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バーチャル会議
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脳神経科学者、速水巳一郎と精神科医師、高見沢玲奈が産官民連携による新プロジェクトに招聘されたのは2035年十月のことだった。プロジェクトはALS患者、脊髄損傷による重症患者、脳卒中患者、精神病患者などにBMI――ブレインマシンインターフェイスを脳内に埋め込んだ被験者たちと、拡張現実ARを直結、さらにAIで修正した映像を被験者に送信し、団体生活を一年にわたり体験してもらうという内容だった。
(ついにこの日が来たか…)と巳一郎は思った。科学技術は飛躍的に進化している。こういったプロジェクトが実現するのは時間の問題だった。
(これで石川も救われるだろう…)
プロジェクトに招聘されたとき、真っ先に思い浮かんだのは大学時代の後輩、自殺未遂をした石川高行のことだった。巳一郎は被験者の参加メンバーに高行を推薦するつもりでいた。ARを担当するARリコールジャパン株式会社から、プロジェクトを開始するにあたり、関係者たちを一堂に集め、各々の立場から意見交換をするためにシンポジウムを開くため、またAR社の完成品を体験するために、社に呼び出されたのはプロジェクトが始動するひと月前のことだった。
(とうとうこの日が来たのね…)玲奈もまた感慨深い心境だった。そして巳一郎同様に、玲奈もまた自殺未遂した元患者、光石ほのかのことが頭に浮かんだ。AR社を訪れるとさっそく社長の道葉に紹介され、実験室に通された。そこは水深三メーター、二十五メートルのプールになっており、会議の一時間前に呼ばれた二人は研究所員からさっそく試着するボディスーツを手渡された。頭部には宇宙飛行士が装備する大きさのヘッドマウンテンギアが搭載され、耳にはオーディオインターフェイス、肩にTAG受信機、腰部にウェアラブルPC、そして手にはHAPTICINTERFACEがつけられている。
「時間ですので開始します」
研究員の声がかかるとプールサイドから大量のぬるま湯が噴出してきた。正確に言うとこれは水ではなく、二人を無重力状態にするための特殊な液体だった。数分間も浮かんでいると、やがて各々の脳に幻覚が出現した。
「ひっ」玲奈がたまらずに悲鳴を上げた。
「幻覚だ…。無重力状態に置かれると、人は誰でも幻覚を見るのさ…」
「では映像を配信します」
「いよいよか・・・」
「いったいどこかしら」
世界に光が横溢した。まぎれもない、巳一郎がかつて学生時代に幾度も訪れた穂高への玄関口だ。
「なに。どこなのここ」
「上高地の明神だよ」
「あっ、大谷教授。先生も今日の会議にご参加を?」
「そうだが、君らは?」
「以前、札幌のコンベンションセンターで先生の講演を拝聴しました、私は東京大の神経学者、速水と申します。彼女は精神科の高見沢さん」
「ああ、君らがそうかね。プロジェクトのスタッフに選ばれていたね。リストにのっとる」
「ええ…今回は先生も?」
「うん…私も一人、被験者を推薦しとるからね」
「先生も…。で、犯罪心理学がご専門の先生が推してる人というのは?」
「Tだよ」
「・・・T!」玲奈は思わずため息を漏らした。
『先生…Tはいま保護観察中じゃ? 彼を参加させるのはどうも納得いきませんが。その、何というか、犯罪者をプロジェクトに参加させるのはまずいのでは?」
「そういう声もある。しかしね、もし今回のプロジェクトで彼が更生できるとしたら、今後の受刑者たちのためにも、格好の見本になるものと私は考える。まあそのために今日は招かれているんだしね」
「なるほど」
「あたしはそれはどうかと思うわ。何かいやなことが起こりそうな気がする」
「杞憂だよ。まあ見ていたまえ」
「ちょっと待って…」巳一郎はそう言うと、梓川の岸辺に降りていった。
「ちょっと、このARというもの…これほんとに現実なのかな」岸辺の水に片腕を入れてみた。
「冷たい! それに水圧も感じる」
