ラビットフライ

皇海翔

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涸沢小屋にて

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 ALS患者、脊髄損傷患者、脳卒中患者など五体を満足に動かすことのできない重症患者たちの被験者はプロジェクトに参加するまで誰もが長期間、病室の天井を見つめたまま一日の大半を過ごしていた。意志表示はアイコンタクトによるパソコンでしか他者と交流ができない苦しい日々だった。日本学術振興会から文書を受け取った時、プロジェクトの参加者として五名に一人のうちに選出されたことに誰もが驚嘆の色を浮かべた。まずはその内容が信じられなかった。科学技術が発展していることは認識していたものの、それに自分が選出されたということが驚きだった。自由に歩き回ることができる、新たな仲間との出会いがあって、仕事が与えられ健常者の暮らしができる――文書には確かにそう書かれている。それも実験なので費用は掛からない。ARの構築上、町では暮らすことができないが、アルプスのリゾート地で集団生活を行うと記されている。選出されたメンバーの一人、荒川中流域で奇跡的に救助され、病院に運び込まれた光石ほのかはやはり脳挫傷、半身まひの重症だった。
 被験者たちには研究の趣旨が十分に説明され、同意書を日本学術振興会に返信するよう記されている。将来を悲観していた被験者たちは一も二もなく同意書に署名した。社会の底辺を今日まではいつくばってきた、不幸に彩られた人生に降り注いだ、まさに天からの梯子の階段のように思われた。だれもが自分に、第二の人生が訪れるとは思いもしていなかったのである。
 被験者たちは入院している各病棟からストレッチャーで埼玉県和光市にある最先端脳科学センターへと搬送された。そこでもまた研究の趣旨が説明され、再度参加の同意書にアイコンタクトでサインした。
「皆さんがこれから参りますのは、北アルプスの中腹にあります、山小屋に行くことになります」
 職員にそう告げられて、一年間自分たちが入れられることになる病棟のプールと、装着するウェアラブルボディースーツ、それに定期的に流出される波により運動すること、またスーツには患部を治癒するために医療的施術が二十四時間、施されることなどの説明を受けた。被験者たちはさっそくスーツとHMGを装着し、二人の職員に抱えられて静かに無重力状態のプールに並ばされた。
「ええ――山小屋のですね、奥村社長のご意向で、皆さんがこれから向かう先は四月中旬の入山日、仕事を初日から体験していただきたいとのことですので、まだ山には残雪がたっぷり残っています・・・。それでは最終確認です。このプロジェクトに参加することに異議のある方はございませんね?   おられましたら挙手をお願いします。今からでも前の病院に戻ることはできますよ…現実に戻りたいという方」
「あの、一つ質問が。その、AR世界に行ったら、こちらの現実の家族とは連絡はとれるのでしょうか」
「小屋には無線電話がありますし、むろんパソコンも置かれています。リモートですが二十四時間、連絡を取ることはできますよ。ほかにご質問はありますか?   もっとも我々とはいつでも交信できますし、また同意書にもありましたようにプロジェクトから離脱したい、現実に戻りたいという方は、その旨をお伝えいただければ我々がいつでも対処します」
「寝たきりになるのはもううんざりだよ。さあ遠慮なく、その精神的理想郷とやらへ我々を転送してくれ…」
 AR操作室で被験者たちの様子をうかがっていた速水巳一郎は、隣にいるARリコール社の研究員に静かにうなずいた。「液体を注入します…満水になったのち、五分ほどそのままでいてください…やがて幻覚が見えてきます…」
