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愛を誓うならヤドリギの下で 11
しおりを挟む夏が過ぎると、収穫の季節を迎えた村は一気に騒がしくなる。
十月になると日を追うごとに深まる秋の気配に敏感な木々は色を変え、寒がりのラランは早くも分厚い上着を着てくるようになった。
放課後、シュカは図書館には入らずエントランス近くに設置されたベンチにアッシュと並んで座っていた。日暮れ前の空気はまだあたたかく、内緒話をするにはうってつけの場所だ。
「去年は週末に重なったからお泊りできたんだけど、今年は平日だし…」
シュカは不貞腐れた声色でぼやきながら落ち葉を靴の爪先でつつく。
今年のルクシウスの誕生日は収穫祭とは重ならなかったが、お泊りができない平日だったからだ。
「ルクシウスさんの家から学校に行けばいいんじゃないのか? ご両親から許可をもらえば可能だろう?」
「うん…。でもきっとルクシウスさんは、けじめはちゃんとつけないといけないって言うに決まってるんだ。今までだってそうだったもん」
「頭が固いんだな」
「誠実って言ってよ」
口を尖らせたシュカはアッシュのことを軽く睨む。怒ったわけではなくて、わざとそうしてじゃれているだけだ。もうすっかり打ち解けた二人は気楽なやりとりを楽しんで笑い合った。
アッシュのほうはジークフリートとの関係が上手くいっているようで、明るく笑う彼の左手の薬指には先日届いたばかりの指輪が光っている。小粒のカーネリアンとルビーと琥珀がバランス良く配置された指輪は、デザインの元になったオモチャの指輪よりもさらに洗練された雰囲気で上品だった。
「やっぱりいつもどおり学校が終わってから顔を出すって感じかなぁ」
収穫祭当日は週末だが、もしかしたら去年のように催し物の準備でお泊りを断られてしまうかもしれない。
ただでさえルクシウスの誕生日になった瞬間にお祝いすることもできないのに、お泊りすらダメになったらと考えただけで憂鬱になってしまう。
「もし泊まるのを断られたら、また俺のところでクッキーでも作るか?」
ひっきりなしにため息を漏らすシュカの顔を覗き込むようにしてアッシュが言った。
「うん、そうする! 僕、去年よりもうまく作れるようになってると思うよ」
「言ったな。どこまで上達したか試食係として確かめてやろう」
「食べるだけじゃなくて、アッシュ君も一緒に作るんだからね?」
そんな会話を楽しんでいるうちに、学校での仕事を終えたジークフリートがアッシュを迎えに来た。
アッシュと想いを通じ合わせてから、ジークフリートは学校の教師用の宿舎ではなくアッシュが暮らしているフォール家の別荘で世話になっているそうだ。婚約者という関係からしても、それはごくごく普通の成り行きだった。
肩を並べた二人に「また明日ね」と手を振ったシュカは図書館の中に入る。
返却カウンターに座っていたジアスに小さく頭を下げて、幾つも並んだ本棚のどこかにいるはずのルクシウスを探した。
ただ立っているだけでも絵になるシュカの恋人は、図書館の一番奥にある棚の本を整頓していた。シュカは足を止めて革紐で首から下げている指輪を左手の薬指に嵌め、荒れてもいない息を整えると、胸の奥で成長を続けているアッシュへの羨望を見せないように取り繕った顔でルクシウスに近付く。
「ルクシウスさん、お疲れ様です」
「ああ、いらっしゃいシュカ。今日もアッシュ君と一緒だったのかい?」
学校が終わってすぐに顔を出す時間より遅くなった日はアッシュと一緒にいるのだとわかっているのに、ルクシウスは毎回こう聞いてくる。シュカはそれに頷いて答えてから、もう一歩だけルクシウスに近付いた。
僅かに開いたままの距離は『歳は離れてるけれど親しい友人』を装うため。
奥まった場所ではあるが誰かの目があるかもしれないと思うと、それ以上は近付けない。小さな棘が刺さったみたいに胸の奥が痛んだ気がして俯いたシュカの髪を、ルクシウスの指先が甘やかすように梳いた。
「シュカ」
ことさら優しい声色で呼ばれてゆっくり顔を上げると、プラチナブロンドの毛先を撫でた指先がシュカの唇に触れていった。