「そうだろうね。こいつの開発には数億かかかっとるというからね。わしは本当は山登りは苦手なんだが」
「いや先生。本格的な山登りは横尾から始まります。徳沢にはじきに着きますよ」
「そう願うよ。何しろ今日の会議には厚生大臣も出席すると言っとるようだから」
「高市さんが! ということはこのプロジェクトの推進はすでに始まっているとみていいな」
「反対見解を述べる者はいないだろう…。いるとしたら法律が専門の山谷教授くらいだろうな」
「ほう。どういった反対内容なのでしょうか」
「AIだよ。彼はAIの導入には反対なんだ。今日おっしゃられると思うがね」
「AIのどこがいけないのでしょう? AIがなければこのプロジェクトは成立しませんよ?」
「ああ。しかしね、彼は立場上反対してもプロジェクトには参加するだろう。何しろこのシステムのセキュリティリーダーを任されているからね」
「なるほど。それに報酬もいいですからね。うちの大学の十倍ですよ。だれだって参加する、断る人なんていませんよ」
「この際金はともかくとして、今回のプロジェクトには国の威信がかかっとるんだ。それに全国あまたの重症患者を救う奇跡のプロジェクトでもある。わしはね・・・死に瀕した人、彼らに永遠の命をこのプロジェクトは提供するとみている」
「ぼくは永遠の命はいらないな…百年も生きられたら満足ですよ」
「君はまだ若いからそう思うんで、実際百歳になっ二百歳までと考えるに違いないよ」
「先生、徳沢が見えてきましたよ・・・」
徳沢園の前に拡がる白樺林に、白いクロスをかけた長大なテーブルが置かれており、高市大臣以下二十名ほどの人々が一斉にこちらを見た。
「あ、綾瀬はるか!」
「芸能人の? 名札には国立研究開発法人科学技術開発機構所長と書いてある。今回のプロジェクトの会長だよ。会長は女性だったのか…」
「どう見たって十六くらいに見えるわ。きったない・・・会長だったら何でもありなの」
「・・・お待ちしていましたよ。林道歩きはいかがでしたか。明神岳をご覧になりましたか。見事なものでしょう、ご希望なら登攀もできますよ。ではお座りになって…本日は皆さんシンポジウムにお集まりいただき、また窮屈なボディスーツまでお付けいただき、ご参加ありがとうございます。司会のARリコール社の道葉でございます。君…では例のものを」
山荘前で待機していた白服の給仕が恭しく頭を下げると、銀の大皿を片手にした三人の給仕たちが料理を続々とテーブルに並べだした。「ほうっ」と賛嘆する声がテーブルに起こる。
「会議に料理はいかがなものかとも考えたのですが、このARを製作するにあたって最も苦労と費用をかけましたのが、嗅覚と味覚の開発でした。ですので今日の機会にぜひ、皆さんにご賞味いただきたいと思いまして…北海道産の毛ガニです。ご感想をいただければ幸いです。さあ、どうぞご遠慮なく」
言われる前から玲奈は毛が二の足を数本もわしづかみにしていた。玲奈はカニに目がない。この世の料理の最高クラスだと認識している。丁寧に身をほじくりだすと蟹酢に浸して一気に口に放り込んだ。
「ジューシーだわ。うまい…うまいっ! ああこれ、最高級ランクだわっ、こんなうまい毛ガニがARで食べれるなんて…んっ?」
「どうした」巳一郎が訊ねた。
「おいしいんだけど、うん。味は申し分ないんだけど満足感というか…お腹にたまった感じがしない。むしろ逆にお腹が鳴ってる」
「あははははっ。我々が食しているのはあくまでもARの中でのことだということをお忘れなく」道葉はそう言って微笑した。
「意味ないじゃん。そうか被験者はプールで栄養補給されてるんだもんね。ここで満腹感は得られないか」
「では、お食事がすみましたところでさっそく会議を始めたいと思います。大臣、お願いします」
「初めまして。厚生省の高市です。素晴らしい…景観ですね。私もこれほどの完成度の高さとは思いもしていませんでした。ARリコール社には素晴らしい会場をご用意いただき、恐縮です。何よりこの技術をついにプロジェクトまで持ってこさせた各界関係者の方々に敬意を表します。