「会長よろしいでしょうか」
 研究員がプロジェクトの最終確認を会長の道葉に求めた。
「配信して」
「配信…」

   ほのかは足裏に猛烈な揚力を感じた。ヘリコプターのキャビンで、パイロットの座席の後部につけられた横棒をつかみ、中腰でしゃがんでいた。
「ヘリ…!」
 まさかヘリコプターで入山するとは思いもよらなかった。上高地から涸沢まで六時間かかることは、以前の山行で知っていたからだ。キャビンには三名搭乗していた。まだ互いに自己紹介すらしていない、三名ともが、窓外の壮大な山岳風景に圧倒されていた。おそらく誰もが初体験のはずだった。三人は迫りくる雪化粧した岸壁に見ほれながらも、まずは手足が自由に動くことにしみじみとした充実感をかみしめていた。
「ヘリで行くんですね」
「驚いたな…手足が動くこともそうだが、この景色をみろ」
 ほのかは言った。「私、穂高には前にも登ったことはあるけどヘリは初めて。屏風岩をこんなに間近に見たのも初めてだわ…荘厳ね」
 屏風岩のわずかな垂壁のテラスに積もった雪がヘリのローターの風圧を受けて舞い踊っている。ヘリはぐんぐんと高度を上げていき、歩けば三時間は掛かる屏風岩のコルをやすやすと飛び越えた。
「ああっ。穂高連峰が…」
「ついに来たね」
 左には前穂高岳北尾根、吊尾根を経て奥穂高岳、涸沢岳、そして北穂高岳の勇壮な山群が眼前にみるみると迫ってくる。ヘリは一直線に赤い三角屋根の涸沢小屋に向けて突進していく。
「人がいる…社長だわ」
 両手を高々と上げた社長がヘリを誘導し、小屋前の急な雪面にヘリのスキットが接近した。ヘリが小屋の雪面にホバリングすると、社長はヘリのドアを開けて小屋の方を指さした。三人は態勢をかがめて小屋の脇に移動した。
 一人の男が立っている。
「よし。俺は若い衆頭の矢田部だ。女子は小屋に入って荷物を運びこんでくれ。人送が終わったらすぐに荷揚げが始まるぞ。男はスコップをもって斜面の雪を均すんだ。そこに赤スプレーでヘリの着地地点をマーキングしろ。ぐずぐずするなっ」
 ほのかはまだ電気が灯されていない、薄暗い小屋内に登山靴のまま窓から入室した。男たちは歓声を上げて外でスコップをふるっている。社長と支配人以外は全員十代後半から二十代、三十代の若者たちだった。やがてすぐに、一人の青年が矢田部に肩を担がれて小屋の中に入ってきた。
「馬鹿め。そんなしゃにむに動くやつがあるか。軽い高山病だよ。光石、二階に布団を敷いてやってこいつを休ませてくれ。いいか、動けるようになったら荷物の搬入を手伝うんだぞ」
 ヘリはその後人送三回、荷揚げ三回を上高地と往復し、小屋の食堂には食材や個人の私物ですぐに荷物の小山が出来上がった。
「初めまして。あたしここの小屋には十代のころバイトしてたん。大林といいます」
「光石です」
「うん。そしたらこれからお茶するから、光石さんストーブつけて、鍋おいて、外で雪をできるだけたくさん運んできてお湯を沸かしてくれへん?」
「はいっ」
   テーブルに社長の奥さんが手作りした巻きずしや、いなりずしが並べられ全員が顔を合わせての初めての食事となった。一人ずつの自己紹介となったが、名前と病歴をいう以外、ほかに多くを語る者はいなかった。最長で二十三年、短いものでもここ二年はベッドに臥せっていた彼らには、これといって口にするべき経歴がなかった。山へ来たことがある者は、社長と支配人以外、リーダーの矢田部、大林、それにほのかの三人だけだった。中には集団生活の場が、山小屋であることに不平をこぼすニュアンスの言葉を発するものもいた。
 社長が立ち上がった。
