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24.生と死、永遠の音色
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第二十四番 ニ短調 Allegro appassionato
21:00
準備は整った。
僕はピアノでA音(ラ)の音を鳴らす。
美海はその音に呼応するようにチェロの調弦を確認する。
そしてD音、G音、C音、4つの弦全ての調弦が確認できたようだ。
聡も録音の準備が整ったことを告げるゴーサインを送ってきた。
翔子は客席に置いた集音マイクにノイズが入らないように舞台袖から両手を合わせて見守ってくれている。
僕は深呼吸をする。この曲は伴奏を引き受けた僕からの音で始まる。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲。チェコで生まれたドヴォルザークがアメリカに渡り1894年から1895年に書かれた作品だ。そのあとドヴォルザークはチェコに帰国したとされている。故にアメリカの音楽とボヘミアの音楽の見事な融合と言われているが、チェロ協奏曲の範疇に留まらず協奏曲というジャンルの最高傑作の一つとして評価される作品であるとも記載されている。だから、伴奏は決してチェロを引き立たせるために存在するのではなく、オーケストレーションも曲を盛り上げていかねばならない。
しかし、よくもこんな曲を作曲したものだとドヴォルザークという天才を尊敬する。僕ら演奏家が試される曲には挑戦という言葉を与えてくれると同時に絶望という二文字も時に言い渡される。でも挑戦すべきものがあるからこそ演奏家にとっての宝物。この曲に対する憧れはきっと時代を経ても途絶えることがないだろう。
第1楽章 Allegro ロ短調 4/4拍子
冒頭のオーケストレーションの旋律は他の協奏曲に比べると長い。約3分間はソリストの出番はやってこない。それだけに最初のワンフレーズによっていかに聴衆を惹きつけられるかによってチェリストの力量を試されてしまう。それは残酷でもある。たったワンスレーズによって溜まりに溜まった聴衆の期待は興奮と落胆の二手に分かれてしまうのだから。デュ・プレは本当に見事だ。美海が一瞬で惹きつけれた理由がよく分かる。身に纏う空気が違う。スピーカー越でもその凄みが伝わってくる。今を生きるチェリスト達はこんな化け物を相手に憧れを越えようと挑まなくてはいけないのか。
*
響君の伴奏が始まった。初めて聴くピアノの音。出会ったあの夜には聴くことができなかったピアノの音色。彼は約束を守ってくれた。ピアノの音色だけなのにまるでオーケストラが奏でているかのような、優しく、力強く、そして私にチェロを弾く勇気を与えてくれる。
冒頭のオーケストラパートが他の協奏曲に比べて長いのは分かってはいたことだけど、今自分が演奏者の立場になると、それは気の遠くなるような時間だ。心を落ち着かせろと言い気かせても音楽はどんどん進んでいく。皆、この協奏曲に挑む者達は、挑んできた者達はこの永遠と思われる時間に何を想い自分の心と闘ってきたのだろう。
*
長いオケパートを終え、いよいよチェロパートだ。
(さあ飛び立て、君のチェロの出番だ)
一羽のカモメが大空へ羽ばたく。
美海が奏でたチェロの第一音はホールの空気を切り裂いた。
音は空気の振動を伝わるもの。切り裂くという表現は正しくない。それでもチェロから放たれた第一音は空気を切り裂いた。音圧が僕の頬を揺らす。
放たれた音は天井に向かって放射状に広がり、そして跳ね返り飛び交って音の矢となってホールを一気に包み込む。
一音一音に魂を乗せて、命を削るように。今夜で燃え尽きてもいいという覚悟が音から伝わってくる。時にそれは鎮魂歌のように、ヴィブラートは時に悲しく、それでも希望を胸に。
美海の左手の指がチェロの指板を縦横無尽に駆け巡る。それはまるで魂をチェロに吸わせているかのような鬼気迫るものも感じる。気を抜いたら振り落とされそうなくらい音色は荒々しくも、それでも音のつぶは壊れていない。音色の危うさが、美海そのもののようだ。
チェロをはじめとするノンフレットな弦楽器は音を作る作業こそ困難であるとも言えるだろう。調整されたピアノならば誰が弾いても正確なドの音は出せる。だけどチェロは違う。それは五線紙に現せられない、音と音の間のほんのわずかな音色を出すことができる。それが演奏家の独自の音を作っているとも言えるだろう。絶妙なんだ。ハイポジションにスライドしていく時の音の繋がり、その楽譜に現せられない音色が。
*
望郷の調べを終え旋律は一旦の落ち着きをみせ展開部に入る。
パッセージが速くなる。速いボウイングの繰り返し。私は何度も苦戦していた節に突入した。
このフレーズには演奏の負担を軽減するためにossiaによる演奏も用意されている。ossiaとは通常は、演奏が困難な箇所に対して部分的に楽譜を易しく書き換えたもの。
それでも私の覚悟は決まっている。
*
音楽が進むにつれ、僕の脳裏にはあの嵐の日の出来事が蘇る。譜読みの時に気づいたこと。
ossiaが用意されていること。
でも僕には美海の選択肢はわかっている。
(弾かないで後悔するより、弾いて後悔する方がましだろ?)
