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エピローグ
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照明に照らされたピアノに向かって僕は歩きだし、正面を向き客席を見渡すと三人の審査員が確認できた。
一人はたしか高名なピアニストで渋面のままこちらを睨んできている。
もう一人の妙齢な女性は僕のプロフィールか採点表でもみているのだろうか。手元の紙にずっと視線を落としている。
ややお年を召した三人目の男性はぼんやりと気だるそうにしている。今日はもう5人目だし少々お疲れといったところでしょうか。
「それでは演奏を始めてください」
渋面で僕をずっと睨んできている審査員がそう言葉を発した。
僕は会釈を済ましてピアノの前に座る。
胸のポケットに入れておいた『ハマユウの花の押し花』にそっと手をあてた。あの時のハマュウの花を美海が押し花にしてくれていたものだ。
鼓動の速まりが静まっていく。
すると鰐はもうそこにはいなくなって鍵盤の白鍵と黒鍵のコントラストがはっきりと認識できるようになった。
もう大丈夫だ。僕はそう心に言い聞かせた。
三次予選に課題曲はなく自由曲で臨める。自由曲に僕はショパンの24前奏曲を選んだ。この曲集はすべて異なる24の調性で構成されている。
フレデリック・ショパン。ポーランドの作曲家でピアノの詩人と呼ばれ、39歳と短い生涯であったがたくさんのピアノ曲を残した。この前奏曲は地中海に浮かぶマヨルカ島で過ごした時に作曲されたものだと言われている。マヨルカ島は病気療養のため訪れた地であるとも言われているが、恋人のジョルジュ・サンドと過ごした時期でもある。
第15番は『雨だれ』として前奏曲中最も有名な曲でこの曲だけでも演奏会プログラムに組まれることもある。第7番はきっと胃薬のCMで使われていると言えば知っている人も多いことだろう。以前はテレビなんてほとんどみなかった僕には、ショパンの曲がCMに使われるものなんだと知った時は新鮮な気持ちになったものだ。
ショパン自身は曲それぞれに題名は付けてはいない。ピアニスト、アルフレッド・コルトーは各曲に印象をつけるために24の題名を付けたらしい。
1. いとしい人を待つ。
2. 郷愁の思い、遠く開けた海のような。
3. 小川のうた
4. 親指で
5. うたであふれた木々
6. ホームシック
7. すてきな思い出が香水のように記憶の中に香っている
8. 雪が降り風が吹き嵐が吹き荒れる。しかし私の悲しい心の中の嵐はもっとすさまじい
9. 預言者の声
10.降りてくるロケット
11.少女のあこがれ
12.夜の乗馬
13.外国で星の多い夜、遠くにいる恋人を思う
14.嵐の海
15.しかし死は物陰にいる
16.深いふちに向かって走る
17.彼女は私に言った「あなたを好きです」
18.祈り
19.つばさ、あなたのところへとんで行く、私の恋人
20.葬送
21.先祖のもとへ一人帰る
22.反乱
23.水の精のたわむれ
24.生、官能、死
僕があの夏の想い出をショパンの前奏曲にあてはめるとしたらどんな題名にしよう。ベタだけど第15番はやはり『雨だれ』になってしまうだろうな。美海に約束を誓った日のことを想って弾きたいと思う。ちょうどあの日も雨が降った日だったから。そして、『雨だれ』のコーダと同じように空は晴れて虹が差し込んだこと。ひとつひとつの情景を想い出す。
人に聴いて貰いたいその気持ち。それを美海が気付かせてくれたこと。心の弱さも音に乗せていいということを。そして世界は音楽で溢れているということを。
僕は深呼吸をしてから目を見開き、鍵盤に指を落とした。
指が鍵盤を駆け上がり、音楽が生まれていく。
一人はたしか高名なピアニストで渋面のままこちらを睨んできている。
もう一人の妙齢な女性は僕のプロフィールか採点表でもみているのだろうか。手元の紙にずっと視線を落としている。
ややお年を召した三人目の男性はぼんやりと気だるそうにしている。今日はもう5人目だし少々お疲れといったところでしょうか。
「それでは演奏を始めてください」
渋面で僕をずっと睨んできている審査員がそう言葉を発した。
僕は会釈を済ましてピアノの前に座る。
胸のポケットに入れておいた『ハマユウの花の押し花』にそっと手をあてた。あの時のハマュウの花を美海が押し花にしてくれていたものだ。
鼓動の速まりが静まっていく。
すると鰐はもうそこにはいなくなって鍵盤の白鍵と黒鍵のコントラストがはっきりと認識できるようになった。
もう大丈夫だ。僕はそう心に言い聞かせた。
三次予選に課題曲はなく自由曲で臨める。自由曲に僕はショパンの24前奏曲を選んだ。この曲集はすべて異なる24の調性で構成されている。
フレデリック・ショパン。ポーランドの作曲家でピアノの詩人と呼ばれ、39歳と短い生涯であったがたくさんのピアノ曲を残した。この前奏曲は地中海に浮かぶマヨルカ島で過ごした時に作曲されたものだと言われている。マヨルカ島は病気療養のため訪れた地であるとも言われているが、恋人のジョルジュ・サンドと過ごした時期でもある。
第15番は『雨だれ』として前奏曲中最も有名な曲でこの曲だけでも演奏会プログラムに組まれることもある。第7番はきっと胃薬のCMで使われていると言えば知っている人も多いことだろう。以前はテレビなんてほとんどみなかった僕には、ショパンの曲がCMに使われるものなんだと知った時は新鮮な気持ちになったものだ。
ショパン自身は曲それぞれに題名は付けてはいない。ピアニスト、アルフレッド・コルトーは各曲に印象をつけるために24の題名を付けたらしい。
1. いとしい人を待つ。
2. 郷愁の思い、遠く開けた海のような。
3. 小川のうた
4. 親指で
5. うたであふれた木々
6. ホームシック
7. すてきな思い出が香水のように記憶の中に香っている
8. 雪が降り風が吹き嵐が吹き荒れる。しかし私の悲しい心の中の嵐はもっとすさまじい
9. 預言者の声
10.降りてくるロケット
11.少女のあこがれ
12.夜の乗馬
13.外国で星の多い夜、遠くにいる恋人を思う
14.嵐の海
15.しかし死は物陰にいる
16.深いふちに向かって走る
17.彼女は私に言った「あなたを好きです」
18.祈り
19.つばさ、あなたのところへとんで行く、私の恋人
20.葬送
21.先祖のもとへ一人帰る
22.反乱
23.水の精のたわむれ
24.生、官能、死
僕があの夏の想い出をショパンの前奏曲にあてはめるとしたらどんな題名にしよう。ベタだけど第15番はやはり『雨だれ』になってしまうだろうな。美海に約束を誓った日のことを想って弾きたいと思う。ちょうどあの日も雨が降った日だったから。そして、『雨だれ』のコーダと同じように空は晴れて虹が差し込んだこと。ひとつひとつの情景を想い出す。
人に聴いて貰いたいその気持ち。それを美海が気付かせてくれたこと。心の弱さも音に乗せていいということを。そして世界は音楽で溢れているということを。
僕は深呼吸をしてから目を見開き、鍵盤に指を落とした。
指が鍵盤を駆け上がり、音楽が生まれていく。
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