「ええ――本日は皆さん涸沢小屋へようこそおいでくださいました。これから一年間、みんな健康でケガすることなく…そうかみんなは体が病棟にあるんだからけがはないな…まあ仲よくね、仕事に励んでまいりましょう。この後は女子が厨房、男子は除雪作業に従事していただくことになります。私物の整理がすんだ人から、仕事にかかってください。なに、一年なんてあっという間ですよ。どうかここの小屋で充実した、良い思い出を作っていってください。今までの寝たきり生活を挽回していきましょう。家族と連絡が取りたい人は受付のパソコンを使ってください。では固めの盃を…」
 一斗樽の栓が抜かれ、全員が盃を振り上げた。
「乾杯!」中には涙をこぼす者もいた。
 翌日から男女計七人による共同生活が始まった。ほのかはこの小屋では先輩の大林睦子から小屋の暮らしや調理を学び、めきめきと腕を上げていった。レシピ本を熟読し、それまで山小屋では誰も作ったことのない料理を作り皆を驚かせた。
「こいつが出てきたらお客さんも喜ぶづらぃ」社長は顔をほころばせてほのかをほめた。
「お客さん?   お客さんが来るんですか」
「そりゃそうだろう、山小屋だもん。そうか皆には言ってなかったな。センター長の速水君からの連絡でね、プロジェクトは百人増員するそうだ」
「えっ百人。みんなここへ来るんですか?」
「小屋はこの人数で充分だ。ARでは上高地が完成している。帝国ホテルや清水屋温泉ホテル、上高地食堂、ビジターセンター、明神小屋や徳沢園、横尾山荘、そういったところで働いたり寝泊まりすることになるんだろう。みんな五月の連休にはうちの小屋へ泊りに来るそうだ。中にはテント生活をする変わり種もいるそうだい」
「なるほど」
 除雪作業はきつかった。カチカチに凍った雪の層にあたると腕が悲鳴を上げた。数日で全員が筋肉痛を訴えた。そうしたものは小屋内の作業に回されたが、誰もライバル意識があったので、屋外での作業をやめる者はいなかった。そうして腹をすかせた男たちは誰もがほのかの料理をほめた。ほのかは生きがいを感じた。数年前までの地獄のような生活がうそのようだった。
(そうか山へくりゃあよかったんだ…)
 自分はどうして自殺など企てたのだろう。ゆかいな仲間、楽しい仕事がここにはあった。そしてふと目の先が暗くなる。
(タカユキはどうしているのだろうか。彼はプロジェクトにどうして選出されなかったのだろう。彼がここにいれば、ここでの暮らしは楽園になるのに。彼なら小屋の仕事だって立派にこなしていけるのに…。そうだ高見沢先生に頼んでみよう。速水さんとタカユキは、大学の先輩後輩といっていた。きっとタカユキをこちらへ転送してくれる。)ほのかはそう思うとほうっと胸のうちが温かくなった。
 驚いたのは社長以下、男たちの晩餐での酒量だった。缶ビールから始まって、日本酒、ウイスキーをコップになみなみと注いで消灯時間まで呑んでいる。従業員たちは毎晩深夜遅くまで従業員部屋で酒を酌み交わしていた。そうしていろいろなことを語り合った。長い寝たきり生活をしていても、やはり各々考えも経験も違うので酒が入ると話題が尽きることはなかった。日中山と向き合っているせいか、まったく彼ら山小屋従業員の山屋たちは大酒家であったのである。
 百人が上高地界隈に住みだすと、ぽつぽつ登山者が訪れるようになった。そうして遭難が起こる。レスキューへ出動するのは支配人と矢田部だったが、矢田部はボルダリングが趣味の三浦を選出し、レスキューに同行させた。
 ある日ほのかが水道の蛇口をひねると、甘ったるい妙な味がするので支配人に確かめると、支配人は矢田部と目配せして、
「やっぱりな・・・」と呟いた。
「小屋の上の水源のあたりでしょうね」
 遺体は北穂高岳南陵直下、林の中の水場近くに発見された。男は細い流れの中に横たわり、水膨れした豚のようになっていた。すぐに長野県警山岳救助隊が転送されて遺体は支配人と矢田部によって梱包され、アルペンレスキューで降ろされた。穂高では年に三回はそうした遭難死が起きるということだった。ほのかは救急法と包帯法を学び、軽症の遭難者の救護にあたった。