昨年四月に日本で開催された『G7情報通信会合』において、私から『AI開発原則』を提唱し、各国から国際的な議論を進めることについて賛同を得ました。その後、総務省では、『AI開発原則』を具体化した『AI開発ガイドライン』の策定に向けた検討や、AIネットワーク化が社会や経済にもたらす影響や、リスクについて検討を進めています。
国際シンポジウムにおける議論の成果は、G7やG20、OECDなどの場での議論にしっかりと反映させていただき、広く国際社会に受け入れていただける『AI開発ガイドライン、並びに今回のプロジェクトAI、AR、BMI双方向ニューラルネットワーク』の策定に向けて検討を進めてまいります。イノベーションを阻害するような規制ではなく、世界中で素晴らしい技術を安心して活用できる環境づくりにおいて、日本がリーダーシップを発揮して貢献したいという強い決意を持って取り組んでまいる所存でおります」
「お言葉ですが…」慶応大法学部の山谷教授が声を上げた。
「個人の人格や能力をAIにより確率的に判断し、様々な可能性を事前に否定することは個人の尊重原理と著しく矛盾します。最先端の情報技術を使って、我々を固定的で予定調和的な『前近代的』世界へと引き戻すようなものです。BMIを使用するための脳外科手術やBMIの長期的使用のあとで、予期せぬ副作用として使用者の人格が大幅に変化してしまうかもしれません。これが倫理的問題であるのはひとえに、そうした人格の変化が当人に対する深刻な危害だと考えられます。いうまでもなくこの問題は、ある人物が他ならぬその人物であり続けること、つまり『人格の同一性――personal idenyity』の基準と密接にかかわっています」
「いや――脳神経科学の速水です。記憶説に立脚すると、BMIと人格をめぐる議論は次のようになるでしょう…すなわち、BMIの使用が許されるのは、それを通じてなおも記憶を含む心理状態や心理機能がそれ以前と同じように保持される場合に限られます。その場合には、BMIの使用によって人格の侵害は生じないからです。その意味では、たとえ脳そのものが大規模に改変されることになっても、記憶説で規定される人格の同一性が維持されるのであれば、少なくとも人格の変化という点に限り、脳への介入は倫理的な問題とはならないというわけです。BMIは脳に直接入出力します。脳の中から情報を取り出して、それをAIで加工して何らかの形として脳に戻すという意味では、広くとらえると電気的な新たな神経回路を作っています。脳が変わることは必然といっていいでしょう」
「なるほど・・・」
「山谷さん・・・」道葉が声をかけた。
「速水さんのような臨床医は患者さんの役に立つこと、我々のような技術者は革新的な誰も考えたことのない技術開発、神経学者は脳機能の理解に興味があります。何が大事かという価値観がそれぞれ違うんですね・・・革新技術といっても、臨床や科学に役に立たなければ意味がありません。BMI開発には配分や融合が不可欠なんです」
「そうですね・・・」高市大臣が語りだした。
「厚労省はAR社をはじめとする企業が開発する人工知能、AIに公的認証を与える制度を立ち上げる方針です。安全性やセキュリティなどを評価しています。『認証済み』を使う企業や個人で事故が起きた場合の責任の範囲を抑えて利用しやすくする計画です。AIは急速に進歩していますが暴走して人間に危害を与える恐れがあり,認証制度を通じて安全性を高めて開発、普及を促していきます」
「しかし・・・」山谷教授が反論した。
「BMIを使用することで何らかの事故が生じたとします。では事故を引き起こし、その法的な責任を負って、刑罰を科されるべきはここにいるどなたになるのでしょうか。そもそもそれは誰かがなした行為の帰結と責任といった基礎的概念は機能不全に陥り、それらに基づく社会制度に混乱がもたらされるかもしれないのです」シン、と静まった座ののちに、
「ところで・・・」AR社の道葉が顔をほころばせて質問した。
「事務次官、今回のプロジェクトが成功し、このシステムが全世界に解放された場合、日本にはどれほどの収益が見込まれるのでしょうか?」