場所も忘れて飛び付きたくなる衝動を押さえ込んで無理矢理に笑みを浮かべてみせるが、一目で聡明さがわかるブルーグレーの瞳にもやもやしている胸の中を覗かれている気がして何となく落ち着かない。
「どうしてそんな顔をしているのかな?」
「そ、んな顔って…?」
「何かを我慢している顔だよ」
図星を指されて、ついつい視線が泳いでしまう。
そんなシュカをそっと本棚に押し付けたルクシウスは、手のひらで退けた前髪の隙間に唇を押し付けてきた。いつ誰が通りかかるかもしれない場所で、額にとは言えキスをしてくるなんてと目を白黒させるシュカを見下ろしたままルクシウスが声を控えて笑う。
「アッシュ君が羨ましい?」
「なん、で…知ってるんですか…」
「最近のシュカはアッシュ君のことを話す時、そういう顔をしているからね。彼は常に婚約指輪を着けているんだろう?」
「はい…」
アッシュは注文した指輪が届けられてすぐ、本来は禁止されている宝飾品の着用の許可を得るため校長に直談判したそうだ。その結果はアッシュの左手で常に輝く指輪が証明している。
ジークフリートもいつの間にか用意したらしい指輪を着けるようになっていて、彼に少なからず好意を向けていた女子生徒からは落胆の声が聞こえていた。
デザインこそ多少違うけれどほぼ同時期に左手の薬指に指輪を着けるようになった二人のことは、元よりアッシュがフォール家の子息として顔も名前も知れ渡っていたせいで、あっという間に学校中の噂になった。男同士で婚約しているなんて変だと言う声はあったけれど、指輪を着けたアッシュがあまりにも堂々としているからか、今では二人の関係をあたたかく冷やかす声しか聞こえない。
もちろん校内で過度な接触はしないようにアッシュが気を付けているのはシュカも知っているが、二人の間には割って入る隙間なんてなくて、そんな雰囲気を作っている二人を見るたびにシュカの中には痛いような寂しいような切なさが込み上げた。
「私はシュカに我慢をさせてしまっていたんだね。気付けずにいてすまなかった」
「いいえ! 謝らせたいわけじゃないんです。ただ、いいなって…思っちゃっただけで」
寄り添うことが当たり前みたいにいられるアッシュに羨望の気持ちを抱いていたのは事実だけれど、ルクシウスに負い目を感じさせたかったわけではないのも本当だ。自分とルクシウスの立場や年齢差を考えたら易々と公言できないことなんてわかりきっているし、それに何よりルクシウスの枷にだけはなりたくない。
だから我慢しようと決めていたのに、気付かれただけでなくルクシウスに謝らせてしまったことが悔しくて、シュカはじんわりと目に涙を浮かべた。
「シュカ」
「……はい」
「私は、シュカとの関係を公言してもいいと思っているよ」
「え…っ?」
思わず勢いよく顔を上げたシュカの目に、優しく微笑むルクシウスの顔が映る。
「確かに、万人に受け入れてもらえる関係ではないかもしれない。それでも、私は真剣な気持ちでシュカのことを好いているし、シュカも同じ気持ちでいると信じているからね」
「ぼ、僕…本当に、ルクシウスさんのことが好きです…っ」
涙が混じった声で訴えれば、ルクシウスは目を細めて笑ってくれた。
ここがルクシウスの職場ということも頭の中から飛んでいって、シュカは零れそうな涙を堪えながら世界で一番愛しい人に抱き付いた。ルクシウスの腕もシュカの背に回される。ふわりと漂うジャスミンの香りがますます涙腺を緩めてしまうのに離れられない。
「近いうちに校長先生に直談判しようか」
既に六十歳を過ぎた現校長はルクシウスの在学中からずっと校長を勤めている人物で、若い頃から豪胆な人柄だったとルクシウスはシュカの涙を拭いながら言った。
「私から校長先生に話をする時間を作ってほしいと手紙を書いておくよ」
「わかりました。ありがとうございます」
そんな話をした数日後、シュカは校長室に来るようにと呼び出された。
校長から呼び出されるなんて何をやらかしたんだと、クラスメイト達がひそひそ話す声を背中に聞きながら教室を出るシュカを追いかけてきたアッシュは心配そうな表情を浮かべている。
「何かしたわけじゃないだろう?」
「うん、えっと…たぶん、指輪のこと、だと思う」