 五月のゴールデンウィークになると、さらに百名増員された上高地の住人たちが続々と涸沢への登山道を登ってきた。
「見ろや。札束が登ってくるぞ」矢田部はそう言って破顔した。「さあ忙しくなるぞ」
 ほのかは続々と登ってくる登山者を見て、「彼らは正しい…」そう直感した。自分も昔、ワンゲル部で数々の山々を登ったが、それをロゴス的に解釈したことはない。しかし今思う。山というのはつまり、大地の隆起した、その答えをありのままに表現している。それを五体、全身で体感するということは自然の意志そのものを体感したことになる・・・。
 小屋のテラスは登山者たちであふれ、厨房は目の回る忙しさだった。ほのかは自らが創作した手料理をお客にふるまうよう提案したが睦子に言下に否定された。
「この人数じゃ無理だって。とても回していけないよ」
 食堂の席は45人分。5回食器を取り換えねばならない。盛り付けるもの、給仕するもの、洗い場で食器を洗いすぐに次の食事を盛り付ける。実際にやってみると睦子の言うとおりだった。
「ほのかちゃんは客食の後の従食を頼むよ」
   夕食の後はお客の寝る場所を確保しなければならない。いったい二百人もの客をどうやって寝かしつけるのか、それはリーダーの矢田部の仕事だった。客を横向きに寝かせ、頭と足を交互に並べてぎゅう詰めにしていく。客の中には激昂し、こんな寝かせ方があるかと社長に怒声で抗議する者もいた。社長は平謝りに頭を下げて、ひたすらクレームに耐えていた。もっともその客は山小屋に泊まるのが初めての客で、山慣れたものは皆おとなしく山小屋の方針に従っていた。山小屋では来たものを拒まない。仮に千人泊っても、何とか客室に詰め込んでしまう。もしくは涸沢にあるもう一軒の山小屋、涸沢ヒュッテでの宿泊を勧めた。この日小屋には山岳写真家たちのグループたちも泊っていた。「涸沢フォーラム」の人々だ。ほのかはこの会の主催、新さんに小屋の近くの斜面に連れられ、ユキザサ採りを教わった。
「お浸しにするとうまいよ」
 作ってみるとなるほど甘い食感が何とも言えなかった。ほのかはユキザサを大量にゆで、凍らせて夏まで保管しておくことにした。
 登山客の明日の予定は様々だった。奥穂、北穂、前穂をピストンするもの、縦走するもの、涸沢散策を楽しむもの、あるいは前穂北尾根に挑むもの。
 夜のテント場は美しかった。赤靑黄色とりどりの天幕が居並び夜空には無数の星々がきらめいた。そして二三分に一度は流れ星がひらめく。まさに大地と天が一体になって輝いていた。
 ゴールデンウィークはあわただしいうちにあっという間に過ぎていった。下っていく登山者たちを見つめつつ、ほのかの胸中は複雑だった。彼らには帰る場所がある。しかし自分たちには帰る場所がない。登山客すべてが下山してしまうと小屋には一種空虚な空気が蔓延した。現実世界の涸沢小屋ではワンシーズンに二週間の休暇がある。しかし自分たちにはそれがない。上高地には行けてもそこから下に降りることができない。従業員たちは一抹の寂しさを禁じえなかった。彼らはバーチャル会議で指摘されていた、いわゆる「バーチャルスラム」の恐怖を抱いた。社長は一年は早いと言っていたが、ここから出られないとなるとシーズンは膨大な時間に感じられた。
 そんな空気を一掃する珍事が起きたのは連休が終わって一週間が過ぎようとしているころだった。昼間テラスでお茶をしていると、支配人と矢田部が妙なことを言い出した。
「来ているな」
「うん,来ている」
「感じるな」
「うん。感じる、感じる」
 ほのかは二人の会話を聞いて直観した。ほのかもまた、新たな存在が小屋のどこかにいることを敏感に察知していた。
