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04 空回り
しおりを挟む島の正午。
授業を終えたデジレのもとに、嘗ての生徒が訪ねてきた。
今年十二歳になる彼は、縁側から数学のノートを差し出して「ねえねえ、デジレ先生え」とのんびりと切り出した。
「おれ気付いたんだけどお、この現象って積分で表現するとこうだよねえ?」
ノートを覗き込んだデジレは笑み、頷いた。
相変わらず、のんびり気質なのに思考が鋭い。ここに通っていた頃から彼には何度も驚かされてきた。
「ロジカルシンキングが常態化しているようで何よりです」
「なあにい?」
「貴方はきっとお父さんの造船所を大きくしますよ」
「意味分かんないい」
「提案なのですが、島を出てもっと上の学校を目指してみてはいかがでしょう?」
「あんまお金がかかるのはダメだなあ」
「本土には優秀な学生を支援する制度があるそうですよ」
「んんんー」
いまいち煮え切らない子供を見送りながら、デジレは妙な感覚がしていた。
懐かしい、というものかもしれない。
パーヴォ城の噴水数は、三百を優に超える。
水景施設たる庭も百近い。王の居城は庭まみれだ。
庭の一つ、パーヴォの池の畔にデジレがいた。
芝生にラグを敷いて座り、折った膝の上にノートを置いて勉強している。
アシルは途端、緊張した。
――自然に話しかける。自然に。自然に。
「おい、お前」
自然とはいかなかった。
ケンカ腰の声にパッと振り返ったデジレは、アシルを認めてサッと立ち上がった。
「アシル王子殿下」
「一々立つな。軍隊でなし、礼もするな。うぜえ」
「申し訳ございません」
「お、――おう」
アシルは内心「くっそ、殺すぞてめえ!」と自分を罵倒した。
先にデジレを座らせ、傍の芝生にどかりと腰を下ろす。彼女のラグにずかずかと踏み込み、並んで座る度胸など無い。かと言って立ち去るのは惜しい。
緊張している。口から心臓が出かかっている。でも会えて死ぬほど嬉しい。
何か話題を見付けようとして彼女の課題に目が留まった。
なんと積分。海軍帰りのアシルが得意とする、数少ない科目の一つだ。
「ふん。お前、そんなのでモタついてるのかよ」
「面目ありません。応用はとても難解で」
「俺なら秒で解けるぜ」
「さすがです」
「仕方ねえ。この俺が教えてやるよ」
「そんな。滅相もない」
「どこで躓いてやがる。笑ってやるから白状しろよ」
デジレは瞬き、薄い表情ながら微かに唇で笑んだ。
「では、お言葉に甘えまして」
「ふん」
アシルは彼女の助けになろうと努めた。良いところを見せようとした。
必死に言葉を尽くした。が、自分が理解しているからと言って他人に上手く教えられるとは限らない。教えるスキルが要る。教師の資質が。
更に理数と芸術の分野は高等領域になるほど言語化が困難になる。伝わらないのは当り前と思っていい。
「ああくそ、なんで伝わらねえんだよ!」
「申し訳ありません。ですが、段々と分かって参りました」
無駄になっていない、とデジレは控えめにアシルを励ました。
助けるつもりが助けられる図式に代わっていて、アシルは苛立った。
「くっそ。お前、後は自分で何とかしろよ!」
「かしこまりました」
こんなのが日常茶飯事だった。
アシルはとことんバカだった。
因みにこの二年後、デジレにはバカなアシルの助けなど必要なくなる。
彼女に数学の天才の友人が出来るのだ。
デジレが城に来てからというもの、アシルは彼女をチラチラと盗み見ては心をざわつかせていた。
しかし彼女を明確に意識し始めたのは、ある出来事を目撃してからだ。
パーヴォ(孔雀)の通称を持つ国の城では何種もの鳥を飼育しており、庭には野生の水鳥も多く飛来する。
白鳥が圧倒的多数を占める中、偶にブラックスワンが交じる。
ある日、パーヴォの池の畔でブラックスワンの一家が屯していた。
そこに突風が吹き、雛どもを毛糸玉のように転がした。居合わせたデジレは「わわわ」と慌てて、芝生で取っ散らかっていく雛どもを追いかけ回った。
一羽を回収しては親の元に返す。懸命な姿を目撃したアシルは、見事にハートを撃ち抜かれた。
――なんだあれ。やべえ。かわいい。
人形か機械みたいな奴だと思っていたのにギャップがあり過ぎた。
以来、彼女を盗み見る頻度は爆上がりし、バカをやらかす頻度も爆上がりした。
良いとこ無しのアシルにも、やがて好機が訪れる。
次の年、デジレが社交界デビューを迎えると言う。
――エスコートは絶対、俺!
既に三年、デジレの妃候補としての城暮らしは続いていた。だが彼女は城にホールドされているだけの立場に過ぎず、いずれの王子とも婚約していない。
アシルにもチャンスがあった。
――別にダメだとは言われてねえしな。
「彼女は王太子用の妃候補だ」とは王も誰も明言していない。
行っていい。彼女のもとへ。
アシルは、デジレのお気に入りスポット、パーヴォの池に急いだ。
いつものように、デジレは池の畔にラグを敷いて座っていた。
静寂をぶち壊して現れたアシルを振り返って薄く笑む。この三年、散々繰り返されて来た光景だ。
アシルは未だ彼女の考えが読めない。少しは心を開いてくれていると思いたい。
――少しは俺を好きになっていたり、とか。
ラグの傍にどかりと座り込むと、緊張から早口が出た。
「おい。エスコートが要るんだろ。してやるよ」
バカなアシルの得意技、空回り必至の命令口調アピールが炸裂した。
瞬いたデジレは、ふと笑みを消して視線を落とした。困ったような顔をしている。
「アシル王子殿下。大変光栄なお申し出に心から感謝致します」
「おう。有難く思え」
肯定を受けたアシルは密かに高揚した。
長くは続かなかった。デジレが言った。
「ですが申し訳ございません。先ほど、その――」
続いた言葉にアシルは硬直した。
なんと先を越されていた。王太子アレクサンドルに。
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