。近所の小学生に口汚くののしられても、何ら反応が返ってこない、そんな有様であったといいます。
 折からこの公園を散歩するのを日課にしていた近隣の方が、そんなTを見かねまして、彼に飼育しているレース鳩を世話する仕事を与えました。鳩舎の掃除やえさやり、そんな簡単なアルバイトですが。
 ですが朝夕二時間ずつ鳩に接するうち、少しずつTの冷たく平板だった感情が緩み始め、顔にも表情が浮かぶようになりました。
 鳩舎のオーナーによりますと、彼の仕事ぶりは大変に熱心で、雷雨の日でもハトが無事かどうか心配で、約束の時間よりも早く鳩舎に様子を見に来て壁板の目張りなどをしていたといいます。
 レース鳩、一匹一匹の名前とそれに性格?・・・を、まあいいでしょう。性格をオーナー以上に把握してしまい、えさを食べないハトや、便に異常のみられるもの、求愛期にあるものなどあまりに事細かに報告するので、オーナーも感心していたということです。このオーナーの厚意で、鳩舎に努めだしてから三か月後、Tは敷地内にある鳩舎の脇にプレハブ小屋を立ててもらい、以降はここで生活するようになるのです。
 ところが・・・ここがその、オーナーさんにも私にも不可解なところなんですが、もともとTは鳩舎にいで、一羽一羽のハトに話しかけていた、そうした光景を好ましいものに周りは見ていたのですが、鳩舎の作業を終えたのちにもいつからか彼の独語、空笑が目立つようになり、オーナーの自宅での夕食中、あるいはプレハブ小屋での就寝時、Tはどうも幻聴に悩まされていたらしい。オーナーは、ハトの世話に思い入れすぎて、心身のバランスを崩してしまったものかと心配し、仕事を休むよう勧めたのですが、彼は泣いて鳩舎にいさせてほしいと懇願したそうです。仕事を奪われてしまうとでも勘違いしたのかもしれません。
 このオーナーという人は、平日は太田市の自動車メーカーに勤務しているサラリーマンで管理職の方なのですが、日曜日は自分が世話をするから休んでいいと言っても、お金はいいからと言ってやはり鳩舎通いをやめないほどの熱の入れようだったといいます。
 Tの幻聴は主に夜間症状を呈していたもので、深夜自宅で寝ているオーナーの枕元に、敷地内のプレハブ小屋から叫び声や独り言が夜ごと聞こえていたこともあったそうで、近所からも苦情が来たといいます。彼に精神科の既往歴があることは、当然オーナーも監察官から彼の前歴を聞いて知ってますから、ある日監察官、T、オーナーの三者で話し合い、再度病院に行くことになっていました。今回の事件はそうした約束を交わしていた矢先に起きました。
 事件の後、このオーナーさんはだいぶ近所から厳しい批判を浴びたそうですが、『私には、どうしてあんな心根の優しい子が事件を起こしたのかわからない』とまあ、この人だけが同情的な言葉を漏らしておって、それも幻聴や独語などの症状が高じた末での犯行であるから、その点をもっと調べてほしい、そうおっしゃっておりました。
 ただし先ほども申しました通り、我々はあくまでT本人の、生活史と家族歴を知るのが目的ですから、またそこから得られた事実だけから診断しなければならない立場におりますから、こうした個人的感情が鑑定に影響するものではありません。
 駆け足ではありましたが、ざっと彼の生活史を総括しますと、Tは幼少年期を通して貧困や暴力といった、いわゆる犯因性環境で生育し、小学校は出たものの十分な倫理観を身につけないまま成人となった――そう申し上げるほか、ありません。
 さて、次に私が東京の病院で行った、数々の検査の結果ですが…。そこで大谷教授は額の汗をぬぐうと、下を向いてじっと目を閉じてしまった。すみません少し、休憩をいただけませんか。申し訳ない」
 マイク脇の小机に置いた高さ二十センチほどもある資料を残したまま、教授が壇上から姿を消すと、会場が再びざわめいた。場内の照明がわずかに明るくなり、玲奈はふーっと息をついて天を仰いだ。