 出会いは翌日のことだった。ほのかが従業員部屋を掃除していると、空きベッドにまるで蛍が人型に密集しているかのような光点体を見つけた。明らかに男で首にペンダントをつけている。ほのかはとっさに自分のペンダントをつまみ、窓外の前穂北尾根に二つ合わせてかざしてみた。それぞれのペンダントは刻まれた中央で前穂北尾根の稜線に合わせて刻まれている。それが目の前でぴたりと合致した。忘れもしない、タカユキと群馬県大泉町のアンティークショップで作ってもらったペンダントだった。ほのかとタカユキの頭文字を取って、そこにはHOTAKAと刻印されてあった。
「タカユキ・・・!」
 男は転送中でまだ会話を交わすことができなかった。しかしその男がタカユキであるのは間違いがなかった。ほのかは従業員部屋を飛び出すと、タカユキを小屋のスタッフに加えるよう社長に頼みに行った。驚愕した面持ちでほのかが社長の前に立つと、口を開く前から、
「解ってるずらよ。石川だったら文句はねえだ。新谷と矢田部から話は聞いてる」
 そういって社長は微笑した。
 帰る家のない従業員たちにとって、新メンバーが加わることはそれだけ小屋の容量が街に一歩近づくことに変わりがなかった。だれもがタカユキの加入に賛同した。タカユキが実体を伴って現れたのは翌日のことだった。
「・・・ほのか!」
 二人はきつく抱きしめあった。それは二人にとって、これまで数々の修羅場を乗り越えてきた、感慨深い抱擁だった。
 その年のシーズン最盛期は二人にとって祝典のようなひと夏となった。
 ほのかは冷凍庫に保管してあったユキザサを「涸沢フォーラム」の会員たちにふるまった。主催の新さんはお浸しを一口口にするや顔をほころばせ、食堂にいたほのかに、「これってあれだろ?」と尋ねた。ほのかはピンと来たのでニッコリと微笑んだ。会員たちはその年のゴールデンウィークにユキザサを食べていたが、新さんにお浸しに使われている植物の名を聞かれても、誰一人正答することができなかった。新さんはほのかの腕前をほめた。
 また荷揚げされた食材の中に冷凍ホッケを見つけると、ほのかはホッケでだしを取ってうどんにかけ、魚肉をトッピングしてアルパインガイドの重野さんにふるまった。重野さんは「こんなうまいうどんを山小屋で食べたのは初めてだ」と社長に言って喜んだ。
 タカユキは小屋に立ち寄ったやはりアルパインガイドの松井登氏と親しくなり、小屋が閉鎖する冬季間の山行に参加する契約をした。冬自分の体が山に登れるかどうかはわからなかったが、関東近郊の低山の岩登りが二本、それに正月の富士登山だった。決して安い金額ではなかったが、山小屋従業員たちはほかに金を散在する場所がなかったのでいやでも給料がたまる。有意義な使い道だとタカユキは思った。
 以前穂高に登った経験のあるタカユキは受付に立つことになり、それまで受付にいた矢田部は町に下ることになった。もとより入院棟に収容されたわけではない彼は、東京に帰ることができる。東京には彼の妻と子供たちが待っていた。従業員たちは彼に実家の家族に送る手紙を託した。
 事件が起きたのは最盛期が終わり、あとは紅葉シーズンを迎えるだけという閑散期のことだった。
「どうも妙ずらい…みんなの顔が歪んで見える。歪んでいるというよりは、輪郭がずれて見えるんだよ・・・。一体これはどうしたことずら・・・」そう社長が口にした。
「実は石川さんがこちらへ来る時、みんな彼の存在を感じていましたよね。それと同じ感覚がみんなあるんです」
「誰かまたここへ来るというのか」
「間違いないです」
「いったい誰ずら・・・」
「さあ・・・」
「しかし石川が来た時、皆の輪郭がずれて見えるようなことはなかったぞ」
「そうですね・・・」