「お答えします。我々の調査によりますと、ゴールドマンサックス証券によれば2035年のVRとARの市場規模はハードウエアとソフトウエアを合わせて最大1800億ドルを超える見込みです。また台湾の調査会社トレンドフォースによると35年のVR市場は74億円余りですが40年には7兆7千億円、45年には13兆円に達する見込みです」
「素敵・・・」玲奈がうっとりとして呟いた。道葉は破顔し、テーブルにどよめきが起こった。
「驚いたな…国家が買える」巳一郎は感嘆し、隣の山谷教授は露骨に苦い顔をした。
「ええ…では倫理的側面の議論は出そろったようですし、責任の所在は経産省が保証してくださる、さらに莫大な収益を得られるとのことですので費用の問題もありません。このプロジェクトを、推進していくということで、皆さん異議はございませんか?」
「異議なしっ」山谷教授以外の全員が挙手した。
「決定しました。さて今回被験者たちが入所する、埼玉県和光市に建設されました国立最先端脳科学センターの施設について、その設備をご説明します。センター長」
「ご説明します。施設は病院と併設されておりまして、まず病院ですが、一階には外来化学療法室、がん診療センター、心大血管疾患リハビリテーション室、栄養相談室、臨床研究総合センター、ワクチン療法研究施設が設置され、地下一階は病院管理フロア、地下二階はMRI放射線検査受付、生殖医療外来、輸血部・・・」
「君、医局はいい、医局は。被験者たちが入所する施設の説明を頼むよ」
「はっ・・・ええ、被験者たちが入所するのは二階から六階まで。十コースの五十メートルプールになりまして、概略はいまわれわれが装着しておりますウェアラブルボディスーツ、これにBMI、それに理化学研究所から送られてまいります、スーパーコンピュータ『富嶽』から送られる患者の脳内映像にAIで調整した信号が接合し、さらにARリコール社の映像、この三本のケーブルがHMGに送られて、プールには定期的に一波70圧ほどの波が一日八時間流出し、患者の身体を運動させます。さらにスーツには、重症患者の身体を回復させる医療的措置が施され、プロジェクトの期間中、常時栄養が与えられます。このプールが計五階分ありますから、総数2500名の収容が可能になります。将来的にはプロジェクト終了後、一般患者を入所させた場合、月に80万ほどの医療費が課されますので、施設の売り上げは2000万ほどになります」
「ありがとう。皆さん本日はお疲れさまでした。ほかにご提案がなければ、そろそろ閉会させていただきます」
「ちょっと、待ってくれ」山谷教授が手を挙げた。
「AIと接合しているという話だが、いったんAIによって不適合の烙印を押された者は、『確立という名の牢獄――バーチャルスラム』と表現される見えない塀の中で一生過ごさざるを得なくなるかもしれないじゃないか」
「何をばかなことを・・・」道葉が吐き捨てるようにつぶやくと、巳一郎が反駁した。
「その議論はもう尽くされていますよ、山谷教授。あなた以外、さっき全員が賛同したばかりじゃないですか。いいですか、この世から重症患者がいなくなるんですよ。つまり人類がコンピュータに身も心も、というより脳をゆだねることにより、その精神支配と引き換えに、孤独や絶望、煩悩から解放された理想郷的精神世界が約束されているんです」
「彼の言うとおりだ。教授、これ以上会議を長引かせるのはやめてください。皆さんこの後、ご予定がびっしりおありなんです。いいですか、決議はすでになされたんです。あなただって、今回のプロジェクトの施設セキュリティ所長を承諾しているじゃありませんか。たわごとはその辺にしておいてもらいたい。これ以上反論なさるというなら、所長職をご辞退されたらいかがですか.もっともあなたがどれほど反対しようと、プロジェクトはすでに始動しているんです。そうですね、会長」
「そのとおりよ・・・教授」綾瀬はるかの容姿をした会長が静かにほほ笑んだ。そして言った。