「指輪…そうか、シュカもか」
「うん」
指輪と言っただけで察したアッシュは一変して笑顔になり、そのまま校長室の前までついてきてくれた。
「きっと大丈夫だ」
「うん。ありがとう、アッシュ君」
「友達だからな」
扉の前で背中を押されたシュカはアッシュを見ながらひとつ頷いて、目の前の扉をノックした。中から入室を促す声は校長のものだ。
「がんばれ」
小声で声援を送ってくれたアッシュを見てもう一度だけ頷いてから、シュカは全身に緊張を貼り付けながら扉を開ける。
絨毯張りの室内には既にルクシウスがいた。
以前シュカの両親に交際の挨拶をした日と同じようにネクタイが巻かれた首元を見て、彼の真剣さが伝わってくる。シュカも背筋を伸ばして校長に一礼した。
「そんなに畏まらなくとも大丈夫だ。さあ、こちらに来て座りなさい」
「は、はいっ」
右手と右足が同時に出てしまっていないかと不安になるくらい緊張していたが、先にソファに座っていたルクシウスの隣に腰を下ろすとほんの少しだけ気分が落ち着いた。
向かい側に座った校長はシワが刻まれた顔立ちを綻ばせている。シュカが来るまでの間、かつての教え子だったルクシウスとの話に花を咲かせていたに違いない。
「まさか、あのルクシウスが恋人を作るとはなぁ。しかも既にご両親にも挨拶済みとは、まったく手が早い」
「すまないね、シュカ。既に根掘り葉掘り聞かれたあとなんだ」
「えっ、あ、そうだったんですね…」
豪快に笑う校長に面食らったシュカはそう言うのが精一杯だった。
詰問とまではいかなくても、それなりに鋭い質問を浴びせられるのだとばかり思っていたシュカにとっては盛大な肩透かしだ。
「しかしまぁ、これでようやく安心できた」
校長はシュカとルクシウスを見ながら目元にシワを浮かべる。
「知識量は人並み以上で生まれつき魔力も強い。魔法薬の生成さえ教師も驚くほど完璧にこなす。賢者と呼ぶに相応しい男だったが、いかんせん性格に難がありすぎてなぁ」
「少しだけ父から聞いてます…学生時代のルクシウスさんは、今とは全然違ってたって」
「父君もこの学校の出かい?」
「はい。父はイーサン・カレットです。あんまり成績は良くなかったそうですけど」
シュカはほんのりと苦笑して、隣のルクシウスを見た。
学生時代の父とルクシウスがまさしく水と油だったことは今なら何となく想像できる。
「おお…おお、そうか! イーサンの子か! 確かに成績はあまり良いとは言えんかったが、負けん気が強い生徒だったなぁ」
「父を知ってるんですか?」
「校長はね、これまでの生徒をほとんど記憶しているんだよ」
「ほとんどっ?」
「もちろんだとも。私にとっては今までの生徒全員が我が子同然だ」
シュカは声を上げて笑う校長をまじまじと見つめてしまった。
見送ってきた生徒は相当の数になっているはずだが、それをほとんど記憶しているとはさすが校長という役職を長年に渡って担ってきただけはある。
驚きすぎて言葉が出ないシュカを見ていた校長はそこでようやく本題を思い出したようだった。
「おっと、いやいや、すまんかった。今日は二人のことについて話をするんだったな」
わざとらしく咳払いをした校長の視線を受けて、シュカは緊張に全身を強張らせた。
「先ほどもお話したとおり、私はシュカと婚約をしています。いずれは結婚するつもりです」
「ぼ、僕もそうしたいって思っています」
「うむ」
「それで…その、お付き合いをはじめてすぐにルクシウスさんから婚約指輪をいただいてるんですが、その指輪を、学校にいる間も身に着けていたくて…」
「その許可を得たいと思い、こうしてお時間を作っていただきました」
しどろもどろになったシュカの言葉を引き継いだルクシウスは、毅然とした態度で校長と向き合った。シュカも慌てて居住まいを正して校長を見つめる。
「先日も同じように許可が欲しいと言ってきた二人を知っておるか?」
「はい。…アッシュ君とジークフリート先生、ですよね」
「そうだ。あの二人も紆余曲折を経て互いの気持ちを確かめ合ったと、真剣に交際をしているからと言っておった」
「それは僕から見てもわかります。だから正直、ちょっと羨ましくて…」
