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5話
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水面が青く揺らめく池のほとり。
デイタがスクールバックを片手に、聳え立つ大樹を見上げていた。
腕を前に出すと、瘴気が絡み付き黒い竜のものへと変化していく。手を何度か握って感触を確かめると大樹を掴み、指をめり込ませた。大樹が粘性体のようにぐにゃりと歪む。力を籠め、幹を強引に開いた。
そうして大樹に、真っ白な空間が現れる。どこまでも続くようなその空間に、デイタは躊躇なく足を踏み入れた。
◇
白い空間から吐き出されたデイタ。その感覚にももう慣れたもので危なげなく着地する。
デイタを見つけて恭しく頭を下げる妖精たち。彼らに手を振って挨拶し森を進む。
するとその進路を塞ぐように大きな影が現れた。木々の合間を縫って駆け回ってきたその獣は犬に近しい容姿をしていた。気品すら感じさせる漆黒の毛並み。足先や首元に暗い銀色の毛が混ざった大型の獣。体高は二メートルを超え、その犬歯は人間などひと噛みで砕いてしまいそうなほどに厳めしい。
そして最も特徴的なのは二つの頭部と、尾のように生えた二股の蛇。それらの思考は独立しておらず、一つの意思に基づいて動いていた。
畏怖と威圧を感じる、異形の獣。八つの目に見据えられたものは、嵐が過ぎ去るのを待つように、注意が逸れるその時を祈る他ないだろう。
しかし、その威圧を和らげるものがあった。
それは四つの首輪。前後ともに左に付けられた黒の首輪と、右に付けられた黄の首輪。何者かの庇護下にある証、或いは何者かと友好を結んだ証。驚異的でありながらも、対話が可能であることを証左していた。
双頭の獣は姿勢を低くし、一息にデイタへと跳びかかった。
「うおっ」
いきなり組み伏せられ、思わず声が漏れる。デイタの顔を四本の舌が舐めまわした。
「元気だったかー、デュオンー」
「「ウォフ!」」
それほど久しいわけではないが、まるで生き別れの兄弟と再会した時のように興奮冷めやらぬデュオン。デイタは過剰なスキンシップに、頬をわしゃわしゃと撫でて答える。
「ちゃんとアリス守っといてくれたかー」
「「ワフン!」」
「「シャーッ」」
胸を張って吠えたデュオン。これからも約束は果たし続ける、という強い意志を感じさせる。
『デイタが守れない時、デュオンがアリスを守る』
それはいつか誓った、デイタとデュオンのたった一つの約束だった。
「ありがとなー」
デイタにもそれは伝わった。これでもかと撫で返すと、デュオンが横たわり腹を見せる。腹も撫でると柔らかな体毛に手が埋まる。
暫くそうした後、デイタはデュオンの背に乗り移動を始めた。
少しして、森の中にあって開けた空間にたどり着いた。
放牧された巨大な牛たちが暮らす、のんびりとした光景の広がる牧草地帯。大きく白い円筒状の物体がところどころに置かれている。
牛舎といくつかの小屋。そして小奇麗な四阿まであった。
そんな光景の中で最も目を引くのは、五頭の赤い牛。自然において、目立つということはそれだけ危険を伴う。まず普通の個体ではないだろう。変異体なのか珍しい種なのか。定かではないが、この光景に入り込む真っ赤な牛には異物感があった。
長閑だが、どこか浮世離れした場所。
デュオンが東屋に近づくと、その気配に気づいた少女がゆっくりと立ち上がった。
少女の目元は黒い布で覆われていた。陽の色に染まりそうな色素の薄い金の長髪。肩の空いた純白のドレスに、鎖骨のあたりで揺れる黒の首飾り。腰元にはたれの長いリボンがあしらわれており、底の厚めな靴と足首に巻いたベルトが足元を可愛らしく飾り立てている。
歩きにくそうな靴。少し心配になるが、その落ち着いた足取りは不安を払拭させるに足るものだった。
どこか泰然として、楚々たる少女。
「おかえり」
少女は両手を伸ばしてデュオンを迎え入れる。その手の中で甘えるデュオンを、少女も甘やかす。
「ただいまー、アリス。なんもなかったか?」