「皆さん、思わぬ横やりが入りまして、いたずらに時間を浪費しましたことを私から謝罪いたします。なおですね、今回被験者たちが集められます山小屋、涸沢小屋のARはすでに完成しております。会議後、山のお好きな方は小屋に宿泊できますのでどうぞお立ち寄りください。そうですね、奥村社長」
「ああ。おらもこの後下準備のため登るつもりでいるづら。奥穂にももちろん登れるよ」
「今日はこれにて閉会します」
「ああっ、お腹減った…」玲奈が両腕を上げて伸びをした。「あの毛ガニ、つまり絵に描いた餅ってことでしょ?」
どっと会場に笑いが起こった。
(ついにこの日が来たか…)と巳一郎は思った。科学技術は飛躍的に進化している。こういったプロジェクトが実現するのは時間の問題だった。
(これで石川も救われるだろう…)
プロジェクトに招聘されたとき、真っ先に思い浮かんだのは大学時代の後輩、自殺未遂をした石川高行のことだった。巳一郎は被験者の参加メンバーに高行を推薦するつもりでいた。ARを担当するARリコールジャパン株式会社から、プロジェクトを開始するにあたり、関係者たちを一堂に集め、各々の立場から意見交換をするためにシンポジウムを開くため、またAR社の完成品を体験するために、社に呼び出されたのはプロジェクトが始動するひと月前のことだった。
(とうとうこの日が来たのね…)玲奈もまた感慨深い心境だった。そして巳一郎同様に、玲奈もまた自殺未遂した元患者、光石ほのかのことが頭に浮かんだ。AR社を訪れるとさっそく社長の道葉に紹介され、実験室に通された。そこは水深三メーター、二十五メートルのプールになっており、会議の一時間前に呼ばれた二人は研究所員からさっそく試着するボディスーツを手渡された。頭部には宇宙飛行士が装備する大きさのヘッドマウンテンギアが搭載され、耳にはオーディオインターフェイス、肩にTAG受信機、腰部にウェアラブルPC、そして手にはHAPTICINTERFACEがつけられている。
「時間ですので開始します」
研究員の声がかかるとプールサイドから大量のぬるま湯が噴出してきた。正確に言うとこれは水ではなく、二人を無重力状態にするための特殊な液体だった。数分間も浮かんでいると、やがて各々の脳に幻覚が出現した。
「ひっ」玲奈がたまらずに悲鳴を上げた。
「幻覚だ…。無重力状態に置かれると、人は誰でも幻覚を見るのさ…」
「では映像を配信します」
「いよいよか・・・」
「いったいどこかしら」
世界に光が横溢した。まぎれもない、巳一郎がかつて学生時代に幾度も訪れた穂高への玄関口だ。
「なに。どこなのここ」
「上高地の明神だよ」
「あっ、大谷教授。先生も今日の会議にご参加を?」
「そうだが、君らは?」
「以前、札幌のコンベンションセンターで先生の講演を拝聴しました、私は東京大の神経学者、速水と申します。彼女は精神科の高見沢さん」
「ああ、君らがそうかね。プロジェクトのスタッフに選ばれていたね。リストにのっとる」
「ええ…今回は先生も?」
「うん…私も一人、被験者を推薦しとるからね」
「先生も…。で、犯罪心理学がご専門の先生が推してる人というのは?」
「Tだよ」
「・・・T!」玲奈は思わずため息を漏らした。
『先生…Tはいま保護観察中じゃ? 彼を参加させるのはどうも納得いきませんが。その、何というか、犯罪者をプロジェクトに参加させるのはまずいのでは?」
「そういう声もある。しかしね、もし今回のプロジェクトで彼が更生できるとしたら、今後の受刑者たちのためにも、格好の見本になるものと私は考える。まあそのために今日は招かれているんだしね」
「なるほど」
「あたしはそれはどうかと思うわ。何かいやなことが起こりそうな気がする」
「杞憂だよ。まあ見ていたまえ」
「ちょっと待って…」巳一郎はそう言うと、梓川の岸辺に降りていった。
「ちょっと、このARというもの…これほんとに現実なのかな」岸辺の水に片腕を入れてみた。
「冷たい! それに水圧も感じる」
「そうだろうね。こいつの開発には数億かかかっとるというからね。わしは本当は山登りは苦手なんだが」
「いや先生。本格的な山登りは横尾から始まります。徳沢にはじきに着きますよ」