好きな人を困らせたいわけじゃなかったのに、子供染みた嫉妬でルクシウスに謝らせてしまったことを思い出したシュカは視線を自分の爪先に落とした。
「でもっ、羨ましいだけじゃなくて、僕は真剣にルクシウスさんが好きで、だからこそいつも身に着けていたいんです」
「そうか…そうか。そこまで真剣に考えておるのだね。ルクシウス、お前はどうだ。見たところ指輪はしていないようだが?」
「シュカに対する誠意と、シュカが私の婚約者なのだと周りに知らしめるつもりで指輪を用意したので、自分が着ける指輪にまでは気が回りませんでした」
「まったく、相変わらずの朴念仁め…」
校長は呆れたように吐き捨てると、ひたと二人を見据えて「ひとつだけ条件がある」と言った。
条件と聞いてシュカはドキドキと胸を高鳴らせ、膝の上に置いた手のひらには汗が滲む。
「ルクシウス、お前も指輪を用意しなさい。そしてそれを常に身に着けること。それができるなら、シュカ君が校内でも指輪を着けることを許可しよう」
「わかりました。すぐに用意します」
「よろしい」
満足そうに頷いた校長は唖然としたままのシュカに目を向け、それから表情を朗らかに緩めた。
「あ、ありがとうございます、校長先生!」
「うむ。様々なからかいがあると思うが挫けんようにな」
「はい! …でもあの、校長先生は僕とルクシウスさんが男同士で婚約してることとか、気にならなかったんですか?」
それはシュカの中に常に存在し続けている疑問だった。
本来なら同性同士であることは後ろめたいことに違いないのに、今まで自分達の関係を打ち明けた人は皆一様に受け入れてくれた。進んで茨の道を選びたいわけではないが、こうもあっさり認められるばかりだと、いつかすべてがひっくり返るのではないかと不安になってしまう。
シュカの不安を汲み取ったルクシウスが強張る肩を抱いてくれた。
「気にはならんよ」
校長は寛厚な表情でシュカを見つめる。
「卒業してからのルクシウスがどんな道を歩んだのか、さすがにそこまでは把握はできておらんが、今のルクシウスがそんな顔をするようになったのはシュカ君がおるからだろう。時には癒し、時には叱咤しつつ、共に寄り添い生きようと願う気持ちに性別など関係ないと私は思っておる。どうかいつまでもルクシウスの傍にいてやってくれ」
声を詰まらせたシュカは目に涙を浮かべて頷いた。
ルクシウスに促されて首から下げた指輪を渡すと、そっと薬指に嵌められる。この指輪を初めて指に通してもらった時の気持ちが甦った。
堪えきれずに目尻から伝い落ちた雫が制服のズボンを濡らすのも気にならない。
「好きだよ、シュカ」
「僕も、ルクシウスさんが大好きです」
みっともなく震える声で返せば、ルクシウスはその腕の中にしっかりとシュカを迎え入れてくれた。喜びと安堵から溢れる涙を堪えきれずにしゃくりあげる背中をルクシウスの手のひらが擦る。
シュカの涙が落ち着くまで校長は何も言わずに二人を見守り、やがてシュカが平静を取り戻すと微笑を湛えたまま退室する二人を見送った。
「懐かしいな。ここは何も変わっていないね」
ルクシウスの声に応える余裕は今のシュカにはなかった。
放課後の校内に残っている生徒はまだ多く、教師ではないルクシウスと並んで歩いているシュカには幾つもの視線が向けられている。ローブを纏ったルクシウスは教師に見えなくもないが、仮にそうだったとしても何事だと探る視線が飛んでくるのは間違いないだろう。
いたたまれなくて俯いたシュカの肩をルクシウスが引き寄せた。頬を一気に赤く染めたシュカが顔を上げる。ルクシウスは微かに笑っているものの、周りからの視線を気にして距離を取ろうとするシュカを逃がすつもりはないらしい。
「校長が認めてくれたんだ。堂々としていればいいさ」
「無理ですぅ…」
情けなく語尾が下がる。
自分の教室に近付いているせいもあって名前は知らなくても顔を覚えている生徒と幾人も擦れ違った。彼らは興味津々な様子でシュカと、シュカの肩を抱いたまま歩くルクシウスを見ている。
「僕、今きっと変な顔をしてる、から」
もういっそ顔を隠してしまいたい。そんな気持ちで上げた手に嵌まっている指輪を見つけてしまったシュカはまた頬の温度を上げた。