「疲れたかい?」巳一郎が横から玲奈の顔を覗き込む。
「だって、これじゃ病院の仕事と変わらないじゃない。外来のほうがまだ楽だわよ。一人だいたい十五分くらいで済むんだから。それにこんなみっちり、患者さんのこと聞いたり調べたりしないもの」
「教授が委嘱された時点では、精神病の疑いがあるとはいえ被告人扱いだからね」
「それにしてもすごい生活史ね」
「生活って言えるのか?  まるで虐待史じゃないか。しかし君ならTの病状がどんなものか、大方診断のめぼしはつくんだろう?」
「統合失調症だって、先生おっしゃってたじゃない。もう充分だわよ。大谷先生だってお疲れのようだし。そりゃ疲れるわよ。見てあの資料の山」
「Tは矯正可能だと思うかい?」
「矯正? そんなこと、本人に訊いてみないとわかるはずがないじゃない。教授みたいに、その時の口調だとか、態度診ないと
「診れば、解るかい?」
 巳一郎の視線がいつになく鋭くなっている。
 今日の講演をわざわざ東京から聞きに来た、巳一郎の本音がようやく垣間見えたと玲奈はとっさに身構えた。
「あたしに何をさせるつもり?」
 その時、緞帳の陰からやせた一人の男が飛び出してきて、あわてて壇上のマイクをつかんだ。
「どうも――松井精神医療センターの田中と申します。教授はだいぶお疲れのご様子で、やや微熱もあるようですので、ここから先は変わって私がご報告させていただきます。
 私は今回、教授の指示のもとTの心理テストを担当しました。なお、Tをセンターに短期間移送して行われたいくつかの身体的検査、つまり脳波検査、染色体検査等において、精神に関係すると思われる異常は発見されませんでした。
 TのIQは64で,通常ですと知的障害に入りますが、数十のハトの名を今でも暗記しているなど、対象により記憶に大幅なばらつきが見られます。ロールャッハテストでは、内向性のほか自己中心的な思考を示唆する所見が見られ、これは統合失調症によくみられる所見です。自己の世界に閉じこもり、現実から遊離する傾向が強く、猜疑的傾向がうかがわれることから意志欠如性並びに情意欠如性精神病質が疑われます。
 以下は拘置所とセンターにおける問診から、大谷教授が導いた診断と考察であります。
【東京の拘置所での問診では、Tには疎通性があり、事件当日に見られたような滅裂思考も治まり思考力に問題はないものの、分裂気質者に特有の拘禁反応が見られた。また刑務官でない、第三者が常に見ているといった注察妄想が見られる。Tは父親が出奔、母親に育児能力がなく両親に変わるべき養育者のいないままに生育し、文化的出自が他の収容者たちとかけ離れていたため、必要以上に彼らと距離を置くことに細心の努力を払っていたと思われる。Tの性格のゆがみは思春期以降と推察されるものの、幼少年期を通して極めて不安定な家庭生活を余儀なくされ、人格の脆弱化が進行していた。さらにそうした対人関係の非融通性はその後の伯母による疑似監禁、虐待によって顕著になった。叔母の家ではほとんどお互いに会話もなく、反目、無視の状態が続き、伯母より『この子が自殺した姉さんのような女だったらよかった』などと否定的発言を浴び、人間的交流のない状態に陥っていた。また犯行の三週間前から常にだれかに見張られている、といった意識性が生じ、(被害にあった)『少年を殺せ』などの内容の指令が宇宙局から毎晩寄せられる、等の言語性幻聴があり、同時に被害妄想が顕著になった。
 Tは親や、友人に恵まれないままに人となったもので、唯一良好な関係を築くことのできた姉が自殺し、喪失感に襲われ、また失業による将来に対する不安を抱いていた。つまり性格、病気、環境などの複数の要因が輻輳して今回の犯行に至ったものと思われる。以上】
 主文です。