背中越しに見える美海の姿は火柱のようにみえた。
(いっけーーーー)
僕が心の中でそう叫ぶ。
美海の二本の指はまるでカモメが大空から滑降するかのように指板を駆けおりた。
魂の咆哮。オクターブのグリッサンドが爆ぜる。
そして雷鳴が轟く嵐の中を一羽のカモメが突き抜けるように。
美海の指先から火花が飛び散るようだった。
*
(やった、弾ききった)
アドレナリン物質が体内を駆け巡る。スパークする。
(でもまだ、まだなの。落ち着くの。落ち着いてSeagaull)
チェロがこのままバラバラに空中分解してしまうんじゃないかと思った。それくらい私の体に電撃が走った。チェロは体を密着させて奏でるもの。だから、きっとどんな楽器よりも楽器の振動を感じながら演奏するものだと思っている。
呼応するピアノのフォルティシモの音色を背に、呼吸を整え、弓を構える。
しかし、弾ききった代償なのか、僅かだけど左の指に痺れが出始めた。
*
第1楽章が終わる。
ここで休憩を入る。第2楽章と第3楽章には曲の盛り上がりのため休憩は入らない。僕は美海の呼吸が整うのを待つ。美海は少しだけ調弦を確認すると問題ないと合図を僕に送ってきた。
第2楽章 Adagio ma non troppo ト長調3/4拍子
静かに曲が始まる。オーケストラだと吹奏楽器の主旋律から始まる。僕はオーボエの音色を意識してピアノで音を奏でる。そして交互に奏であうチェロとピアノの音色。お互いの心の声が聴こえるようだ。
(ねえ、カモメになって大空を飛ぶことができたら、世界はどんな風に見えるのかな?)
美海が奏でるヴィブラートがそう語りかけているように聞こえる。
主題はゆっくりとやさしい旋律に包まれる。
カモメが最後の旅立ちに向かって波止場で羽を休めるかのように。
一度悲劇的な旋律が奏でられるけれど、また希望に向かって羽ばたいて行こうとする大空を仰ぎ見るように。
第3楽章 Allegro moderato ロ短調2/4拍子
いよいよクライマックス。ボヘミア音楽が踊り出す。カモメが自由に羽ばたくように。
ところが美海の背中に鈍い感覚が走ったのか、まるで電気ショックを受けたように一瞬体が強張った。
*
レルミット徴候かもしれない。私は奥歯を噛みしめ耐える。
第2楽章は曲の穏やかさに助けられたので左指がなんとか持ちこたえてくれた。もう感覚はだいぶ鈍くなってきてしまっている。右手のボウイングも辛い。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲は成人男性でも体力のいる曲と言われている。練習でも通して弾ききったことはまだない。これからは未知の領域。
(響君の、翔ちゃんの、聡君の、皆の気持ちに答えたい)
私は皆の顔を思い浮かべる。
そして私は愛器に向かって懇願する。
(お願いSeagull。私を助けて)
*
体が揺れている。でも音はかろうじて崩壊はしていない。むしろ神がかったような絶妙な音のバランスだ。
僕はピアノで美海の背中を支えることしかできない。
(あと少しだ。美海。弾ききれ! 生きろ!)