「シュカ! 大丈夫だったか?」
教室に入た瞬間、待ち構えていたアッシュが飛び付く勢いでシュカに駆け寄ってくる。アッシュはルクシウスの表情を確かめ、それからシュカの左手で光る指輪を見つけてすべてを察して小さく息を吐き出した。
この時間までアッシュがひとりで教室にいることはあまりなく、不思議に思ったシュカは目を瞬かせた。
「アッシュ君、もしかして僕のことを待っててくれたの?」
「大丈夫だと信じてはいたが何となく心配でな…。だが、余計な心配だったようだ」
「ううん、嬉しいよ。ありがとう」
アッシュと手を取り合って喜びを分かち合ったシュカは、鞄を持つとその足で図書館へと向かう。
ルクシウスは勤務時間内に校長との面会の時間を作っていたようで、シュカの頬を名残惜しそうに一撫ですると仕事へと戻っていった。
シュカはいつものようにアッシュと並んでベンチに座る。
柔らかな風に揺れる木の葉は夏の頃よりも水分の抜けた音を立てていた。差し込んでいる日差しはまだ高さを保ってはいるが、それも日を追うごとに少しずつ傾いていくのだろう。
「許可をもらえて良かったな」
日差しを浴びたアッシュの赤毛が燃え上がる炎ような色で透けているのが綺麗で眩しくて、シュカは少しだけ眉を下げた。
「僕ね…アッシュ君が羨ましかったんだ」
「俺が?」
「だって学校でも顔を見れるし、住んでるところも一緒でしょう? その上、指輪まで常に着けていられるなんて…って」
シュカはきょとんと目を瞬かせるアッシュから視線を外して左手の指輪をなぞった。
こんなことを言ったらアッシュが気を悪くするんじゃないかと不安が込み上げるけれど、一度口から溢れた言葉は止められない。
「それで僕、ルクシウスさんに我が儘を言っちゃって…」
「なるほどな。だがそれでルクシウスさんが嫌な顔をしたか?」
「…ううん。してない」
シュカは首を横に振る。のろのろと顔を上げてアッシュを見ると、アッシュは大人びた笑い顔を浮かべていた。
「つまりルクシウスさんにとって、シュカが指輪を常に着けていたいと言ったことは我が儘ではなかったということだ」
「そうなの、かな…」
「いいか、よく考えてみろ。贈られた指輪を常に着けるというのは、自分はこの指輪をくれた人のものだと自ら周りに言って回るようなものだろう? そうしたいと言われて嫌な気持ちになるか?」
「……ならない」
自分が言われた立場なら、喜びこそすれ嫌な気持ちになるなんてありえない。
ルクシウスもそうだと仮定すると、とんでもなく恥ずかしいことを言ってしまったのではないかと今さらシュカは顔を真っ赤に染め上げた。頭の天辺から湯気が出そうなほどに顔が熱い。
そんなシュカを見てアッシュが子供っぽく肩を震わせる。
「不安になる気持ちもわかるが、シュカはもっと自分が愛されているという自覚を持ったほうがいい」
「そ、そんなの持てないよ…」
「一年以上も付き合っているのにか?」
「でも…」
「あとは何が不安なんだ」
「だって僕、ルクシウスさんから見たら子供だし…」
「シュカはルクシウスさんが自分と近い年齢だったらいいと思ったことがあるのか?」
「ない、よ」
「そうだろう? それは俺も同じだ。アイツとは八歳も違うけれど、それを嫌だと思ったことなんてない。誕生日が一年…いや、たった一日違っただけで、もしかしたら出会えてさえいなかったかもしれないと思ったら、歳の差なんて気にするほどのことでもないと思えるんじゃないか」
アッシュの意見は尤もだった。
ルクシウスから好きだと言われるたびに舞い上がるほどに嬉しくなるのも、指先が触れる程度の接触にさえときめいてしまうのも、ルクシウスが今のルクシウスだからだ。
もしルクシウスが一年遅く生まれていたら、もしシュカが一年早く生まれていたら、出会うことさえなく互いの存在に一生気付くこともなかったかもしれない。そんなことを考えるのは無意味かもしれないが、そう考えただけでも胸の奥が痛くなった。
「こんなにも好きになれる人に出会えたのって、すごいことなんだね」
「ああ。だから、好きになった相手から好きになってもらえたことを自信に思ったっていいんだ。いや、思うべきなんだろうな」