【Tは犯行時、理非善悪を弁識する能力に問題があり、さらに被害念慮が拡大して妄想にまで発達し、言語性幻聴を帯びるなど、統合失調症における作為体験に侵され、本件犯行に至ったとみて、心理学的矛盾はないものと思われる。以上】
   「以上です。ええ、これは私の診察ですがTには自傷並びに自殺企図の疑いがあります。
 本日はどうも、院長が急の体調不良に陥りまして、私からもお詫び申し上げます。ええ――以上が大谷教授の鑑定結果です。本日はご清聴ありがとうございました」
 院長の代理を務めた医師があいさつし、資料を小脇に抱え立ち去ろうとした時、
「あの、ちょっと待ってください」会場から声がかかった。
「はい」壇上のやせた眼鏡をかけた男の顔がこわばっている。
「群馬日報の神林です。後で質問の機会をいただけるということだったんですが、大谷教授がおられないのであなたにお伺いします。・・・ええと、Tのですね、鑑定内容は解りましたが、当日周辺で起こった六件の交通事故について、教授のご見解を伺いたいんですが。私、今日はそのために出張ってきたんで」
 場内のそこここから咳払いが起こった。「院長の体調が悪いと言ってるんだ。君、遠慮したらどうかね」そんな声が会場に挙がった。
「いや。是非お願いします。教授まだおられるんでしたら一言でもお願いしたいんですがね。あなたが代弁するのでも構わないから」
 舌打ち、咳払いがそこここでする。
「そうなんだよな。そこなんだよな、やっぱり」巳一郎がつぶやく。
「ちょっと、失礼いたします」そう言って壇上にいた医師は舞台裏に下がった。しばらくすると何枚かの紙片を手にして、片手で乱れた髪をかき上げながら再び彼がマイクに向かった。
「ええ…うちの院長が検察からの委嘱で、当日小学校周辺で事故を起こした六名の運転手さんの外科、もしくは心療内科のカルテを検討し、Tの事件との関連性について調査していたのは事実です。
 それは私も把握していますが、現地の、つまり実際に彼らを診察した精神科の先生たちとその後カルテを収集し、こちらの学会の会員の先生たちとも協議しました結果、いまだ意見がいくつかに分かれております。申し上げにくいんですが、その際の協議の詳細は来月の学会の機関誌に発表すると、院長も申しております。ですので今日のところは――」
「じゃあその、意見が分かれたと、結論が出ていないと。それはそれでいいですから、大谷教授ご自身の考えをここで聞かせていただけませんか」
「君よしなさい」「帰れ」といったヤジが場内に飛ぶ。田中と名乗った医師は再度壇上を後にすると、すぐにまた髪を乱して新たな紙片を手にして現れた。
「ええ…これはあくまでも教授の推察の段階でありますが」
 小さくうなずきながら、記者がレコーダーを差し向ける。
「事故は実は、小学校の裏手の路地でも起きておりました。計八件発生しています。病院に搬送されたのが六名で、うち五名に精神科での既往歴がありました。病名は反応性鬱二名、統合失調症三名、てんかん一名です。つまりTを中心にして、七名の精神病患者が起こしたもので、重度の統合失調症であるTのヒステリーが周囲に伝播し、集団パニックを引き起こしたものと思われます」
「周囲に伝播?――どうもその、素人には理解できにくいんですが、その集団パニックという事例は、過去にもあったんですか?」
「はあ。十年ほど前に福岡県の私立高校で同様の事件が起きています。生徒の一人が奇声を上げたのをきっかけにして、一年生から三年生まで、二十六人の生徒が昏倒したり、気分が悪いと訴えたりしています。これも一人の精神症状がほぼ同時に連鎖したもので、心理学的には無意識の同調現象であると説明されました。