「そう願うよ。何しろ今日の会議には厚生大臣も出席すると言っとるようだから」
「高市さんが! ということはこのプロジェクトの推進はすでに始まっているとみていいな」
「反対見解を述べる者はいないだろう…。いるとしたら法律が専門の山谷教授くらいだろうな」
「ほう。どういった反対内容なのでしょうか」
「AIだよ。彼はAIの導入には反対なんだ。今日おっしゃられると思うがね」
「AIのどこがいけないのでしょう? AIがなければこのプロジェクトは成立しませんよ?」
「ああ。しかしね、彼は立場上反対してもプロジェクトには参加するだろう。何しろこのシステムのセキュリティリーダーを任されているからね」
「なるほど。それに報酬もいいですからね。うちの大学の十倍ですよ。だれだって参加する、断る人なんていませんよ」
「この際金はともかくとして、今回のプロジェクトには国の威信がかかっとるんだ。それに全国あまたの重症患者を救う奇跡のプロジェクトでもある。わしはね・・・死に瀕した人、彼らに永遠の命をこのプロジェクトは提供するとみている」
「ぼくは永遠の命はいらないな…百年も生きられたら満足ですよ」
「君はまだ若いからそう思うんで、実際百歳になっ二百歳までと考えるに違いないよ」
「先生、徳沢が見えてきましたよ・・・」
徳沢園の前に拡がる白樺林に、白いクロスをかけた長大なテーブルが置かれており、高市大臣以下二十名ほどの人々が一斉にこちらを見た。
「あ、綾瀬はるか!」
「芸能人の? 名札には国立研究開発法人科学技術開発機構所長と書いてある。今回のプロジェクトの会長だよ。会長は女性だったのか…」
「どう見たって十六くらいに見えるわ。きったない・・・会長だったら何でもありなの」
「・・・お待ちしていましたよ。林道歩きはいかがでしたか。明神岳をご覧になりましたか。見事なものでしょう、ご希望なら登攀もできますよ。ではお座りになって…本日は皆さんシンポジウムにお集まりいただき、また窮屈なボディスーツまでお付けいただき、ご参加ありがとうございます。司会のARリコール社の道葉でございます。君…では例のものを」
山荘前で待機していた白服の給仕が恭しく頭を下げると、銀の大皿を片手にした三人の給仕たちが料理を続々とテーブルに並べだした。「ほうっ」と賛嘆する声がテーブルに起こる。
「会議に料理はいかがなものかとも考えたのですが、このARを製作するにあたって最も苦労と費用をかけましたのが、嗅覚と味覚の開発でした。ですので今日の機会にぜひ、皆さんにご賞味いただきたいと思いまして…北海道産の毛ガニです。ご感想をいただければ幸いです。さあ、どうぞご遠慮なく」
言われる前から玲奈は毛が二の足を数本もわしづかみにしていた。玲奈はカニに目がない。この世の料理の最高クラスだと認識している。丁寧に身をほじくりだすと蟹酢に浸して一気に口に放り込んだ。
「ジューシーだわ。うまい…うまいっ! ああこれ、最高級ランクだわっ、こんなうまい毛ガニがARで食べれるなんて…んっ?」
「どうした」巳一郎が訊ねた。
「おいしいんだけど、うん。味は申し分ないんだけど満足感というか…お腹にたまった感じがしない。むしろ逆にお腹が鳴ってる」
「あははははっ。我々が食しているのはあくまでもARの中でのことだということをお忘れなく」道葉はそう言って微笑した。
「意味ないじゃん。そうか被験者はプールで栄養補給されてるんだもんね。ここで満腹感は得られないか」
「では、お食事がすみましたところでさっそく会議を始めたいと思います。大臣、お願いします」
「初めまして。厚生省の高市です。素晴らしい…景観ですね。私もこれほどの完成度の高さとは思いもしていませんでした。ARリコール社には素晴らしい会場をご用意いただき、恐縮です。何よりこの技術をついにプロジェクトまで持ってこさせた各界関係者の方々に敬意を表します。
昨年四月に日本で開催された『G7情報通信会合』において、私から『AI開発原則』を提唱し、各国から国際的な議論を進めることについて賛同を得ました。その後、総務省では、『AI開発原則』を具体化した『AI開発ガイドライン』の策定に向けた検討や、AIネットワーク化が社会や経済にもたらす影響や、リスクについて検討を進めています。