自分にも言い聞かせているような真剣さでアッシュはそう言った。
「ああ…そうだ、話が逸れたな。ルクシウスさんはシュカを子供扱いなんかしてないぞ」
「そう、かな?」
あまりにもきっぱりと言われて、断言できるほどの明確な理由でもあるのかと首を傾げたシュカを見つめたアッシュの目が笑っている。
「抱きたいと言われたことはないか? 本当に子供扱いしていたら、そんなことは絶対に言わないはずだ」
「あっ…!」
思い出した途端、頬がじわじわと熱くなった。
しかし、そう言われたことがあるのをどうして知っているのだろう。そんな疑問が顔に出ていたのか、アッシュが声を出して笑う。
「アイツも同じだったからだよ。いや、アイツのほうがルクシウスさんよりも堪え性がないな。まるで待てができない犬みたいだった」
「犬って…」
あまりの言いようにシュカは苦笑した。
「笑っていられるのも今のうちだけだ」
意味深に釘を刺されたシュカは曖昧に頷いておいた。いつも理性的なルクシウスが我慢の利かない犬みたいになるなんてありえない。
迎えに来たジークフリートと共に帰っていくアッシュを見送ったシュカは館内に入り、返却カウンターに座っているルクシウスを見つけて、ますますその考えを否定した。
ネクタイを外していてもルクシウスは落ち着いた雰囲気のまま、大人の余裕を感じさせる表情をしている。そういうところにドキドキしてしまうシュカは薄っすらと頬を染めながらも、仕事の邪魔にならないようにと奥のほうの席に向かった。
閉館まではまだ少し余裕がある。先に課題を済ませてしまおうと鞄からノートを出しながら、左手で光るサファイアに目を留めたシュカは勝手に緩んでしまう頬を慌てて取り繕った。
周辺の席には来館者がちらほら座っていて、本を捲る音や書き物をする音だけが聞こえてくる。シュカも彼らに倣って教科書とノートを開き、薬草や薬品の種類と効能について書き留めた。
「ふぅ…」
課題を終わらせて顔を上げると閉館時刻がすぐ間近に迫っていた。シュカは教科書とノートを鞄にしまい、いつの間にかひと気のなくなった館内を移動する。
程なくして帰り支度を済ませたルクシウスと共に外に出ると、夕方よりも強くなった風に冷えた肩が震えた。
夏から秋に変わるこの時期の昼夜の温度差は苦手だ。昼間はまだ汗ばむほど熱くなることもあるのに陽が落ちると一気に気温が下がり、残った汗で思いがけずに身体が冷えてしまって、幼い頃はそれでよく風邪を引いていた。
「シュカ、これを」
ふわりと巻き付けられたストールからはジャスミンの香りがする。シュカは早々と帰って行く他の司書達に別れの挨拶をしつつ、赤らんだ頬を隠すためストールに鼻先を埋めた。
肩を引き寄せられてくっついた身体からは体温が伝わって、鼓動が少し速さを増す。
「秋めいてきましたね」
「そうだね。冬になるのもあっという間だ」
来週末の収穫祭を終えたら、季節は一気に冬に向かう。
シュカはクリスマスが近付いていることを自覚して、ストールで隠した頬をさらに赤くした。
「今年の収穫祭でも何か催し物をするんですか?」
「ああ、そのつもりで準備をしているよ。何をするか教えてもいいけれど…どうする?」
「うーん…当日までのお楽しみにしておきます」
少し悩んでから答えると、ルクシウスはどこか楽しそうに目を細めた。
明るさの残った夕暮れの空が少しずつ夜の色に変わっていく様を眺めながら歩く帰り道も、家人の不在で暗かった家に明かりが灯されるのを見るのも好きだ。どこにでもありふれている光景も、隣にルクシウスがいるから余計に愛おしい。
椅子の背に無造作にローブをかけてお茶の支度をするルクシウスの背中に、シュカはそっとくっ付いた。
「シュカ?」
「何でもないんです。ただもうちょっとだけ、くっ付いていたくて…」
お茶の支度をするのには邪魔だったろうに、ルクシウスは何も言わずにシュカのしたいようにさせてくれた。
ジャスミンの香りが湯気に混ざって立ち上る。名残惜しいが、折角ルクシウスがお茶を用意してくれたのだからと身体を離したシュカの唇に、ミルクティーのカップよりも先にルクシウスの唇が触れた。
シュカはルクシウスの背中に腕を回してしがみ付く。口内は少しだけ冷えているのに舌は熱くて、その熱を分け合うようにシュカは夢中でルクシウスのキスに応えた。
