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紺と橙のグラデーションに暗い雲が張り付いている。
翔吾は急き立てられるようにアパートの外階段を上っていた。
由貴と別れたのは昼過ぎなのに、用足しを済ませていたら陽が傾いていた。
乾いた風はどこか物悲しさを含んで翔吾の頬を撫でる。
ドアの前に立ち、インターフォンを鳴らす。
物音はしないが、何となく部屋に律の存在を感じた。反応が無いということは眠っているのだろうか。来訪者が煩わしくて無視をしているだけか。
拒まれている可能性も感じながら翔吾は合鍵で錠を開け、音を立てないように暗い廊下を進んだ。緊張で冷たくなった手で部屋への戸を引く。その開けた空間もまた暗闇が蔓延していた。
「律」
自分の声が怯えたように揺らぐ。
反応は無い。
もう一度呼ぶ。
窓際で布の擦れる音がした。
「……電気、つけてもいい?」
うん、と呻くような声がベッドの上から返ってきたことに安堵しながら、壁を探って明かりをつける。
ベッドの上には、黒いキャミソールにスカート姿の恋人が気だるげに上体を起こしていた。
膨らみの目立つ腹。妊娠五か月にして大き過ぎる、気がする。
胎児に精気を絞り取られているような不健康な顔色と骨の浮き出た鎖骨に、翔吾は思わず顔を顰めた。
「お前、ちゃんと食ってる?」
律は項垂れるように力なく頷く。
「ちゃんと眠れてる?」
また頷く。
「その……子どもは――――」
「ねえ、翔ちゃん。何しに来たの?」
律ははねつけるように言って、翔吾に氷のような視線を向けた。
「お金貯まったの? もうすぐだもんね、期限」
律の俯いた頬に睫毛の影が落ちる。
そしておもむろに、彼女は毛布の中に手を入れた。
取り出したものが、青魚の背のように光っていた。
律の握ったものが包丁だと認識するまで、瞬き二回分の時間を要した。
「おま、それ、何して……!」
翔吾が狼狽して後退る。
しかし背後には閉め切った戸があるだけで逃げ場が無い。
律は逆手で包丁の柄を握ると翔吾の前まで歩み寄り、平時と違わぬ表情で包丁を振り上げた。
反射的に、翔吾がその腕を掴む。
肉の削げ落ちた腕が、驚くべき力で足掻く。
あちこちに逸れる刃から逃れつつ、翔吾は瞳孔の開ききった律に向かって絞り出すように語り掛けた。
「――悪かった! ずっと会いに来なくて……お前にだけ辛い思いさせて……!」
力の籠った律の手がブルブルと震えている。
「子ども……さ、子どものことなんだけど……」
翔吾の声が弱弱しくなると同時に緩まった握力の隙が、律の腕が自由にさせた。
振り下ろした包丁の切っ先が翔吾の頬を掠め、皮膚に赤い線を引く。
それを目にした律は自分の行いに戦慄き、握りしめた凶器を、――自身の喉元に向けた。
「おい!何してんだよ!」
フローリングに落ちる透明な雫。
律ははらはらと涙を流していた。
八畳を包む静寂に、震える声が吸い込まれていく。
「ごめんね……もういいの。これはね、お守り。辛くなったらすぐに死ねるように」
包丁に視線を向けて、次に翔吾を見て、彼女は安息を得たように微笑んだ。
刃の先が律の白い皮膚にプツリと刺さる。
あ、と思った一瞬。
翔吾の頭の中は真っ白になった。
翔吾は急き立てられるようにアパートの外階段を上っていた。
由貴と別れたのは昼過ぎなのに、用足しを済ませていたら陽が傾いていた。
乾いた風はどこか物悲しさを含んで翔吾の頬を撫でる。
ドアの前に立ち、インターフォンを鳴らす。
物音はしないが、何となく部屋に律の存在を感じた。反応が無いということは眠っているのだろうか。来訪者が煩わしくて無視をしているだけか。
拒まれている可能性も感じながら翔吾は合鍵で錠を開け、音を立てないように暗い廊下を進んだ。緊張で冷たくなった手で部屋への戸を引く。その開けた空間もまた暗闇が蔓延していた。
「律」
自分の声が怯えたように揺らぐ。
反応は無い。
もう一度呼ぶ。
窓際で布の擦れる音がした。
「……電気、つけてもいい?」
うん、と呻くような声がベッドの上から返ってきたことに安堵しながら、壁を探って明かりをつける。
ベッドの上には、黒いキャミソールにスカート姿の恋人が気だるげに上体を起こしていた。
膨らみの目立つ腹。妊娠五か月にして大き過ぎる、気がする。
胎児に精気を絞り取られているような不健康な顔色と骨の浮き出た鎖骨に、翔吾は思わず顔を顰めた。
「お前、ちゃんと食ってる?」
律は項垂れるように力なく頷く。
「ちゃんと眠れてる?」
また頷く。
「その……子どもは――――」
「ねえ、翔ちゃん。何しに来たの?」
律ははねつけるように言って、翔吾に氷のような視線を向けた。
「お金貯まったの? もうすぐだもんね、期限」
律の俯いた頬に睫毛の影が落ちる。
そしておもむろに、彼女は毛布の中に手を入れた。
取り出したものが、青魚の背のように光っていた。
律の握ったものが包丁だと認識するまで、瞬き二回分の時間を要した。
「おま、それ、何して……!」
翔吾が狼狽して後退る。
しかし背後には閉め切った戸があるだけで逃げ場が無い。
律は逆手で包丁の柄を握ると翔吾の前まで歩み寄り、平時と違わぬ表情で包丁を振り上げた。
反射的に、翔吾がその腕を掴む。
肉の削げ落ちた腕が、驚くべき力で足掻く。
あちこちに逸れる刃から逃れつつ、翔吾は瞳孔の開ききった律に向かって絞り出すように語り掛けた。
「――悪かった! ずっと会いに来なくて……お前にだけ辛い思いさせて……!」
力の籠った律の手がブルブルと震えている。
「子ども……さ、子どものことなんだけど……」
翔吾の声が弱弱しくなると同時に緩まった握力の隙が、律の腕が自由にさせた。
振り下ろした包丁の切っ先が翔吾の頬を掠め、皮膚に赤い線を引く。
それを目にした律は自分の行いに戦慄き、握りしめた凶器を、――自身の喉元に向けた。
「おい!何してんだよ!」
フローリングに落ちる透明な雫。
律ははらはらと涙を流していた。
八畳を包む静寂に、震える声が吸い込まれていく。
「ごめんね……もういいの。これはね、お守り。辛くなったらすぐに死ねるように」
包丁に視線を向けて、次に翔吾を見て、彼女は安息を得たように微笑んだ。
刃の先が律の白い皮膚にプツリと刺さる。
あ、と思った一瞬。
翔吾の頭の中は真っ白になった。
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