潮騒の前奏曲(プレリュード)

岡本海堡

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15.雨だれ

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第十五番 変ニ長調 Sostenuto音の長さを十分保って 

 診察を終えた僕は病院の休憩室で飲み物を買って椅子に腰かけ窓の外をぼんやりと眺めていると。天気予報通り空の雲は厚みをまして更に暗くなってきている。やがてポツリポツリと雨が降り始めた。
 まだピアノの音は聞こえてこないため僕自身の気持ちはこの雨模様の空のように沈み込んでいる。
 僕はおもむろに鞄の中から『セロ弾きのゴーシュ』を取り出した。

 『ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅おくれるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ』
 『いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ』
 
 不思議だな。自分でもチェロの調子がおかしいと気付いていたのに、指摘されて、それを素直に認めて。「それくらい知ってた」とか言って「生意気なやつだ」だなんてゴーシュなら言い返した気がするのに。
 ゴーシュは変わったのか?
 声を聞くようになったのか。批判的であってもそれを認められるようになったのか。僕は目を閉じて自分と重ねてみる。先刻言われたことを思い返しながら。

 本を閉じて、暫く時を静かに過ごし終えると、せっかく病院にきたので美海のお見舞いに行くことにした。
 病室をノックするが返事がない。病室に美海はいなかった。
 「潮崎さん?さっきチェロのケースを抱えて歩いているところをすれ違ったから音楽室にでも行ってるんじゃないかしら?」
 初めてこの病室を訪ねた時と同じく、若い看護婦さんが美海の行先を教えてくれた。

 音楽室に着くとチェロを弾いている美海の姿があった。だけど姿が確認出来ただけで今日はチェロの音色が聴こえてこない。おかしい。この間の演奏会では聴こえたし、CDだけだけど音楽を聴くことが出来るようになった。聴こえないのは僕のピアノだけになったはずなのに。診察のあとで疲れていてまた少し調子が悪いだけなのかなと僕はそう自分に言い聞かせた。
 「気にせず続けて」
 僕が部屋の中に入ってきたことに気づいて美海は一旦チェロを弾く手を休めたが、また再開し始めた。
 音色は聴こえないけれど表情をみるに苦戦しているようで楽譜は同じページを開いたままで捲られる様子がない。
 「うううっ」
 時折手を休めてはチェロに抱きつき、恨めしそうに楽譜を眺める。こうした作業はピアノであっても同じこと。うまくいかない節はひたすら反復練習し体に馴染ませるしかないのだ。

 音が聴こえてこない僕は美海の練習を黙って見守るしかなく、時折窓の外を眺めていると、いよいよ雨足は強まり遠くの空は雷鳴を轟かせはじめた。
 病院の音楽室で俯きながら美海はこう呟き始めた。
 「ここがね。うまく弾けないの」
 そういって見せられた楽譜を僕は眺める。
 「指がね。この節に入るまえに疲れちゃって・・・」
 「今日は調子が悪いの?」
 僕は心配しつつ尋ねる。
 「うん、少し指先の感覚が鈍い、のかな。短いフレーズならなんとか動いてくれるんだけど長いフレーズが続くと指がもたくなっちゃって」
 美海の表情は暗い。
 「響君が録音しようって言ってくれてからドヴォルザークを毎日練習しているんだけど、思うように弾けなくて。私にはやっぱりもう指が無理なのかなって」
 「せっかく協力してくれるって言ってくれたのに」
 俯きながら弱気な発言をしてくる。
 「諦めるのか?」
 僕は美海の意思を確認する。
 「ドヴォルザークのチェロ協奏曲はもう名演奏たくさんあるんだよ。ロストロポーヴィチ、ヨーヨ・マ、そしてジャクリーヌ・デュ・プレ。私の演奏なんて今更残しても誰も聴きたくないんじゃないかなって」

 ー今更演奏を残してもー

 それは僕の心の中にもずっと抱いてしまっていた葛藤でもある。そしてそれを考えることはやめていた。
 外は雨が窓を殴りつけるような嵐に変わっていた。閃光が走り雷鳴が断続的に轟く。
 僕は、言葉を探した。それは美海ではなく、もう一人の自分に向かって話したいことなのかもわからずに。
 「確かにもう世界には名演奏が溢れている。おまけに僕ら演奏家を目指す者は常に過去の天才達とも比較されないといけないんだ」
 「巨匠を前に僕の演奏なんて霞んでしまうことくらいわかってた。だから僕は目の前の敵を倒すこと、コンクールで勝って、他人の夢を食らうこと、そうして自己顕示欲を満たすことが僕はピアノを弾く意味だと、それが快楽なのだと言い聞かせて弾いてきた」
 「楽譜通りの演奏なんて、もう機械ができることなんだ。それが分かっていても僕は、ずっとそんな気持ちでピアノを弾いてきてしまったんだ」
 「それがどうだ、挑んだコンクールで敗れ、目的、目標を見失い、音楽から逃げた」
 「コンクール曲はリストの超絶技巧練習曲集で臨んだんだ。8番はね『狩』って言うんだ。そうゴーシュが猫を追っ払う時に弾いた曲が『印度の虎狩』だったように、僕の演奏はそんなものだったのかもしれない。誰の心も考えず、自分の力を誇示しようとしただけの演奏。今ようやく本選に進めなかった理由が分かってきたよ」
 「音楽を拒否していると言われて、でも僕はもう自分でもそうなった原因をきっと分かっていたんだ。でもそれを認めることができなかっただけで」
 僕は僕を説明できるだけの言葉で続ける。
 