*
視界がぼやけてきたような感覚にもなってきた。
私は涙をこらえながら正面を向く。
そこには特等席に座らせたスカレーを膝に乗っけた小学生の私がほほ笑んでいた。
そしてSeagullから声が聞こえた気がする。
(大丈夫、自分を信じてごらん。僕はずっと君の演奏を支えてきたんだよ。君の体には僕を操るための力がもう充分に備わっているのだから)
*
3楽章のクライマックスを越え長い長いコーダが始まる。
カモメが大空をたゆたうように、故郷を旋回するように。そして次の大空へと向かっていくように。
今、僕と美海の音色が重なり合う。何千の言葉よりも深く深い会話をしているような。
ドヴォルザークは3楽章のコーダに改訂を加えている。まるでこの曲が完成してしまうことを名残惜しむかのように静かに静かにゆっくりと曲は終わりに向かっていく。
カモメがもう羽を休める場所を探すかのように。
美海が描きたかった情景が完成されていく。美海がみてきた情景、その想い、一つ一つが解き放たれ消えていくように。
(ねえ、やっぱり音楽って花火と同じと思わない?一瞬だから儚くて綺麗なのかなって?)
そう美海が語りかけてきてくれるようだ。
(そうだね。君が教えてくれたね。今その意味が分かるよ。)
消えないで欲しい。このままこの音が永遠に続いて欲しい。
消えないで。
僕は美海の音色に、音で答える。
(君はきちんと生きたよ)
そして、美海は最後の一音を心が全身で震えるように弾き終えた。
(あとは僕がこの音楽に終わりを告げる)
音楽のフィナーレを引き継いだ僕は、最後の一音をそう心でつぶやきながら弾き終えた。
ホールに木霊した最後の和音の残響が消える。
美海は息をまだ少し乱しながら、少しの間をおいて、言葉を探すように
「これからもずっとピアノを弾き続けてね」
美海はホールの天井を見つめながら、そう言って自分のチェリストとしての人生は終わったことも宣言したかのように僕に語りかけてきた。
(うん、これからも弾き続けるよ。ありがとう。ありがとう美海)
僕は言葉を返すことはせず心の中でそう呟いた。
演奏の後、翔子はずっと美海に抱きつき目を真っ赤にしながら泣いていた。
22:25
僕らは駆け足でホールの片づけを済ませて横須賀芸術劇場を後にした。
僕は聡にあらためて感謝を口にし、皆と別れて一人、ヴェルニー公園に足を運んだ。
まだ体が火照っていて、夜風に当たりたい気分だったからだ。
波はとても穏やかな日だった。
耳を澄ませると潮騒の音が聴こえる。
21:00
準備は整った。
僕はピアノでA音(ラ)の音を鳴らす。
美海はその音に呼応するようにチェロの調弦を確認する。
そしてD音、G音、C音、4つの弦全ての調弦が確認できたようだ。
聡も録音の準備が整ったことを告げるゴーサインを送ってきた。
翔子は客席に置いた集音マイクにノイズが入らないように舞台袖から両手を合わせて見守ってくれている。
僕は深呼吸をする。この曲は伴奏を引き受けた僕からの音で始まる。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲。チェコで生まれたドヴォルザークがアメリカに渡り1894年から1895年に書かれた作品だ。そのあとドヴォルザークはチェコに帰国したとされている。故にアメリカの音楽とボヘミアの音楽の見事な融合と言われているが、チェロ協奏曲の範疇に留まらず協奏曲というジャンルの最高傑作の一つとして評価される作品であるとも記載されている。だから、伴奏は決してチェロを引き立たせるために存在するのではなく、オーケストレーションも曲を盛り上げていかねばならない。
しかし、よくもこんな曲を作曲したものだとドヴォルザークという天才を尊敬する。僕ら演奏家が試される曲には挑戦という言葉を与えてくれると同時に絶望という二文字も時に言い渡される。でも挑戦すべきものがあるからこそ演奏家にとっての宝物。この曲に対する憧れはきっと時代を経ても途絶えることがないだろう。
第1楽章 Allegro ロ短調 4/4拍子
冒頭のオーケストレーションの旋律は他の協奏曲に比べると長い。約3分間はソリストの出番はやってこない。それだけに最初のワンフレーズによっていかに聴衆を惹きつけられるかによってチェリストの力量を試されてしまう。それは残酷でもある。たったワンスレーズによって溜まりに溜まった聴衆の期待は興奮と落胆の二手に分かれてしまうのだから。デュ・プレは本当に見事だ。美海が一瞬で惹きつけれた理由がよく分かる。身に纏う空気が違う。スピーカー越でもその凄みが伝わってくる。今を生きるチェリスト達はこんな化け物を相手に憧れを越えようと挑まなくてはいけないのか。