唇が離れるとシュカの足からは力が抜けそうになって、それをすかさず支えたのはもちろんルクシウスだ。
シュカは目の前の胸板に身を任せたまま肩を上下に揺らし、足りなくなった酸素を思う存分補給した。耳の後ろの頭皮や背中から腰にかけてがくすぐったくて仕方がなかったけれど、ルクシウスの手のひらが優しく肩を撫でてくれるうちに次第に消えていった。
「少し冷めてしまったけれど、飲むかい?」
「はい、いただきます」
もし冷え切ってしまっていたとしても飲まないなんて言うはずがない。
ルクシウスが引き寄せてくれた椅子に座ったシュカはじんわりとあたたかいカップを受け取り、息を吹きかけなくても飲める温度になったミルクティーを口に含んだ。
隣で自分と同じようにカップを傾けているルクシウスの様子を窺うと勝手に唇が緩んでしまう。さり気ない素振りでお茶を飲んで誤魔化しつつも、例えばルクシウスが何もしていなかったとしても今みたいにむずむずした気持ちになって自然と笑ってしまうんだろうなとシュカは考えた。
お茶を飲み終わると書斎に移動し、ソファにゆったりと座る。
シュカの左手で輝くサファイアの指輪は目を向けるたびにあたたかい気持ちにしてくれた。
「明日からずっと着けていいんだって思ったら、今からドキドキしてきちゃいました」
そう言ったシュカの左手をルクシウスが包むように握り締める。長さの違う指が優しく絡み合うと、どちらからともなく顔を寄せた。
シュカの唇を啄ばんだルクシウスの唇が頬からこめかみ、額を掠めて鼻筋を伝い、また唇に戻ってくるのを目を閉じたまま受け止める。
ルクシウスの親指の先に唇の隙間を突かれ、シュカはおずおずと引き結んでいた唇の力を抜く。僅かな隙間から入り込んできた熱はシュカの口内を器用に刺激して回り、たまらなくなってルクシウスの胸元に縋る指先には力が篭った。
最後にもう一度、唇に触れるだけのキスが落とされてからシュカはルクシウスの腕の中に閉じ込められた。僅かに荒くなった呼吸を宥めるように撫でてくれる手の感触が心地良い。
息が落ち着きを取り戻してもルクシウスの手はシュカの背中から離れることはなく、それをいいことにシュカはルクシウスにぴたりとくっ付いたまま、鼻先をくすぐるジャスミンの香りに胸をときめかせた。
「もうすぐルクシウスさんの誕生日ですね」
「ん? ああ、もうそんな時期だったか」
「今年は平日だから、日付が変わった瞬間にお祝いはできないんですけど…」
「私はシュカが祝ってくれるだけで嬉しいよ」
「それはそうかもしれないけど、誰よりも先に僕がお祝いしたかったんですっ」
シュカは思わず身を乗り出してルクシウスに迫る。
去年はルクシウスの誕生日になった瞬間にお祝いすることができたし、今年だって本当はそうしたかった。
またむくむくとアッシュのことを羨ましく思う心が膨らんで、そんなふうに考えてしまう自分が嫌になるのに、シュカは愛しい人を独り占めしたいと思う気持ちに突き動かされるまま手を伸ばしてルクシウスの首にしがみ付く。
ルクシウスは少しだけ驚いた顔をしたけれど、それでもシュカをしっかりと受け止めて宥めるように背中を優しく叩いてくれた。子供扱いしないでという言葉が音にならないまま喉の奥に蟠る。誰がどう見たってこれは子供の我が儘だと自分でも思うのだから、口を閉じるしかなかった。
こんな自分にルクシウスが愛想を尽かしたらどうしようと不安になり、いつまでも子供染みた考えしかできない自分が情けなくて視線を落とす。
「ごめんなさい…僕、一年前よりも我が儘になってますね」
ため息混じりに呟いて離れようとしたシュカの顎をルクシウスが無言で掬い上げた。間近から自分をひたりと見据えるブルーグレーの瞳が思った以上に真剣で、思わず喉から変な声が出そうになる。
「もっと我が儘になってほしいと言ったら、どうする?」
「え……」
「私はシュカが、ご両親にだって軽々しく我が儘を言ったりするような子ではないとわかっているつもりだよ。そんな君が私にだけ我が儘を言ってくれるなんて光栄じゃないか。それに応えることこそが年上の恋人の甲斐性というものだろう」