 「デュ・プレの演奏は悲劇的に聴こえてしまう。でも、それは、僕らはその先の本当の悲劇を知っているからかもしれない。だから余計に胸を打つのかもしれない。演奏家が望む望まないに関わらず音楽に+αの要因は付加されてしまう」
 「デュ・プレはドヴォルザークのチェロ協奏曲を鎮魂歌として見事に歌いあげているが、きっと音楽を心底愛して、ドヴォルザークの歌を解釈してそうして歌い上げたんだと思う。だって美海が好きだといった1967年の演奏時は彼女にまだ発作は起きていない。まだ絶望はなかったはずなんだ。だから君は、まだ何も残していない君だからこそ、絶望を知ってからだからこその君の演奏には、デュ・プレとは違うドヴォルザークのチェロ協奏曲をみせられるはずなんだ。だって君の演奏にはいつも心が込められているのだろうから」
 「あの夜、君の演奏が聴こえた事がずっと不思議だった。音楽室での演奏会でも聴こえてきた。なのに今、さっきの美海の演奏は一度だって聴こえてこないんだ。美海が演奏に魔法をかけたからでもなく心を込めていたからなんだよ。きっと音楽を楽しむ心を持って。僕にはそれができないんだ」
 「だから、だからそんな君に憧れるよ」
 この時、嵐はどうなっていたのか覚えていない。それくらい僕は夢中で言葉を探していた。
 「以前、ピアニストのマルタ・アルゲリッチのドキュメンタリーを見たことがあるんだ」

 『自分の150パーセントを備えないと、60パーセントを得ることはできないわ。そこから、その一瞬を感じ取る感性を磨かないとね。常に学び取ろうとする姿勢。どんな考え方や感覚や感情も受け入れるのよ。それを表現するの。心を広く持つこと。自分の弱い部分も受け入れること。それはとても大切よ。弱さをさらけだすことも演奏には必要よ、人間的な弱さ、それが人の心に触れるのよ』
 
 「僕はアルゲリッチの言っている事の意味なんてちっとも分からなかったんだ。弱さをみせるなんて冗談じゃないって」
 「でも、今なら少しだけ分かってきた気がするんだ」
 ああ本当に僕は一体何を話しているんだろう。語彙力のなさに辟易する。自分をうまく表現できないことを情けなくも思う。
 「今世界はAIの技術が進歩してきているらしい。学習機能と呼ばれている技術でもし名演奏家の演奏を学習したAIによって、その演奏家が蘇るのかなとか考えてみた。そうなった時、人類はその演奏をどう受け取るのかなって。僕は、どんなにAIの技術が進歩しても、人間の演奏に勝ることはないって思いたい。だって、そうじゃなきゃ、僕らが演奏をする意味がなくなってしまうから。人には人にしか持っていない感情ってものがあるはずだから」
 「感情だよ。苦しいなら苦しいと。寂しいなら寂しいと言っていいんだよ。ずっとそうしていたんだろう?」
 「美海は自分の音楽をこのまま閉じ込めておく気かい?」
 「完璧な演奏じゃなきゃ人の心は打てないのか?」
 「美海とこうして話をしていて、今はこう言いたい」

 「誰の、どんな演奏だって救われる権利ってものがあるはずなんだと」

 その時、雷が直ぐ近くに落ちたようだ。部屋の中は閃光とほぼ同時に轟音に包まれる。
 
 「私は・・・」
 轟音の残音が弱まっていくと美海は僕に胸の内を打ち明け始めた。
 「明日になるともう指が動かなくなってしまっているんじゃないかと毎晩不安になって、チェロが弾けるのはもう今夜が最後なんじゃないかと思うと眠れないの。だから夜になると音楽室でチェロを弾くの」
 美海の声が微かに震えはじめきた。
 「私は、もっともっとチェロを弾きたいの。弾き続けたいの」
 「苦しいの。寂しいの」
 美海の頬に一滴の涙が伝う。
 「デュ・プレは弾きたい曲は弾ききったからもう満足よって答えたの。でも本当にそうだったのかなって思うの」
 「デュ・プレの録音を聴くたびに、私の心のなかで蘇るっていったよね。私も誰かの心のなかで生き続けたい。チェリストとして」
 美海は消え入るような絞りだす声で心情を吐き出した。
 僕は美海を見つめながら、
 「それが録音をすることの意味なら、僕は協力する」
 「ただし録音して、それを引き出しにしまって、それが生きた証になっても、自分だけが、自分の演奏に浸りたいなら僕は協力しない。美海の、今の声を聴かせてくれるなら約束する」
 そして、僕もずっと言い出せなかった台詞を決心して口に出した。
 「分かってはいたと思うけど、名も無い演奏家に協力してくれる指揮者とオーケストラなんて手配は出来ない」

 「だから、僕がピアノで伴奏してやる」

 空はいつの間にか雨がやみ、木々から落ちる雨だれの音が世界を包み込んで、空には虹がかかっていた。 
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