「あたしなんだか嫌な予感がするわ・・・」ほのかが呟いた。
「それはどんな予感づらい」
「予期せぬ人物…みんなに危害を加えるような、そんな男が来るような気がします」
「ふーん。招かざる客というわけか」
「ええ・・・」
「めんどくさいことにならなきゃいいがな」
 屏風のコルにヘリの爆音が轟いたのは三日後のことだった。
「妙だな・・・今日は荷揚げの日ではないが」
「荷を吊っていません。人送ですね」
「いったい誰ずら。そんな話は聞いてないが…おい、みんなの輪郭が三日前よりずれているぞ。まるで壊れたテレビ映像を見ているようだ」
「隣にいるのは高見沢先生だわ」ほのかが言った。
「何事ずらい」
 ヘリから降りてきたのは速水と高見沢だった。
「速水さん・・・お久しぶりです」タカユキが言った。
「ああ。交情を温めるのは後にして、石川、Tはどこにいる?」
「T。いったい誰ですか?   それは」
「ここの小屋に来ているはずなんだ。モニターでは確認できなかったが」
「そんなもん、ここにはおらんぞ」社長が即答した。
「となると厄介だな…AR社の田中君。やはりここにはいないそうだ。そちらで探してもらうより仕方がない」
「わかりました。上高地も含めたすべての地点でゆがみの原因――おそらくTの介入によるものと思われますが、探ります」
「歪みって、いまわれわれに起こっている、この輪郭がずれている現象のことですか?   システムの故障じゃなかったんですね?」タカユキが言う。
「ああ・・・当初は我々もそう見ていた。ヘッドマウンテンディスプレイを長期間使用していると、゛VR酔い゛といわれる不快感が生じる。さらに長く使用していると船酔いに似たような症状が出てくる。これは仮想の酔いではなくて現実の酔いなんだ。君たちの輪郭のずれはこのVR酔いによるものだという見解が出たため、君らが睡眠中、システムは停止していたんだ。ところが翌日になっても症状は改善していなかった。石川、お前ニューロテック社でニューラルネットワークのプログラミングをしていたから、この世界がどんな構造から成り立っているか、知ってるだろう」
「ええ・・・電力系統制御システムのソフトウエアのタスク単位の動きを立体的に可視化してあります。パソコンを見てください。この白い横線は時間軸、上下の線はデータのやり取りやメッセージの送受信を表しています。・・・んっ?」
「歪んでいるだろう」
「そうですね。一点から波及している」
「そいつがTだよ」
「つまり彼がこのシステムに存在している影響で、我々の輪郭がずれていると?」
「その通りだ。彼をプロジェクトに参加させたのは犯罪心理学が専門の大谷教授なんだが、検察からTの除名処分が決まった。要するに、犯罪者が精神的理想郷にいることが全国の受刑者に知れてしまえば、誰もがこちらの世界に来ることを訴えるだろう。刑務所の存在意義がなくなってしまう。したがって今彼はBMIとは接続していない。しかし最先端脳科学研究所のプールにはいて、AI、ARとはつながっている。AIは彼を不適合者と判断した。だのに彼はここにいるからAIが怒っちまったんだよ」
「コンピュータが怒る?」
「そうさ。人工知能と人間の話す言葉、自然言語を理解できる自動言語理解システムが付与されると、コンピュータは人間と均等に付き合える人格を持つんだ。AIは彼を削除するつもりだ。そうしたら彼の意識は消され、プールにいる彼の脳機能も停止してしまう。そうなったらここにいる全員は永遠に輪郭がずれたままになってしまう。ARが成立しなくなってしまう。俺たちはな、彼を捕まえに来たわけじゃない。説得しに来たんだ。このシステムを守るためにな。申し訳ないが社長、AR社からの連絡が入るまで、我々はここに泊まらせていただきます」
「そうしろ」
 ほのかが問うた。