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「お言葉ですが…」慶応大法学部の山谷教授が声を上げた。
「個人の人格や能力をAIにより確率的に判断し、様々な可能性を事前に否定することは個人の尊重原理と著しく矛盾します。最先端の情報技術を使って、我々を固定的で予定調和的な『前近代的』世界へと引き戻すようなものです。BMIを使用するための脳外科手術やBMIの長期的使用のあとで、予期せぬ副作用として使用者の人格が大幅に変化してしまうかもしれません。これが倫理的問題であるのはひとえに、そうした人格の変化が当人に対する深刻な危害だと考えられます。いうまでもなくこの問題は、ある人物が他ならぬその人物であり続けること、つまり『人格の同一性――personal idenyity』の基準と密接にかかわっています」
「いや――脳神経科学の速水です。記憶説に立脚すると、BMIと人格をめぐる議論は次のようになるでしょう…すなわち、BMIの使用が許されるのは、それを通じてなおも記憶を含む心理状態や心理機能がそれ以前と同じように保持される場合に限られます。その場合には、BMIの使用によって人格の侵害は生じないからです。その意味では、たとえ脳そのものが大規模に改変されることになっても、記憶説で規定される人格の同一性が維持されるのであれば、少なくとも人格の変化という点に限り、脳への介入は倫理的な問題とはならないというわけです。BMIは脳に直接入出力します。脳の中から情報を取り出して、それをAIで加工して何らかの形として脳に戻すという意味では、広くとらえると電気的な新たな神経回路を作っています。脳が変わることは必然といっていいでしょう」
「なるほど・・・」
「山谷さん・・・」道葉が声をかけた。
「速水さんのような臨床医は患者さんの役に立つこと、我々のような技術者は革新的な誰も考えたことのない技術開発、神経学者は脳機能の理解に興味があります。何が大事かという価値観がそれぞれ違うんですね・・・革新技術といっても、臨床や科学に役に立たなければ意味がありません。BMI開発には配分や融合が不可欠なんです」
「そうですね・・・」高市大臣が語りだした。
「厚労省はAR社をはじめとする企業が開発する人工知能、AIに公的認証を与える制度を立ち上げる方針です。安全性やセキュリティなどを評価しています。『認証済み』を使う企業や個人で事故が起きた場合の責任の範囲を抑えて利用しやすくする計画です。AIは急速に進歩していますが暴走して人間に危害を与える恐れがあり,認証制度を通じて安全性を高めて開発、普及を促していきます」
「しかし・・・」山谷教授が反論した。
「BMIを使用することで何らかの事故が生じたとします。では事故を引き起こし、その法的な責任を負って、刑罰を科されるべきはここにいるどなたになるのでしょうか。そもそもそれは誰かがなした行為の帰結と責任といった基礎的概念は機能不全に陥り、それらに基づく社会制度に混乱がもたらされるかもしれないのです」シン、と静まった座ののちに、
「ところで・・・」AR社の道葉が顔をほころばせて質問した。
「事務次官、今回のプロジェクトが成功し、このシステムが全世界に解放された場合、日本にはどれほどの収益が見込まれるのでしょうか?」
「お答えします。我々の調査によりますと、ゴールドマンサックス証券によれば2035年のVRとARの市場規模はハードウエアとソフトウエアを合わせて最大1800億ドルを超える見込みです。また台湾の調査会社トレンドフォースによると35年のVR市場は74億円余りですが40年には7兆7千億円、45年には13兆円に達する見込みです」
「素敵・・・」玲奈がうっとりとして呟いた。道葉は破顔し、テーブルにどよめきが起こった。
「驚いたな…国家が買える」巳一郎は感嘆し、隣の山谷教授は露骨に苦い顔をした。