「うん。デイタは? 向こうには慣れた?」
デイタがデュオンから飛び降りた。
アリスにはデイタもいるとわかっていたようで、急に声をかけられても驚くことなく受け答えする。
「まあまあ。あれもダメこれもダメってうるせーけど、いろんなもんあってウケる」
「文化水準が高いんだっけ……私も、行ってみたいな」
遠慮からか、躊躇いがちに言ったアリス。アリスの暮らす場所からは想像もできない技術が発達した世界。デイタの話は要領を得ず、詳しいことは分からないが凄いところなのだろうと胸を膨らませていた。
「じゃ今度行くか」
「ほんとっ! エスコートお願いね」
「なんだそれ」
デイタが軽い気持ちで返事をすると、アリスが食いついた。後ろで手を組み、上体を少し倒して頬をほころばせる。
デイタは適当にあしらいながら、アリスの伸ばした左手をとる。その自然な流れは、二人がともに過ごしてきた時間の長さを感じさせる。片やそれが当たり前になり、片やそのかけがえのない場所に居続けたいと願って。
「ケルンは?」
「出て行ったのは結構前だから……そろそろ戻ってくると思うよ」
「そっか」
一人の時より少し遅めに歩くデイタの質問に、アリスが答える。
悠々とした二人と続く一匹の歩みは、一頭の赤い牛の前で止まる。
アリスが赤い牛に手を触れると、手元が淡い赤色の輝きを放った。
「前から思ってたけどさ、それ何してんの」
「なんだろうね」
悪戯っぽく笑うアリス。デイタは然程興味があるわけでもないのか、それ以上聞くことはない。面白くなさそうな顔をするだけだ。
そんなデイタを察して、アリスが相好を崩す。
「ねえ、赤いってどんな気持ちだと思う?」
唐突な質問。アリスがいきなり話題を振ってくるのは珍しくもないのか、デイタは考える。生まれつき盲目だったアリスに色を聞かれたとき、デイタはとても困った。なかなかうまく伝えることができないでいるうちに、アリスはそれを理解していたのだが。
「あー、怒ってる、とか?」
デイタが巨大な赤い牛を見上げる。
「らしいね」
くすっと笑うアリス。そうらしいという意味か、デイタらしいという意味か。どちらとも受け取れる言葉の真意はアリスにしか分からない。
他愛のない話をする二人に巨大な影が差した。
「来てたのか、悪童」
「おー、ケルン」
デイタを見下ろすのは、三対六本の手足を持つ怪物だった。
胸部から腹部へかけて六本の腕が生えた胴体。六足の竜脚形類から胴体が生えたような異形。爬虫類を思わせる縦長の瞳孔がデイタを見据えていた。
「またどこぞの精鋭たちがここへ向かっているようだ」
ケルンが腕を組み、つまらなそうに言う。ここを攻められるのは、もう何度目になるか分からない。日常とまではいかないが、珍しいことでもなかった。
敵襲を知ったアリスが少し俯く。
「あいつらほんとしつけえな。ボコってくるわ。どっち?」
軽口を言うように聞くデイタに、ケルンが顎で示す。
「おけー」
デイタは話しながらそそくさとジャージに着替え始める。
するとアリスがそわそわと落ち着つかない様子に。
アリスには見えていないが、衣擦れの音やベルトのカチャカチャという音を聞いて顔を逸らしていた。ついつい、目の前で着替えている様を想像してしまうのは仕方のないことだ。盲目のアリスが音から世界を創造するのは、呼吸をするように自然なものであり、決して、意識して着替えを思い描いた訳ではない。決して。
「行ってくる」
「気を付けてね」
アリスがそんなことを考えているとは露知らず、デイタは着替え終えると飛び出して行ってしまった。
こうして、彼を送るのは何度目だろう。落ち着きを取り戻したアリスが名残惜しそうに、繋いでいた左手に触れる。
「また行っちゃった……」
アリスとて、何もできない訳じゃない。深く息を吸い、気を引き締める。少しでも彼の負担を減らせるように。いつの日か、彼を守れるように。
何度したかもわからない決意とともに口を開いた。
「……『デイタと一緒に戦って』」
静かな、けれど良く通る声。アリスの声が波紋のように森一帯へ波及していった。それに呼応するよう、木々が騒めき始める。数多の気配がアリスの想いに応えるべく動き出す。