ルクシウスは優しく笑って、呆けたままのシュカの唇にキスをした。
「ご両親からの許可が得られたら…というのが前提になってしまうが、平日だけれど泊まるかい?」
「いいんですか…?」
「去年も言っていただろう? これから先の私の誕生日を誰よりも先に祝いたいと」
「…言いました。その気持ちは今でも変わってません。一日中ルクシウスさんと一緒にいることは無理でも、一番にお祝いすることは他の人に譲りたくないです」
シュカは促されるままルクシウスの膝の上に乗る。お尻から上半身にまで感じるルクシウスの体温に鼓動を速めながら、シュカは自分の頬にかかるプラチナブロンドの毛先を弄ぶ手に自分から擦り寄った。
「誕生日になる瞬間は、これからもずっと僕に独り占めさせてください」
「ああ。もちろんだよ」
穏やかに頷いたルクシウスがシュカの頭を引き寄せる。
きゅうきゅうと甘く切なく音を立てる胸が痛い。つい涙が出てしまいそうで、結局それを堪えきれなくて、シュカは潤んだ瞳でルクシウスを見つめた。
「大好きです、ルクシウスさん」
「私もシュカのことが大好きだよ」
微笑みを交わすこんな瞬間にも、シュカはルクシウスにまた恋をするのだった。
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平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。
……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、
気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
龍の無垢、狼の執心~跡取り美少年は侠客の愛を知らない〜
中岡 始
BL
「辰巳会の次期跡取りは、俺の息子――辰巳悠真や」
大阪を拠点とする巨大極道組織・辰巳会。その跡取りとして名を告げられたのは、一見するとただの天然ボンボンにしか見えない、超絶美貌の若き御曹司だった。
しかも、現役大学生である。
「え、あの子で大丈夫なんか……?」
幹部たちの不安をよそに、悠真は「ふわふわ天然」な言動を繰り返しながらも、確実に辰巳会を掌握していく。
――誰もが気づかないうちに。
専属護衛として選ばれたのは、寡黙な武闘派No.1・久我陣。
「命に代えても、お守りします」
そう誓った陣だったが、悠真の"ただの跡取り"とは思えない鋭さに次第に気づき始める。
そして辰巳会の跡目争いが激化する中、敵対組織・六波羅会が悠真の命を狙い、抗争の火種が燻り始める――
「僕、舐められるの得意やねん」
敵の思惑をすべて見透かし、逆に追い詰める悠真の冷徹な手腕。
その圧倒的な"跡取り"としての覚醒を、誰よりも近くで見届けた陣は、次第に自分の心が揺れ動くのを感じていた。
それは忠誠か、それとも――
そして、悠真自身もまた「陣の存在が自分にとって何なのか」を考え始める。
「僕、陣さんおらんと困る。それって、好きってことちゃう?」
最強の天然跡取り × 一途な忠誠心を貫く武闘派護衛。
極道の世界で交差する、戦いと策謀、そして"特別"な感情。
これは、跡取りが"覚醒"し、そして"恋を知る"物語。
過去のやらかしと野営飯
琉斗六
BL
◎あらすじ
かつて「指導官ランスロット」は、冒険者見習いだった少年に言った。
「一級になったら、また一緒に冒険しような」
──その約束を、九年後に本当に果たしに来るやつがいるとは思わなかった。
美形・高スペック・最強格の一級冒険者ユーリイは、かつて教えを受けたランスに執着し、今や完全に「推しのために人生を捧げるモード」突入済み。
それなのに、肝心のランスは四十目前のとほほおっさん。
昔より体力も腰もガタガタで、今は新人指導や野営飯を作る生活に満足していたのに──。
「討伐依頼? サポート指名? 俺、三級なんだが??」
寝床、飯、パンツ、ついでに心まで脱がされる、
執着わんこ攻め × おっさん受けの野営BLファンタジー!
◎その他
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