*
響君の伴奏が始まった。初めて聴くピアノの音。出会ったあの夜には聴くことができなかったピアノの音色。彼は約束を守ってくれた。ピアノの音色だけなのにまるでオーケストラが奏でているかのような、優しく、力強く、そして私にチェロを弾く勇気を与えてくれる。
冒頭のオーケストラパートが他の協奏曲に比べて長いのは分かってはいたことだけど、今自分が演奏者の立場になると、それは気の遠くなるような時間だ。心を落ち着かせろと言い気かせても音楽はどんどん進んでいく。皆、この協奏曲に挑む者達は、挑んできた者達はこの永遠と思われる時間に何を想い自分の心と闘ってきたのだろう。
*
長いオケパートを終え、いよいよチェロパートだ。
(さあ飛び立て、君のチェロの出番だ)
一羽のカモメが大空へ羽ばたく。
美海が奏でたチェロの第一音はホールの空気を切り裂いた。
音は空気の振動を伝わるもの。切り裂くという表現は正しくない。それでもチェロから放たれた第一音は空気を切り裂いた。音圧が僕の頬を揺らす。
放たれた音は天井に向かって放射状に広がり、そして跳ね返り飛び交って音の矢となってホールを一気に包み込む。
一音一音に魂を乗せて、命を削るように。今夜で燃え尽きてもいいという覚悟が音から伝わってくる。時にそれは鎮魂歌のように、ヴィブラートは時に悲しく、それでも希望を胸に。
美海の左手の指がチェロの指板を縦横無尽に駆け巡る。それはまるで魂をチェロに吸わせているかのような鬼気迫るものも感じる。気を抜いたら振り落とされそうなくらい音色は荒々しくも、それでも音のつぶは壊れていない。音色の危うさが、美海そのもののようだ。
チェロをはじめとするノンフレットな弦楽器は音を作る作業こそ困難であるとも言えるだろう。調整されたピアノならば誰が弾いても正確なドの音は出せる。だけどチェロは違う。それは五線紙に現せられない、音と音の間のほんのわずかな音色を出すことができる。それが演奏家の独自の音を作っているとも言えるだろう。絶妙なんだ。ハイポジションにスライドしていく時の音の繋がり、その楽譜に現せられない音色が。
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望郷の調べを終え旋律は一旦の落ち着きをみせ展開部に入る。
パッセージが速くなる。速いボウイングの繰り返し。私は何度も苦戦していた節に突入した。
このフレーズには演奏の負担を軽減するためにossiaによる演奏も用意されている。ossiaとは通常は、演奏が困難な箇所に対して部分的に楽譜を易しく書き換えたもの。
それでも私の覚悟は決まっている。
*
音楽が進むにつれ、僕の脳裏にはあの嵐の日の出来事が蘇る。譜読みの時に気づいたこと。
ossiaが用意されていること。
でも僕には美海の選択肢はわかっている。
(弾かないで後悔するより、弾いて後悔する方がましだろ?)
背中越しに見える美海の姿は火柱のようにみえた。
(いっけーーーー)
僕が心の中でそう叫ぶ。
美海の二本の指はまるでカモメが大空から滑降するかのように指板を駆けおりた。
魂の咆哮。オクターブのグリッサンドが爆ぜる。
そして雷鳴が轟く嵐の中を一羽のカモメが突き抜けるように。
美海の指先から火花が飛び散るようだった。
*
(やった、弾ききった)
アドレナリン物質が体内を駆け巡る。スパークする。
(でもまだ、まだなの。落ち着くの。落ち着いてSeagaull)
チェロがこのままバラバラに空中分解してしまうんじゃないかと思った。それくらい私の体に電撃が走った。チェロは体を密着させて奏でるもの。だから、きっとどんな楽器よりも楽器の振動を感じながら演奏するものだと思っている。
呼応するピアノのフォルティシモの音色を背に、呼吸を整え、弓を構える。
しかし、弾ききった代償なのか、僅かだけど左の指に痺れが出始めた。
*
第1楽章が終わる。
ここで休憩を入る。第2楽章と第3楽章には曲の盛り上がりのため休憩は入らない。僕は美海の呼吸が整うのを待つ。美海は少しだけ調弦を確認すると問題ないと合図を僕に送ってきた。
第2楽章 Adagio ma non troppo ト長調3/4拍子
静かに曲が始まる。オーケストラだと吹奏楽器の主旋律から始まる。僕はオーボエの音色を意識してピアノで音を奏でる。そして交互に奏であうチェロとピアノの音色。お互いの心の声が聴こえるようだ。
(ねえ、カモメになって大空を飛ぶことができたら、世界はどんな風に見えるのかな?)