「ここは引き受ける。行ってこい」
ケルンが、うずうずしていたデュオンに言う。するとお礼とばかりに吠え、一目散にデイタを追って駆け出した。
◇
平和と秩序を守るため、その身を捧げることすら厭わぬ騎士。
護衛から襲撃、果ては戦争への介入まで。金銭を積まれれば幅広い仕事を請け負う対人戦のスペシャリスト、傭兵。
その身に魔の理を秘めた生命、魔物。通常の種とは大きく異なり、脅威的な力を宿すそれらの討伐を生業とする狩人。
立場は違えど、それぞれが戦闘に秀でた強者たち。
そんな猛者たちの混成部隊が、平原を進んでいた。
彼らの目的は一つ。
「ッ! 来たぞ、魔女の手先だ!」
人類という種にとっての潜在的脅威、『魔女』。
魔物との意思の疎通を可能とし、かつて魔物そのものを生み出した『魔物の母』として伝説に名を刻む存在。
その力を宿した者が、この時代に誕生してしまった。
魔女の打倒こそが人類が存続するための唯一の手段だと、彼らは信じてこの場に立っていた。
そんな彼らの前方から飛ぶように駆ける影が迫っていた。まだ成長過程の、未成熟な少年。多勢に無勢。少年は精鋭のみで編成された軍にたった一人で突っ込む。
少年、デイタの両腕から黒い瘴気が渦巻く。
「あれは……奴が魔人か! 弓兵、放てっ!」
精鋭部隊の指揮を務める騎士が警戒を最大級に引き上げ叫ぶ。蜂の巣を突いたように、無数の矢が放たれた。
降り注ぐ矢の雨。デイタはそこに生じた間隙を縫って進む。避けきれず迫る矢は腕で弾く。その足が止まることはない。
「化け物がっ!」
豪雨を抜けたデイタの前に、傭兵が立ちふさがった。
傭兵が槍を一閃する。
放たれた鋭い突きを、デイタは上体を捻って紙一重で躱す。槍の柄を掴み勢いそのままに回転。槍を掴んだまま引き寄せられた傭兵、そのこめかみに裏拳を浴びせて吹き飛ばす。更に手元に残った槍を、遠心力をのせて力任せに投げつけた。
先の矢よりも高速で飛来する槍が兵を貫き、更に後ろにいたもう一人を串刺しにした。
デイタが集団に突っ込み、竜の腕を振るう。それは速いが洗練された動きとは程遠い。本能のままに動く、荒ぶる獣の如き戦い様だった。時に殺した兵の武器を投げ、一度の動作で数人の命を刈り取る。
「散開しろ! 逆効果だ!」
密集していた兵が散る。
しかしデイタが倒した兵を盾にしながら一人、また一人と各個撃破しているうち、更に戦局が傾く。
地鳴りを上げながら魔物の群れが近づいていた。
やがて姿がはっきりすると人型、虫型、獣型。デイタが元居た世界ではまず見られないような雑多な魔物たちが統率された動きで迫っていた。
「正面きって戦うしかねえ! 複数人で動くことを忘れるな! 各個撃破を徹底しろ!」
狩人たちが事前に決めていたチームに分かれ、魔物と相対する。崖などがあれば誘導して落とすこともできるのだが、生憎ここは平野。誘導できる距離に、それらしい地形もない。狩人が覚悟を持って挑む。
魔物たちの先陣を切っていたのは双頭の魔獣、デュオンだった。唸る二つの口に熱気と冷気がそれぞれ集まる。やがて口腔内に蓄えられたそれらが牙の隙間から溢れる。デュオンが口を開き一息に解き放った。
炎が地を焦がし、冷気が霜を下ろしながら狩人を襲う。副次的に発生した突風で足を掬われ、相反するエネルギーを受けた兵が倒れていく。
どれだけ覚悟を持っていても、つい先ほどまで言葉を交わしていた仲間の焼死体や凍死体を見れば、戦意を失ってしまうこともある。そうして呆然と足を止めた者から、魔物に蹂躙されていった。
他方で、人類にとっては厳しい戦いの中、善戦する兵もいた。
なんとか魔物を仕留められる、そう思い剣を振り上げた兵の腹部に槍が突き刺さり絶命する。それを成したデイタは魔物の無事を確認する間もなく戦闘を続ける。
精鋭部隊は中心に突っ込んだデイタ一人に陣形を掻き乱され、瓦解する。散り散りになったところを、破竹の勢いで攻め込んだ魔物の群れが荒らして回る。逆転の一手もなく、人間は次々と数を減らしていった。
それから数日後。
軍隊を派遣した人類の国家に凶報が齎される。