「高見沢先生、Tって、あの、群馬で小学生を殺そうとした男ですよね。そんな男に近づいて危険なんじゃないんですか?」
「いいえ・・・彼は大谷教授によると、温情的で社会貢献的な優しい青年だそうよ。ただ、他人の意識の影響下に置かれやすい心理的特徴を持っているの」
「心優しい人が、人を、それも少年をどうして殺そうとしたんです?」ほのかは尋ねた。
「大谷教授と県警の調書では、あの時現場にいた根本チハルという少女に命令されたと言ってるそうよ」
「根本チハル…まさか根本恭子の子供!?」
「そう。今回の歪みはね、Tというよりこの少女がかかわっているようなの。彼女の祖母が青森でイタコをしているの。チハルちゃんは生まれながらに、つまり遺伝的にこの祖母の能力を持っていたようなの」
「頭がこんがらがってきたわ・・・」
「つまりこういうこと。あなたTの事件が起こった時、あたしにウサギの絵をかいてくれたでしょ? あの絵には、仏教でいうところの真言、呪術でいうところの呪文、人の意識を統率下に置く呪いがかけられていたのよ」
「えっ。お二人とも科学者ですよね。まさか本気でそんなことが起こると思っているんですか?」タカユキが驚いて言った。
「実際に青森のチハルちゃんのおばあさんにあって確かめてきたの」
「じゃあ、そのウサギの呪縛とやらを解けば、この世界は元に戻るんですね? だったら、チハルちゃん本人に来てもらって、Tの呪縛を解いてもらったら?」
「チハルちゃんは去年交通事故で亡くなったわ。だからイタコのお婆さんにどうしてもTを会わせる必要があるの」
 翌日の朝、AR社の田中からTの居場所が報告された。小屋の北西三百メートルの地点だった。
「そこならフカスの岩小屋づらぃ」社長が言った。
「フカス?」
「ああ。やはりTのようにな、山小屋での共同生活を嫌った男がいてな、ここで一人で暮らしていたんだ」
 速水が言った。
「向かいましょう」
 レスキューのプロ、支配人と三浦、それにタカユキとほのかも同行した。岩小屋は、中が四畳半ほどの広さになっており、電器はなく、天井の岩を三十センチ四方にくりぬいた穴から光を取り込んでいた。
「邪魔するよ・・・」
 巳一郎が声をかけても、岩壁と対峙したTは振り向きもせずに胡坐をかいていた。
「最先端脳科学研究所の速水といいます。君・・・Tだね?」
「見つかってしまいましたか。・・・ここにいればだれにも邪魔されずに観想出来ると思っていたんですが」
「カンソウ?」
「そうです。こうして高山の岩と向き合っていると、宇宙の根本原理、地上の心理が手に取るように感得できる。ぼくはここに来てまだ一週間ですから、知識としてそう感じられるばかりで、身につけるには七年は必要でしょう。それで、あなた方の御用とは?」
「うん。実はね、君にここにいられると、こちらの世界に反古が生じてしまうんだ」
「あなた夜眠るとき、ウサギの夢を見るでしょう?」玲奈が訊ねた。
「どうしてそれを・・・事件以来、毎晩見てます。その映像を消すために、こうして面壁してるんです」
「消すことは可能だわ。ある老婆に会ってほしいの。その方があなたの悪夢を消してくれます。ここを出て、入院棟を出て、青森に飛んでくれる?」
「青森へ・・・で、いったいだれと会うんです?」
「チハルちゃんのお婆様よ。あなたは聞かされていないだろうけど、チハルちゃんというのは事件の時、あなたに命令した少女なの。そのお婆さん。職業はイタコよ」
「結局観想も、人の役に立つためです。行きましょう」

「離脱します」
 AR社の職員が言うと、Tが消えた。
 同時に、歪んでいた五人の輪郭は補正され、システムが修正されてすべてが元の日常に戻った。 


 
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