美海が奏でるヴィブラートがそう語りかけているように聞こえる。
主題はゆっくりとやさしい旋律に包まれる。
カモメが最後の旅立ちに向かって波止場で羽を休めるかのように。
一度悲劇的な旋律が奏でられるけれど、また希望に向かって羽ばたいて行こうとする大空を仰ぎ見るように。
第3楽章 Allegro moderato ロ短調2/4拍子
いよいよクライマックス。ボヘミア音楽が踊り出す。カモメが自由に羽ばたくように。
ところが美海の背中に鈍い感覚が走ったのか、まるで電気ショックを受けたように一瞬体が強張った。
*
レルミット徴候かもしれない。私は奥歯を噛みしめ耐える。
第2楽章は曲の穏やかさに助けられたので左指がなんとか持ちこたえてくれた。もう感覚はだいぶ鈍くなってきてしまっている。右手のボウイングも辛い。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲は成人男性でも体力のいる曲と言われている。練習でも通して弾ききったことはまだない。これからは未知の領域。
(響君の、翔ちゃんの、聡君の、皆の気持ちに答えたい)
私は皆の顔を思い浮かべる。
そして私は愛器に向かって懇願する。
(お願いSeagull。私を助けて)
*
体が揺れている。でも音はかろうじて崩壊はしていない。むしろ神がかったような絶妙な音のバランスだ。
僕はピアノで美海の背中を支えることしかできない。
(あと少しだ。美海。弾ききれ! 生きろ!)
*
視界がぼやけてきたような感覚にもなってきた。
私は涙をこらえながら正面を向く。
そこには特等席に座らせたスカレーを膝に乗っけた小学生の私がほほ笑んでいた。
そしてSeagullから声が聞こえた気がする。
(大丈夫、自分を信じてごらん。僕はずっと君の演奏を支えてきたんだよ。君の体には僕を操るための力がもう充分に備わっているのだから)
*
3楽章のクライマックスを越え長い長いコーダが始まる。
カモメが大空をたゆたうように、故郷を旋回するように。そして次の大空へと向かっていくように。
今、僕と美海の音色が重なり合う。何千の言葉よりも深く深い会話をしているような。
ドヴォルザークは3楽章のコーダに改訂を加えている。まるでこの曲が完成してしまうことを名残惜しむかのように静かに静かにゆっくりと曲は終わりに向かっていく。
カモメがもう羽を休める場所を探すかのように。
美海が描きたかった情景が完成されていく。美海がみてきた情景、その想い、一つ一つが解き放たれ消えていくように。
(ねえ、やっぱり音楽って花火と同じと思わない?一瞬だから儚くて綺麗なのかなって?)
そう美海が語りかけてきてくれるようだ。
(そうだね。君が教えてくれたね。今その意味が分かるよ。)
消えないで欲しい。このままこの音が永遠に続いて欲しい。
消えないで。
僕は美海の音色に、音で答える。
(君はきちんと生きたよ)
そして、美海は最後の一音を心が全身で震えるように弾き終えた。
(あとは僕がこの音楽に終わりを告げる)
音楽のフィナーレを引き継いだ僕は、最後の一音をそう心でつぶやきながら弾き終えた。
ホールに木霊した最後の和音の残響が消える。
美海は息をまだ少し乱しながら、少しの間をおいて、言葉を探すように
「これからもずっとピアノを弾き続けてね」
美海はホールの天井を見つめながら、そう言って自分のチェリストとしての人生は終わったことも宣言したかのように僕に語りかけてきた。
(うん、これからも弾き続けるよ。ありがとう。ありがとう美海)
僕は言葉を返すことはせず心の中でそう呟いた。
演奏の後、翔子はずっと美海に抱きつき目を真っ赤にしながら泣いていた。
22:25
僕らは駆け足でホールの片づけを済ませて横須賀芸術劇場を後にした。
僕は聡にあらためて感謝を口にし、皆と別れて一人、ヴェルニー公園に足を運んだ。
まだ体が火照っていて、夜風に当たりたい気分だったからだ。
波はとても穏やかな日だった。
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