魔女討伐隊、全滅。
またしても人類側の戦力が大きく削がれる結果となった。
デイタがスクールバックを片手に、聳え立つ大樹を見上げていた。
腕を前に出すと、瘴気が絡み付き黒い竜のものへと変化していく。手を何度か握って感触を確かめると大樹を掴み、指をめり込ませた。大樹が粘性体のようにぐにゃりと歪む。力を籠め、幹を強引に開いた。
そうして大樹に、真っ白な空間が現れる。どこまでも続くようなその空間に、デイタは躊躇なく足を踏み入れた。
◇
白い空間から吐き出されたデイタ。その感覚にももう慣れたもので危なげなく着地する。
デイタを見つけて恭しく頭を下げる妖精たち。彼らに手を振って挨拶し森を進む。
するとその進路を塞ぐように大きな影が現れた。木々の合間を縫って駆け回ってきたその獣は犬に近しい容姿をしていた。気品すら感じさせる漆黒の毛並み。足先や首元に暗い銀色の毛が混ざった大型の獣。体高は二メートルを超え、その犬歯は人間などひと噛みで砕いてしまいそうなほどに厳めしい。
そして最も特徴的なのは二つの頭部と、尾のように生えた二股の蛇。それらの思考は独立しておらず、一つの意思に基づいて動いていた。
畏怖と威圧を感じる、異形の獣。八つの目に見据えられたものは、嵐が過ぎ去るのを待つように、注意が逸れるその時を祈る他ないだろう。
しかし、その威圧を和らげるものがあった。
それは四つの首輪。前後ともに左に付けられた黒の首輪と、右に付けられた黄の首輪。何者かの庇護下にある証、或いは何者かと友好を結んだ証。驚異的でありながらも、対話が可能であることを証左していた。
双頭の獣は姿勢を低くし、一息にデイタへと跳びかかった。
「うおっ」
いきなり組み伏せられ、思わず声が漏れる。デイタの顔を四本の舌が舐めまわした。
「元気だったかー、デュオンー」
「「ウォフ!」」
それほど久しいわけではないが、まるで生き別れの兄弟と再会した時のように興奮冷めやらぬデュオン。デイタは過剰なスキンシップに、頬をわしゃわしゃと撫でて答える。
「ちゃんとアリス守っといてくれたかー」
「「ワフン!」」
「「シャーッ」」
胸を張って吠えたデュオン。これからも約束は果たし続ける、という強い意志を感じさせる。
『デイタが守れない時、デュオンがアリスを守る』
それはいつか誓った、デイタとデュオンのたった一つの約束だった。
「ありがとなー」
デイタにもそれは伝わった。これでもかと撫で返すと、デュオンが横たわり腹を見せる。腹も撫でると柔らかな体毛に手が埋まる。
暫くそうした後、デイタはデュオンの背に乗り移動を始めた。
少しして、森の中にあって開けた空間にたどり着いた。
放牧された巨大な牛たちが暮らす、のんびりとした光景の広がる牧草地帯。大きく白い円筒状の物体がところどころに置かれている。
牛舎といくつかの小屋。そして小奇麗な四阿まであった。
そんな光景の中で最も目を引くのは、五頭の赤い牛。自然において、目立つということはそれだけ危険を伴う。まず普通の個体ではないだろう。変異体なのか珍しい種なのか。定かではないが、この光景に入り込む真っ赤な牛には異物感があった。
長閑だが、どこか浮世離れした場所。
デュオンが東屋に近づくと、その気配に気づいた少女がゆっくりと立ち上がった。
少女の目元は黒い布で覆われていた。陽の色に染まりそうな色素の薄い金の長髪。肩の空いた純白のドレスに、鎖骨のあたりで揺れる黒の首飾り。腰元にはたれの長いリボンがあしらわれており、底の厚めな靴と足首に巻いたベルトが足元を可愛らしく飾り立てている。
歩きにくそうな靴。少し心配になるが、その落ち着いた足取りは不安を払拭させるに足るものだった。
どこか泰然として、楚々たる少女。
「おかえり」
少女は両手を伸ばしてデュオンを迎え入れる。その手の中で甘えるデュオンを、少女も甘やかす。
「ただいまー、アリス。なんもなかったか?」
「うん。デイタは? 向こうには慣れた?」
デイタがデュオンから飛び降りた。
アリスにはデイタもいるとわかっていたようで、急に声をかけられても驚くことなく受け答えする。
