潮騒の前奏曲(プレリュード)

岡本海堡

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16.回る歯車

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第十六番 変ロ短調 Presuto急速なテンポで、 con fuoco熱烈に 

 8月3週目金曜日、大ホールに空き枠ができた。
何でも予定していた落語家が急病にかかりキャンセルを余儀なくされたとのこと。夜の枠だけどキャンセル料が発生しているので差額分で貸してくれるとのことだった。
 「やったな響。とりあえずミーティングだ」
 聡の弾んだ声が受話器越しに聴こえてくる。
 落語家とチケットを購入した方々には気の毒ではあるが幸運が巡ってきたようだ。

 次の日、僕たちはショッパーズのテラスに集まって段取りをすることにした。
 「備品なんだけど、わりと料金かかるんだな。楽屋は必要だし」
 「反響板ってのは何だ?これはなしでもいいのかな?」

 聡は以前、受付のスタッフに説明してもらった申込書をみながらあーだこーだ言ってくる。
 「なあ、ところでさ、潮崎さんの弾きたい曲って何て曲なんだよ?何曲なんだ?演奏時間考慮しないといけないからさ。何回収録出来るのか分らないし」
 聡がホールの話からはそれて僕に質問してきた。
 「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」
 僕はそう答えた。
 「ふーん。協奏曲かぁ、って、えっ協奏曲だったの?」
 聡は椅子をがたんと音を立てて立ち上がる。
 「おいおい演奏場所は確保できたのにオーケストラなんてどうするんだよ?お前、なんかあてなんてあったのか?」
 「いや、あてなんてないよ」
 「あてなんてないなんて・・・」
 聡は絶句する。
 翔子は状況を理解するのに時間を要するようだ。というか完全にフリーズしてしまっている。
 と思ったら
 「ちょっとどういうことよ。オーケストラなしで成立するの? あんた知ってて何も考えてなかったとか言わないでよ」
 「POPのCDだとインストルメントが入ってたりするんだけどな」
 聡は少し落ち着き取り戻そうと妙案を提案してきた。
 「呆れた。カラオケでもやるつもり・・・」
 翔子は呆れ顔で飲みかけのコーヒーを口にする。
 「協奏曲が弾きたいって聞いた時、それは協奏曲だから無理だな、なんて言えないだろ。その願いを聞いたときに、何かしてあげたいと思った時からずっと考えていた。僕がピアノで伴奏すると。ドヴォルザークのチェロ協奏曲にはピアノ伴奏の楽譜もあるんだ。」
 「えっあんたピアノなんて弾けたの?」
 ピアノの事は美海から聞いてなかったのか。ピアノの音が聴けない症状だから黙っていてくれてたのかもしれない。
 「これから練習するとか言わないでしょうね」
 翔子も椅子をがたんと音をたてて立ち上がる。
 「これから練習だな」
 僕はそう答えた。
 「なっ」
 翔子が絶句する。
 「そうか、協奏曲が願いだから録音のこと、潮崎さんにすぐに話さなかったんだな。だけどお前、耳の調子はどうなんだよ?」
 聡が僕の耳の状態を確認してくる。
 「耳?どういうこと?」
 翔子には僕らの会話の意味が分からないようだから、後で説明しないと。
 「大丈夫、僕はやれるよ。きっとやれる。あの夜のようなことは起こさない。きっとやれる」
 僕はそう自分に言い聞かせて決意を表明した。
 「わかった。ピアノも借りよう。響、頼んだぜ」
 そう言って聡はホールの申込書の賃貸欄のピアノに〇をつけた。

