ラビットフライ

皇海翔

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光石ほのか

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 タカユキからのメールがほのかに届いたのは三か月ぶりのことだった。ほのかは泉緑道のベンチでその簡略な離別の内容をかみしめた。何の感懐もわいてこなかった。三か月ぶりにしては一方的に過ぎる、メールの一文字一文字に見入ったまま、体が硬直し、ものを考えることができなかった。がっくりと肩を落としたまま、一体タカユキに何が起こったのか、懸命に文字から探り出そうとしていた。同時に、終わった…すべてのことが終わってしまったと、衝撃とともに静かに受け入れ、絶望の淵から奈落を覗いた。
<FROM高行>
[長い間連絡しなくってごめん。仕事が猛烈に忙しかったうえ、その仕事で僕は大失態をやらかした。ニューロテック社での僕の部署はプログラマーだったが、僕なぞはいてもいなくても同然の、窓際族と変わらない存在意義のない立場になった。絶望したんだよ。日々の生活に張りをなくし、すべてのことから絶縁された僕は、この際死を考えた。日暮里の陸橋から飛び降りたんだ。君のことを考えなかったわけじゃない。悲しむだろうとは思ったさ。しかしね、男はやはり仕事なんだ。仕事で結果を出すことこそが男の生きる目標なんだ。その資格を失った僕はこうするよりほか仕様がなかったんだ。しかしその最低限の、死ぬことにすら僕は失敗した。残された体は重体で、手足はおろか首の向き一つ一人では変えられない、哀れな重症患者になってしまった。このメールは眼球の動き一つに対応できるパソコンを操作して入力している。下の処理も垂れ流しだ。君にはこの現実を冷静に受け止めてほしい。ぼくは男として、それ以前に人間として、もう自由に動き回ることはできなくなった。つまり人として、僕は君を幸せにすることがもうできない。君は若い。だれか素敵な包容力のある男を見つけて、新たな新生を築いていってほしい。ぼくはただ、君と過ごしたいくつかの思い出を宝にして、胸中に封印するつもりだ。つまり君の選んだ男は脱落者だったんだよ。どうか僕のことはもう忘れてしまってほしい・・・。君の今後の活躍と素晴らしい未来を祈念する。今日までいろいろとありがとう。君と穂高で出会えたことは本当に僕にとっては幸運だった。ありがとう、そしてさようなら]
 ほのかはすぐにメールを返信した。体がどれほど重症であろうとも、タカユキはタカユキのままで変わらない。これまで通りに連絡を取り合ってほしい、見舞いに行きたいので病院の場所を教えてほしい、私には新しい男性なんて考えられない、これからも二人前を見つめて一緒に歩んでいきたい・・・。
 それに対するタカユキからの返信はなかった。家へ帰ると泥酔した母がほのかに長時間、罵詈雑言を浴びせかけた。そして明日になればまた、職場で根岸の執拗な嫌がらせに耐えねばならない。職場と自宅の往復は地獄を行くのと変わりがなかった。ほのかの精神をかろうじて正常においてくれたのがタカユキの存在だったのだ。ほのかの精神は崩落しようとしていた。タカユキのいう新生などありえなかった。
(限界だ。あたしだって限界だ。何もかもにうんざりしている)
 ほのかは三日間、思案に思案を重ねた。職場のメンタルヘルスケアの医師、高見沢玲奈のことを思い出したのだ。玲奈に相談したら彼女は何と言うだろう。しかし彼女は会社の嘱託医であって、人生相談が仕事ではない。希死念慮のあるほのかを一応は診察するはずもないし、鬱など適当な病名をカルテに記し、向精神薬を処方するのが関の山だろう。逆に自分の災厄を医師の前で告白するのは苦痛だった。
 四日後、ほのかの勤めている冷凍食品会社、アクアフーズで大事件が勃発した。その頃ほのかの属していた冷凍餃子のラインから、出荷された商品に異物混入が発覚したのだ。混入していたのは何とかいう農薬の一種だということで、テレビや新聞で大々的に報道された。ほのから冷凍餃子の工員たちは連日、長時間にわたる警察の取り調べを受けなければならなくなった。ほのかは警察官の話を聞きながら、ほかの工員一人一人のふだんの働きぶりや性格などを事細かに尋ねられた。その際ほのかは、ロッカーに物をぎゅう詰めにしている工員や、コロッケと会話していた男、ラインが停止すると叫声を挙げてほのかを攻撃してくる根岸の異常な行動などを警官に告げた。その後当たり前のようにラインは停止し、警察の徹底した調査が始まり、敷地内は報道陣であふれ、ほかの部署もラインが停止し、わずかの間に会社全体が閉鎖に追いやられた。ほのかは収入の道すら失ってしまった。
 緑道のベンチで一人ぽつねんと途方に暮れていたほのかはこれですべてを失ったと覚悟した。平和な家庭を持てず、職を失い、そして恋人からも離縁された。じっと地面を見つめていた彼女はククッと首を天に向けると「アハハハハッ」と高笑いし、極上だ、極上だと心の中で雄たけびを上げた。これ以上に愉快なことはない、これ以上、不幸な人って世の中にいるだろうか。いない。あたしだけだ。
 ふっと緑道の奥を注視すると、もう迷いはなかった。これ以上の孤独、これ以上の不幸はもううんざりだった。ゆっくりと腰を上げると暗い目をして緑道を南に歩いていく。この街に荒川が流れていることこそが、私にとって唯一幸せなことだった。そうしてふと、タカユキと同じ身空になったら、タカユキの気も変わるのではないかという希望の灯りが脳裏をかすめた。実行に移す時期だった。河原に出ると、びっしり生い茂った葦の中に細々とした径が川に向けてつけられてあった。靴と携帯を岸辺に置き、委細構わずジャブジャブと川の中流に向けて歩いて行った。昨日の雨のせいか水量がいつもより増水している。腰の高さまで流れに没すると胸までいかないうちにほのかは水勢に押されて倒れ伏した。死ぬなら死ぬでそれでよかった。うまく重体で済んだなら、もう一度タカユキに連絡してみるつもりだった。彼女は水底をしばらく漂うと、反転し、やがて頭部に鋭い衝撃が、ゴッと鳴った。水底の大岩に頭が直撃したのだった。
(なんだ死ぬのか――それならそれでいいわ)
 それがほのかの最後の意識だった。
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