「まあまあ。あれもダメこれもダメってうるせーけど、いろんなもんあってウケる」
「文化水準が高いんだっけ……私も、行ってみたいな」
遠慮からか、躊躇いがちに言ったアリス。アリスの暮らす場所からは想像もできない技術が発達した世界。デイタの話は要領を得ず、詳しいことは分からないが凄いところなのだろうと胸を膨らませていた。
「じゃ今度行くか」
「ほんとっ! エスコートお願いね」
「なんだそれ」
デイタが軽い気持ちで返事をすると、アリスが食いついた。後ろで手を組み、上体を少し倒して頬をほころばせる。
デイタは適当にあしらいながら、アリスの伸ばした左手をとる。その自然な流れは、二人がともに過ごしてきた時間の長さを感じさせる。片やそれが当たり前になり、片やそのかけがえのない場所に居続けたいと願って。
「ケルンは?」
「出て行ったのは結構前だから……そろそろ戻ってくると思うよ」
「そっか」
一人の時より少し遅めに歩くデイタの質問に、アリスが答える。
悠々とした二人と続く一匹の歩みは、一頭の赤い牛の前で止まる。
アリスが赤い牛に手を触れると、手元が淡い赤色の輝きを放った。
「前から思ってたけどさ、それ何してんの」
「なんだろうね」
悪戯っぽく笑うアリス。デイタは然程興味があるわけでもないのか、それ以上聞くことはない。面白くなさそうな顔をするだけだ。
そんなデイタを察して、アリスが相好を崩す。
「ねえ、赤いってどんな気持ちだと思う?」
唐突な質問。アリスがいきなり話題を振ってくるのは珍しくもないのか、デイタは考える。生まれつき盲目だったアリスに色を聞かれたとき、デイタはとても困った。なかなかうまく伝えることができないでいるうちに、アリスはそれを理解していたのだが。
「あー、怒ってる、とか?」
デイタが巨大な赤い牛を見上げる。
「らしいね」
くすっと笑うアリス。そうらしいという意味か、デイタらしいという意味か。どちらとも受け取れる言葉の真意はアリスにしか分からない。
他愛のない話をする二人に巨大な影が差した。
「来てたのか、悪童」
「おー、ケルン」
デイタを見下ろすのは、三対六本の手足を持つ怪物だった。
胸部から腹部へかけて六本の腕が生えた胴体。六足の竜脚形類から胴体が生えたような異形。爬虫類を思わせる縦長の瞳孔がデイタを見据えていた。
「またどこぞの精鋭たちがここへ向かっているようだ」
ケルンが腕を組み、つまらなそうに言う。ここを攻められるのは、もう何度目になるか分からない。日常とまではいかないが、珍しいことでもなかった。
敵襲を知ったアリスが少し俯く。
「あいつらほんとしつけえな。ボコってくるわ。どっち?」
軽口を言うように聞くデイタに、ケルンが顎で示す。
「おけー」
デイタは話しながらそそくさとジャージに着替え始める。
するとアリスがそわそわと落ち着つかない様子に。
アリスには見えていないが、衣擦れの音やベルトのカチャカチャという音を聞いて顔を逸らしていた。ついつい、目の前で着替えている様を想像してしまうのは仕方のないことだ。盲目のアリスが音から世界を創造するのは、呼吸をするように自然なものであり、決して、意識して着替えを思い描いた訳ではない。決して。
「行ってくる」
「気を付けてね」
アリスがそんなことを考えているとは露知らず、デイタは着替え終えると飛び出して行ってしまった。
こうして、彼を送るのは何度目だろう。落ち着きを取り戻したアリスが名残惜しそうに、繋いでいた左手に触れる。
「また行っちゃった……」
アリスとて、何もできない訳じゃない。深く息を吸い、気を引き締める。少しでも彼の負担を減らせるように。いつの日か、彼を守れるように。
何度したかもわからない決意とともに口を開いた。
「……『デイタと一緒に戦って』」
静かな、けれど良く通る声。アリスの声が波紋のように森一帯へ波及していった。それに呼応するよう、木々が騒めき始める。数多の気配がアリスの想いに応えるべく動き出す。
「ここは引き受ける。行ってこい」
ケルンが、うずうずしていたデュオンに言う。するとお礼とばかりに吠え、一目散にデイタを追って駆け出した。
◇