 *
 
 響きと別れると俺と翔子ちゃんはARASHIのアルバイトに向かった。
 そして閉店時間を迎え最後のお客さんを見送る。
 お店の扉を閉め終えると、
 「二人ともお疲れ様。あとフロアの片付けよろしくな」
 そうマスターに指示される。
 「了解しました」
 と俺。
 「はい」 
 と翔子ちゃん。
 二人でテーブルにアルコール除菌剤を吹きかけて布巾で拭き取る。
 おいおいおい、女の子と二人きりのシチュエーションきたこれ。翔子ちゃん、ちょっと性格きつめだけど、そのなんていうのかさ、小柄でかわいいかなって。
 俺は眼鏡をわざと外してシャツの裾で拭く仕草をする。俺だって眼鏡を外せば顔面偏差値少しくらいはあがるはず。裸眼のまま翔子ちゃんに視線を這わせて
 「いやー今日もお客さんたくさんで大変だったねー」
 眼鏡外せばそりゃ近眼だからピントはまったくあわないけれど彼女に向かって好意的な視線を送る。どうだ。
 「そうね」
 そっけない返事。顔を上げてすらしてくれない。
 それでも眼鏡をわざとらしく拭き続ける。
 「何?油でもレンズについたの?」
 いまは俺の顔みてくれたはずなのに・・・
 「はは、ああ油?そう洗い物のお皿を運んだ時に油ついちゃったみたいでなかなか落ちなくてさ」
 とほほほ、まるで素顔に気付いてくれない。俺は諦めて眼鏡を付けることにした。
 「ねえ?」
 と机は拭きながら翔子ちゃんが声をかけてきた。
 「あんたって本当暇なのね。アルバイトはともかく、劇場を借りるためにだなんて御人好しも過ぎるじゃない?」
 話かけてくれたかと思えば、返答に困る質問。
 「そうかもね。でも暇してるし」
 ははは、と笑顔で返す。
 「暇なら勉強でもしたら?そんなだから赤点なんてとるのよ」
 初対面の日が追試の日だったものだから勉学の印象は最悪なようだ。
 「まだやりたいことがみつからないから勉強なんて身にはいらないんだよ」
 それは本当の理由でもある。明日から頑張るってやつさ。
 「・・・手とまってるわよ」
 翔子ちゃんが仕事の手際に厳しくあたる。僕の回答に呆れているのが表情から読み取れてしまうのが悲しい。
 「翔子ちゃんはやりたいことなんてあるの?」
 よし、かろうじて会話は成立しているからここは仲良くなるチャンスだ。
 「今はないけれど、やりたいことが見つかった時にあわてないように勉強を怠ったりはしてないわ」
 「厳しいなー」
 思わず本音が声に出る。ツンデレ属性も大好きだけれど翔子ちゃんツンしかないからへこむよ。
 「ところで、あれ何だったの?空母打撃群とかいう例え」
 思わぬ単語がひっかかったらしい。勤勉な彼女でも知らない単語だったから小骨がひっかかってでもしまったのかなと考えてしまった。
 「空母打撃群ってのは一隻の航空母艦とその艦上機、複数の護衛艦艇によって構成されるのだけれど」
 俺は得意気に話を始めようとすると、
 「そんな調べればわかるようなミリオタの話を聞きたいんじゃないわよ」
 と遮られてしまった。
 「なんで私たちが空母打撃群なのかってことよ。だいたいあんた潜水艦じゃ海の中に潜ってるってことで何も見えないってことじゃない」
 翔子ちゃんは僕の例えの真意が知りたいようだ。
 「深く考えて言ったわけじゃないんだけどさ、そうだなぁ・・・」
 ここでうまいこと言えたら好印象になるんじゃないかと脳みそをフル回転させる。
 「僕、アイドルが好きなんだ」
 胸を張ってこれは断言できることだ。
 「・・・会話が噛み合ってない気がするんだけど」
 翔子ちゃんが机から顔を上げて鋭い視線を向けてくる。
 「まあ、聞いてよ」
 僕は両手を軽くふりながら視線を和らげてくれないかと懇願する。
 「アイドルが舞台で輝けるのは、彼女達の頑張りはもちろんだけれど、それはみえないところで衣装、照明、音響のスタッフがいるからだと思うんだ」
 「そんなスタッフの人達をかっこいいと思う人間だっているってことさ。空母打撃群において潜水艦はなくてはいけない部隊なんだよ。アイドルの舞台のように」
 どうだ、ちょっとうまいこと言ったかな?
 「・・・」
 あれ、無言な反応。だけど鋭かった視線はなくなり、なんというか言葉につまっているようにも見える。
 ほんの数秒のことだったけれど、無言と静寂な時間がやけに長く感じたかと思えば、
 「私、もう机拭き終えたわよ、あがらせてもらうわ」
 何かを言いかけたようにもみえたけど、質問に答えたのに何も言葉はもらえず翔子ちゃんは更衣室に消えていってしまった。
 
 正直、あの時は気分が高揚していただけで空母打撃群のことなんて深い意味はなかったんだけど、いい例えした気がしてきたなと思えてきた。
 舞台を作る、か。
 「聡ー掃除は終わったかー?」
 考えこむ前にマスターの声がしたので急いでフロアを後にする。
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