 こうしたことは、思春期の若い女性や子供にしばしばみられることでして、事件のあった私立高校も女子高ではなかったかと思います。つまりもともと人間には、シンパシーが備わっているので、女性や子供はその能力が特に強い。思い込みの連鎖で症状を共有してしまうのです。不安や強迫観念により集団が各々の脳の処理能力を超えてしまったときに発生するものと思われます。
 今回事故を起こした神経症の患者さんもまた、そうした心因反応を起こしやすい部類の人たちであったと推察されます。
 大谷教授ご自身は、WHOの国際診断基準であります感応性妄想性障害というカテゴリーをあげておられます」
「感応性…障害」
「ええ。複数の人間が――これは一つのまとまった群れとして解釈されるのですが――つまり一つの群れが、同じ妄想、幻聴などの異常体験を共有する状態をいいます」
「先生方の意見が分かれたというのはどういった点で?」
 医師はちらと舞台裾を覗き見ると、間をおいてからやや声の調子を落として続けた。
「感応の場合、群れの中で最初に精神症状を現したものが発端者、その影響を受けて症状を呈した人々を被感応者としています。
 Tが発端者であるとする教授の意見のほか、事件当日は二十数名の子供たちが校庭で遊んでいました。Tの出現にやはりパニック状態のまま狭い校門から多くの児童が退避しているのです。そうした異常な事態を目の当たりにして、車中の六人が感応し、集団妄想に陥った、という見方があるのです」
「それでその、六人が感応した、共有した妄想というのは?」
「ここに、その六人が見たという、妄想を絵にしてもらった際のコピーがあります。各病院で担当した医師によって、彩色が施されていないものもありますが、驚いたことに図柄が大変酷似しています。また当日校庭にしゃがみこんで動けなくなった児童には、今も心理療法士によるカウンセリングが続けられていますが、その際、子供が訴えた絵とも見比べてみてください。むろん事故を起こした運転手同士は面識がなく、子供たちとも会ったことはありません。総数十一枚です」
 スクリーンに上下二段に分かれてコマ割りの絵柄が映し出されると、会場から「おおっ」という驚嘆のどよめきが沸き起こった。
 診察室で医師に促されて描いたものは黒いペンで輪郭を描いたものにすぎないが、どれもが、四肢を精一杯に開脚して舞っている、一匹のウサギを描いたものだった。情調は怪奇画に近く、体毛が抜けて皮膚や骨のあらわになったものや、胴体の下部が大胆に裂けて、緑色の肝臓に赤い胃、盲腸、小腸といった内臓を噴出している絵もあった。顔に苦悶の深いしわを寄せているもの、醜く上下の歯をむき出して充血した目をむく顔形のウサギの絵もある。
 それらは野山をはね歩く、普通に人々が思い描く温厚なウサギのイメージとは到底かけ離れたものだった。どれもが拷問、犠牲、苦役、苦痛を彷彿とさせた。
 記者は取材も忘れ、呆然とスクリーンに見入ったまま言葉を失っているようだった。
「…感応の発端者が誰であったか、あるいはそうした集団妄想を起こさせる、心理的力動の端緒をどこにおくか、意見の分かれるところではありますが、一連の事故が感応性障害によるものであることは医師たちの間で一致しております。これほど妄想が酷似している集団パニックは特異なケースでありまして、正直我々も驚きましたが、大変に興味深い現象、またまれな事例でありまして、協議会ではこれを『ラビット・フライ症候群』と呼称しました。いつの日か、精神医学、神経科学、心理学等の各分野で、御専門の先生方においては研究、解明されることを切に期待するものであります。大谷教授と私から申し上げられることはこれだけです。よろしいでしょうか? …では本日はご清聴ありがとうございました」
 そういって医師は深々と頭を下げると、プロジェクターのスイッチを切り、資料をまとめ、記者の方は一顧だにせず足早に壇上を後にした。
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