平和と秩序を守るため、その身を捧げることすら厭わぬ騎士。
護衛から襲撃、果ては戦争への介入まで。金銭を積まれれば幅広い仕事を請け負う対人戦のスペシャリスト、傭兵。
その身に魔の理を秘めた生命、魔物。通常の種とは大きく異なり、脅威的な力を宿すそれらの討伐を生業とする狩人。
立場は違えど、それぞれが戦闘に秀でた強者たち。
そんな猛者たちの混成部隊が、平原を進んでいた。
彼らの目的は一つ。
「ッ! 来たぞ、魔女の手先だ!」
人類という種にとっての潜在的脅威、『魔女』。
魔物との意思の疎通を可能とし、かつて魔物そのものを生み出した『魔物の母』として伝説に名を刻む存在。
その力を宿した者が、この時代に誕生してしまった。
魔女の打倒こそが人類が存続するための唯一の手段だと、彼らは信じてこの場に立っていた。
そんな彼らの前方から飛ぶように駆ける影が迫っていた。まだ成長過程の、未成熟な少年。多勢に無勢。少年は精鋭のみで編成された軍にたった一人で突っ込む。
少年、デイタの両腕から黒い瘴気が渦巻く。
「あれは……奴が魔人か! 弓兵、放てっ!」
精鋭部隊の指揮を務める騎士が警戒を最大級に引き上げ叫ぶ。蜂の巣を突いたように、無数の矢が放たれた。
降り注ぐ矢の雨。デイタはそこに生じた間隙を縫って進む。避けきれず迫る矢は腕で弾く。その足が止まることはない。
「化け物がっ!」
豪雨を抜けたデイタの前に、傭兵が立ちふさがった。
傭兵が槍を一閃する。
放たれた鋭い突きを、デイタは上体を捻って紙一重で躱す。槍の柄を掴み勢いそのままに回転。槍を掴んだまま引き寄せられた傭兵、そのこめかみに裏拳を浴びせて吹き飛ばす。更に手元に残った槍を、遠心力をのせて力任せに投げつけた。
先の矢よりも高速で飛来する槍が兵を貫き、更に後ろにいたもう一人を串刺しにした。
デイタが集団に突っ込み、竜の腕を振るう。それは速いが洗練された動きとは程遠い。本能のままに動く、荒ぶる獣の如き戦い様だった。時に殺した兵の武器を投げ、一度の動作で数人の命を刈り取る。
「散開しろ! 逆効果だ!」
密集していた兵が散る。
しかしデイタが倒した兵を盾にしながら一人、また一人と各個撃破しているうち、更に戦局が傾く。
地鳴りを上げながら魔物の群れが近づいていた。
やがて姿がはっきりすると人型、虫型、獣型。デイタが元居た世界ではまず見られないような雑多な魔物たちが統率された動きで迫っていた。
「正面きって戦うしかねえ! 複数人で動くことを忘れるな! 各個撃破を徹底しろ!」
狩人たちが事前に決めていたチームに分かれ、魔物と相対する。崖などがあれば誘導して落とすこともできるのだが、生憎ここは平野。誘導できる距離に、それらしい地形もない。狩人が覚悟を持って挑む。
魔物たちの先陣を切っていたのは双頭の魔獣、デュオンだった。唸る二つの口に熱気と冷気がそれぞれ集まる。やがて口腔内に蓄えられたそれらが牙の隙間から溢れる。デュオンが口を開き一息に解き放った。
炎が地を焦がし、冷気が霜を下ろしながら狩人を襲う。副次的に発生した突風で足を掬われ、相反するエネルギーを受けた兵が倒れていく。
どれだけ覚悟を持っていても、つい先ほどまで言葉を交わしていた仲間の焼死体や凍死体を見れば、戦意を失ってしまうこともある。そうして呆然と足を止めた者から、魔物に蹂躙されていった。
他方で、人類にとっては厳しい戦いの中、善戦する兵もいた。
なんとか魔物を仕留められる、そう思い剣を振り上げた兵の腹部に槍が突き刺さり絶命する。それを成したデイタは魔物の無事を確認する間もなく戦闘を続ける。
精鋭部隊は中心に突っ込んだデイタ一人に陣形を掻き乱され、瓦解する。散り散りになったところを、破竹の勢いで攻め込んだ魔物の群れが荒らして回る。逆転の一手もなく、人間は次々と数を減らしていった。
それから数日後。
軍隊を派遣した人類の国家に凶報が齎される。
魔女討伐隊、全滅。
またしても人類側の戦力が大きく削がれる結果となった。
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