「ええ…では倫理的側面の議論は出そろったようですし、責任の所在は経産省が保証してくださる、さらに莫大な収益を得られるとのことですので費用の問題もありません。このプロジェクトを、推進していくということで、皆さん異議はございませんか?」
「異議なしっ」山谷教授以外の全員が挙手した。
「決定しました。さて今回被験者たちが入所する、埼玉県和光市に建設されました国立最先端脳科学センターの施設について、その設備をご説明します。センター長」
「ご説明します。施設は病院と併設されておりまして、まず病院ですが、一階には外来化学療法室、がん診療センター、心大血管疾患リハビリテーション室、栄養相談室、臨床研究総合センター、ワクチン療法研究施設が設置され、地下一階は病院管理フロア、地下二階はMRI放射線検査受付、生殖医療外来、輸血部・・・」
「君、医局はいい、医局は。被験者たちが入所する施設の説明を頼むよ」
「はっ・・・ええ、被験者たちが入所するのは二階から六階まで。十コースの五十メートルプールになりまして、概略はいまわれわれが装着しておりますウェアラブルボディスーツ、これにBMI、それに理化学研究所から送られてまいります、スーパーコンピュータ『富嶽』から送られる患者の脳内映像にAIで調整した信号が接合し、さらにARリコール社の映像、この三本のケーブルがHMGに送られて、プールには定期的に一波70圧ほどの波が一日八時間流出し、患者の身体を運動させます。さらにスーツには、重症患者の身体を回復させる医療的措置が施され、プロジェクトの期間中、常時栄養が与えられます。このプールが計五階分ありますから、総数2500名の収容が可能になります。将来的にはプロジェクト終了後、一般患者を入所させた場合、月に80万ほどの医療費が課されますので、施設の売り上げは2000万ほどになります」
「ありがとう。皆さん本日はお疲れさまでした。ほかにご提案がなければ、そろそろ閉会させていただきます」
「ちょっと、待ってくれ」山谷教授が手を挙げた。
「AIと接合しているという話だが、いったんAIによって不適合の烙印を押された者は、『確立という名の牢獄――バーチャルスラム』と表現される見えない塀の中で一生過ごさざるを得なくなるかもしれないじゃないか」
「何をばかなことを・・・」道葉が吐き捨てるようにつぶやくと、巳一郎が反駁した。
「その議論はもう尽くされていますよ、山谷教授。あなた以外、さっき全員が賛同したばかりじゃないですか。いいですか、この世から重症患者がいなくなるんですよ。つまり人類がコンピュータに身も心も、というより脳をゆだねることにより、その精神支配と引き換えに、孤独や絶望、煩悩から解放された理想郷的精神世界が約束されているんです」
「彼の言うとおりだ。教授、これ以上会議を長引かせるのはやめてください。皆さんこの後、ご予定がびっしりおありなんです。いいですか、決議はすでになされたんです。あなただって、今回のプロジェクトの施設セキュリティ所長を承諾しているじゃありませんか。たわごとはその辺にしておいてもらいたい。これ以上反論なさるというなら、所長職をご辞退されたらいかがですか.もっともあなたがどれほど反対しようと、プロジェクトはすでに始動しているんです。そうですね、会長」
「そのとおりよ・・・教授」綾瀬はるかの容姿をした会長が静かにほほ笑んだ。そして言った。
「皆さん、思わぬ横やりが入りまして、いたずらに時間を浪費しましたことを私から謝罪いたします。なおですね、今回被験者たちが集められます山小屋、涸沢小屋のARはすでに完成しております。会議後、山のお好きな方は小屋に宿泊できますのでどうぞお立ち寄りください。そうですね、奥村社長」
「ああ。おらもこの後下準備のため登るつもりでいるづら。奥穂にももちろん登れるよ」
「今日はこれにて閉会します」
「ああっ、お腹減った…」玲奈が両腕を上げて伸びをした。「あの毛ガニ、つまり絵に描いた餅ってことでしょ?」
どっと会場に笑いが起こった。
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